第31話「葉山の冬」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
一月の、下旬。
早川のことは、まだ、僕の中に残っていた。あれから、何度か、LINEを送った。返事は遅いけれど、ちゃんと、返ってきた。少しずつ、起きられる時間が、増えているらしかった。
線の、すぐ向こう側。早川は、そこにいた。
だとしたら、僕の半径3メートルの中にも、似た線の近くにいる人がいるかもしれない。
そう思うようになってから、僕は同期のことを、前よりよく見るようになっていた。
その目に、最初に留まったのが、葉山さんだった。
昼休み、社員食堂で、葉山さんと丸山くんと三人になった。
葉山さんは、いつものように、よく喋った。口角は、きちんと上がっていた。
けれど、笑い方が、いつもより少しだけ硬かった。
……ぴくっと。
心の中で、その言葉が浮かんだ。葉山さんが、いつも使う言葉だった。違和感を覚えた瞬間に、心がぴくっとする。それを、葉山さんはノートに数えている。僕の観察ノートと、似たやり方だった。
いまのは、僕のほうの、ぴくっとだった。
葉山さんの笑顔のその奥に、何かが、薄く張りつめていた。
「葉山さん、最近忙しい?」
丸山くんが、無邪気に聞いた。
「うん、まあ。年明けから立て込んでて」
葉山さんは、軽く流した。それ以上は、言わなかった。流し方が、うますぎた。
午後、チームBのフロアの前を、たまたま通った。
ちょうど、チームBの小さな打ち合わせが、終わったところだった。
葉山さんが、江口マネージャーに何かを提案していた。画面を見せながら、手順を、説明していた。
江口さんは、ほとんど、画面を見なかった。
「ああ、うん。それ現場で決めていいよ」
江口さんは、それだけ言って、自分の席に戻っていった。葉山さんの提案が、いいのか、よくないのか。何も、言わなかった。判断を、しなかった。ただ、葉山さんに、預けた。
四月から、ずっと、そうだった。江口さんは、「現場で決めて」と言って、丸投げをする。1on1は、月に一度、形だけ。葉山さんが何を抱えているか、たぶん、見ていない。
通りすがりに聞こえた言葉から、提案の中身は、なんとなく分かった。チームの決まりごとや手順を、Confluenceに少しずつ書き出して整理しましょう、という話だった。葉山さんが四月から自分の型で書き続けてきた議事録の、その先にある提案だった。
いい提案だ、と廊下の僕でも思った。判断されなかった提案は、いい提案のまま、宙に浮いた。
入れ違いに、中堅の沢田さんが、葉山さんに声をかけた。
「美月ちゃん、さっきの議事録お願いね。あと、この資料もまとめといて。美月ちゃん、そういうの得意でしょ」
「……はい」
葉山さんは、口角を上げて、引き受けた。
美月ちゃん、と、沢田さんは言った。葉山さん、ではなく。
葉山さんの提案には、誰も、判断を返さない。けれど、議事録と資料の整理は、当然のように葉山さんに回ってくる。
葉山さんが、僕の視線に気づいて、こちらを向いた。目が、合った。
葉山さんは、ほんの少しだけ、肩をすくめてみせた。困ったというより、慣れた、という仕草だった。それがかえって、僕の中のぴくっとを、ひとつ増やした。
……美月ちゃん。
その夜、寮への道で、その呼び方を思い返していた。
葉山さんは、いつか、言っていた。卒業論文のテーマが、女性のエンジニアが育つ環境の話だった、と。東京のSaaS企業と地方のIT企業で、女性が、どう育てられるか。その差を、調べたらしい。
葉山さんは、たぶん、ずっと前から観察してきた人だった。自分が、女性として、どう扱われるか。提案は流され、雑務は回され、名前は「美月ちゃん」になる。そのひとつひとつを、ぴくっと、と数えながら。
それは、僕には、見えていなかった景色だった。
卒論で調べて、知っていたはずの景色の中に、自分が立っている。知っていることと、立たされることは、違う。葉山さんはいま、自分の研究の対象を、内側から生きている。
その週末、寮の共用ラウンジに、夜遅く降りていった。
葉山さんが、電子ピアノの近くのソファに、一人で座っていた。
膝の上に、小さなノートが、開かれていた。表紙に、何も書かれていない、薄いグレーのノート。僕のと、よく似ていた。
葉山さんは、僕に気づくと、少しだけ笑った。いつもの、口角の上がった笑いではなかった。もっと、疲れた、薄い笑いだった。
「ぴくっとの?」
僕が聞くと、葉山さんは、うなずいた。
「今月の集計してた」
「何回?」
「八十二回」
葉山さんは、ページを見せた。日付の横に、正の字が、並んでいた。先月より、ずいぶん、多かった。
「先月は、七十八回だったの。その前は、七十四回。……増えてる。ずっと右肩上がり」
葉山さんは、ノートを、膝に置いた。
「ときどき、わからなくなる」
声が、少し、低くなった。
「東京を離れたの、間違いだったのかな、って。お母さんが毎朝LINEしてくる。だいじょうぶ? って。兄は地方なんかに行って、って、たぶん思ってる。……私、何のためにここまで来たんだっけ、って」
葉山さんは、ノートの表紙を、指でなぞった。窓の外の、暗い桜並木通りを、見ていた。
いつも鋭くて決断力のある葉山さんが、その夜は、少しだけほどけて見えた。
僕はすぐには何も言えなかった。
早川のことが、頭をよぎった。
迷いを言葉にできず、一人で抱えて走り続けて、折れた友。
僕は思い切って、話してみた。
「葉山さん、大学の友達で、最近折れたやつがいるんだ」
葉山さんが、顔を上げた。
「東京の大きい会社で。十二月、ずっと終電で。年末年始に休んだ瞬間にぷつって、切れて。年明けから起き上がれなくなった」
「……そう」
「走ってるうちは、倒れなかったんだって。止まった瞬間に来た。たぶん、止まることを自分に許せなかった。近くに相談できる人もいなかった」
葉山さんは、しばらく、黙っていた。
「私は」
葉山さんが、ぽつりと言った。
「私は、止まれてるのかな」
僕は葉山さんの膝の上のノートを見た。正の字が、八十二。
「葉山さんは、数えてる」
僕は言った。
「ぴくっとを、ぴくっとのまま、放っておいてない。ちゃんと数えてる。それに、こうして話してる。一人じゃない」
「……」
「だから、たぶん大丈夫。早川と葉山さんの違いは、たぶんそこなんだと思う」
葉山さんは、少し、目を見開いた。それから、ふっと息を吐いた。
「……数えてるうちは、大丈夫、か」
「うん」
「それにね、この数字、ただ貯めてるわけじゃないの」
葉山さんは、ノートを軽く持ち上げた。
「いつか、ちゃんと使う。感情で言うと、ただの愚痴として扱われる。数字で言えば、組織の記録になる。どっちで扱われるかは、たぶん出し方で決まる。だから、出す日と出し方を選んでるだけ」
疲れた声のまま、言っていることは、まったく折れていなかった。数える人は、強い。正の字八十二個は、削られた跡であると同時に、たぶん、弾薬でもあった。
「私もそう思ってた。ぴくっとを、ぴくっとのまま放っておくと、麻痺する。慣れる。そのうち、ぴくっと、しなくなる。そうなったら、終わりだって」
葉山さんの目に、あの観察の鋭さが、戻ってきた。
「数えてるうちは、まだ自分の感覚が生きてる。麻痺してない。……うん。私、まだ、生きてるね」
葉山さんは、少しだけ、笑った。今度は、口角が、自然に上がっていた。
「逃げてるわけじゃ、ないからね」
葉山さんが、ノートを閉じて、言った。
「江口さんの下で、ぴくっとを数えながら、それでも、ちゃんと仕事はしてる。提案も流されても、また出す。とんぼで言ったでしょう。私はBの店になりたい、って。江口さんは、たぶんAの店。でも、私は江口さんの下でも、Bの店でいたい」
葉山さんは、窓の外を見た。
「それが、どうしても無理なら」
少し、間を置いた。
「黙って錆びるのは、嫌だから。そのときは、動く。人事の人にでも相談して。自分で、場所を変える」
……動く。
心の中で、その言葉を、繰り返した。
葉山さんは就活のとき、東京の大きなSaaS企業の最終面接で「うちは家族みたいな会社」と言われて、強い違和感を覚えたと言っていた。そして、ヨキエルを選んだ。「家族みたい」ではなく、「三年で土台を作る、それは責任だ」と言う会社を。
葉山さんは最初から、自分の感覚で、選んできた人だった。中学のとき、英語のスピーチで人前に立った経験もあると、いつか言っていた。黙って流される人では、なかった。
翌日の、昼休み。
社員食堂で、丸山くんが葉山さんに、缶のコーンスープをひとつ差し出した。
「葉山さん、これ奢りっす。なんか、最近忙しそうだから」
「えっ、なに、急に」
「いや、なんとなくっす」
丸山くんは、照れたように、笑った。それから、少しだけ、声を落とした。
「俺、親父が体壊して、会社畳むの見てるんで。人が無理してる顔って、なんとなくわかるんすよ。運送のときも、よく思ってたっす。荷物より先に、人が壊れるって」
……丸山くんは、気づいていた。
僕より、ずっと先に。
丸山くんは、いつも、支える側に回る人だった。家計を支え、現場を支え、いまは同期を支えている。気遣いが、特別な行いじゃなくて、癖になっている人だった。
杉本さんも、隣で、言った。
「葉山さん、しんどかったら、いつでも言って。私、聞くから」
「……ありがとう。みんな、なんなの、急に」
葉山さんは、呆れたように笑った。けれど、その目が少しだけ潤んでいるのを、僕は見た。
丸山くんも杉本さんも、それぞれの目で、葉山さんのあの硬い笑いに気づいていた。誰も、大げさには、しなかった。ただ、缶のスープと短い言葉を、置いた。
……早川には、これが、なかった。
心の中で、思った。
早川の半径3メートルには、コーンスープを差し出す同期も、しんどかったら言ってと声をかける同僚もいなかった。同じしんどさの中でも、葉山さんには、それがある。
その夜、同期のLINEが、ぽつぽつと動いた。
アユシュ:私も、今日から、ぴくっとノート、始めました
アユシュ:葉山さんの、真似です。大沢さんの機嫌で、ぴくっとしたら、数えます
杉本:私も、先月から書いてる。今月、まだ十二回
黒木:俺は、数えない。代わりに、はんだ付けする
丸山:黒木さんらしいっす
葉山:なにそれ。みんな、勝手に真似しないでよ
葉山:……でも、ちょっと、うれしいかも
画面の中で、葉山さんの「ぴくっと」が、六人の共通語になっていった。
しんどさを数えて、言葉にして、見せ合える。隠さなくて、いい。それはたぶん、五月の最初の乾杯から夏祭りやとんぼの夜まで、一年かけて編まれてきた網だった。
LINEを閉じて、ノートを開いた。
今日のページに、書いた。
葉山さん、今月も、ぴくっとを数えていた。それでも、数えるのをやめない人だ。
その下に、続けた。
早川と、葉山さんの違い。数えているか。話せるか。一人じゃないか。
もう一行。
しんどさは、同じでも。そこがたぶん、折れるか折れないかの、分かれ目。
書きながら、ペンを止めた。
ひとつ、痛いことに、気づいたからだった。
僕は観察する人間のつもりだった。先輩を観察し、会社を観察し、一年ノートに書き続けてきた。なのに、いちばん近くにいる同期の「ぴくっと」には、早川が折れるまで気づかなかった。丸山くんのほうが、ずっと先に、気づいていた。
僕の観察は、いままで、自分のための観察だった。学ぶための観察。成長するための観察。それ自体は、間違っていなかったと思う。でも、それだけだった。
六月の勉強会で、遠野CTOが言っていた。技術者の倫理は、見届ける責任。自分の手を離れた先で、何が起きるか。そこまで付き添う態度。あの日、僕はノートに書いた。観察は、見届けることの前段かもしれない、と。
その意味が、今日、少しだけ広がった。
見届けるのは、コードの行き先だけじゃない。半径3メートルの、人の変化も。観察には、たぶん、二つの使い道がある。自分が学ぶための観察と、誰かを守るための観察。僕は片方しか、使っていなかった。
もう一行、書いた。
観察には、二つの使い道がある。
その下に、続けた。
人が折れないためには、二本の網がいる。
縦の網と、横の網。縦の網は、上司や会社が張る網。部下の様子に気づくこと。産業医。止まれる場所。横の網は、同期や友達が編む網。数えて、話せて、見せ合えること。
早川には、両方なかった。だから、折れて、地面の近くまで落ちた。葉山さんは、縦の網が破れている。江口さんは、見ていない。でも、横の網がある。だから、まだ、落ちていない。
僕には、両方ある。諏訪さんがいて、白瀬さんがいて、同期がいる。
それは、僕の実力じゃない。ただの、幸運だった。
だったら、僕にできることは、決まっていた。僕も、誰かの横の網の、結び目になる。丸山くんが当たり前みたいにやっていることを、僕も、やる。観察の半分を、そのために使う。
ただ、ひとつだけ、忘れないでおこうと思った。横の網は、縦の網の代わりには、ならない。葉山さんの強さと同期の網に甘えて、江口さんが見ていないままなのは、やっぱりおかしい。強い人だって、右肩上がりのぴくっとを数え続けたら、いつか数えきれなくなる。それを直すのは、本当は、会社の仕事だった。
最後に、一行、書き足した。
観察ノートの意味が、今日、少し変わった。
ノートを、閉じた。
数日して、桜並木通りを歩いていると、枝の先にごく小さな固い蕾がついているのに気づいた。
まだ、開く気配は、ない。けれど、たしかに、そこにあった。
葉山さんは、これから先も、ぴくっとを数え続けるのだろう。増える月も、あるはずだ。それでも、葉山さんは、自分の感覚を手放さない。話せる相手を、持っている。だめなら、動く。錆びる前に。
その強さは、走り続ける強さとは、違った。止まる場所を知っていて、数える強さ。話せる強さ。
……僕も、そうありたい。
心の中で、思った。
早川みたいに、折れる前に。葉山さんみたいに、数えて、話せる人でいたい。そして、隣の誰かの、硬い笑いに気づける人で。誰かの、横の網の、結び目で。
固い蕾の下を、寮への道を、歩いた。
二度目の春は、もう、すぐそこまで来ていた。




