エピローグ「春の予感」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
年が明けて、三月の最終、土曜日の午後。
港川市は桜が咲き始めていた。
桜並木通りの桜の蕾は、もう半分開いていた。あと二、三日で満開と、地元のニュースは伝えていた。
ヨキエルでの一年が終わろうとしていた。
年明けから三月まで、業務はいつものリズムで進んだ。白瀬さんからのレビューは、毎回十件前後。新しい指摘は毎回、二件か三件、来る。けれどもう最初の頃のショックはない。代わりに毎回「あ、それ、考えてなかった、ありがとうございます」と、ちゃんと受け止められるようになっていた。
諏訪マネージャーとの月一の1on1も、続いていた。
「Effective Java」、読み終わった。「Spring 徹底入門」、もう少しで読み終わる。
寮の勉強会も、月に二回、続いていた。基本情報は、受けた四人とも、年度内に受かった。二月の回では、アユシュさんが機械学習の入門を、英語まじりの日本語で話してくれた。
僕の机には、応用情報のテキストが積んである。試験は、四月の半ば。朝の三十分だけページを進めるのが、癖になってきた。命じられた試験で、自分のために受ける試験だった。
黒木の組込みチームの金魚一号は、年明けに寿命を迎えてお墓に入った。寮の共用ラウンジで、黒木がぽつりとこう言った。「金魚、半年で寿命だった」と。「金魚二号、買おうか、迷ってる」と、続けた。
葉山さんは、まだ「美月ちゃん」と呼ばれていた。けれど、ぴくっとの数は二月、三月と少しずつ減ってきたらしい。「慣れた、というより、対処の引き出しが増えた。あと、数えてるの、私だけじゃなくなったし」と、葉山さんは笑った。
アユシュさんは二月に、東京の機械学習の勉強会に自分で応募して参加していた。「Yokielは、続ける、けど、東京のコミュニティと繋がっておきたい」と、嬉しそうに報告してくれた。
丸山くんは相変わらず「っす」で明るかった。「桐谷さん、二年目、よろしく、っす」と、廊下ですれ違うたびに言ってきた。
杉本さんはパッケージ事業チームでサポート/QAの業務、安定して進めていた。「文学部の文章を読み解く力、地味に効いてます」と、お昼休みに笑った。
早川とのLINEは、続いていた。三月のはじめ、川沿いの土手の写真が送られてきた。桜の枝の先に、固い蕾が写っていた。こっちも、もうすぐ咲きそう、と一行だけ添えられていた。早川は早川のペースで、ゆっくり歩いている。
間宮先輩、月に二回くらい、「とんぼ」でお昼をご一緒していた。沼田夫婦も僕のことを覚えてくれて、店に行くといつも笑顔で迎えてくれた。
白瀬さんとは業務以外でも、たまに廊下で軽く写真の話をするようになった。僕は結局、十二月の賞与で安いミラーレスのカメラを買った。白瀬さんに相談したら、メーカーとレンズの組み合わせを丁寧に教えてくれた。
諏訪マネージャーは変わらず、本物のマネージャーだった。
四月の頭で、新卒が入ってくると聞いていた。
今年の新卒は五人、入るらしい。チームAにもたぶん一人、配属される。
「桐谷くん、来年度、後輩の相談に乗ってあげてね」
諏訪マネージャーから最後の1on1で、こう言われていた。
……後輩。
その言葉を、胸の内でなぞった。
一年前の今頃、僕は特急に揺られて港川市に向かっていた。降りた駅前の文具店でノートを買って、その夜、明日から観察を始めると書いた。
一年で、僕は後輩の相談に乗る立場になった。
今日、午後、僕は城跡公園に来ていた。
ノートをリュックに入れて、桜並木通りを歩いて、城跡公園の土塁に上った。
ベンチに座った。
お堀の跡、土塁、街を見下ろした。
去年の五月晴れの土曜日にも、僕はここに来ていた。あの時は、二ヶ月分のノートを最初から最後まで、読み返した。
あの日のノートには、できるようになったことを五行、書いた。jenv。ブランチ。テスト。質問の返し方。レビューの数の数え方。
一年経った今、数えてみると、五行ではもう足りなかった。設計書を読める。手順書の意味が分かる。本番に乗せた機能が三つ。障害をひとつ、先輩たちとくぐった。レビューのコメントは、二十二件から始まって、いまは十件前後まで減った。資格の勉強を、自分の意志でもう一度始めた。
一年前にゼロだったものが、並んでいる。並べてみて、初めて分かる増え方だった。積み上がったものは、まだ細い。でも、去年よりは確かに、太い。
今、僕はこの街の桜が、もうすぐ満開になるところを見ている。
一年前、僕はまだ咲いていない桜の蕾を見ていた。
ふと空を見上げた。
四方の山に囲まれた盆地の空が、ぐるりと青かった。山のあちこちで桜が咲き始めていた。
視線を、街の方に下ろした。
遠くに桜並木通りの入り口が見えた。
その通りを、若い男性が一人、歩いていた。
背は僕と同じくらい。スーツケースを引いていた。スーツにまだ着慣れていない感じが、遠目にも伝わった。
……あ。
僕は、止まった。
たぶん、新卒だった。
今日は三月の最終、土曜日。三日後の火曜日が入社式。寮への引っ越しを一足早くする新卒なのかもしれない。
あの男性はたぶん、今夜寮の自分の部屋で荷物を片付ける。日曜と月曜で少し休んで、火曜日、ヨキエルに出社する。
……一年前の僕。
胸の内で、つぶやいた。
あの人の鞄の中に、ノートはあるだろうか。なくてもいい。書きたくなる日が来たら、駅前の文具店が、夜まで開いている。
あの男性がこれから何を見つめるのか、僕には分からない。
でも、たぶん彼にも何か、ノートに書きたいことが出てくる。
彼の半径3メートルが、これからヨキエルの三階のフロアに形作られる。彼のぴくっとする瞬間、彼の綺麗を見つける瞬間、彼の本物の人と出会う瞬間、彼にも来る。
……僕、来年度、後輩の相談に乗る。
諏訪マネージャーの言葉が、心の中でもう一度響いた。
あの新卒がもしチームAに配属されたら、白瀬さんから、二十二件より少し減ったレビューをもらうだろう。なぜなら、白瀬さんはたぶん僕の最初のPRから学んで、新人へのレビューの書き方をほんの少しだけ調整してくれているはずだから。
諏訪マネージャーから最初の1on1で、三つの期待を聞かされる。「君の三年で、私も、育つ」と、言ってもらえる。
あの新卒もたぶん、僕と似た道をたどる。
でも、まったく同じ道ではない。彼は彼の観察をする。僕のノートと似た、けれど違うノートを書く。
……それも、観察。
ベンチから立ち上がった。
リュックからノートを出した。
一年分の観察が書かれたノート。一年前の春、駅前の文具店で買った、A5サイズの淡いグレーの表紙のノート。
最初のページを開いた。
「明日から観察を始める」
一年前の自分の文字。なんだか少し、緊張している字だった。
そこから、ゆっくりページをめくっていった。
四月。同期六人と四人のマネージャーと、チームAの先輩たちの、第一印象。「赤坂先輩、優しい人」という行の下に、別の日の字で「でも、何かが引っかかる」。あの引っかかりの答えは、白瀬さんの二十二件のレビューだった。
五月。「先輩には、二種類いる」。
六月。諏訪さんの三つの期待。「君の三年で、私も、育つ」。勉強会で聞いた、遠野CTOの二つの倫理。
七月。初めての本番障害。とんぼの暖簾と、間宮先輩の二つの構造。
八月。夏祭り。浴衣の葉山さんの「私、今楽しい」。
十一月。「今度は、取らされて終わりに、しない」と書いた夜。古川さんの褪せた本棚と、白瀬さんの「怖いから、続けてる」。
十二月。とんぼの、二人の料理人。Bの店。「学び続けることを、自分の仕事の中に、置くこと」。
一月。折れた友。葉山さんの、八十二回の正の字。縦の網と、横の網。観察の、二つの使い道。
そして、三月。早川から届いた、川沿いの蕾の写真。
……一年、ぜんぶ、ここに、ある。
そう、口の中でつぶやいた。
最後の書き込みの下に、少しだけ余白が残っていた。
ペンを取って、その余白に一行、書いた。
一年、ありがとう。
誰にありがとう、なのかは、自分でもうまく言えなかった。観察させてくれた人たちに。観察を続けた自分に。たぶん、その両方に。
ノートを閉じた。
ノートをリュックに戻した。
……もうすぐ、新しいノートが始まる。
二年目の観察を始める。
城跡公園の土塁を降りた。
桜並木通りを戻る道。
桜の蕾がなかば、開いていた。風が吹くと、ふわっと薄桃色の気配が、空気の中に広がった。
通りの向こう、新卒らしい男性はもう見えなかった。たぶん寮の方に向かって歩いていったのだろう。
明日、もし彼とラウンジで会ったら、自分から声をかけよう。
……僕から、声をかけよう。
胸の内で、はっきりそう決めた。
一年前の僕は、ラウンジで誰かを見つけても、向こうから声をかけられるまで自分のドリンクを見ていた。観察する側に、ずっと座っていた。
でも、二年目の僕は、自分から声をかける。
「先輩らしい何か」は、まだ言えない。何を話せばいいのかも、まだ分からない。それでも、自分から、軽く挨拶する。
観察するだけの一年は、今日で終わる。ノートに書いたとおり、観察には二つの使い道がある。二年目は、観察の半分を、隣の誰かのために使う。
「先輩」と、彼は僕を呼ぶかもしれない。
……「先輩」。
その言葉を、自分自身に当てはめてみた。
まだ、しっくり来ない。
でも、研修を終えた彼が四月の末にフロアへ来る頃には、たぶんしっくり来るようになっているはずだった。
寮の近くの桜並木通りの入り口に来た。
空を見上げた。
四方の山に囲まれた、盆地の空。
ヨキエルでの二年目が、もうすぐ始まる。
……二年目、仕事の質を見る。
その言葉の意味を、これから一年で、僕は自分の目で確かめてノートに書く。
今日、桜並木通りの入り口で、僕は確かにその予感を感じていた。
春の予感、というより、僕の二年目の予感だった。
風が吹いた。
桜の蕾がふわっと揺れた。
僕は寮への道を、自分の足で歩き始めた。




