第五節 記憶の道、今のわたし
夏休みが始まり、お盆を前にした静かな土曜日。
部活のないその日、チーム・トレノのメンバーは、それぞれの時間を過ごしていた。
ハルとユキは、近くの公園で自主トレーニング。ランニングで競い合い、タイムを計りな
がら、笑い声を交えて汗を流していた。
リンは自宅でバランスボールを使った体幹トレーニングに集中し、まひろは図書館に足を
運び、筋トレのフォームやストレッチの資料をノートにまとめていた。
その頃──
さちは母・真由美とともに、新幹線に乗っていた。
窓の外を流れていく景色。車内の揺れに身を任せながら、心は少し先を行くように、懐か
しい場所へと向かっていた。
「この街に帰ってくるの、久しぶりだね」
「そうね……でも、何年も前みたいな気がする」
「ふふ、それだけ今が充実してるってことよ。いいことだわ」
小さく笑って、真由美は娘の横顔をそっと見つめた。
関西の空は、午後の日差しに白く滲んでいた。
⸻
目的の駅で降り、母娘は並んで歩いた。
通い慣れていた通学路、昔よく立ち寄った駄菓子屋。
道のあちこちに、懐かしさが色濃く残っていた。
やがて、石畳の坂を上がった先にある寺に着く。
水汲み場で立ち止まり、真由美が手桶に手を伸ばそうとしたとき、さちが静かに口を開い
た。
「お母さん、わたしが持つね」
「えっ……あ、ありがとう」
思わず言葉を詰まらせた真由美は、その背中を見つめた。
……去年は、私ひとりで来たんだった
父を亡くして間もなかった頃、さちは心の整理がつかず、お墓に向かうことさえ辛そうだ
った。
あのとき、無理には誘えなかった。けれど今、彼女は自らその場所へ向かっている。
「
……いつの間に、こんなに大きくなったんだろうね」
小さくつぶやき、真由美はその後ろ姿を追った。
⸻
墓前に立ち、花を供え、石を丁寧に拭き、線香に火を灯す。
二人は静かに手を合わせ、祈りを捧げた。
先に目を開いた真由美が、墓石に語りかける。
「あなた……さちが、こんなに立派に育ちましたよ。
たくさん笑って、悩んで、頑張って……本当に逞しくなったの。どうか、これからも見守
っていてね」
そして、さちもそっと口を開いた。
「お父さん……わたし、いまね、たくさん友達ができたんだ。
“チーム・トレノ” って名前で、一緒にトレーニングして、水泳部にも入って……
毎日がすごく充実してるの。悔しいこともあるけど、それも全部、楽しいの」
語りながら、さちの目に涙が浮かび始める。
「
……お父さん……」
こらえていた涙が、頬を伝って落ちていく。
一粒、二粒、静かに増えていくその涙を、真由美は見つめていた。
言葉にならない思いを胸に抱えたまま、しばらくの間、二人は黙ってそこに佇んでいた。
やがて、さちが顔を上げ、墓石に微笑む。
「また来るからね、お父さん。」
そう言って立ち上がると、吹いた風が頬の涙を乾かしていった。
何も見えないけれど、そこに父がいて、微笑んでくれているような気がした。
⸻
宿泊先に着いたあと、荷物を置き、軽装に着替える。
鏡の前で髪を束ね直しながら、さちが言った。
「お母さん、このあと、ちょっとだけ外を走ってきていい?」
「ええ。夕方までには戻ってきてね。気をつけていってらっしゃい」
微笑みを返して送り出されたさちは、軽く頷き、外へと走り出した。
⸻
ジョギングしながら見回す街は、懐かしさに満ちていた。
通い慣れた通学路、黙って歩くのが得意だった昔の自分がいた場所。
ランドセルを背負っていた頃の自分が、そこにまだいるような気がした。
やがて、かつての家の前で立ち止まる。
「ここに、住んでたんだよね……」
今は別の人が暮らしているのか、物干し竿には洗濯物が揺れていた。
そのまま足は自然と、小学校へと向かっていた。
校庭の隅で草をむしる教員の姿を見つけ、さちはそっと声をかける。
「先生……お久しぶりです」
振り返った教師が、一瞬驚いたあと、笑顔を見せた。
「おお、白川じゃないか! 久しぶりだなぁ」
「はい。いろいろあったけど、今、すごく元気です」
少しの間、昔話と近況を語り合う。
友達ができたこと。水泳部のこと。チーム・トレノのこと。
「そっか……お前がそんなに充実した顔で話すなんて、先生も嬉しいよ」
「また来ますね。ありがとうございました!」
「おう。またいつでも来いよ。先生、まだここにいるからな」
深く頭を下げ、さちは再び走り出した。
⸻
夕方、宿に戻ると、真由美が出かける支度をしていた。
「今日は、あの洋食屋さんに行こうか」
「えっ、ほんと? やった、うれしい!」
笑顔を交わしながら、母娘でその店へ向かった。
「ここに来るのも、久しぶりだね」
「そうね。さち、いつもあのハンバーグを頼んでたわよね」
「うん、やっぱりこれが一番好き!」
懐かしい味を前に、さちは自然と笑顔になる。
お父さんも、きっとここで同じように笑ってたんだろうな……
そんな思いが、胸をあたたかく満たしていた。
⸻
翌朝。二人は新幹線で今の街へと戻った。
見慣れた駅。日常に戻る風景。
部活も、トレーニングも、仲間との日々も──
すべてが、自分の「いま」だ。
けれどさちは、思う。
「次にあの街へ行くときは、もっと強くなっていたいな」
心の中で、そっとそう誓いながら、夏の空をまっすぐに見上げた。




