第七節 泳ぎの中のわたし
合宿当日の朝。
さちの家には、蝉の声が静かに響いていた。まだ誰も通らない道に、玄関を開ける音がひ
とつだけ響く。
「
……じゃあ、合宿行ってきます」
荷物をしっかり背負い、さちは母・真由美にそう告げた。
その表情は落ち着いて見えるが、内心には緊張と不安が渦巻いている。
「気をつけて、行ってらっしゃい。がんばってね」
真由美は笑顔で送り出す。さちは小さく頷き、玄関を出ていく。その背中を、真由美はし
ばらく見つめていた。
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一方その頃、白水家では賑やかな朝が始まっていた。
「ねぇユキ、昨日用意してたゴーグルどこいった!?」
「まだ見つかってないの? ……ほんとにもう……」
玄関で余裕の表情を浮かべるユキに、ハルは慌てて声を上げる。
「ハル、あと五分!」
「わかってるってばー!」
その後ろから、「二人とも、遅れるわよ」と母・あかねの声。
ようやくゴーグルを見つけたハルが靴を履き、ユキと並んで玄関を飛び出す。
「行ってきまーす!」
ばたばたと駆け出す双子を、あかねは小さく笑いながら見送った。
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リンは、出発前に母・キャサリンとテレビ電話を繋いでいた。
「今日から合宿なの。がんばってくるね!」
「楽しんできてね。無理しないようにね。あなたなら大丈夫よ」
後ろから英語の声が響き、「キャシー、ミーティング始まるわよ」
「ごめんリン、ママはお仕事。気をつけてね!」
「うん、ありがとう!」
通話が終わると、リンは表情を引き締め、背筋を伸ばして家を出た。
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まひろは、登校中に立ち止まり、一冊のノートを取り出す。
そこには、「合宿での目標」が丁寧な字で記されていた。
このフォームで泳げたら、次の大会も目指せる
心の中で繰り返し、深呼吸をひとつ。
「よしっ」
静かに気合を入れ、ノートをしまって歩き出す。
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全員が学校に集合すると、部長の澪と顧問の西園寺が点呼をとり、荷物を貸切バスに積み
込んだ。
車内には、普段とは違う緊張感が漂っていた。
誰もが、自分の課題と向き合う時間を前に、心を整えていた。
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合宿先の中学校に到着すると、挨拶を交わし、すぐに練習の準備に入った。
「お願いします!」
声を揃えての挨拶が、静かな校舎に響く。
さちは心の中で、そっと呟く。
いよいよ、始まるんだ……
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練習が始まり、ハルとユキはフォームとスピードを武器に、着実にタイムを記録していく。
「ねえ、あの子たちすごくない?」
「双子だよね? フォームも速さもすごく安定してる……」
隣校の部員たちは驚いたようにざわめいていた。
さち、リン、まひろも順に計測。
自由形では、さちもまずまずの記録を出す。
けれど、他の泳法では思うようにいかない。
「
……また抜かれた」
泳ぎながらも、頭の中では手順がぐるぐると回っていた。
そのせいで体が硬くなり、水の中で思うように動けない。
励ましの言葉も、今のさちには重たく響いていた。
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やがて、メドレーリレーが始まる。
先頭のハルがリードをつけ、さちがそのバトンを受けた。
「1、2、ストローク、キック……」
繰り返す意識の中で、リズムが崩れる。気づけば追いつかれ、差を縮められる。
どうにか泳ぎ切って次に繋いだが、さちは笑えなかった。
私が足を引っ張った……
リレーは何度も順番を変えて行われたが、焦りがさちの心を離れなかった。
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夜、就寝後。
灯りが落ちた部屋の中で、さちは眠れずに外へ出た。
体育館の前に腰を下ろし、夜風に当たっていたとき──
「さち、まだ起きてたのか。どうした?」
見回り中の西園寺が声をかけてくる。
「
……すみません、うまく泳げない自分が悔しくて」
涙をこぼすさちに、西園寺はそばに座り、ぽつりと語り出す。
「今日の泳ぎ、俺にはちゃんと伝わったけどな。迷いながらも、前に進もうとしてた」
「自由形以外は全然ダメで……一生懸命考えても、泳げなくて……」
「そうやって悩んで努力すること自体が、すごいんだよ。俺はすぐ諦めるタイプだったから
さ」
さちは、小さく笑った。
「もっと強くなりたい。チームで、最高の泳ぎがしたいんです」
西園寺は優しく頷く。
「その気持ちがあれば大丈夫。泳ぎってな、正解通りじゃなくていい。楽しんで泳げれば、
自然と体も動くもんだよ」
「
……楽しんで、か」
「努力ってのは、楽しさの先にもある。泳ぐのが楽しいって思えたら、自然と頑張れる。そ
う思えるように、肩の力を抜いてみな」
「
……はい。明日、思い出してみます。泳ぐのが楽しかった、あの気持ち」
さちの目に、ふたたび光が灯った。
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「さち!」
振り返ると、そこにはハル、ユキ、リン、まひろ、そして澪の姿があった。
「ごめん……」
言いかけた瞬間、みんなが一斉に抱きついてくる。
「一人で悩まないでよ」
「さちの努力、私たちが一番知ってるんだから」
「今日も楽しかったよ! まだまだ下手だけど、みんなと泳げてうれしかった」
「私も、がんばるって思えたのは、さちが一緒だったからだよ」
「楽しんで泳ぐ……そうだね。わたし、ちょっと大会のことばかり考えてたかも」
「
……ありがと、みんな」
その涙は、もう悔しさではなかった。温かさに包まれた、感謝の涙だった。
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「なんか、目が冴えちゃった」
ハルが言い、澪が冗談まじりに提案する。
「じゃあ、軽く筋トレでもする?」
「やろうやろう!」
「トレノ、ナイトバージョンだ!」
笑い合いながら、6人はその場で体を動かす。
夜の空気は涼しく、月の光が彼女たちを静かに照らしていた。




