26遠い光から、隣の友達へ
すっかりと日が暮れたデュトロープ湖。
月明かりに照らされた湖面は鏡のように静まり返り、無数の星々を映し出していた。
遠くに連なる山々の影と、水面に揺れる淡い光が溶け合い、まるで夜空そのものが地上へ降りてきたかのようだった。
静寂に包まれた湖畔。
その美しい夜の中で、カリンとミオは並んで腰を下ろしていた。
「――その後、私はアルファリア教会に保護されました。」
「そして、司祭様から『ラミアナ』という名前をいただきました。」
ミオは言葉を結んだ。
カリンは、ミオが語った幼き日の記憶を静かに胸へ刻んでいた。
曖昧にしか残っていない記憶。
それでも、その中に刻まれていたものはあまりにも壮絶だった。
戦火。 別れ。 恐怖。
幼い少女が、たった一人で背負うには重すぎるものだった。
そして、ようやく理解した。
ミオにとって、女神メイデスという存在がどれほど大きかったのか。
あの絶望の世界の中で、初めて見つけた光。
恐怖しか知らなかった少女に、温もりと希望を与えてくれた存在。
それは、誰にも否定できないものだった。
カリンは静かに俯く。
「……本当に、私は世界を何も知らなかった。」
アルバが以前口にしていた言葉。
その意味を、今なら少しだけ理解できる気がした。
隣を見ると、ミオはどこか不安げに身体を小さくしていた。
「申し訳ありません……。」
「こんなお話を、カリン様に……。」
その姿を見て、カリンの胸が締め付けられる。
違う。謝るべきなのはミオではない。
カリンはゆっくりと口を開いた。
カリン 「……ごめんね、ミオ。」
ミオ 「え……?」
カリンは湖面を見つめながら、静かに続ける。
カリン 「ミオにとっての女神様は……幼いあなたが見た世界とは別の場所から差し込んだ、唯一の光だったのね。」
「それなのに私は……。」
「『私に縛られている。そんな生き方だけは絶対に認めない』なんて……。」
「ミオにとって大切だったものまで、否定するような言い方をしてしまったわ。」
ミオは慌てて首を横に振る。
「違います!」
「カリン様は……私のことを想ってくださったから……。」
そして、少し頬を赤らめながら。
ミオ 「その……。」
「大好きなミオが、私に縛られたまま生きることは望まない……と。」
カリンは優しく微笑む。
「ええ。」
「それは今でも、私の本心よ。」
その言葉に、ミオは小さく震えた。
ミオ「……っ。」
声にならない息が漏れる。
カリンはそっとミオの手を取った。
小さな手。
今まで何度も自分を守ってくれた手。
カリン 「ミオの人生は、ミオのものよ。」
「これまでは……教帝候補の私と、その護衛であるミオとして一緒に歩いてきた。」
「でも……その前提だった教会という存在が、もう分からなくなってしまった。」
「何を信じ、何を守るべきなのか……私は今、答えを失っている。」
カリンはミオの手を強く握る。
そして、真っ直ぐその瞳を見る。
「だからこそ……。」
「今の私たちは――対等よ。」
ミオの瞳が大きく揺れる。
その言葉を、すぐには受け止められなかった。
以前も、カリンは同じ想いを伝えてくれた。
けれど、あの時の自分は受け入れることができなかった。
仕える者と、仕えられる者。
女神様と、その信徒。
その境界を越えることなど、許されないと思っていた。
叶うはずがないと思っていた言葉。
それでも、心の奥ではどこかで求めていた。
視線を逸らそうとした瞬間。
カリンはもう片方の手で、そっとミオの頬に触れた。
カリン 「……逸らさないで、ミオ。」
その瞬間。
ミオの中で、時間が止まった。
カリン 「あなたの信仰心は、間違いなんかじゃないわ。」
ミオ 「……え?」
カリンは優しく微笑む。
カリン 「ミオにとっての女神様は……。」
「間違いなく、幼いあなたが見た虹色の光の中にいたメイデス様よ。」
その言葉に、ミオの脳裏へあの日の光景が蘇る。
戦火の中で失ったもの。
恐怖しかなかった世界。
そして――。
初めて見た、温かな光。
カリン 「あの日から、ミオに生きる希望を与えてくれたのは……。」
「間違いなく、女神メイデス様だったのね。」
ミオの瞳が揺れる。
カリンは続ける。
カリン
「でもね。私は、カリン・フェナードとして生きているわ。」
「ミオの友達として。」
「だから……対等なの。」
カリン
「私はもう、自分がメイデス様だからミオの人生を縛ってしまったなんて思わない。」
「ミオを救ったのは、私ではないもの。」
「あなたを救ったのは……幼い頃にあなたが見た、女神メイデス様なのよ。」
ミオの胸の奥で、何かが震えた。
ずっと閉じ込めていた想い。
言葉にできなかった感情。
カリンは静かに告げる。
「だから……。」
「ミオも、私を友達として見てほしい。」
ミオは、胸の奥で確かめるように小さく呟いた。
「……友達。」
その一言を口にした瞬間、胸の奥に閉じ込めていた想いが溢れ出した。
ミオ「私は……怖かったのです。」
「メイデス様は、私にとって……ずっと遠くから見上げる存在でした。」
「暗闇の中で、私を救ってくださった……唯一の光でした。」
「そんなお方が、私の前に現れて……。」
「私に笑いかけてくださって。」
「友達になりたいと……言ってくださって。」
ミオの声が震える。
「……嬉しかったのです。」
「言葉では表せないほど。」
「ずっと願っていたことが、夢ではなく本当に起きたのだと思いました。」
「ですが……。」
「同時に、迷いました。」
「私は……女神様を見上げることしか知らなかったから。」
「そのお方の隣にいてもいいのか。」
「同じ景色を見てもいいのか……。」
「分からなかったのです。」
カリンは、そんなミオを優しく見つめた。
「……そっか。」
「そうだよね。」
「ずっと遠くから見上げていた存在が、突然目の前に現れて……。」
「その人から『友達になりたい』なんて言われたら……怖くなるよね。」
カリンは、穏やかな笑みを浮かべる。
「でも……もう見上げなくていいよ。」
「私は、ここにいるから。」
その言葉は――。
長い間、自分の中で決して越えてはいけないと思っていた境界を、優しく取り払ってくれた。
ミオは静かにカリンの手を握り返した。
小さな手が、震えながらも確かな想いを込めるように重なる。
ミオ
「……受け入れても、いいですか。」
「カリン様の想いを……。」
カリンの胸が、高鳴った。
そして――。
ミオは、揺れる瞳でまっすぐカリンを見つめた。
幼い日のミオが見上げた、虹色の光の中の女神像。
その姿は、ゆっくりと記憶の奥へ溶けていく。
そして今――。
目の前にいるのは、神々しい存在ではなかった。
自分を一人の少女として見つめる。
大切な友達――。
カリンだった。
ミオ
「私の……大好きな……友達。」
「カリン様。」
その言葉を聞いた瞬間。
カリンの胸の奥にあった重たいものが、静かにほどけていった。
ずっと欲しかった言葉だった。
瞳から溢れそうになる想いを、カリンは必死に堪える。
カリン
「……もちろんだよ。」
「私も……ずっとそう願っていたから。」
カリンは優しく微笑む。
「これからも、一緒に歩いてくれる?」
その瞬間――。
二羽のシルフィは、嬉しそうに羽ばたいた。
「ピィ……。」 「ピーピー。」
そして、二人の肩へそれぞれ舞い降りる。
まるで、二人がようやく辿り着いた答えを喜ぶように。
カリンとミオは顔を見合わせ、静かに笑い合った。
夜空には無数の星が輝き、デュトロープ湖の水面へ優しく揺れていた。




