断章Ⅰ「村瀬正之の朝」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、村瀬正之社長の視点で描かれています。蒼太たちが入社する、四月一日の、朝の話です。
※ 時系列:第1話と同日の早朝、入社式の朝。
四月一日、月曜日、午前七時。
社長室。
三階の廊下の突き当たり、ヨキエルのビルのいちばん奥の部屋。
他の社員がまだ出社していない、静かな朝のフロア。
私はすでに、自分の机の前に座っていた。机の上には、薄いクリアファイルが六つ、並んでいた。今年の新卒入社、六名のプロフィール、だった。
私は毎年、新卒入社の朝、誰よりも早く出社して、社長室で新卒一人ずつのプロフィールを、もう一度読み返す習慣を続けていた。
四代目に就任して、六年目。
毎年、四月一日のこの時間が、いちばん私の中で緊張する。
最初のファイルを開いた。
「葉山 美月、二十二歳、関東の私立大学、情報系の学部、卒業」
葉山さんの写真は、まっすぐ、こちらを向いていた。きつめに見える目元、しかし奥に、静かな芯のある視線。
私は、葉山さんの最終面接のことを思い出した。
葉山さんは最終面接でこう言った。
「東京の大手企業の内定を辞退してヨキエルを選びました」
その一言を聞いた瞬間、私は、葉山さんに興味を持った。
「なぜ、辞退されたのですか」
私は聞いた。
葉山さんはしばらく考えてからこう答えた。
「『家族みたいな会社』と言う会社を、私は信じないことにしました」
……「家族みたいな会社」と言う会社を、信じない。
私は、その葉山さんの言葉に、深く頷いた。
ヨキエルは、地方のIT中小企業、だった。けれど私は社員九十五名、今日からは百一名となるこの会社を、「家族みたいな会社」とは呼ばない。代わりに「責任をお互いに果たし合う、会社」と呼ぶ。
葉山さんが、その違いを就活の中で感じ取って、ヨキエルを選んでくれた。それが私には嬉しかった。
次のファイル。
「桐谷 蒼太、二十二歳、地元の県立大学、情報科学部、卒業」
桐谷くんの写真は、葉山さんと違って、少しだけ控えめな目線、だった。けれど奥に何か、観察するような視線があった。
桐谷くんの最終面接のことも、思い出した。
桐谷くんは、自分の強みについて、こう話した。
「観察することは、得意だと思います。ただ、観察したものをどう行動に繋げるかが、まだよく分かっていません」
……観察ということを、自分の言葉で選ぶ新卒。
私はその時、桐谷くんにこう言った。
「観察は、それ自体が行動です。観察し続けることが、いちばん難しい行動の一つです」
桐谷くんは、しばらく黙って、それから軽く頷いた。
次のファイル、黒木 律。県内の高専卒、十九歳。
次、アユシュ・タパ。ネパール出身、二十四歳、修士課程、修了。
次、丸山 健司。前職、運送ドライバー、独学でエンジニア、二十五歳。
最後、杉本 結。文学部、史学科、卒、二十二歳。
六人、それぞれ、面接で印象に残ったことがあった。
六枚のファイルを机に並べたまま、私は、しばらく彼らの写真を見ていた。
……今年の新卒、面白い組み合わせ、だ。
胸の内で、つぶやいた。
「面白い」というのは、選考担当の人事の沢田と、CTOの遠野、それから各部のマネージャーが頑張って選び抜いた結果として、面白い、ということだった。
最終面接で迷った候補者も何人かいた。けれど私と遠野は毎年、最終面接の後、二人で話し合って決めていた。
今年、私は遠野にこう言った。
「桐谷くんは、たぶんヨキエルの芯になる人になると思う」
遠野は笑ってこう答えた。
「私も同じ印象です。ただ、彼が芯になるまでに、私たちが彼をちゃんと守れるかどうか。それが問われると思います」
……守れるかどうか。
遠野の言葉は、いつも、深かった。
ファイルを閉じた。
窓の外を見た。
四月一日、朝の桜並木通り。私の社長室の窓からは、桜並木通りの終端が見えた。桜はまだ蕾、だけれど、枝のあちこちに、薄桃色の気配がある。
……今年も、桜が咲くね。
胸の内で、そう思った。
私はヨキエルに新卒で入った。今年で、四十二年に、なる。
新卒で入ってエンジニアから始めて、営業をやって、経理をやって、人事をやって、バックオフィスのほとんどを経験して、五年前、四代目として社長に就任した。
四代目の就任、引き受ける時、私は迷った。
ヨキエルの創業者の初代と、二代目、三代目は、皆、創業者の家族、だった。家族経営、特有の温かさと、しかし限界を抱えた会社、だった。
四代目として私を指名すると、当時の三代目から提案を受けた時、私は二週間、悩んだ。
社長になることは、責任。
その責任を本当に自分が果たせるか、私には自信がなかった。
私の妻に相談した。
妻は笑ってこう言った。
「あなた、この会社で四十年も働いて、どこの部署も知ってるでしょう。あなたが社長にならないで、誰がなるの」
その一言で、私は決めた。
社長に就任して六年目、毎年、私は自分が責任を果たせているか、自問していた。
売上、利益、解約率、新規顧客、それぞれの数字はそこそこ改善している。けれど数字だけが責任ではない。
机の端には、もう一つ、薄い資料が置いてあった。滝口が昨日の夕方に置いていった、月次の財務資料だった。付箋が一枚、貼ってある。「入社式の朝に数字の話は無粋ですので、お時間のある時に」。数字の人は、数字を出す時機まで計っている。私は付箋の下の一枚目だけをめくって、また閉じた。今朝は、六つのファイルの方が先だった。
三年前の秋に柳沢を、一昨年の春に滝口を、外から迎えた。守りの目と、数字の目。生え抜きの私に足りないものを、遠野が一つずつ、外から連れてきてくれた。今日の入社式には、二人とも列席してくれる。新卒たちの目に、あの二人がどう映るのか。それも少しだけ、楽しみだった。
社員九十五名、今日からは新卒六名を迎えて百一名。それぞれの人生にヨキエルが関わっている。その関わりを私が、どこまで責任を持って形作れるか。
……新卒の三年で土台を作る、それが私たちの責任。
最終面接で、私が毎年、新卒に伝える言葉。
その「私たちの責任」の、私たち、には、社長の私も含まれる。
午前七時、半。
ヨキエルのビルの玄関を開ける音が、聞こえた。
たぶん遠野、だった。遠野は平日、私とほぼ同じ時間に出社する。
私は社長室を出て、エレベーターホールに向かった。
遠野が、エレベーターから降りてきた。
「遠野さん、おはよう」
「社長、おはようございます」
遠野は、いつもの白いシャツに、グレーのスラックス。
「いよいよ今日、新卒が入社ですね」
「はい、楽しみです」
遠野は軽く笑った。
二人で給湯室に向かって歩いた。
「社長、今日何を話されますか」
遠野が聞いた。
「いつものことを話す。ヨキエルは完璧な組織じゃない。良いところも悪いところも両方ある。新卒には、その違いを見抜いてほしい」
「いいメッセージです」
「遠野さんは」
「私は、いつもの三つの言葉です。半径3メートル、両輪、観察」
……「観察」。
最終面接で桐谷くんが、自分の強みとして選んだ言葉と同じだった。
「遠野さんが桐谷くんに、自分と同じ言葉を伝えることになる」
「面白い巡り合わせです」
遠野は、軽く頷いた。
二人でコーヒーを淹れた。
「遠野さん、彼らはちゃんと育つと思う?」
「育つかどうかは、彼ら次第です。私たちにできるのは、育つ環境を用意することだけです」
「環境は、用意できてると思う?」
「八割は用意できていて、二割が、まだ足りていません」
遠野の答え方は、いつも、はっきりしていた。
「二割、というのは」
「マネージャーの機嫌の安定です。だから、この四月から各部のマネージャー研修を強化します。先月、社長にご相談した件です」
「ああ、覚えてる」
私は頷いた。
マネージャー研修の強化、というのは、遠野が半年前から提案していた、施策、だった。江口、大沢、牧野、それぞれ、機嫌の波が激しいと、遠野は、判断していた。私も同感、だった。
今年の四月から、月一回、マネージャー全員に外部の講師による研修を受けてもらう。
「マネージャーは、抵抗するかもしれないですね」
「すでに何人か不満を出していますが、社長の後押しで続けられそうです」
「私の後押し、ね」
私は軽く笑った。
「遠野さん、四月一日に入る新卒のために、半年でマネージャーを変えてくれると、信じてます」
「最善を尽くします」
遠野の答えは、いつも控えめ、だった。けれど控えめさの奥に、確かな決意があった。
私と遠野は、十九年の関係。
遠野がヨキエルに最初に来る前、別の会社で変革をしようとして、潰れかけたことがあったと、本人から聞いていた。二十二年前の話、だった。
遠野は、潰れかけた経験から、「半径3メートル」という、自分の変革の軸を見つけた。ヨキエルに最初に来てから、東京で別の場所も歩き、そしてまた戻ってきた。その軸で、最初の七年と再入社後の三年、ゆっくりと確実に組織を変えてきた。
私が四代目として社長になれたのは、遠野の地ならしがあったから、だった。
……今日、新卒たちに、遠野の積み重ねを伝えたい。
胸の内で、そう思った。
でもそれは、たぶん伝えない方がいい。
新卒たちはこれから三年、ヨキエルで自分の目で観察する。その観察の結果、遠野の積み重ねが、彼らの目に自然に映ってくるはずだった。
給湯室から自分の社長室に戻る廊下。
遠野と軽く頷き合って別れた。
社長室の机に戻った。
六枚のファイルをもう一度見た。
葉山美月、桐谷蒼太、黒木律、アユシュ・タパ、丸山健司、杉本結。
……三年。
胸の内で、つぶやいた。
三年で、彼らに何を託すか。
答えはまだはっきりしていない。けれどひとつだけ、決まっていた。
彼らが三年後、ヨキエルに残るか、別の会社に移るか、それは彼らの選択。私はそのどちらの選択も応援する。
四代目の社長として、私の責任は、彼らが三年で自分の選択をできるように土台を作ること。
それだけだ。
午前八時。
もうすぐ社員が出社し始める時間。
私はファイルを机の引き出しにしまった。
代わりに入社式で読むメモを、机の上に置いた。
メモにはこう書いてあった。
「皆さん、ヨキエルへ、ようこそ。うちは、地方の小さな会社です。これまで社員九十五名でしたが、本日、皆さん六名を迎えて、百一名となりました。創業五十五年。私は、四代目の社長で就任して六年目です」
書いた私の字が、いつもより、少しだけ緊張していた。
……毎年、緊張する。
そう、口の中でつぶやいた。
四十二年を回顧する。新卒で入って、エンジニア、営業、経理、人事、バックオフィスのほとんど。そして四代目、六年目。それでも毎年、新卒入社の朝、私は緊張する。
そしてたぶん、これからも続ける。
窓の外、桜並木通りの桜の蕾が、朝の光にほんのり、薄桃色に染まっていた。
……今日、彼らが、入ってくる。
胸の内で、そうつぶやいた。
私は椅子から立ち上がった。
三階の社長室の扉を開けた。
大会議室の入社式の会場まで、ゆっくり歩き始めた。




