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新卒エンジニア、観察ノートを開く(上巻) 観察を、始める  作者: 音無 凪


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第29話「とんぼ、二人の料理人」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 十二月の、ある金曜の夜。


 寮の共用ラウンジに、同期が五人、集まっていた。僕と、葉山さん、丸山くん、杉本さん、アユシュさん。机の上には、それぞれの参考書が広がっていた。基本情報の勉強会だった。受けるのは四人。免除の僕は教える側のはずだった。黒木も免除で、家でやりかけの電子工作があるからと、来なかった。


 葉山さんは、机の向こうで、杉本さんの過去問に付き合っていた。


「桐谷さん、この二進数のとこがわからんっす」


 丸山くんが、過去問の冊子を、僕の方に向けた。


 僕はその問題を見た。


 見た瞬間、頭が白くなった。


 桁が繰り上がるところまでは、覚えていた。けれど、なぜそうなるのかを、人に説明できる言葉が出てこなかった。学生のとき、僕はこれを暗記で乗り切っていた。理屈を自分のものにした記憶が、なかった。


「……ごめん、ちょっと待って」


 僕は丸山くんの参考書を借りて、解説のページを自分で読み直した。


 持っている、と思っていた。けれど、いざ教えようとすると、手の中には何も残っていなかった。いつかの古川さんの「中身は、もう、覚えてない」が、自分の声で頭に響いた。


「桐谷くん、けっこう忘れてるね」


 葉山さんが、横からくすっと笑った。


「うん。びっくりするくらい、忘れてる」


 正直に、そう答えた。


「でも、忘れてるって分かってるだけ、まだいいよ」


 葉山さんは、鉛筆を回した。


「江口さんなんて、忘れてることにも気づいてないと思う」


 葉山さんの一言が、妙に胸に残った。


 杉本さんは、選択問題を、すごい速さで解いていた。


「杉本さん、速いですね」


「文章を読むの、慣れてるから。問題文のひっかけの言い回しがなんとなく見える」


 杉本さんは、ページから顔を上げずに答えた。文学部で写本の系統を読み解いてきた人だった。長い文章の中の、わずかな差を見つけるのが、たぶん体に染みついていた。


 アユシュさんは、机の端で、参考書の日本語と格闘していた。


「この漢字、難しい。『可用性』、読めなかった」


「かようせい。システムが止まらずに使える度合い、みたいな意味」


 僕がそう言うと、アユシュさんは大きくうなずいた。


「Availability、ですね。意味はわかります。日本語が、難しいだけ」


 アユシュさんは、英語の技術用語なら、僕より詳しかった。詰まるのは、いつも日本語のほうだった。


 二時間ほど、五人で解いた。


 途中で、杉本さんがぽつりと言った。


「分からなかったとこ、ノートに自分の言葉で書き直してる。そうすると、次は忘れない」


 ……自分の言葉で、書き直す。


 観察したことをノートに書く、僕のやり方と、どこか似ていた。


 持っている紙の中身は、すっかり抜け落ちていた。それでも今夜、僕は逃げずに、その抜けたところをもう一度なぞっていた。


 一人で参考書に向かうのと、こうして机を囲むのは、ずいぶん違った。


 一人だと、分からないところで、すぐに手が止まる。誰にも見られないから、そのまま閉じてしまえる。みんなとだと、違った。葉山さんが丸山くんに教える。杉本さんが解き方を見せる。僕は教えようとして、自分の穴に気づく。


 教えようとすると、覚えているつもりだった場所の、穴が見えた。人に説明しようとすると、かえって、自分が覚えた。一人なら止まっていた場所で、誰かといると、もう半歩進めた。


 ……勉強って、一人でやるものだと思っていた。


 胸の内で、そう思った。そうじゃないのかもしれない、と思い直した。


 二十時を回った頃、丸山くんが伸びをした。


「そろそろ、打ち上げ行くっすか。とんぼ」


 スマホが鳴った。黒木からのLINEだった。


黒木:勉強はしない。でも、飲みは行く

丸山:黒木さん、ちゃっかりしてるっす


 全員で、笑った。


 


 勉強会を終えて、五人でとんぼへ向かった。


 桜並木通りは、すっかり冬の夜だった。葉の落ちた桜の枝が、街灯の光に、黒い網のように見えた。吐く息が白かった。路地の奥に、白い暖簾が揺れていた。黒い字で、とんぼ。


 暖簾の前で、黒木が待っていた。六人で、店に入った。


 大将の沼田さんが、カウンターの奥から、無言で僕たちを見た。口数は少ないけれど、目だけはいつも、よく動く人だった。一、二、三、四、五、六。数えて、奥の席に、軽くあごをしゃくった。


 年末の店は、賑わっていた。六人で奥のテーブルに座って、ビールを合わせた。黒木さん、今日からビールっすね、と丸山くんが笑った。先月二十歳になった黒木は、小さく頷いて、初めてのジョッキに口をつけた。


 大将は、カウンターの中で、黙々と仕込みを続けていた。鍋の前で、おたまで出汁をすくって口に運ぶ。それから、また少し、何かを足していた。


 女将さんが、おしぼりを運んできて、ぽつりと言った。


「うちの人、また出汁の塩加減を変えてたのよ」


「変えた、のですか」


「うん。三十年近くやってて、まだ毎年変えてる。もういいでしょって言っても、聞きゃしない」


 女将さんは、あきれたようでどこか嬉しそうに笑って、カウンターに戻っていった。


 


 カウンターの端で、常連の倉田さんが、こちらに首を向けた。


 白髪の、小柄なお年寄りだった。前にも何度か、店で顔を合わせていた。今日は、もうだいぶ、できあがっているらしかった。


「お、若い人ら、また来たな」


 倉田さんは、ジョッキを持って、椅子をずらしてきた。


「兄ちゃんら、さっき勉強しとったんやろ。資格やったか」


「はい。基本情報の勉強を、みんなで」


「資格な」


 倉田さんは、ジョッキをひと口あおった。


「兄ちゃんら、なんで、勉強しとるんや。会社に言われたからか?」


「……半分は、そうですね」


 正直に、答えた。


「ふぅん」


 倉田さんは、少し笑った。


「わしな、昔、小さい会社をやっとってな。職人も、何人か使うとった。それで、長いこと人を見てきて、思うことがあるんや」


 倉田さんは、ジョッキを置いた。そして、カウンターの中の大将を、あごで軽く示した。


「たとえば、こういう店の料理人にもな、二種類、おるんや」


 僕はジョッキを置いて、倉田さんの方を見た。


「ただ、銭を稼ぐために、料理を作る人。それと、客の、うまい、ていう顔が見たくて、作る人」


 倉田さんは、指を二本立てた。


「後のほうはな、ええ道具を欲しがる。包丁でも鍋でも、ちょっとでもええもんを。店を閉めたあと、こっそり包丁を研いで、今日の味はどやったか、見直す。うまいて評判の店があったら、自分の銭で食いに行って、なんでうまいんか、盗んでくる」


 杉本さんが、頬杖をついて聞き入っていた。


「それな、特別なことやないんや。あの人らには、当たり前なんや。やらんと、気持ち悪いんやろな」


 倉田さんは、カウンターの中の大将を、ちらりと見た。


「銭だけの人には、その気持ちがわからん。なんでそこまでするんや、てな。銭さえ入れば、ええんやから」


 ……銭さえ入れば、いい。


 立花さんの「現場で書けることが全て」が、その言葉に、薄く重なった。


「ええか」


 倉田さんは、ジョッキをテーブルに置いた。


「兄ちゃんらが、飯を食いに行くとする。Aの店は、道具は百円均一で揃えて、うまなる工夫もせん、よその店に学びにも行かん。Bの店は、道具に気をつこうて、いつも勉強して、よそに学んで、自分の店に活かす。そのために、自分の時間も銭も惜しまん」


 倉田さんは、六人をぐるりと見回した。


「どっちの店で、食いたい?」


 誰も、すぐには答えなかった。けれど、答えはもう、決まっていた。


「Bの店、っす」


 丸山くんが、ぽつりと言った。


「やろ」


 倉田さんは、満足そうにうなずいた。


「わしがこの店に、何年も通うてるのはな」


 倉田さんは、もう一度、大将を見た。


「そこの大将が、研鑽を怠らん人やからや。三十年近くやって、まだ出汁を変える。あほみたいやろ。けど、わしはそのあほに銭を払いに来とるんや」


 大将は、聞こえているのかいないのか、手を止めなかった。


 倉田さんは、僕たちに、にっと笑いかけた。


「兄ちゃんら、パソコンの難しい仕事やったな。名前は、よう知らんけど」


「はい、まあ」


「けどな、結局は同じやと思うで」


 倉田さんは、ジョッキを、ことりと置いた。


「兄ちゃんらの仕事も、誰かが楽になったり、喜んだりするんやろ。その顔を、見たいか、見たくないか。突き詰めたら、それだけの違いや」


「顔を、見たいか」


「そうや。銭のためでも、ええ。でもな、わしが長いこと見てきて、伸びていった職人は、たいてい客の顔を見とる人やった。客の顔を見とる人は、放っといても、自分で研鑽して勝手にうまくなる。見とらん人は、何年やっても、同じや」


 倉田さんは、にっと笑った。


「ま、年寄りの説教やけどな。若い人ら、ええ夜を」


 倉田さんは、それだけ言って、ジョッキを持って自分の席に戻っていった。


 カウンターの中で、大将が、おたまの手を止めた。誰にともなく、ぽつりと言った。


「出汁は、日によって、変える」


 それだけだった。大将は、また鍋に向き直った。


 


 僕はジョッキを両手で包んだまま、しばらく動けなかった。


 倉田さんの料理人の話が、頭の中で、ゆっくり像を結んでいった。


 Aの店。道具にも、勉強にも、よその店にも、関心のない店。それは立花さんだった。そして、古川さんでもあった。基本情報を取って、そのまま忘れて、もう振り返らない人。


 Bの店。道具に気をつかい、いつも勉強して、よそに学ぶ店。それは白瀬さんだった。机の脇に読みかけの本を積んで、休みの日に山に登って写真を撮る人。


 料理人の道具は、たぶん僕たちにもある。良いエディタ。コードを自動で調べてくれる仕組み。自動で動くテスト。手で何度も確かめる代わりに、機械に正確に速く確かめさせる。それは、味を上げて、出すのを速くする道具だった。遠野CTOが全社会議で言った、品質と速度。倉田さんの言う、良い道具と研鑽。たぶん、同じことを指していた。


 ……お客さんは、誰だろう。


 心の中で、僕は考えた。


 料理人のお客さんは、料理を食べる人だ。では、僕たちのお客さんは、誰だろう。僕の書いたコードを使う人。その先にいる、顧客。さらにその先で、システムに支えられて暮らす、知らない誰か。それから、たぶん、半年後や一年後の自分自身。


 


 倉田さんの話を受けて、テーブルの空気が、少しほどけていた。


 丸山くんが、ジョッキを傾けながら言った。


「俺、配送ルートの最適化はまだ土日にやってるっす」


「まだ続けてるんだ」


「親父の会社の、続きっす。誰に頼まれたわけでもないっすけど」


 丸山くんは、地図の上に線を引く手つきをした。


「どの順番で回れば、いちばん短いか。これ、基本情報のアルゴリズムのとこと、同じ話だったんすよ。最近、気づいて」


 丸山くんは、少し照れたように笑った。


「現場のドライバーさんの顔、浮かぶんすよね。あの人らが楽になるなら、やりたいっす」


 杉本さんが、うなずいた。


「私は不具合を報告する前に、これ本当に要る機能かな、って一回考えるようにしてる」


「要るか、どうか」


「夏にもここで言ったけど、書いてあることより、書いてないことのほうが気になるの。それ、たぶん使う人のための読み方なんだと思う」


 アユシュさんが、身を乗り出した。


「私は、機械学習。組込みで、画像を見るAIを作りたい」


 アユシュさんは、ゆっくりと、丁寧に言葉を選んだ。


「会社のリストに、その資格はない。一時金も、出ない。でも、私のやりたいことは、それなので」


 アユシュさんは、そこで少し、間を置いた。


「入って、半年。最初は、まず製品を知る順番だと思ってた。それで、よかった。でも、最近ときどき思う。私が、画像のAIをちゃんと触れる日は、いつ来るのかな、って」


 四月に急がないと言った人の声に、初めて、小さな問いが混じっていた。責める色は、なかった。日本の会社に入れたことを、アユシュさんはいまも誇りに思っている。ここで、ちゃんとやっていきたい。その気持ちは、半年前と、変わっていない。だからこそ、いつ、という問いだけが、静かに増えていく。半年は、希望のまま過ぎた。その先が、まだ、見えないだけだ。


 みんな、それぞれの場所で、それぞれの道具を研いでいた。そして、その手の先には、誰かの顔があった。


 


 ずっと黙っていた黒木が、ジョッキを置いて、口を開いた。


「俺は、客とか、正直よく分からん」


 黒木らしい、短い言い方だった。


「でも、作りたいから、作ってる。資格は、もういい」


 黒木は、少し考えて、付け加えた。


「強いて言えば、次はエンベデッドシステムスペシャリスト。組込みの高度試験。でも、実務が足りない。まだ早い、と思ってる」


「何、作ってるの」


 僕が聞くと、黒木は少し考えてから答えた。


「実家の川の温度を測るやつ。ラズパイと、センサーと、カメラ。鮎の遡上を記録したくて」


「半田づけは、祖父さんの工具で。整備工場をやってた人で。工具箱が、まだ倉庫に残ってる」


 手で組み立てる人だ、と思った。黒木の指は、たぶん、その工具箱から始まっている。


「誰かに、頼まれたの?」


「頼まれてない」


 黒木は、ジョッキの中を見た。


「誰も、見てない。でも、作りたいから、作ってる」


「……見てなくても?」


「見てるかどうかは、関係ない」


 黒木は、それだけ言って、またジョッキに口をつけた。


 杉本さんが、ふっと笑った。


「黒木くん、それいちばんBの店だ」


 黒木は、何も言わずに、少しだけ口の端を上げた。


 僕はその短いやり取りを、心の中で噛んでいた。


 倉田さんは、客の喜ぶ顔のために、と言った。それは、届けたい相手のための学びだった。黒木のは、少し違った。誰かのためですらなく、ただ、作りたいから作る。面白いから、手が動く。


 二つは、別のもののようでいて、たぶん根は同じだった。どちらも、外から命じられたものではなかった。資格でも、一時金でも、上司でもない。内側から、湧いていた。


 黒木はもう、僕が諏訪さんに命じられた応用情報まで、とっくに持っていた。それでも、資格はもういいと言って、家で手を動かしている。黒木にとって資格は、通り過ぎる点でしかなかった。その先で、誰にも頼まれないものを作っている。


 


 そこまで考えて、僕はあることに気づいた。


 倉田さんの料理人の話は、初めて聞くはずなのに、初めてではなかった。


 六月の社内勉強会。遠野CTOが、ホワイトボードの前で言ったことと、同じだった。


 エンジニアとは、依頼された問題を解くだけの人ではなく、解いた結果が誰のところに届くかまで見ようとする人。技術を使って、自分の半径3メートルの人を、半段だけ楽にする人。


 遠野さんは、それを倫理という言葉で語った。倉田さんは、それを居酒屋の言葉で語った。料理人の、客の喜ぶ顔。エンジニアの、届く先の誰か。二人は、同じことを、違う言葉で言っていた。


 遠野CTOは、CTOになったいまも、本を読む手を止めていない。三浦が言っていた「すごい人たち」と、たぶん同じだった。


 届く先を見ようとする人は、止まれない。届け続けるために、学び続けるしかない。それは偉いからではなかった。お客さんの顔を見たいから。あるいは、ただ面白いから。それだけのことだった。


 そして、それは気合や根性の話でもなかった。倉田さんの大将は、毎日少しずつ出汁を変える。三十年近く、無理なく続けている。学び続けるというのは、たぶん、生活の中に小さく置いて止めないこと。全部を犠牲にすることでは、ないはずだった。


 


「桐谷くん、また難しい顔してる」


 葉山さんが、横で言った。


「うん。倉田さんの話、効いた」


「私も。Aの店とBの店のとこ、ぐさっときた」


 葉山さんは、ジョッキを揺らした。


「江口さんは、たぶんAの店。でも、私はBの店になりたい」


 葉山さんの横顔は、いつもより少しだけ強かった。


 僕はみんなの顔を見回した。


 作りたいから作る、と黒木は言った。分からないを分かると言えるように、と杉本さんは言った。現場の人の顔が見えるとやれる、と丸山くんは言った。やりたいから、とアユシュさんは言った。放置されても自分で決める、と葉山さんは言った。


 みんな、違う言葉で、同じことを言っていた。


 ……エンジニアの勉強って、何だろう。


 心の中で、つぶやいた。


 みんなの言葉が、僕の中で、ひとつに混じり始めていた。倉田さんの料理人。白瀬さんの怖さ。黒木の、作りたいから。けれど、それはまだ、はっきりした形になっていなかった。たぶん、家に帰ってノートを開いたとき、やっと言葉になる。そんな予感があった。


 


 二十一時半。


 六人で、店を出た。


 会計のとき、大将が、お札を一枚ずつ丁寧に受け取った。最後に、いつものように、それだけ言った。


「また、来てね」


 外に出ると、冬の夜風が、桜並木通りを吹き抜けていた。葉の落ちた枝の向こうに、冬の星が、いくつか見えた。


「年明け、受験っすね」


 丸山くんが、白い息を吐いて言った。


「うん。みんな、頑張って」


「桐谷さんは、免除っすもんね。応援っすね」


 僕は少し考えてから答えた。


「いや。僕も、受ける」


「えっ、免除なのに?」


「上位を受けろって、諏訪さんに言われた。応用情報」


「うわ、業務命令っすか」


「うん。命令」


 僕はそこで、少し言葉を切った。


「でも、命じられたから、じゃなくて。自分のために、受ける」


 言ってから、自分の言葉に少し照れた。


 でも、口に出したことで、それはただの思いつきではなくなった気がした。応用情報も、たぶん会社の古いリストに載っている。受験料も会社が出す。命令でもある。それでも、僕が本気で受けたい理由は、命令とは別のところにあった。基本情報のときの、ただ取らされただけの自分を、今度こそ上書きしたかった。


「桐谷くん、なんか変わったね」


 葉山さんが、笑った。


「うん。今夜、変わった」


 六人で、寮への道を歩いた。白い息が六人分、夜の中にぽつぽつと浮かんでは、消えていった。


 


 自室に戻って、ノートを開いた。


 今日のページに、書いた。


 とんぼ。倉田さんの、料理人の話。二種類の料理人。客のうまいという顔を、見たいか、見たくないか。


 大将。三十年近く、毎日、出汁を変える。


 黒木。作りたいから、作る。誰も見ていなくても。


 一人の勉強と、みんなの勉強は、違った。教えようとすると、自分の穴が見える。


 倉田さんの話は、六月の遠野CTOの話と、同じだった。届く先を、見ようとする人。


 書きながら、ペンを止めた。


 とんぼでは、まだ形にならなかったもの。それを、書いてみた。


 ……エンジニアの勉強とは、たぶん、こういうことだ。


 その下に、続けた。


 資格や命令で、やらされるものじゃない。届けたい相手のために、そして、面白いから。学び続けることを、自分の仕事の中に、置くこと。余白を保って、止めないこと。


 最後に、もう一行。


 今は、そう思う。


 書いた一行を、目で、もう一度たどった。


 たぶん、この答えも、これから形を変えていく。六月に、遠野CTOが言っていた。いつか、自分の言葉で定義を持つ日が来る、と。形を変えることを、恐れないでほしい、と。


 僕の名刺の役職欄は、まだ空白だった。自分をエンジニアだと、まだ名乗れない。でも、いつか名乗れるとしたら、それは資格を取った日ではなく学び続けた時間の、ずっと先なのだと思った。


 ノートを、閉じた。


 春に、応用情報を受ける。命じられた資格だけど、今度は、取らされて終わりにはしない。


 窓の外、冬の桜並木通りに、夜風が吹いていた。


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