第30話「一月、折れた友」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
一月の、第二週。
年末年始を地元で過ごして、港川に戻ってきた。仕事始めから、数日が経っていた。
桜並木通りの枝には、まだ、年末の雪が少しだけ残っていた。空気は、きんと冷えていた。それでも、年の変わり目のどこかゆるんだ空気が、街にも会社にもまだ漂っていた。
穏やかな、年明けだった。
朝、フロアで、諏訪マネージャーがチームの一人ひとりに声をかけていた。年末年始、ちゃんと休めた、と。古川さんには、少し長めに、何かを話していた。諏訪さんは、いつも、人の顔色をよく見ている。
給湯室の前の、社内の掲示板に、一枚の案内が貼り直されていた。
ストレスチェックと、産業医面談の案内だった。年に一度、全員が受ける。希望すれば、産業医にいつでも相談できる、と書いてあった。担当の産業医の名前も、小さく載っていた。斎藤、という先生だった。
入社初日に、人事の沢田さんが、名前だけ説明してくれた人。夏の全社会議で、遠野CTOが「困ったら、産業医の斎藤先生に相談してください」と言っていた、あの人だった。
僕はまだ、その先生に会ったことがなかった。
……自分には、たぶん、関係ない。
そのときは、そう思って、通り過ぎた。
正直に言えば、年末は、少しきつかった。十二月の後半、担当していた画面の障害対応で、何日か帰りが遅くなった。年末の片付けと、年明けのタスクの準備も重なった。疲れは、まだ、体の底に薄く残っていた。
でも、流せる範囲だった。年末年始に休んだら、ちゃんと、抜けた。だから、掲示板の案内は、自分のことだとは思わなかった。
その穏やかさが破れたのは、その夜、寮の自室でのことだった。
私用のLINEに、大学同期のグループが、ぽつりと動いた。
三浦:早川と、最近連絡ついた人いる?
三浦:年明けから、会社に行けてないらしい
三浦:俺がメッセージ送っても、ずっと既読がつかない
画面を見て、すっと血の気が引くのを感じた。
十一月のあのLINEで、早川は言っていた。深夜まで残業で、勉強どころじゃない、と。あのときは、それを「大変そうだな」くらいにしか、受け取っていなかった。
心のどこかで、引っかかってはいた。でも、自分のことで、手いっぱいだった。
安西:私も、年末からつながらない
西原:心配
山本:俺も、既読つかない
三浦:今夜八時、みんなで通話できる? 早川にも、声かけてみる
行きます、と僕は打った。
八時、私物のパソコンで、通話に入った。
画面に、四つの四角が並んだ。三浦、西原、山本、安西。早川の四角は、まだ、暗いままだった。
「来られるかな、早川」
三浦が、低い声で言った。
待っている間、それぞれの一年の話に、少しだけなった。
三浦は、二十人のスタートアップで、もう新しいプロジェクトを任されていた。相変わらず、僕の半歩先を歩いていた。西原は「環境は整ってるんだけど、作ってる手触りがない」と少し笑い、山本は「論文、行き詰まってる」と静かに言った。安西は「安定してるけど、ぬるい」と、相変わらずだった。
みんな、同じ大学を出て、別々の場所でそれぞれの一年を生きていた。
画面の暗かった四角に、ふっと、灯りがついた。
早川だった。
部屋は暗く、顔は、なかばしか見えなかった。声は、ひどく、細かった。
「ごめん。心配、かけて」
早川は、言った。
「急に、動けなくなって。年明けから、布団から起きられないんだ。情けない」
しばらく、誰も、すぐには言葉を返せなかった。
少しずつ、早川が、ぽつぽつと話した。
十二月は、大きな納期が、重なっていたらしい。連日、終電。土日も、なかばは出た。先月の残業は、過労死ラインと呼ばれる線のすぐ近くまで、来ていたという。
「あれ、たぶん法律の上限のぎりぎりだよね」
安西が、静かに言った。市役所で働く安西は、そういう数字に、詳しかった。
「いまは、残業の上限が決まってるの。どんなに忙しい月でも、百時間は超えちゃいけない。何ヶ月か平均でも、八十時間まで。早川のは、たぶんその線の上を、ずっと走ってた」
……その線の上を、ずっと。
心の中で、繰り返した。
早川は十二月を、歯を食いしばって、乗り切った。最後の納品を終えて、年末年始の休みに入った。そして、休みに入ったとたん、ぷつりと糸が切れた。布団から、起き上がれなくなった。年が明けても、会社へ向かう足が、動かなくなった。
「走ってるうちは、倒れないんだよな」
三浦が、ぽつりと言った。
「止まった瞬間に、来る」
その一言が、胸に刺さった。
走り続けることで、早川は、なんとか立っていた。立っていられたのではなく、止まれなかった、のかもしれない。休みが、皮肉にも、引き金になった。止まることを、体が、やっと自分に許した。許したとたん、崩れた。
「早川」
西原が、口を開いた。落ち着いた、けれど、はっきりした声だった。
「まず、無理に出社しようとしないで。いま、いちばん大事なのは休むこと。サボりじゃなくて、治療だから」
「治療」
「うん。早川のとこ、大きい会社でしょう。それなら、産業医がいるはず。会社に直接言いにくかったら、産業医に連絡してみて。あの人たちは、会社の味方じゃなくて、働く人の健康の側にいる人だから。話したことが本人の同意なしに、勝手に上司へ伝わることも、ない」
「産業医」
「そう。それと、お金の心配はしなくていい。健康保険から、傷病手当金が出る。休んでる間、お給料の三分の二くらい。最長で、一年半。だから、ちゃんと休める。生活は、なんとかなるから」
西原は、大手の企画職で、そういう制度に明るかった。
「会社の中の人に言うのが、こわかったら」
安西が、続けた。
「労働基準監督署に、総合労働相談コーナーっていうのがある。無料で、匿名でも相談できる。それと、こころの耳っていう厚生労働省のサイト。相談できる窓口が、ぜんぶまとまってる。心療内科に、かかるのもいい。費用は、健康保険でほとんど賄えるから」
「ありがとう。……調べて、みる」
早川の声が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
「とにかくな」
三浦が、画面に身を乗り出した。
「辞めても、いいんだぞ。逃げても、いい。仕事は、いくらでもある。お前の替わりは、いるかもしれない。でも、お前の命の替わりは、どこにもない。それだけは、忘れるな」
「うん」
山本が、静かに、付け加えた。
「早川、おまえ、昔から真面目すぎたよ。要領もよくなかった。だから、いまはちゃんと休め。休むのも、たぶん仕事のうちだ」
画面の中の早川が、口元を、ほんの少しだけゆるめた。
「……ありがとう。みんな」
安西が、最後に、静かに付け加えた。
「あとね、早川。これだけは、言っておきたい。早川が、弱いわけじゃないからね。月に百時間近い残業を止めなかった会社のほうが、おかしいの。部下の体調を守るのは、本当は上司の責任なんだから」
……上司の、責任。
心の中で、その言葉を、留めた。
誰も、「気合だ」とは、言わなかった。「頑張れ」とも、言わなかった。代わりに、それぞれの場所から、具体的な手のとどく支えを差し出していた。
……これも、観察だ。
心の中で、思った。誰一人、早川を、責めなかった。励ますふりで、追い詰めも、しなかった。それぞれの立場から、できることを淡々と出していた。
僕の番が、来た。
「早川。うちは、地方の小さいIT会社だけど」
言葉を、選びながら、言った。
「遠野っていうCTOがいて。全社会議で、毎回同じことを言うんだ。『上に立つ者の、最低限の責務は、自分を安定して保つこと』って」
「上に立つ者の」
「うん。マネージャーが自分の状態に責任を持つから、下の人間が安心して働ける。そういう考えの人が上にいる。今日も、うちのマネージャーは、年末ちゃんと休めたかって、一人ずつに聞いて回ってた」
「いいな」
早川は、ぽつりと言った。
「それに、うちにも産業医の先生がいる。斎藤先生っていう人。僕はまだ会ったことないけど。掲示板に、いつでも相談できるって書いてある」
「いいなあ。ヨキエル、いい会社なんだな」
「いい会社、というより」
少し考えてから、言った。
「いい人がいる、っていうのが正確かもしれない。あと、もし東京じゃなくてもいいなら。地方のIT中小も、選択肢にある。家賃は安いし、残業もうちは少ない。生活はできる。焦って、いま決めなくていいけど。頭の隅に、置いといて」
「……考えてみる。ありがとう」
早川の声に、ほんの少しだけ、温度が戻った気がした。
通話は、十時前に、終わった。
最後に、早川がもう一度、ありがとうと言った。その「ありがとう」の奥に、まだ深い疲れが沈んでいることは、画面越しにも伝わってきた。
パソコンを、閉じた。
部屋の静けさが、戻ってきた。
しばらく、動けなかった。
早川と、僕を分けたのは、何だったんだろう。
心の中で、考えた。
早川は、地元の大学を出て、東京の大手に就職した。いい会社に入ったと、みんな、最初は思った。僕は地方のIT中小で、新卒一年目を過ごしている。
たぶん、僕が早川より、優れているわけじゃない。たまたま機嫌の安定した諏訪さんのチームに配属されて、白瀬さんがコードを見てくれて、間宮さんがとんぼに連れて行ってくれた。それだけだった。配属が一つ違えば、僕の半径3メートルの中身は、まるで変わっていた。
間宮さんが、夏の夜のとんぼで言っていた。半径3メートル。自分のいる、狭い範囲。その範囲が、たまたま、僕にとっては安全だった。早川にとっては、そうではなかった。
僕も、止まれずに走り続けて、どこかで折れていたかもしれない。
……僕も、折れうる。
その実感が、初めて、すっと胸に入ってきた。早川は、遠い誰かじゃなかった。線の、すぐ向こう側に、いた。そして、その線は、思っていたよりずっと細かった。
それから、近くの人たちのことも、順に思い浮かべた。白瀬さんの、夜のレビューの一時間。葉山さんの、数え続けている回数。あれは、大丈夫な走り方なのだろうか。本人が大丈夫と言ううちは、外からは分からない。だからこそ、見ている人がいる、ということが利く。諏訪さんが朝、一人ずつに聞いて回ったみたいに。僕のノートも、いつか、そういうふうに使える日が来るのかもしれない。
年末の、あの疲れを、思い出した。障害対応で、何日か、帰りが遅くなった夜。あのとき、もし、それが何ヶ月も続いていたら。もし、休めなかったら。僕も、年末年始のどこかで、布団から起きられなくなっていたかもしれない。
給湯室の前のあの掲示を、もう一度、思い浮かべた。
ストレスチェックと、産業医面談。斎藤、という先生。
朝は、自分には関係ないと思って、通り過ぎた。でも、たぶん、そうじゃなかった。あれは、僕のための備えでも、あった。
……いつか、僕も、あの先生のところに行く日が来るかもしれない。
そう思った。
来てほしくは、ない。でも、もし、その日が来たら。早川みたいに、ぎりぎりまで一人で走って、折れる前に。だめだと思ったら、ためらわずに、あの先生のところに行こう。
それは、弱さじゃない。むしろ、止まれる、ということだった。早川には、止まれる場所が、近くになかった。僕には、ある。だったら、使えばいい。
止まれる場所のことを、教えてくれたのは掲示板だった。ただ、書いてあるだけでは、備えにならない。読んだ人間が、自分のための文字だと思えて、初めて備えになる。今朝までの僕は、そう思えていなかった。今夜からは、思える。
「いい会社」って、何だろう。
いい会社の定義は、人によって、違うのかもしれない。けれど、最低限の線は、たぶんある。止まっても、人が折れない会社。折れる前に、止まれる場所のある会社。学ぶ余白の、ある会社。
早川の会社は、その線を、たぶん割っていた。ヨキエルは、たぶん、割っていない。
それは、運だろうか、選択だろうか。
答えは、すぐには出なかった。でも、たぶん、両方だった。就活でヨキエルを選んだのは、僕の選択。けれど、そこに諏訪さんや遠野CTOや斎藤先生がいたのは、運だった。
どちらも、必要だった。
朝の、諏訪さんを思い出した。一人ずつに、年末ちゃんと休めたか、と聞いて回っていた。あのときは、ただの気遣いだと思った。でも、たぶん、そうじゃなかった。
部下の体調を守るのは、本人の自己管理だけの話じゃない。上司の責務でもある。諏訪さんは、それを当たり前みたいに、引き受けていた。最初の障害のとき、諏訪さんは、当社側の問題でもあります、と顧客に頭を下げた。あの言葉は、たぶん、こういうことも含んでいた。
早川の上司は、それを、しなかった。残業を、止めなかった。早川の様子に、気づかなかった。気づいていて、見ないふりをしたのかもしれない。
数日して、安西からグループに、短い報告があった。
安西:早川、産業医に連絡できたって
安西:今月から、しばらく休職することになったみたい
安西:少しずつ、眠れるようになってきたって言ってた
三浦:よかった
西原:よかった
山本:早川、えらい
よかった、と、僕も打った。
まだ、何も、解決してはいない。早川の、これからの道のりは、長いのだと思う。けれど、早川は、一人ではなかった。止まることが、できた。それは、たぶん、いちばん大事な一歩だった。
それから一週間ほどして、早川から、個人のLINEが来た。
早川:この前は、ありがとう
早川:今日、久しぶりに、昼間に外を歩いた
早川:川沿いを、ただ、ぼーっと
早川:それだけのことが、できなくなってたんだなって、思った
短い文面に、少しだけ、息ができている気配があった。
蒼太:よかった。ほんとに
早川:桐谷が言ってた、地方のIT中小も、ちょっと調べてる
早川:まだ、ぼんやりだけど。先のことを、考える気に、なってきた
蒼太:いつでも、聞いて。うちの会社のことも、話せるし
早川:うん。ありがとう
画面の向こうの早川が、ほんの少しだけ、笑った気がした。
完全に、元どおりになったわけじゃない。早川の道のりは、まだ長い。けれど、川沿いを歩けたという、その一行。先のことを考える気になってきた、という、その一行。そこに、確かな明るさを感じた。
止まったことで、早川はこれから、ちゃんと回復していく。走り続けていたら、いつか、戻れないところまで行っていたかもしれない。止まれて、よかった。本当に、よかった。
ノートを、開いた。
今日のページに、書いた。
走り続けていると、止まった瞬間に、折れる。だから、折れる前に止まれる場所が、いる。
体調を守るのは、本人だけの話じゃない。上司の、責務でもある。
書きながら、ペンを止めた。もう一行、書き足した。
僕も、無理はしない。だめなときは、あの先生のところに、行く。
ペンを置いて、息をひとつ、吐いた。
今夜、早川は、一人じゃなかった。そして、止まることが、できた。それだけで、半分は、大丈夫な気がした。
ノートを、閉じた。
窓の外、一月の夜は、よく澄んでいた。
桜並木通りの枝は、まだ固く眠っている。けれど、眠っているだけだ。早川も、自分のペースで、歩いていけばいい。川沿いを、一歩ずつ。
きっと、大丈夫だ。
そう思えた。




