39秘めた想い
カリンは、セッテに微笑みかけた。
「橋の先まで歩いてこられましたよ。ほら。」
セッテは、穏やかな笑顔を浮かべる。
「ええ。おかげさまで。カリン様。」
「リーザさんも、ありがとうね。」
リーザも、ほっとしたように笑った。
「すごいですよ、セッテさん。」
「小川を越えられたのは、何日ぶりでしょうか。」
「うーん……いつ以来だったかしらねぇ。」
セッテはそう言って、歩いてきた道を振り返る。
「女神様が、少し力を貸してくださったからかしら。」
そう言って、カリンへ視線を向ける。
「……え?」
カリンは、思わず目を瞬かせた。
リーザが苦笑する。
「もう、セッテさんったら。」
「カリン様は女神様ではありませんよ。」
「あら、ごめんなさいねぇ。」
セッテは、申し訳なさそうに微笑んだ。
セッテ「でもねぇ……カリン様は女神様にお仕えする御方でしょう?」
「なんだか、女神様がそばにいてくださるようで、心強いんですよ。ふふ。」
その言葉に、カリンは伏し目がちに微笑んだ。
セッテは知らない。
今、自分が口にした言葉が、皮肉にも真実そのものだということを。
その存在によって、翻弄されてしまった人間がいる。
けれど、女神様に勇気をもらいながら、懸命に生きる人もいる。
アルバを失った悲しみの中で、カリンはセッテの笑顔を見つめた。
その懸命に生きる姿が、今のカリンの心を静かに支えていた。
カリンは、隣にいるリーザへ視線を向ける。
「リーザさん。ここにいる方たちは、今、外で流れているニュースをご存知なのですか?」
リーザは、静かに首を横に振った。
「いえ。」
「ハーブル分支部では、皆さんがご自身のお身体と向き合うために、外の情報は一切お伝えしていないんです。」
「そうですか。」
カリンは、小さな家々へ目を向ける。
「でしたら……他の患者の皆様にも、ご挨拶しても構いませんか?」
リーザは顔をほころばせた。
「もちろんです。」
「カリン様にお会いできたら、きっと皆さんお喜びになります。」
***
――司祭室。
ビーゴ司祭がふとミオへ目を向けた。
「それにしても……ミオさんはまだ幼いのに、とてもしっかりされていますね。」
「……!」
ミオの身体が、ぴくりと強張る。
(まずいです……。いつもの調子で話していました……。)
ビーゴ司祭は、今度はアメリへ目を向けた。
「それに……アメリさんは、カリン様によく似ていますね。」
アメリが、にこっと笑う。
「アメリはね。お姉ちゃんの――」
「……!」
ミオは咄嗟にアメリの口を塞いだ。
アメリ「んー! んー!」
「え、ええっと……!」
ミオは引きつった笑顔を浮かべる。
「私たちは、フェナード家に仕えさせていただいている者です。」
「身寄りのない私たちに、カリン様がお声をかけてくださって、本部で働かせていただくことになったんですよ。」
「私たちを雇ってくださったことには……その、本当に感謝しております。はは……。」
ミオは、努めて笑顔を作った。
その隣で、アッシュは何とも言えない笑みを浮かべていた。
「あはは……。」
「なるほど……そうでしたか。」
ビーゴ司祭は感心したように頷いた。
「フェナード家に仕えていらっしゃるとは、なんとも名誉なことですね。」
「お二人のしっかりしたご様子を見れば、カリン様が目をかけられたのも頷けます。」
「そ、そう言っていただけると……恐縮です。」
ミオはそう答えると、すぐに話題を変えた。
「そ、それよりも……!」
「今夜使わせていただく屋根裏部屋を、お掃除してもよろしいでしょうか?」
「もちろん、屋根裏だけではありません。」
「この教会のお掃除も、私たちにさせてください。」
「ええっ!?」
アッシュは思わず目を見開いた。
「ミ、ミオちゃん!? 教会全部やるの!?」
ミオはアッシュへ振り返ると、きっぱりと言った。
「ご厚意には心から感謝しております。」
「ですが、何もせずに泊めていただくわけにはまいりません。」
「さあ、やりますよ。アッシュさん、アメリ。」
そう言って立ち上がる。
アメリも笑顔で椅子を揺らし、立ち上がる。
「うん!」
「アメリ、やる! ミオちゃん、教えて!」
アッシュは、呆れたように笑った。
「わーったよ。」
「まあ、当然だな。」
「そ、そんな……!」
ビーゴ司祭は慌てて立ち上がる。
「新貴族であるアッシュ様に、そのようなことをさせるわけには……!」
するとアッシュは、いつもの調子で笑った。
「ふふーん。」
「新貴族でも、掃除くらいできるんだぜ。」
***
そして、夕刻。
カリンとリーザは夕食を作り、患者たちの暮らす家々を一軒ずつ訪ねて回った。
突然の訪問に、患者たちは驚きながらも、カリンの姿を見ると嬉しそうに笑った。
「カリン様が来てくださった!」と喜ぶ人々の笑顔に触れるたび、カリンの胸にも、温かなものが少しずつ広がっていった。
その後二人は、ミオたちの待つ教会へ戻った。
司祭室はすっかり綺麗に掃除されていた。
テーブルにはクロスが敷かれ、その周りにはミオ、アッシュ、アメリ、ビーゴ司祭が席についている。
カリンとリーザは大きな鍋をテーブルへ運び、湯気の立つ料理を、それぞれの皿によそっていく。
「鶏肉と野菜のポトフです。」
リーザが料理を並べながら微笑む。
「カリン様と私とで作らせていただきました。」
アメリは待ちきれないと言わんばかりに、覚えたてのスプーンを握りしめ、目を輝かせている。
「お姉ちゃんの料理ー♪」
「早く食べたい!」
「んー、いい香り!」
アッシュは、上機嫌に香りを楽しむ。
「労働の後のご飯は格別だよ~!」
「しかも、カリンちゃんとリーザちゃんが愛情込めて作ってくれたポトフ!」
「みんな、ごめんね。」
カリンは申し訳なさそうに皆を見回す。
「私だけお掃除を手伝えなくて……。」
「せめて、料理だけでも召し上がって。」
「カリン様は患者様のところへ訪問されていたのですから、仕方ありませんよ。」
ミオが穏やかに微笑む。
「皆様、きっとお喜びになったことでしょう。」
「ありがとうございます、カリン様。」
ビーゴ司祭も頭を下げる。
「その上、お食事まで用意していただいて……。」
カリンは、並べられた料理へちらりと目を向けた。
「その……私、料理はほとんどしたことがなくて……。」
「お口に合うかどうか……。」
リーザが、少し苦笑する。
「患者の皆さん、美味しいと口を揃えて仰っていたではありませんか。」
やがて、全員の前に料理が並んだ。
「そうだよ。」
アッシュは上機嫌に頷く。
「こんなにいい香りなんだから、美味しいに決まって――」
そう言って、目の前のポトフを覗き込む。
「…………。」
アッシュの表情が固まった。
(うっ……な、なんだこの料理は……。)
ミオも、そっと料理へ視線を落とす。
(ざ、斬新な野菜の形をしてますね……。)
(こんな切り方……初めて見ました。これは……芸術的ですね……。)
ビーゴ司祭も、料理を見つめた。
(色も……ポトフの色ではありません……。)
そんな三人とは対照的に、アメリだけは目をキラキラと輝かせていた。
「わー! お姉ちゃん、美味しそー!」
「いただき――」
「待って、アメリ。」
カリンが笑顔で止める。
「食事の前に、祈りを。」
アメリ「あ! そうだった。」
カリンは胸に手を当てる。
「命に感謝を。」
皆もそれに続く。
「「命に感謝を。いただきます。」」
二羽のシルフィも、小さく鳴いて羽を揺らした。
そして、カリンたちはそれぞれスプーンを手に取り、ポトフを口に運び始めた。
「はぁ~。美味しいわ!」
カリンは嬉しそうに頷く。
「味はバッチリね!」
「ええ。」
リーザも頷いた。
「とても美味しいですよ。」
アメリは、スプーンを忙しそうに動かしながら、夢中でポトフを頬張っていた。
「おいしー! おいしー!」
「え……。」
アッシュは、思わずアメリを見つめた。
(嘘だろ……。これを何のためらいもなく食ってる……。)
ミオも料理を見つめながら、そっとスプーンへ手を伸ばした。
(確かに、香りは間違いありません。)
(ですが……この見た目……。)
(……本当にポトフなのでしょうか。)
ミオは、料理からカリンへ視線を移した。
カリンは、皆の反応を少し不安そうに待っている。
(……カリン様が心を込めて作られた料理です!)
ミオは、迷いを振り払うようにスプーンを握った。
ビーゴ司祭も、料理を前にして固まっていた。
(まさか……これを患者の皆さんに振る舞ったというのですか……。)
(ですが、皆さんは口を揃えて「美味しい」と……。)
ビーゴ司祭も静かにスプーンを手に取った。
「…………。」
アッシュは、ごくりと唾を飲み込んだ。
そして――。
覚悟を決め、ゆっくりとスプーンを口へ運んだ。
「…………。」
そして――。
「「「!!!」」」
三人の表情が、一斉に変わった。
ミオ「美味しい……!!」
「野菜の旨味と鶏肉の出汁が、優しく溶け合っています……!」
ビーゴ司祭「ええ……これは美味しい。」
「素朴な味わいなのに、しっかりと旨味が感じられます。こんなに美味しいポトフは、初めていただきました。」
「美味すぎる!!」
アッシュは目を輝かせる。
「何これ!? めちゃくちゃ美味いじゃん!」
そう言うなり、夢中になってポトフを食べ進めていく。
カリンは、ほっとしたように微笑んだ。
「喜んでもらえてよかったわ。」
「リーザさんも、今日はありがとうございました。」
リーザは微笑み、丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、貴重な機会をいただき、ありがとうございました。」
「患者の皆様も、カリン様がお越しくださったことを、本当に喜んでおられました。」
「おいしー……! もぐもぐ……。」
アメリはポトフを夢中で頬張り、幸せそうに目を細めている。
「うまい! もぐもぐ……。」
アッシュもニコニコしながら、次々とポトフを口へ運んでいた。
二羽のシルフィも、料理をついばみながら、小さな羽をぱたぱたと動かしていた。
ミオは二人を見て、困ったように微笑んだ。
「アメリ、アッシュさん。」
「美味しいのは分かりますが、もう少し落ち着いて召し上がってください。」
「ピィ♪」「ピィッ♪」
「あはははっ。」
皆の間に、明るい笑い声が広がった。
こうして一行は、賑やかな夕食を終えた。
食器を片付け、テーブルを整えると、アッシュが司祭室を出ようとする。
「アッシュ様。」
ビーゴ司祭が慌てて声をかけた。
「狭い部屋で恐縮ですが、こちらにお布団をご用意いたします。」
「今夜は、この司祭室でお休みください。」
「いーや。」
アッシュは軽く手を振った。
「俺は外で寝るわ。」
「気遣ってくれてサンキューな、司祭さん。」
「そ、そ、そ、外!?」
リーザが驚きのあまり声を上げる。
ビーゴ司祭も、思わず目を見開いた。
「そ、そんな……! 新貴族の方が、外でお休みになるなど……!」
アッシュは、いつもの調子で笑う。
「俺、夜空の下が一番落ち着くんだ。」
そう言って、ウインクした。
カリンは、ビーゴ司祭に笑顔を向けた。
「ビーゴ司祭。私たちのために屋根裏部屋をご用意くださって、ありがとうございます。」
「アッシュは、いつも外で眠ることが多いので……どうかお気になさらないでください。」
ビーゴ司祭は、それでも心配そうにアッシュを見つめる。
「で、ですが……外では危険です!」
すると、ミオが首を傾げた。
「ここはハーブルの分支部なのですよね?」
「でしたら、ハーブルから発せられる魔獣避けのクレイド波が、この辺りまで届いているのでは?」
リーザが目を丸くする。
「ミオちゃん、まだ小さいのにそんな事まで……。本当にお詳しいんですね。」
ミオは、ぎくっとして笑った。
「あ、あはは……。その、本で少し……。」
「ええ、その通りですよ。」
リーザは頷いた。
「この辺りは大都市ハーブルから放たれるクレイド波の恩恵を受けていますから、魔獣に襲われる心配はないでしょう。」
ミオは、ビーゴ司祭へ視線を向けた。
顎に手を添え、じっと見つめる。
「……。」
アッシュは、へらっと笑った。
「大丈夫、大丈夫。」
「俺、魔獣がいても寝られるタイプだから。」
カリンは呆れたようにアッシュを見る。
「そんな人、普通いないわよ。」
「そお〜?」
アッシュはにやりと笑う。
「じゃあ、俺も屋根裏部屋に行っちゃおっかな~?」
「だったら――」
「……アッシュさん。」
ミオは、すっと目を細めた。
「……!」
アッシュの身体が、ぴくっと固まる。
「あはは……。」
「ミオちゃんには、冗談通じないな~……。」
アッシュは苦笑いを浮かべると、逃げるように司祭室を出ていった。
そのまま、教会の外へと向かった。
***
ハーブル分支部と、可愛らしい家々を離れ――。
アッシュは森の中へ入っていった。
木々の中へ紛れると、その姿は大きな銀狼へと変わった。
ザッ……ザッ……。
銀狼は、夜の森をゆっくりと歩いていく。
「カリンちゃんの料理って、あんなに個性的なんだな~。」
アッシュは歩きながら、くすっと笑った。
「見た目はなかなかのインパクトなのに、味は絶品……。」
「とんでもないスキル持ってるよな~。」
すると――。
フェンリルの低く、重厚な声が響いた。
『アッシュ。いい加減にしろ。』
『いつまで、こんな茶番を演じている。』
「……。」
アッシュの耳が、わずかに伏せられた。
『我が……すべて教えただろう。』
「…………。」
『千年前に――何があったのかを。』
アッシュは、俯くように視線を落とした。
『なぜ、皇女殿下に話さないのだ。』
アッシュ「言えるかよ。」
『すべて知っているくせに、何も知らぬふりをして……。』
『この旅を続けることに、何の意味がある。』
アッシュは、堪えきれないように声を上げた。
「だから、あんな話……カリンちゃんに言えるわけないだろ!!」
『イグニスの小僧が、あのような卑劣な手を使い、皇女殿下を追い詰め、己の手中に収めようとしているのだぞ。』
『アルファリア教会の戦力もルクセリア軍に加わった。もう、ためらっている場合ではない。』
「……。」
アッシュは答えなかった。
銀狼は、ただ黙って森の中を歩き続ける。
やがて――。
森の外れへと出た。 その先には、なだらかな丘が広がっている。
そして、少し離れた場所には――。
夜空の下、大きな都市の明かりが一面に広がっていた。
「へー……。」
アッシュは、眼下に広がる街を見つめた。
「あれがシュタット領きっての大国、ハーブルの中心地か。えらくデカいな。」
銀狼のアッシュは、その場にゆっくりと伏せた。
遠くに広がるハーブルの街と、頭上に広がる夜空。 その間を、夜風が静かに吹き抜けていく。
しばらく、ハーブルの街を眺めていた。
『ずっと、このままでいるつもりか。アッシュ。』
その言葉に、アッシュはゆっくりと目を細めた。
『キサラギの聖痕を刻んだ魔法使いの存在は、我にも予想外であった。』
『だが、どれほど強い魔法の力があろうとも、今のルクセリアの世界では皇女殿下を守りきれぬ。』
『今の皇女殿下には、武力だけではなく、確かな身分が必要なのだ。』
アッシュ「……何が言いたい。」
しばし、沈黙が流れた。
夜風が銀色の毛並みを撫でていく。
『クロフィアの名を、皇女殿下に与えるのだ。』
アッシュは、何も言わず夜の街を見つめていた。
『今の状況で、皇女殿下をイグニスの小僧から守るには、それしか手はない。』
アッシュ「俺じゃ駄目だ。」
『何を言う。』
『クロフィアの名を持てば、イグニスの小僧とて、そう容易く手出しはできぬ。』
アッシュは、眼下のハーブルへ視線を向けたまま、静かに口を開く。
「俺はクロフィア家当主の弟だ。」
「ただの三番目。」
「政治的な力なんて、持ってない。」
「カリンちゃんに、安全な身分を与えることはできる。」
「でも、それじゃ……ただの籠の鳥になるだけだ。」
「カリンちゃんが、そんな生き方を望んでいると思うか?」
『だが、今は皇女殿下の身を守ることが先決だ。』
アッシュは、どこか痛むような表情を浮かべた。
「……それに、カリンちゃんの心には、今も……あの人がいるんだ。」
「俺が、そこに入り込める余地なんて……ない。」
フェンリルの、深いため息が聞こえた。
『想いを秘めたまま、ただ皇女殿下の側にいるだけ。』
『婚姻を望むこともせず、真実を伝えようともしない。』
『そんな中途半端な者に、我が聖痕を与えたつもりはないぞ。アッシュ。』
銀狼の爪が、地面に食い込む。
「クロフィア家に来て、カリンちゃんが幸せになれるのか!?」
「あの兄貴だって、エリシオンのクレイドにまったく関心がないと言い切れるのか!?」
「イグニス公は、必ず別の手段を使う!」
「兄貴に取引を持ち掛けるかもしれない!」
「カリンちゃんを……新貴族の中に巻き込んじゃいけないんだ!!」
フェンリルの声が、静かに響いた。
『だったら、話すんだ。千年前に起こった真実を。』
『レイノルド・フェナードを探す旅など今すぐやめてな。』
「……。」
アッシュは、思い詰めるように顔を伏せた。
しばらくして、静かに口を開く。
「……すまない。フェンリル。」
「やっぱり、それは……言えないよ。」
「……怖いんだ。」
「俺の口からあの真実を伝えて……」
「それを知った時のカリンちゃんが……心を壊してしまうのを、俺は見たくない。」
フェンリルは、冷ややかに息を吐いた。
『ふん。やはり、ただ側にいたいだけか。』
「……違う。」
アッシュの目に、強い意志が宿る。
「聖痕を貰い……フェンリルからカリンちゃんの真実を聞かされた時から、ずっと考えていた。」
「俺は……どうするべきなのか。」
アッシュは、わずかに間を置いた。
「……やっぱり俺は……。」
静かに、目を伏せる。
「最後にどんな道を選ぶかは……カリンちゃん自身に、決めてほしいんだ。」
フェンリルは、黙ってアッシュの言葉を聞いていた。
「そして……こんな状況になってしまった今。」
アッシュは、再び顔を上げる。
「俺にできることは……。」
「カリンちゃんが……自分の力で、世界と戦えるようにすること。」
フェンリルは、静かにアッシュの言葉を受け止めた。
『……そうか。皇女殿下自身に、世界と戦う力を持たせるというのだな。』
『……まったく、お前らしいな。』
アッシュは、ふっと小さく笑った。
「旅の果てに、カリンちゃんが真実を知った時……。」
「その時は……。」
その表情に、わずかな寂しさが滲んだ。
「抱きしめるくらいは……できるさ。」
フェンリルは、わずかに沈黙した。
そして――。
『……ならば、我もお前と共に、その時を見届けよう。』
その声には、かすかな笑みが滲んでいた。
その言葉を最後に、フェンリルの声は聞こえなくなった。
アッシュは一人、夜空を見上げていた。
その脳裏に、幼き日の記憶が浮かぶ。
〜~〜
淡い色彩に包まれた空の下。
幼いアッシュとカリンは、凧を揚げながら楽しそうに駆け回っていた。
カリンは笑顔で空を見上げ、風に乗って舞う凧を指差す。
その時――。
カリンが、ふと横を向いた。
何かを見つけたように、その顔がぱっと輝く。
次の瞬間、カリンは凧の糸を手放し、嬉しそうに駆け出した。
ぱさり。
手から離れた凧が、地面へ落ちる。
アッシュは、その場に立ち尽くしていた。
カリンが駆けていった先には――。
青い髪の青年が、両手を広げて立っていた。
カリンはその胸へ飛び込み、青年は優しく彼女を抱き上げる。
そして――。
その腕の中で見せたカリンの笑顔は、アッシュがこれまで一度も見たことのないものだった。
アッシュは、ただその光景を見つめていた。
〜~〜
夜風に揺れる銀色の毛並み。
夜空を見上げるその表情は、静かな痛みを滲ませていた。
「そうさ。いつだって、あの人が傍にいたんだ。」
「……ずっとな。」




