第八節 楽しさがくれた翼
朝日が、夏の空にゆっくりと顔を出す。
蒸し暑さの残る空気の中で、ひとときだけ吹き抜けた風が、肌を心地よく撫でていった。
その朝、最初に目を覚ましたのは、さちだった。
静かな部屋の中、薄明かりに包まれながら上体を起こし、軽く背伸びをする。
「
……い、痛っ」
肩と腕に、微かな筋肉痛。
あ、そっか……“軽く” って言ってたのに、結局がっつりやってたんだった
そう思い出して、ふっと笑みがこぼれた。
でも、昨夜──先生の言葉に救われて、仲間に支えられて。
この痛みさえ、どこか心地よく感じていた。
肩の力が、少しだけ抜けていた。
外の水道で顔を洗っていると、背後から声がかかる。
「おはよう! さち、早いね」
振り返ると、部長の澪が立っていた。
「おはようございます。あの……昨日はありがとうございました。今日は、力を抜いてやれ
そうな気がします!」
さちの表情は明るく、声には確かな自信が宿っていた。
それを見た澪は、やわらかく微笑む。
「今日は楽しんで泳ごう。私も部長としてまだまだだけど、できる限りフォローするから。
──楽しくなくなったら、言ってね」
そのひと言に、さちは静かにうなずいた。
“悩み” や“不安” という言葉をあえて使わなかった澪の配慮が、嬉しかった。
うん……まずは、私が楽しもう
心の中で、そう決意をする。
やがて他の部員たちも起き出してきた。
「おはよー……なんで今日こんなに体痛いのー?」
眠たげにあくびをしながら現れたハルの顔を見て、さちは思わず吹き出す。
「ハル、あれだけ動いてたら当然だよ」
「
……むぅ」
呆れたように眉をひそめるユキは、すでに身支度を終えている。
リンは朝から元気にストレッチをこなし、まひろもやる気に満ちた表情で合流してきた。
そんな仲間たちを見ながら、さちは思う。
私は、この中にいていいんだ。まずは、自分が楽しむこと
朝食を終え、着替えて、ストレッチと準備運動。
今日のメニューは、まずウォーミングアップの往復泳、続いて個人メドレーでのタイム計
測。
個人メドレー──バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形。
すべての泳法を、一人で泳ぎ切る。
昨日の私なら、ただ順番をなぞってた。でも今日は──
大事なのは、“楽しむ” こと。
プールへ向かうさちの足取りには、昨日とは違う確かな意志があった。
さちの番が来る。スタートの合図とともに、水面へ飛び込んだ。
楽しく、泳ごう
頭の中には、もう手順も焦りもなかった。
ただリズムよく、気持ちよく。
腕は自然に前へ伸び、キックも無理なく水を蹴っていく。
「すごい……」
プールサイドでストップウォッチを握っていた澪が、小さく呟く。
「昨日より、ずっと速い……しかも、フォームが崩れてない」
ハルとユキも目を輝かせて叫ぶ。
「さち、がんばれー!」
その声に背中を押されるように、さちはさらに加速する。
やがて、壁にタッチしてゴール。
顔を上げた瞬間、ハルとユキが駆け寄ってくる。
「すごかったよ、さち!」
「タイムもフォームも、昨日とは段違いだよ!」
その声を聞いたさちの目に、思わず涙があふれる。
でもそれは、悔しさではなかった。
喜びの涙だった。
それを見たリンとまひろも、それぞれ飛び込む。
「私も、さちみたいに!」
「楽しんで泳ごう!」
鍛えた身体が、気持ちに支えられていく。
笑顔と自信を湛えたまま泳ぎ切った二人のタイムも、昨日を大きく上回っていた。
午後のメニューは、同学年対抗のメドレーリレー。
個人メドレーのタイムをもとに、苦手種目を担当するルール。
チームトレノの順番は、リン → まひろ → さち → ユキ → ハル。
スタート台に立つリンが、大きく息を吸い込み、ダイブ。
柔軟な体を活かして華麗に泳ぎ、しっかりとタイムを刻む。
続くまひろも、落ち着いたストロークで差を詰め、バトンをつなぐ。
さちは、ほんの少し緊張した。
でも、心は静かだった。
楽しんで泳ごう
その言葉を胸に、水面へ飛び込む。
迷いのない動き。リズムよく水をかき、体を伸ばし、ぐんぐん進む。
気づけば、相手との距離を広げていた。
今、この瞬間が、一番好き!
壁にタッチしてユキへつなぐ。
さちが築いたリードをユキがさらに広げ、最後はハルが完璧なラストスパート。
フィニッシュの瞬間──
「やったー!」
プールサイドに歓声が響き、全員が抱き合って喜んだ。
「さち、すごく楽しそうだった!」
「最高の状態でつなげられて、うれしかった!」
「フォームもタイムも、本当に良かった!」
仲間の言葉に、さちは何度もうなずいた。
顧問の西園寺と、相手校の顧問がその様子を見守っていた。
「いいチームですね。同じ学年で、ここまでまとまるとは」
「うちの4人は、小学生の頃からの仲間でして。部活とは別に、自主トレでずっとやってき
たんです。澪も、あの子たちに刺激を受けてますよ」
「なるほど……それなら納得です」
すべての練習を終え、帰校の時間。
部員全員が整列し、声をそろえて叫んだ。
「ありがとうございました!」
その声には、達成感と、自信と、絆が込められていた。
帰り道。チームトレノの5人は、いつものように横一列に並んで歩いていた。
「今日、ほんとに楽しかったね!」
「うん、最高の泳ぎができた!」
「課題はまだまだあるけど、前よりずっと自信が持てたよ」
そんな言葉を交わしながら、笑い声が響く。
夏休みは、もうすぐ終わる。
そして、2学期が始まり、新人戦がやってくる。
さちは心の中で、そっと誓う。
あの“楽しさ” を忘れないようにしよう。大会でも、私は──楽しんで泳ぐ
傾きかけた陽のなか、5人の影がまっすぐに伸びていた。




