断章Ⅲ「採用判定の夜、村瀬・遠野・沢田」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、新卒六人が入社する直前の三月下旬、村瀬正之社長、遠野吉彦CTO、沢田五郎人事の三者対話を描いています。本編プロローグの前の時系列です。
三月下旬の金曜日、夜七時。
港川市はまだ春が来きっていなかった。日中の風はそこそこ温んだが、夜になると冬の名残りがさっと戻ってくる。本社ビル一階の応接室。窓の外の桜はまだ蕾のままで、その固さがビルの灯りに薄く照らされていた。
応接室の机に、人事の沢田五郎が薄手のクリアファイルを並べていた。
ファイルは六冊。
一冊ごとに新卒の名前と顔写真と配属先の最終案が記されていた。
沢田は背筋を伸ばして座っていた。五十代後半。髪は薄くなりかけているけれど、その薄さを隠そうとはしていない。眼鏡を一度、人差し指の腹で押し上げた。
向かいの席に村瀬正之社長が座っていた。
六十代後半。白髪。仕立てのいい紺のスーツ。長く座っていても姿勢は崩れない。手元のお茶の湯気をぼんやり眺めていた。
その隣に遠野吉彦CTOが座っていた。
五十二歳。白いシャツにグレーのスラックス。上着は脱いで隣の椅子の背に掛けてあった。机の上で軽く指を組んでいた。
三人ともまだ口を開いていなかった。
沢田が口火を切った。
「お時間をいただいてしまって、すみません」
「いえ」
村瀬がゆっくり首を振った。
「年に一度のこの夜は、私の中でいちばん大事な夜の一つです。沢田さんに資料を読み込んでもらってからの、三者の確認」
「三十年、続けていますね」
沢田が軽く頷いた。
「もう三十年ですか」
遠野が初めて口を開いた。低く、よく通る声。
「私が最初にヨキエルに来たのが十九年前、東京に一度出て、戻ってきて三年。立ち会えた夜は、最初の七年と再入社後の三年、合わせて十回。それでも今夜は新しい顔があるはずです」
「はい、六人の新顔です」
沢田はいちばん上のファイルを開いた。
最初の顔写真は控えめな表情の青年だった。
「桐谷 蒼太」と書かれてあった。
「桐谷蒼太くん、二十二歳、ここから新幹線と特急を乗り継ぐ、内陸の町の出身です」
沢田の声は人事三十年の落ち着きを保っていた。
「卒業する大学は地方の中堅。専攻は情報科学。最終面接で村瀬社長が『なぜここを選んだのか』と聞かれた時、彼はこう答えました」
「『三年で、土台を作りたい』と」
村瀬が微かに笑った。
「あの一行はよく覚えています」
「私もです」
遠野が頷いた。
「テンプレートのような志望動機ではなかった。彼の声で、彼の言葉として出てきた」
「ええ」
沢田は資料の二枚目を指で軽く撫でた。
「彼を、どこに置くべきか」
短い間が空いた。
遠野がお茶を一口含んでから言った。
「諏訪さんの受託チームAでしょうね」
「諏訪さんですか」
沢田が顔を上げた。
「白瀬さんがいる場所。立花さんと古川さんと赤坂さんがいる場所」
遠野は指を一本ずつ立てて四人の名前を確認した。
「白瀬さんは彼に書ける人です。レビューを二十件書ける人。それは桐谷くんに必要な栄養です」
「立花さんと古川さんと赤坂さんは、栄養とは違うものを彼に渡しますね」
村瀬が静かに言った。
「ええ。栄養というより、観察の対象として」
遠野はそう答えた。
「あの三人、というのは語弊がありますが、彼らが見せる『先輩の幅』が桐谷くんの観察の物差しになる、と私は読みました」
「諏訪さんがそれを引き受けてくれる、ということですね」
「はい」
沢田が確認した。
「諏訪さんに、私からまず話しました。『あなたのチームに観察の好きな新卒を一人置きたい』と」
「諏訪さん、なんと?」
「諏訪さんはこう答えたそうです」
沢田はメモを開いた。
「『私の三年で、彼も育ち、私も育つ。それでいいですか』と」
村瀬がふっと笑った。
「諏訪さんらしいですね」
「らしいです」
遠野も笑った。
「『私の三年で、私も育つ』。マネージャーとしてそれを口にする人は、私の知る限りヨキエルでは諏訪さんだけです」
「諏訪さんを買っていたのは、遠野さんでしたね」
「ええ。七年前、諏訪さんがマネージャーに上がったときから。現場が強く推した人です。私は戻って、その流れを受け継いだ形です」
遠野は手元のお茶をぐっと飲んだ。
「諏訪さんの三年に桐谷くんを乗せる。これでよろしいですか」
「よろしいです」
村瀬が頷いた。
沢田は桐谷蒼太のファイルの最終ページに署名欄を開いた。
村瀬、遠野、沢田の三人がそれぞれ署名した。
最初の一人が決まった。
二冊目のファイルを沢田が開いた。
顔写真は肩で揃えた髪の女性だった。
目の鋭さがファイル越しにも伝わってきた。
「葉山 美月」と書かれてあった。
「葉山美月さん、二十二歳、関東の出身。東京の大学から来ました」
沢田はファイルの上に資料を一枚重ねた。
「最終面接、覚えていらっしゃいますか」
村瀬は頷いた。
「忘れません。あの子は私に二回、聞き返した」
「二回?」
遠野が顔を上げた。村瀬とは違うルートで葉山を見ているはずだった。
「『家族みたいなチームを目指す会社ではないと、社長からはっきり聞いておきたいです』と」
「ああ」
遠野が短く頷いた。
「あの一行は私も書きとめました」
沢田が眼鏡を直した。
「彼女が東京の大手の内定を蹴ってまでうちに来た理由は、たぶんその一行の中にあります」
「『家族みたいなチームから、逃げてきた』」
村瀬がぽつりと言った。
「半分はそうだと思います。けれどそれは半分。もう半分は、『責任』という言葉をちゃんと言える組織を探していた、ということだと私は読みました」
「責任を言える組織」
遠野が指を組み直した。
「葉山さんは東京の最終ステージで、すべての面接官にこう聞いたそうです」
沢田がメモをめくった。
「『あなたの会社の管理職は、責任をどこまで取りますか』と」
村瀬がふっと笑った。
「東京の大手のたいていは、その質問にちゃんと答えられなかったのでしょうね」
「ええ。そう聞いています」
「うちは答えられたのですか」
「私が答えました」
沢田がうなずいた。
「『責任は上から順に取ります。新卒が一年目で起こす本番障害は、私たちのマネジメントの責任です』と」
「沢田さん、それを言ったのですね」
村瀬が目を細めた。
「言いました。葉山さんはその答えを聞いて、二週間後にうちに承諾を出してくれました」
短い間が空いた。
「葉山さんをどこに置きますか」
沢田が問うた。
遠野は机の上のファイルを指で軽く叩いた。
「江口さんのチームBですね」
「江口さん」
沢田が一拍止まった。
「葉山さんは、江口さんの『現場で決めて』に絶対ぴくっとします」
「ぴくっと?」
村瀬が初めて聞く言葉に軽く首を傾けた。
「葉山さんは、自分の中にぴくっとセンサーがあるタイプの方です」
沢田が説明した。
「違和感に対してまず体が反応してから、頭が言葉を探しに行く。そういうタイプ」
「ああ」
村瀬が頷いた。
「江口さんの『現場で決めて』は、葉山さんの観察の格好の対象になります」
遠野が言った。
「それから立花さんの『美月ちゃん』呼び。これも葉山さんのぴくっとを発動させます」
「立花さんはまだ続けているのですか、それを」
村瀬が眉をひそめた。
「私のところには、人事として年に三件ほど立花さんに関する小さな声が届いています」
沢田がはっきり答えた。
「だから葉山さんを江口さんのチームに置くというのは、葉山さんへの試練であり、立花さんへの観察者を置くということでもあります」
「葉山さんが潰れない、と判断できる根拠は」
遠野が冷静に確認した。
「桐谷くんの存在です」
沢田は短く答えた。
「桐谷くんが諏訪さんのチームAにいて、葉山さんが江口さんのチームBにいる。物理的に同じ階で、同じフロアの中で、二人は通路一本で繋がります」
「桐谷くんと葉山さんの同志感」
村瀬がうなずいた。
「あの二人は最終面接の控え室で、すでに目が合ったと聞いています」
沢田がメモを示した。
「面接終了後の控え室で、桐谷くんと葉山さんがたまたま隣に座って五分ほど話したそうです」
「五分」
「五分です。受付の女性が二人の様子を見て、その夜のうちに私にこう報告してくれました。『あの二人、たぶんお互いにちゃんと、いいなと感じている』と」
村瀬が小さく笑った。
「受付の女性が人事の眼を持っているのは、うちの強さですね」
「彼女には年に何度かお礼を渡しています」
沢田が一度眼鏡を外した。
「葉山さんを江口さんのチームBに置く。桐谷くんを諏訪さんのチームAに置く。二人の同志感が二人を支える。これでよろしいですか」
「よろしいです」
「私もよろしい」
遠野が頷いた。
二冊目のファイルにも三人の署名が並んだ。
三冊目のファイルを沢田が開いた。
顔写真の青年は十九歳に見えなかった。
目つきがすでに若さの境を一歩越えている顔だった。
「黒木 律」と書かれてあった。
「黒木律くん、十九歳、地元の高専からの新卒」
沢田の声が少しだけ低くなった。
「高専ですね」
村瀬が確認した。
「うちの新卒採用で高専からの新卒は、五年ぶりです」
「五年」
遠野が呟いた。
「黒木くんは組込みチームの大沢マネージャーが、最終面接の前から欲しいと言っていた人材です」
「組込みチームに、ですか」
「ええ」
沢田は資料を一枚めくった。
「黒木くんは高専時代、ロボコンで地区二位に入っています。卒業研究では、マイコンの上で深層学習の推論を動かす最適化までやってのけました。組込みの素養としては、うちの大卒組よりひと回り上です」
「ひと回り上」
村瀬が繰り返した。
「ただ、大沢マネージャーがその黒木くんをちゃんと扱えるか」
沢田の声がさらに低くなった。
三人の間に沈黙が落ちた。
遠野が初めて、机の上の指をぎゅっと組み直した。
「大沢さんの機嫌の波ですね」
「ええ。大沢さんの問題はもう何年も、私のところに届いています」
遠野ははっきり言った。
「機嫌で部下を萎縮させるというのは、私の中でいちばん許せないマネジメントの一つです」
村瀬が低く頷いた。
「私のところにも届いています、遠野さん」
「ええ」
「それでも、大沢さんを外せない理由がある」
村瀬がそう言った。
「組込みチームの売上の四割は、大沢さんの判断で持ってきている案件です。大沢さんを外すと、組込みチームはたぶん半年で半分の人を失う」
「ええ、よく分かっています」
遠野が頷いた。
「だから私たちは大沢さんを変える努力を続けています。私が年に四度、個別面談をしています。少しずつ機嫌の波は浅くなってきています。けれどまだ全部は直っていません」
「黒木くんを、その大沢さんのチームに置く、ということは」
沢田が一度息を整えた。
「黒木くんにリスクを背負わせる、ということです」
短い間が空いた。
村瀬がゆっくり口を開いた。
「黒木くんを潰すわけにはいきません」
「ええ」
「けれど組込みの素養として彼は適している。そして大沢さんを変える触媒として、若い黒木くんの存在が効くかもしれない、という見方もある」
「『触媒』というのは、おっしゃる通りです」
遠野が言った。
「大沢さんは若手に対して機嫌の波を見せる癖がある。けれど黒木くんのような『本物の腕』を持つ若手を前にすると、たぶん大沢さん自身、自分の機嫌を意識的に整えようとするはずです」
「賭けですね」
沢田は静かに言った。
「賭けです」
村瀬が認めた。
「ただ、黒木くんを守る装置は別に用意しましょう」
遠野が提案した。
「装置」
「私が黒木くんの直属の評価ラインに、毎月目を通します。給与査定のところに、大沢さん経由ではなく私が一度見るルートを通しておく。それで大沢さんが機嫌で黒木くんの評価を下げようとしても、私が止められる」
「それは有り難い」
沢田が頷いた。
「あともう一つ」
遠野が続けた。
「組込みチームに藤村さんという、もう一人の中堅のエンジニアがいます。藤村さんは機嫌が安定していて、技術もある。藤村さんに私から、黒木くんの面倒を別ラインで見てもらえないか頼みます」
「藤村さんに頼みますね」
村瀬が頷いた。
「藤村さんはたぶん引き受けてくれます」
遠野が静かに言った。
「黒木くんを組込みチームに置く。大沢さんの機嫌を藤村さんと私のラインで横から支える。それで黒木くんを守る」
「分かりました」
沢田が頷いた。
三冊目のファイルにも三人の署名が並んだ。
四冊目のファイルを沢田が開いた。
顔写真の青年は褐色の肌をしていた。
彫りの深い顔。けれど目元に微かな疲れが見えた。
「アユシュ・タパ」と書かれてあった。
「アユシュ・タパくん、二十四歳、ネパール出身」
沢田は資料を一枚机に置いた。
「インドの大学で情報科学を学んだあと、日本の国立大学院の修士課程を終えています。専攻は、自然言語処理を中心とした機械学習」
「機械学習ですね」
遠野が頷いた。
「彼がなぜうちに来てくれたかが、いちばん不思議でした」
沢田は苦笑いした。
「東京の大手のAI企業からも内定が出ていました。それなのに地方IT中小のうちを選んだ」
「理由は」
村瀬が聞いた。
「彼が最終面接でこう言いました」
沢田はメモを開いた。
「『日本の地方の、IT中小の現場で、機械学習がどう使われていくかを見たいです。東京のAIスタートアップは、私がいなくてもたぶん走ります。けれど地方の現場は、私のような人間が入らないとたぶん走らない。私は走らせる側になりたい』」
村瀬はしばらく、その一行を口の中で繰り返した。
「『走らせる側になりたい』」
「ええ」
「これはうちにとって有り難い、いえ、有り難すぎる動機です」
村瀬が頷いた。
「ただ、彼を組込みチームに置くのはリスクが高いです」
遠野が言った。
「組込みチームのC/C++中心の現場では、機械学習の本格的な実装はまだ走らせていない。アユシュくんが自分の本来の研究の延長を、ヨキエルでできる場所はたぶんない」
「彼にそれを伝えていますか」
村瀬が沢田に聞いた。
「伝えています」
沢田ははっきり答えた。
「『うちの組込みチームではPythonでの機械学習の本格的な実装は、現時点ではありません。あなたが期待されているのはCとC++を中心とした組込みのメンテナンス。それから少しずつ機械学習を、ビジネスの中で使えるところを探していく、その役割です』と」
「アユシュくん、なんと?」
「『分かりました。私はC++、まだ慣れません。でも慣れます。私の研究は、私の夜の時間で続けます』と」
村瀬がぐっと口を結んだ。
「夜の時間で続ける」
「ええ。アユシュくんはたぶん、最初の一年は苦しみます」
遠野が静かに言った。
「私たちは彼を潰すわけにはいきません」
短い間が空いた。
沢田が頷いた。
「組込みチームに置く。大沢マネージャーの下。黒木くんと並ぶ、新卒の同期二人」
「同期二人、というのが重要ですね」
村瀬が言った。
「黒木くんが隣にいる。それがたぶんアユシュくんを半分支える」
「ええ。アユシュくんが隣にいる。それがたぶん黒木くんをなかば支える」
遠野が頷いた。
「二人で組込みチームの中の、もう一つの軸を作る」
「そういう配置です」
沢田がファイルを閉じた。
四冊目のファイルにも三人の署名が並んだ。
五冊目のファイルを沢田が開いた。
顔写真の青年は日に焼けた肌に、がっしりとした体格をしていた。
目元に人懐こさが残っていた。
「丸山 健司」と書かれてあった。
「丸山健司くん、二十五歳、神奈川の出身」
沢田は資料を一枚めくった。
「高校を出て、関東の運送会社で七年勤務。働きながら独学でプログラミングを学んで、うちに転職してくる、という経歴です」
「運送会社ですか」
村瀬が頷いた。
「丸山くんの最終面接、私は立ち会えませんでした。沢田さん、教えていただけますか」
「ええ」
沢田はメモを開いた。
「『なぜ運送会社からITに?』と私が聞いたら、彼はこう答えました」
沢田の声に微かな笑みが混じった。
「『うちの運送会社の課長、機嫌で毎日、人を怒鳴ってたんっす。コーヒーカップを机にどん、って置いたら、その日、誰も話しかけられないんっす。俺、その課長を見ながらこう思ったんっす』」
「『俺、ああいう人には絶対ならない』」
遠野がふっと笑った。
「丸山くん、明るくはっきりそう言いました」
沢田は続けた。
「『で、IT業界なら、たぶん機嫌で人を動かす世界じゃなくて、コードで人を動かす世界なんじゃないか、って思ったんっす』」
「半分は合っていて、半分は間違っていますね」
村瀬が苦笑した。
「ええ。なかばは合っています」
遠野が言った。
「うちは機嫌で動かすマネージャーがまだ何人かいます。けれどコードで動かす世界を作ろうとしています」
「丸山くんをどこに置きますか」
沢田が聞いた。
「江口さんのチームB、葉山さんの隣ですね」
遠野が答えた。
「葉山さんと丸山さんを同じチームに置く、ということは」
「葉山さんが鋭く観察する側、丸山さんが軽く笑い飛ばす側」
遠野は指を二本立てた。
「二つの違うやり方が同じ江口さんのチームの中で並ぶ。これは葉山さんの精神衛生上、たぶん必要な配置です」
「丸山くんが軽く笑い飛ばすことで、葉山さんの『ぴくっと』が爆発しなくて済む、ということですね」
村瀬が頷いた。
「『軽く言う』ことが丸山くんの強さです」
沢田が言った。
「運送会社の課長を、丸山くんは軽く語ります。深刻に語らない。たぶんそれが丸山くんが運送会社で七年生き延びた技術です」
「その技術を葉山さんに半分移してもらいたい」
遠野が頷いた。
「丸山くんを江口さんのチームに置く。葉山さんの隣」
沢田が確認した。
「賛成」
村瀬が頷いた。
「賛成」
遠野が頷いた。
五冊目のファイルにも三人の署名が並んだ。
六冊目のファイルを沢田が開いた。
顔写真の女性は肩までの黒髪を後ろで結んでいた。
控えめな表情の奥に、しっかり何かを見ている目があった。
「杉本 結」と書かれてあった。
「杉本結さん、二十二歳、関東の出身、文学部史学科」
沢田は資料を一枚置いた。
「文学部、というのがまた」
村瀬が頷いた。
「うちの新卒で文学部の出身は、五年ぶりです」
沢田は過去のリストを開いた。
「最後の文学部出身は五年前。退職済み」
「杉本さんはなぜうちに?」
遠野が聞いた。
「『私、文学部出身なのですけれど、コードを読むのって、文章を読むのと、たぶん、似ているのではないかと思っています』と、最終面接で言いました」
「『コードを読むのと文章を読むのが似ている』」
村瀬が繰り返した。
「ええ。彼女は続けてこう言いました」
沢田はメモを開いた。
「『私はIT業界、未経験です。コードもほとんど書いたことがありません。けれど文章を丁寧に読む訓練は、四年してきました。文学部の卒論で、上田秋成の『雨月物語』の写本三系統を比較して、本文の異同を一行ずつ整理しました』」
「写本三系統」
遠野がふっと笑った。
「『写本ごとに同じ場面でも本文がほんの少し違うのです。その違いの場所を一つずつ特定して整理する作業が、たぶんコードの可読性を測る作業や、お客さんの言葉の異同を整理する作業と、近いのではないか、と私は思っています』と」
「これは面白い」
遠野がはっきり言った。
「彼女をどこに置きますか」
沢田は確認を求めた。
「パッケージ事業チームのサポート/QAチームですね」
遠野が答えた。
「QAですか」
村瀬が頷いた。
「QAはコードの可読性とドキュメントの可読性の両方が効く部署です。杉本さんの文学部の訓練が、たぶんぴたりとはまる」
「ただ、パッケージ事業チームのサポート/QAは、女性比率がまだ低いです」
沢田が指摘した。
「現在の同チームの女性は二名。そこに杉本さんが入ると三名」
「三名というのは十分ですか」
村瀬が聞いた。
「十分とは言えません」
沢田がはっきり答えた。
「ただ、二名から三名へ、というのは無視できない一歩です。先輩二人が杉本さんをしっかり迎えてくれるはずです」
「先輩二人、というのは」
「一人は主任の真鍋さん。QA一筋二十年の人です。もう一人は五年目の中堅で、両方とも機嫌が安定していて、後輩を育てる経験があります」
「いい配置です」
遠野が頷いた。
「杉本さんをサポート/QAチームに置く」
沢田が確認した。
「賛成」
「賛成」
六冊目のファイルにも三人の署名が並んだ。
六冊のファイルが机の上に並んだ。
すべてに署名が並んでいた。
沢田が眼鏡を外し、目を軽く揉んだ。
「これで六人、決まりましたね」
「決まりました」
村瀬が頷いた。
「沢田さん」
遠野が声をかけた。
「はい」
「いつもありがとうございます」
沢田が軽く笑った。
「いえ、これは私の仕事です」
短い間が空いた。
沢田がファイルを丁寧に重ね直した。
「私、人事をもう三十年やっています」
沢田がふと口を開いた。
「三十年ですか」
村瀬が改めて頷いた。
「最初は地元の機械メーカーで十年。それから三代目のヨキエル時代に人事の中途で来て、ここで二十年」
「二十年ですね」
「で、二十年、新卒採用の最終判定の夜に立ち会ってきました」
「二十回」
遠野がしみじみ言った。
「二十回」
沢田がふっと笑った。
「毎年思うのですけれど」
沢田が続けた。
「私の眼鏡は、二週間で曇るのです」
村瀬と遠野が同時に首を傾けた。
「曇る?」
「ええ、曇ります」
沢田は眼鏡を机の上に置いた。
「私が面接でその新卒の人を見て、配属を決めて、署名する。けれど配属の二週間後、その新卒の人が実際に現場で動き始めると、私の見立てはいつも半分くらい外れます」
「半分」
「半分です」
沢田がはっきり言った。
「私が『きっと合うはず』と思った配置が、合わないこともある。『たぶん苦しむだろう』と思った配置が、意外と合うこともある」
「人を見る、というのは難しいですね」
村瀬が頷いた。
「難しいです。三十年やっても難しい」
「だから現場のマネージャーに頼るのですね」
遠野が言った。
「ええ。私の眼鏡は二週間で曇る。だから現場のマネージャーが毎日その人を見続けてくれる、というのが、人事としていちばん有り難い」
「諏訪さん、藤村さん、田中さん、佐々木さん」
遠野が四人の名前を口の中で確認した。
「そして江口さんと大沢さんと牧野さん」
村瀬がその続きを引き受けた。
「江口さんの下に葉山さんと丸山さんを、大沢さんの下に黒木くんとアユシュくんを置きます」
遠野が頷いた。
「江口さんの『現場で決めて』が、葉山さんの『ぴくっと』を毎日発動させる」
「大沢さんの『機嫌の波』が、黒木くんとアユシュくんを毎日揺らす」
「牧野さんの『家族みたい』が、新卒全員にたぶん年に一度押し寄せる」
「三人の難しいマネージャー、というのは、彼ら自身が苦しんでいる人たちです」
遠野が静かに言った。
「私が、彼らとの定期の面談を続けます。少しずつ変えていく」
「ええ。私たちが十年で変えていきます」
村瀬が頷いた。
「十年」
「十年です」
村瀬は机の上の六冊のファイルを、一度見渡した。
「桐谷くんが三年目になる頃。葉山さんが自分の道を選ぶ頃。黒木くんがテックリードになる頃。アユシュくんが自分の研究をまた始める頃。丸山くんが課長になるかもしれない頃。杉本さんがQAから別の場所に移るかもしれない頃」
「彼らが三年目になる頃」
遠野が引き取った。
「そのとき、私たちは十年で何を変えていますか」
「私たちが十年で変えるのは」
村瀬がお茶の湯気を見つめた。
「ヨキエルを、家族みたいなチームではなく、責任を取れるチームに変える」
「『家族みたい』をなくす」
「なくす、というよりは、ちゃんと『家族とは違うもの』として組織を定義し直す。家族の安心感ではなく、責任を取り合う信頼関係の場所として」
「ええ」
遠野が頷いた。
「私の『半径3メートル』は、その十年の方針とたぶん繋がっています」
「繋がっていますね」
村瀬が頷いた。
「私の三年で、私も育つ。諏訪さんの言葉です」
遠野がもう一度その一行を繰り返した。
「私たちの十年で、私たちも育ちます」
村瀬がそれを引き受けた。
短い間が空いた。
応接室の蛍光灯が一度、薄くちかっと瞬いた。
窓の外の桜並木通りの蕾はまだ固かった。
けれどその固さの奥に、もう開花の気配が薄く漂っていた。
九時を回った。
沢田がファイルを鞄に丁寧に収めた。
三人で応接室を出た。
エレベーターのボタンを沢田が押した。
「私はこれから駅前で、軽く一杯いただきます」
沢田が軽く笑った。
「いつもの店ですか」
村瀬が聞いた。
「ええ。駅前の『たかし』。三十年通ってる店です」
「沢田さん、毎年この夜は『たかし』で一杯ですね」
「ええ、毎年です」
「いいですね」
遠野が微笑んだ。
「明日、私の妻が桜並木通りで写真を撮ると言っていました」
村瀬がふと言った。
「桜、咲きそうですか」
沢田が聞いた。
「来週には開くと妻が言っていました」
「来週には桜並木通りが桃色になりますね」
「ええ」
エレベーターが開いた。
三人で乗った。
階数のボタンを誰も押さなかった。
遠野が一階のボタンを押した。
「沢田さんは駅前ですか。私、駐車場まで車でお送りします」
「いえ、私は自転車で駅前まで行きます」
「自転車、寒くないですか」
村瀬が聞いた。
「寒いですが、いつもの夜の一杯への助走として、自転車を選んでいます」
沢田が軽く笑った。
「『助走』、いい言葉ですね」
遠野が頷いた。
一階に着いた。
三人でロビーに出た。
沢田は自転車置き場の方へ歩いていった。
村瀬は社用車の方へ歩いていった。運転手が車のドアを開けて待っていた。
遠野は駅と反対の方向、車を停めてある月極駐車場の方へ歩き始めた。
三人ともそれぞれの方角に別れていった。
遠野は桜並木通りをゆっくり歩いた。
夜の桜並木通りは、街灯の光に蕾の影がぽつぽつと揺れていた。
遠野の頭の中には、まだ六人の新卒の顔が並んでいた。
桐谷蒼太、葉山美月、黒木律、アユシュ・タパ、丸山健司、杉本結。
遠野はその六人の名前を、一人ずつもう一度口の中で唱えた。
唱えながら、十九年前の自分の中途入社の夜をふと思い出した。
あの夜、当時の人事の沢田と、まだ社長になる前の村瀬が、遠野の名前をこう、口の中で唱えてくれていたかもしれない。
遠野吉彦。
その名前を十九年前の人事の沢田と村瀬が信じてくれた、ということが、今の遠野のすべての判断の土台になっている。
十五分の運転で、自宅に着いた。車を降りて、遠野は二階の書斎の窓を見上げた。
書斎の窓の灯りはまだ灯っていなかった。妻はリビングで本を読んでいるはずだった。娘は東京の大学で独立していて、家には夫婦二人だけだった。
遠野は玄関の鍵を開けた。
その夜、遠野は書斎で二十四年前の自分の革表紙のノートを開いた。
最初のページには、「変革者になる」という若い字がある。その下に、後年書き足した一行があった。
「半径3メートルから、変えていく」
その一行を遠野はもう一度、自分の指でなぞった。
明日、桜並木通りの蕾が開き始める。
四月一日に、六人の新卒が入社してくる。
その六人の三年が、ここから始まる。
遠野はノートの新しいページにこう書いた。
「桐谷くん、葉山さん、黒木くん、アユシュくん、丸山くん、杉本さん。三年で土台を作る。私たちの十年でヨキエルを変える。半径3メートルから、それを進める」
書いてからノートを閉じた。
書斎の灯りを消した。
遠野の三月下旬の夜が、静かに深まっていった。




