断章Ⅳ「ある日のとんぼ、沼田寿の朝」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は港川市の居酒屋「とんぼ」の大将、沼田寿さんの視点で描かれています。蒼太の一年目の夏、八月のある日。
朝の四時半に目が覚めた。
目覚まし時計は鳴っていない。俺の体が四十年、毎朝四時半に起きる癖を覚えていた。
布団から出て、首をぐるりと回した。骨がぽきっと鳴った。最近よく鳴る。歳のせいだと思うことにしている。
雅代はもう起きている。
隣の布団は、もう畳まれていた。雅代はいつも四時に起きる。俺より三十分早い。台所のほうから、出汁の昆布の匂いが薄く立っていた。
台所に降りた。雅代が昆布の鍋の前に立っていた。俺はその隣でお湯を沸かした。
お茶を一杯飲んでから店の戸を開ける。それが俺の四十年の朝の癖。
お湯が沸いた。茶碗に深蒸しの茶葉を三つまみ入れて、お湯を注いだ。湯気が台所の蛍光灯の灯りにふわっと立ち上がった。
お茶を一口含んだ。
舌の上で苦みと甘みが薄く混ざった。
四十年、毎朝同じ味だった。けれど毎朝、少しずつ違う味でもある。茶葉が季節で変わる。水道の水も季節で変わる。俺の舌もたぶん四十年で変わってきている。
……同じことをしているつもりで、ほんとうは、毎朝少しずつ変えている。
俺はそう思いながら、茶碗をシンクに置いた。
台所の隅に自転車の鍵が掛かっていた。鍵を外して、ジャケットを羽織って、家の戸を開けた。
港川市の朝はまだ暗かった。
八月の朝はもうずいぶん明るいはず、と思っていたが、今日は雲が薄く空を覆っていた。
自転車に跨った。ペダルをぐっと踏んだ。膝が軽く痛んだ。
地元の市場まで自転車で十分。桜並木通りを横切った。葉桜の色が八月の今、深く緑になっていた。葉の影が街灯の薄い光にちらちらと揺れていた。
十年前、この通りに夜の街灯はもっと少なかった。市が五年前に街灯を増やした。駅前のIT会社が増えて、夜遅くに帰る人が増えたから、と市の人が説明していた。
俺は自転車を漕ぎながら、その十年の変化を頭の中で薄く撫でた。
昔は地元の自営業の親父さんたちと、地元の銀行員と、役所の人が街の主役だった。いまは駅前のIT会社の若い人たちが増えた。うちの「とんぼ」も、十年前は地元の親父さんたちの店だった。いまは地元の親父さんたちと若いIT会社員が、半々くらいで座っている。
それが悪いことなのかいいことなのか、俺にはまだ分からない。ただ変わってきている、ということは確かだった。
市場に着いた。自転車を立てて、店の中に入った。
地元の漁師の田所さんがこちらに手を振った。
「沼田さん、おはようさん」
「田所さん、おはよう。今日、何ある?」
「鯖、いいの入ってるよ。けど、ちょっと細いな。今年はどこも細い」
田所さんが氷の上の鯖を一本持ち上げた。
たしかに、去年より一回り細かった。
「海、変わってきとるんかね」
田所さんがぽつりと言った。
「変わってきとるんだろうな」
俺も短く返した。
四十年、田所さんから鯖を買ってきた。その鯖が、年々、少しずつ細くなっている。海の水温が変わった、潮の流れが変わった、と田所さんは言う。俺の煮魚の煮方は四十年同じだ。けれど魚のほうが、四十年で変わってきている。
……同じ煮方で、同じ味が出るとは限らない。
俺はそう思いながら、鯖を五本もらった。鱸も二本。目がしっかり澄んでいた。
「沼田さん、今日も自転車?」
「ええ、自転車」
「もう車にしてもいいんじゃない?」
田所さんがふっと笑った。
「車だと酒、飲めないからな」
「そりゃ、そうだ」
田所さんは領収書を書いてくれた。俺は自転車の後ろの籠に、鯖と鱸を丁寧に置いた。
八百屋で夏野菜を三種類。豆腐屋で絹ごしを二丁。米屋で新米の走りを五合。籠がちょうどいっぱいになった。
帰り道、もう一度桜並木通りを横切った。空が少しずつ明るくなっていた。
通りの向こうから、自転車の若い男が一人、走ってきた。すれ違いざま、顔に見覚えがあった。
……ああ、間宮さんだ。
間宮さんは自転車の上から軽く片手を上げた。俺も片手を上げた。間宮さんは駅の方向に消えていった。
間宮さんはうちの五年来の常連だった。最初に来てくれたのは、たしか二十代の終わり頃。当時はもう少し痩せていた。いまは三十二歳。少し肉がついて、ぬる燗の徳利を傾ける手が安定している。五年で、間宮さんも変わった。
最近の間宮さんは、桐谷くんという新卒の子を、何度かうちに連れてくる。観察ノートというのを書いている子らしい。
俺はその「観察ノート」という言葉を最初に聞いたとき、軽く笑った。
……研究者みたいだな。
けれど俺も、毎晩ノートを書いている。「振り返り」と俺は呼んでいる。観察ノートと振り返り。言い方は違う。けれどたぶん、似たようなものだった。
店に戻った。
雅代はまだ台所で、出汁を取っていた。昆布と鰹節の香りがふわっと漂っていた。
「おかえり」
「ただいま」
俺は買ってきたものを流しの脇に並べた。
「鯖五本、鱸二本、夏野菜、絹ごし、新米五合。鯖、今年は細いと」
「細いの」
「うん。海が変わってきとると、田所さんが」
雅代は鯖を一本手に取って、軽く曲げてみた。
「これは煮方、いつもより少し短めね」
雅代がぽつりと言った。
俺は手を止めた。
いつもの煮方は、中火で十二分。四十年、同じ十二分だった。
「短め?」
「ええ。身が薄い分、十二分だと締まりすぎる。たぶん十分」
雅代は鯖を置いて、また出汁に戻った。
俺は鯖をしばらく見た。
……四十年、十二分でやってきた。
十二分という数字は、俺の体に染み付いていた。包丁の動きと同じだった。考えなくても、手と火が勝手に十二分を測る。
その十二分を、今日、変えるかどうか。
俺は奥の事務机に座った。
机の上にA5判のノートが置いてあった。くすんだ茶色の表紙、角がぼろぼろになっている。三十年使ってきた俺のノート。正確には、これは五代目だった。四代までの古いノートは、奥の倉庫にしまってある。
ノートを開いた。昨日のページにこう書いてあった。
「八月十六日、煮魚六、刺身八、揚げ浸し五。銀行員のお客さん、出汁巻きを半分残された。塩、強かったかも」
俺はその一行を指で撫でた。
昨日の夜、雅代がその出汁巻きを見てこう言った。
「あの方、いつもならぜんぶ食べてくださるのに、今日はなかば。塩、変えてみる」
雅代はすでに塩を変えると決めていた。俺はそれをノートに書いただけだった。
……俺はいつも、雅代の変化を、ノートに書くだけだ。
ふと、そう思った。
塩を変えるのは雅代。煮方を短くするのも、雅代が言った。俺は四十年、十二分を守ってきた。守ることが、職人だと思ってきた。
守ること。
守ること、と、変えること。
その二つが、今朝の台所で、初めて、別々のものとして俺の前に並んだ。
九時に店の戸を開けた。お昼の営業は十一時半から。それまでの二時間半が仕込みだった。
今日の仕込みは煮魚から。
鯖を三枚におろした。包丁の動きは四十年、染み付いていた。手が勝手に動く。
鍋に湯を張った。醤油、味醂、酒、生姜。割合は四十年、同じ。
火にかけた。
いつもなら、ここで十二分。
俺は時計を見た。
……十分か、十二分か。
手は十二分を覚えている。けれど雅代は、今年の細い鯖には十分だと言った。
俺は四十年、自分の手を信じてきた。手が覚えている十二分を信じてきた。その十二分が、今年の鯖には長すぎるかもしれない、と雅代は言う。
俺は鍋の前で、しばらく立っていた。
火の音だけが、薄く台所に流れていた。
……十二分は、去年までの鯖の十二分だ。
今年の鯖は、今年の鯖だった。
俺は火を少し弱めた。そして、十分で、火を止めた。
四十年で初めて、煮魚の時間を、自分の意志で変えた。
胸の奥が、ほんの少しだけ、ざわついた。
十時頃、雅代がお茶を持ってきてくれた。玉露だった。朝は深蒸し、十時の休憩は玉露。それが雅代の癖だった。
二人でカウンターに座ってお茶を飲んだ。
「煮魚、十分にした」
俺はぽつりと言った。
雅代がこちらを見た。
「あなたが?」
「俺が」
雅代は少し驚いた顔をした。それから、ふっと笑った。
「四十年、十二分だったのに」
「四十年、十二分だった」
「いまさら、変えるの」
「いまさら、変える」
俺はお茶を含んだ。
「変えないのが、職人だと思ってた」
俺は続けた。
「魚も、客も、町も、四十年で変わった。変わらないのは俺の十二分だけだった。それが、ほんとうに正しいのかどうか」
雅代は黙って聞いていた。
「変えないことが、続けることだと思ってた」
俺はお茶碗をカウンターに置いた。
「けど、たぶん逆かもしれん。変え続けることが、続けることなのかもしれん」
雅代がゆっくり頷いた。
「あなた、三十年、毎月の終わりに私と振り返ってきたでしょう」
「ああ」
「あの料理がよく出た。あのお客さんが何を残された。だから次は、ここを変えてみる。三十年、毎月、少しずつ変えてきた」
「ああ」
「変えてきたから、続いてるのよ。変えなかったら、たぶんとっくに潰れてる」
雅代の言葉は、いつも突然、深かった。
……変えてきたから、続いている。
俺はその一行を、口の中で繰り返した。
三十年、振り返ってきた。振り返りは、変えるためにあった。振り返って、変える。変えるために、振り返る。その繰り返しが、三十年だった。
俺は、変えないことを誇りにしてきたつもりで、ほんとうは、毎月、変え続けてきたのだった。
「今年の鯖は、今年の鯖だ」
俺はぽつりと言った。
「ええ、今年の鯖」
雅代は立ち上がった。
「煮魚、見てくる」
雅代は台所に戻っていった。
俺は玉露の残りをゆっくり含んだ。
十一時半、暖簾を外に出した。
お昼の最初の客は倉田さんだった。いつも通り。
倉田さんは地元の金属加工の会社を長く率いた元社長で、六十代後半。うちの店ができる前からの知り合い、開店からの常連だった。月曜から金曜まで、ほぼ毎日、お昼を食べていく。土曜のお昼も、たいてい顔を出す。
倉田さんはいつもの奥の席に座って、新聞を広げた。
「沼田さん、こんちは。煮魚で」
「倉田さん、こんちは」
俺は煮魚定食を出した。十分で煮た、今年の鯖の煮魚。
倉田さんは新聞を読みながら、煮魚を口に運んだ。
ひと口、ふた口。
倉田さんがふと、新聞から目を上げた。
「沼田さん」
「はい」
「これ、煮方、変えたな」
俺は手を止めた。
四十年、客の前で、煮方を変えたとは一度も言ったことがない。けれど倉田さんは、ひと口で気づいた。
「……分かりますか」
「分かるわ。三十年、毎日食うとんやで」
倉田さんは煮魚をもうひと口食べた。
「身が、ふっくらしとる。去年までは、もうちょっと、締まっとった」
「今年の鯖が細いのです。十二分だと、締まりすぎると」
「ほう」
倉田さんは新聞を置いた。
「あんた、四十年、十二分やったやろ」
「四十年、十二分でした」
「それを、今年、変えたんか」
「変えました」
倉田さんは、ふん、と短く笑った。
「ええこっちゃ」
倉田さんは煮魚に戻った。
「わしの会社もな、わしが社長のうちに、何遍も変えたわ。金属の加工なんちゅうのは、機械が十年で変わる。客の求めるもんが変わる。変えへんかったら、あっという間に置いてかれる」
「会社も、そうですか」
「会社も、料理も、同じや。変えへんのを守りと言う奴がおるけど、ありゃ守りやない。ただの怠けや」
倉田さんは新聞越しに、ちらりと俺を見た。
「あんた、いま、怠けてへんかったということやな」
俺は、何も言えなかった。
倉田さんはそれだけ言って、また新聞に目を戻した。
……ただの怠け。
俺はその言葉を、頭の中で薄く撫でた。
四十年、十二分を守ってきた。それを誇りだと思ってきた。けれどそれは、たぶん、半分は、変えるのが怖かっただけだった。変えて失敗するのが怖くて、四十年、同じ十二分に隠れていた。
倉田さんは、それを、ひと口で見抜いた。
お昼のピークは十二時半に来た。
地元の親父さんの佐藤さんと中井さんが刺身定食。その隣に、駅前のIT会社員らしい若い男が二人、刺身定食。地元の親父さんと若いIT会社員が、隣り合わせで同じ刺身を食べていた。十年前にはなかった風景だった。
俺は煮魚の鍋を見ながら、その風景を目の端で撫でた。
……あの若い連中は、十年前のうちの店には、来なかった。
うちの店も、いつのまにか、変わっていた。地元の親父さんだけの店から、若い連中も座る店に。それは俺が変えたわけではない。町が変わって、客が変わって、うちの店も、自然に変わっていた。
変わらずにいたら、たぶん、地元の親父さんだけが歳をとって、店は静かに細っていった。
変わったから、続いている。
午後一時半、ピークが過ぎた。倉田さんはもう帰っていた。会計のとき、いつものひと言。
「沼田さん、また明日」
「また明日」
午後二時、店はほぼ空になった。雅代と二人で台所を片付けた。俺は奥の事務机に戻って、ノートを開いた。
今日のページにこう書き加えた。
「八月十七日、煮魚、四十年で初めて十分に。倉田さんがひと口で気づいた。『変えへんのは守りやない、ただの怠け』」
書きながら、俺は手を止めた。
俺の振り返りノートは、客の観察と、店の振り返りを書いてきた。雅代の手帳は、客の記憶を書いている。俺と雅代、夫婦の二つの目で店を見てきた。
けれど今日のノートには、初めて、俺自身のことが書いてあった。
倉田さんに見抜かれた、俺の怠け。四十年、変えるのが怖かったということ。
……ノートは、店を見る目だと思っていた。
俺はノートを撫でた。
ノートは、俺自身を見る目でもあった。三十年、店を振り返ってきたつもりで、ほんとうは、俺自身を、まだ一度も、ちゃんと振り返っていなかったのかもしれなかった。
午後三時、店の戸が開いた。
桐谷くんと、同期の葉山さんという女性の二人組だった。
「大将、女将さん、こんにちは」
「お、桐谷くん。お久しぶり」
「お昼、まだ間に合いますか」
「定食は二時で切ったんだけど、夏野菜の揚げ浸しと、ご飯と、味噌汁なら」
「ありがとうございます」
二人はカウンターに座った。雅代が揚げ浸しを温め直し、俺はご飯をよそった。
二人は揚げ浸しを食べながら、小さな声で話していた。会社の話らしかった。
「あの先輩、たぶん過去の失敗を振り返らない」
葉山さんがぽつりと言った。
「うん、振り返らない」
「だから同じ失敗がまた出る」
……振り返らない。
俺は、ご飯をよそいながら、その言葉を口の中で繰り返した。
振り返らない人は、変えられない。変えられない人は、同じ失敗を繰り返す。俺が今朝、十二分を十分に変えられたのは、三十年、振り返ってきたからだった。振り返るというのは、変えるための準備運動だった。
俺は二人の話に口をはさまなかった。ただご飯をよそい、味噌汁を出し、揚げ浸しを温めて出した。二人はご飯をぜんぶ食べた。
会計のとき、桐谷くんが言った。
「大将、揚げ浸し、おいしかったです」
「ありがとう」
「皆さん、振り返り、お好きなのですか」
葉山さんがふと聞いた。
俺は軽く笑った。
「横文字は苦手だけど、『振り返る』なら分かる。三十年、毎月女将と二人で振り返ってる。今月どの料理がよく出たか。誰が何を残されたか。それで、次の月ちょっと変える」
「変えるのですか」
桐谷くんが目を上げた。
「変える。今朝も、煮魚の煮方を四十年ぶりに変えた。倉田さんにひと口で見抜かれたよ」
俺は軽く笑った。
「振り返らないと、変えられない。変えられないと、たぶん三十年、続かない。それだけのことです」
「振り返らないと、変えられない」
桐谷くんがその一行を、口の中で繰り返した。
「俺の言葉、ノートに書きそうな顔してるね」
桐谷くんが顔を赤くした。
「書きます、たぶん」
「書いていいよ。俺の言葉、もう誰のものでもないから」
俺は笑った。二人は頭を下げて店を出ていった。
二人が出ていった後、雅代が台所から出てきた。
「あなた、桐谷くんに、いいこと言ったわね」
「いいこと?」
「『振り返らないと、変えられない』」
「ああ、それ」
「あれ、私もノートに書く」
雅代が笑った。
「お前の手帳、いまだに客の好みばっかり書いてると思ってたよ」
「最近は、私も自分の言葉を書くようになった」
雅代は、少し照れたように笑った。
「あなたの振り返りノート、二十年、横目で見てきたから」
「俺の?」
「ええ。あなたが変える人だから。私も、自分の言葉を書きたいと最近思うようになった」
「四十年結婚してきて、いまさら?」
俺は軽く笑った。
「四十年結婚してきて、いまさらです」
雅代も笑った。
夕方五時、夜の仕込みを始めた。
夜はお酒の客が増える。間宮さんがたぶん来る。一人かもしれないし、桐谷くんを連れてくるかもしれない。
俺は出汁巻きを焼く準備をした。
今日の出汁巻きは、塩を少し薄めにしている。昨日、銀行員の客がなかば残された理由が塩だったかもしれない、という雅代の判断だった。
けれど今日は、それだけではなかった。
俺は、自分でも、出汁の取り方を少しだけ変えた。昆布を引き上げる時間を、いつもより半分早めた。今年の夏は暑い。昆布の出汁が、いつもより濃く出る気がしていた。それは、雅代が言ったことではない。俺が、自分の舌で、そう感じたことだった。
四十年で二度目の、自分の意志の変化。
その判断が正しいかどうかは、今夜の客が教えてくれる。
夜七時、間宮さんが来た。今日は一人だった。
「間宮さん、いらっしゃい」
「沼田さん、こんばんは」
間宮さんはいつもの席に座って、鱸の刺身とぬる燗を頼んだ。
俺は鱸を薄く削いだ。雅代がぬる燗を用意した。
「沼田さん、桐谷くん、今日来ました?」
「来ました。葉山さんと二人で、お昼過ぎに」
「あの二人、いいコンビですよね」
「ええ、いいコンビです」
俺は出汁巻きを焼いて、間宮さんの前に出した。塩を薄め、出汁を変えた、今日の出汁巻き。
間宮さんがひと口、食べた。
「これ」
間宮さんが顔を上げた。
「いつもより、出汁がすっきりしてますね。夏に合う」
俺は、内心で、ほっとした。
雅代の塩の判断と、俺の出汁の判断。二つの変化が、間宮さんのひと言で、当たったと分かった。
「実は、今日少し変えました」
俺はぽつりと言った。
「変えたのですか」
「ええ。塩を薄めて、出汁を夏向けに」
「四十年やってる店でも、変えるのですね」
間宮さんが感心したように言った。
「四十年やってるから、変えるのです」
俺はそう答えてから、自分の言葉に、少し驚いた。
四十年やってるから、変える。
四十年のあいだ、同じ味を出してきたから、ほんの少しの違いが、自分でも分かる。今年の鯖が細い。今年の夏が暑い。銀行員の客が、いつもとは違う残し方をした。その小さな違いが、四十年の蓄積の上で、はっきり見える。
変えるためには、四十年、変えずに積んできた土台が、要るのだった。
間宮さんはぬる燗をもう一口含んだ。
「沼田さんもノート、書いてるって、桐谷くんから聞きました」
「ええ。三十年、毎日。客の様子、料理の出来、月の振り返り」
「桐谷くんのノートと、同じ温度ですね」
「同じ温度かもしれませんね」
「今度、桐谷くんに教えてあげてください。『俺も三十年書いてる、そして今日、煮方を変えた』って」
間宮さんがふっと笑った。
「桐谷くん、たぶん励みになります。観察するだけじゃなくて、観察したら変えるんだよ、って」
俺は軽く頷いた。
「機会があれば」
「いつでも機会あります。あの子、これから何度も来ます。十年来てくれたら嬉しいです、沼田さんと女将さん」
「十年」
俺はその「十年」を口の中で繰り返した。
桐谷くんが十年、うちに通う。その十年で、桐谷くんは三十二歳になる。間宮さんは四十二歳。俺と雅代は七十二歳になる。
……七十八歳まで、店、続いてるかな。
俺は心の中で、軽く笑った。
続けたいと思った。
ただし、今日の俺が分かったのは、続けるというのは、同じことを続けることではない、ということだった。十年のあいだ、魚は変わる。町は変わる。客は変わる。俺の舌も、膝も、変わる。その変化に合わせて、毎年、毎月、煮方を変え、出汁を変え、塩を変えていく。変え続けることが、続けることだった。
七十八歳の俺は、たぶん、今日とは違う煮方をしている。それでいい。それが、続けるということだった。
間宮さんは九時に帰った。その夜、客は間宮さんを入れて十三人。出汁巻きを頼んだのは四人。四人ともぜんぶ食べてくれた。
雅代がにっと笑った。
「塩も、出汁も、当たったわね」
「当たったな」
俺も軽く笑った。
夜十時半、店を閉めた。暖簾をしまった。台所を雅代と二人で片付けた。雅代がお湯を沸かして、夜のお茶を淹れてくれた。
二人でカウンターに座ってお茶を飲んだ。
「今日、どうだった」
雅代が聞いた。
「上々。今日は、いい日だった」
「いい日?」
「四十年で初めて、煮方を自分で変えた日だ」
俺はお茶を含んだ。
「倉田さんに、見抜かれた。『変えへんのは怠けや』って」
「倉田さん、相変わらず鋭いわね」
「鋭い。けど、ありがたい」
俺は、ぽつりと言った。
雅代が、ノートと手帳を、それぞれ持ってきた。
「あなた、ノート書く?」
「書く。お前は、手帳か」
「私は、手帳。今日は、自分の言葉、書く」
「書け」
俺は奥の事務机でノートを開いた。雅代は台所の隅で手帳を開いた。別々の場所で、別々のものを書いた。
俺は今日のページにこう書いた。
「八月十七日。煮魚、四十年で初めて十分に。出汁巻き、塩薄め、出汁を夏向けに。間宮さん『夏に合う』。四人とも完食。倉田さん『変えへんのは守りやない、ただの怠け』。桐谷・葉山、揚げ浸し。葉山さん『振り返らないから、同じ失敗がまた出る』」
書き終えて、いちばん最後の余白に、もう一行、書き足した。
「変えないことが、続けることだと思ってた。違った。変え続けることが、続けることだった」
その一行を、俺は、長く、見つめた。
三十年、ノートに店のことを書いてきた。今日、初めて、店ではなく、俺自身のことを書いた。
ノートを閉じた。
寝る前、布団に入った。雅代はまだ手帳を書いていた。台所の灯りの下で、ペンが、ゆっくり、動いていた。
俺は目を閉じた。
外、夏の夜風が店の戸の隙間から薄く入ってきた。港川市の夜が静かに深まっていった。
明日も四時半に起きる。市場に自転車で行く。鯖を買う。けれど明日の鯖は、明日の鯖だ。細いかもしれないし、太いかもしれない。明日の煮方は、明日の鯖が決める。十分かもしれないし、十一分かもしれない。
四十年、同じ朝を続けてきた。けれど、同じ朝など、一度もなかった。
毎朝、少しずつ、変えてきた。だから、続いてきた。
……明日も、変える。
俺はそう思って、目を閉じた。
そしてたぶん、十年、変え続ける。桐谷くんが十年、うちに通うまで。
俺はそう信じて眠った。




