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新卒エンジニア、観察ノートを開く(上巻) 観察を、始める  作者: 音無 凪


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第28話「資格を、受けますか」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 十一月の半ば、水曜日の夜。


 寮の自室で、僕はベッドに転がってスマホを見ていた。


 同期六人の私用LINEグループが、ぽつぽつと動いていた。


丸山:みんな、人事からのメール見たっすか? 基本情報、年度内に取れって

丸山:受験料は会社持ち、業務時間に勉強していいって。太っ腹っす

丸山:でも俺、机の勉強、ほんと苦手で。二進数で、もう泣きそうっす

葉山:私も対象。江口さんは何も言ってくれないけど、命令は命令だしね

葉山:丸山くん、二進数くらいなら教えるよ。議事録取らされてるおかげで、説明だけは得意になった

丸山:葉山さん、神っす

杉本:私も基本情報。内定が出たとき、教授にすすめられてITパスポートは取ったから、次はその上だね

アユシュ:私も、基本情報。日本語の問題が、こわいです

葉山:じゃあ、受ける組で勉強会しない? 金曜の夜、寮のラウンジで

丸山:乗ったっす

アユシュ:あと、これは命令じゃないけど、自分で機械学習も、勉強してます

黒木:俺は免除。高専で、基本情報も応用情報も取った

蒼太:僕も、免除


 ヨキエルでは、エンジニア職は初年度に基本情報を取ることになっていた。


 基本情報。正しくは、基本情報技術者試験という。国がやっている試験のひとつで、IPAという独立行政法人が実施している。ITエンジニアの登竜門、とよく言われる試験だ。アルゴリズム、プログラミング、データベース、ネットワーク、セキュリティ。コンピュータを使う仕事の土台になる知識を、浅く広く問われる。開発の進め方やマネジメントの基礎も、範囲に入っている。いまは通年で、パソコンに向かって受けられる。受かれば、エンジニアの基礎をひと通り押さえた、という国のお墨付きになる。


 業務命令で、受験料は会社が出す。勉強の時間も、業務の中で取っていい。すでに持っている人は、免除だった。受けるのは、丸山くん、葉山さん、杉本さん、アユシュさん。免除は、僕と黒木だった。


 研修の一週目に沢田さんが言っていた、詳しい案内はまた改めて、の「改めて」が、これだった。半年越しの、改めて、だった。


 画面の中で、六人の声は、見事にばらばらだった。


 丸山くんは、苦手だと泣き言を言いながら、それでも一番に手を挙げていた。葉山さんは、江口さんの放置の下でも、命令は命令と淡々と受け止めていた。そのうえで、丸山くんに教えると書いた。杉本さんは、自分の得意な土俵を、もう見つけていた。アユシュさんは、命令の基本情報の上に、さらに自分の機械学習を誰にも言われずに乗せていた。


 ……アユシュさんは、命令じゃないものまで、自分でやるのか。


 心の中で、その一行を、もう一度読んだ。


 基本情報なら、僕はもう持っていた。大学三年の秋に取った。正確には、取らされた、だった。就職に有利だからと、大学のキャリアセンターが情報系の学生に勧めていた。みんな受けるから、僕も受けた。過去問を三周して暗記して、受かった。受かったあと、参考書はブックオフに売った。


 ……あれ、勉強した、と言えるのかな。


 胸の内で、そう思った。


丸山:桐谷さんと黒木さんは、免除っすよね

丸山:桐谷さん、先生、お願いしますっす!

蒼太:先生は、やめて。あんまり覚えてないし


 返事を打ちながら、僕は少し後ろめたかった。持っている、と言えば持っている。けれど中身を聞かれて、すらすら答えられる自信は、まるでなかった。


 免除というのは、やらなくていい、ということだった。命令で取らされる四人がいて、やらなくていい僕がいる。それなのに、その「やらなくていい」は、少しも気楽ではなかった。


 


 翌日、諏訪マネージャーとの月一の1on1だった。


 三階の小さな会議室。机をはさんで向かい合った。窓の外は、もう暗くなり始めていた。


 業務の振り返りが終わると、諏訪さんがノートパソコンを少し脇に寄せた。


「夏の全社会議、覚えてる? 遠野さんが技術方針を三つ、置いたでしょう」


「はい。品質と、速度と、長く働ける組織」


「うん。あの品質と速度に、桐谷くんにも本気で取り組んでほしいと思っているの」


 諏訪さんの声は、いつものように低く、安定していた。


「それでね。ひとつ、業務として、お願いがあるの」


「業務、ですか」


「ヨキエルでは、エンジニア職は全員基本情報以上の資格を取ることになってる。会社のルール」


 諏訪さんは、少し声を落とした。


「桐谷くんも、なんとなく知ってると思うけど。うちみたいな地方の中小、それも受託のビジネスだと、いまだに情報処理技術者試験の合格者が何人いるか、っていう数字が、けっこう重く見られるの」


「合格者の、数」


「うん。お客さんに出す提案書や、入札の書類に、有資格者が何人います、って書く。基本情報を持った人がいないと、案件そのものを受けられない、ということも実際にある」


 ……案件すら、受けられない。


 その言葉が、頭の中で、ことりと音を立てた。


「だから、エンジニアは全員基本情報以上。これは、会社が食べていくための、土台みたいなものなの」


 諏訪さんは、僕の方をまっすぐ見た。


「桐谷くんは、基本情報はもう持ってる。だから、次。上位の資格を受けてください。これは、業務命令」


「業務命令」


「うん。受験料は会社が出すし、勉強の時間も業務の中で取っていい」


 諏訪さんは、机の上で指を組んだ。


「候補は、いくつかあるけど。いちばん素直なのは、応用情報かな」


 ……応用情報。


「ただね」


 諏訪さんは、少しだけ笑った。


「その、会社が勧める資格のリスト、正直、ちょっと古いんだよね。品質と速度を上げようと言っているのに、昔のIPAの試験ばかりで。いまの現場で要る力とは、少しずれてる。そのうち、誰かが直さないといけない」


 諏訪さんは、それ以上は言わなかった。


 それから、声の調子を、少しやわらげた。


「命令ではあるけど。桐谷くん自身は、これから何を学びたい?」


「えっ」


「せっかく受けるなら、取らされる、で終わらせるのはもったいないから」


 僕は答えに詰まった。


 次に何を学びたいか。考えたことが、なかった。基本情報は就活のために取った。取ったら、終わりだった。その先に自分から学びたいものを置く、という発想が、僕の中になかった。


「……まだ、わからないです」


 正直に、そう答えた。


 諏訪さんは、責めるでもなく、軽くうなずいた。


「うん。いまは、それでいい。考えてみて」


 あの六月、僕は同じこの人に、自分から三つの期待を聞きに行った。何を目指すかを、自分で決めたかったからだった。あのときの僕と、いまの僕はたぶん同じ人間のはずだった。それなのに、学ぶことについては、何も決めていなかった。


 ……また、取らされるのか。


 心の中で、つぶやいた。基本情報のときと、同じだった。会社に言われて、受ける。受かったら、たぶんまた、忘れる。


 会議室を出る僕の背中に、自分でも気づかない重さが、少し乗っていた。


 


 自席に戻っても、しばらく、画面に集中できなかった。上位の資格を、受けてください。これは、業務命令。諏訪さんの声が、まだ耳に残っていた。


 チームAの島は、もう半分ほど人が帰っていた。


 立花さんが、コーヒーのカップを片手に、僕の机の横で足を止めた。受付の脇のカレンダーに、新卒向けの資格案内が貼り出されているのを、ちらりと見たらしかった。


「今年の新卒も、基本情報の季節か」


 立花さんは、ふっと鼻で笑った。


「あんなの、点数稼ぎだろ。紙きれがバグを直してくれるわけじゃない。現場で書けることが、全てだよ」


 迷いのない口調だった。立花さんは、いつも自信に満ちている。けれど、立花さんが新しい技術の話をしているのを、僕はまだ一度も聞いたことがなかった。話題はたいてい、ゴルフか、客との酒だった。


 斜め向かいで、古川さんが、椅子に沈み込んだまま顔を上げた。


「基本情報なら、俺も持ってるよ」


「え、古川さんもですか」


「学生のとき取った。でも、中身は、もう、ほとんど覚えてない」


 古川さんは、気だるそうに肩をすくめた。


「実務で困ったことはないな。取ったことすら、ふだんは忘れてる」


 古川さんの机の本棚には、技術書が何冊か並んでいた。背表紙の色は、どれも少し褪せていた。買ったのは、たぶん何年も前。最近の古川さんが手に取るのは、昼休みの、スマホのゲームくらいだった。


 ……取ったことすら、忘れてる。


 心の中で、その言葉が止まった。


 それは、昨日の僕が自分について思ったことと、ほとんど同じだった。持っているのに、忘れている。古川さんの声が、数年後の自分の声のように聞こえた。背筋がひやりとした。


 隣の席で、赤坂さんがスマホから目を上げて、やわらかく笑った。


「桐谷くんはもう持ってるんだから、いいじゃない。上を受けろって言われても、適当でいいんだよ。無理しなくて」


 赤坂さんの声は、どこまでもやさしかった。そう言いながら、赤坂さんの指は、すぐにまたスマホへ戻っていった。たぶん、SNSだった。後輩には、いつも優しい。けれど、その優しさは、僕の中に何も残さなかった。


 ……でも。


 心の中で、何かが小さく引っかかった。


 その「無理しなくていい」は、四月から何度も聞いた、あのやさしさと同じ温度だった。磨いてくれるやさしさではなく、そっとしておくやさしさ。


 立花さんは、資格を、要らないものとして。古川さんは、過ぎたものとして。赤坂さんは、どうでもいいものとして。三人とも、勉強を、自分の後ろに置いていた。自信があったり、気だるかったり、優しかったりした。けれど、誰も、いまより先へ行こうとはしていなかった。


 白瀬さんの席に、目をやった。


 白瀬さんは、まだ残っていた。仕事の合間に、机の脇に積んだ本の一冊を開いて、付箋を貼っている。背表紙は、どれもまだ新しかった。


 僕は思い切って、声をかけた。


「白瀬さん」


「ん?」


「白瀬さんは、休みの日も本を読んだり、山に登ったりしてますよね」


「うん」


「なんで、続けられるのですか」


 白瀬さんは、少し考えてから、本を閉じた。


「立派な心がけ、とかじゃないの」


 声は、いつものように静かだった。


「正直に言うと、怖いから、続けてる」


「怖い」


「うん。技術って、どんどん新しくなるでしょう。学ぶのを止めると、自分が前に書いたコードにも、いつかついていけなくなる。自分の書いたものに、自分が裏切られる日が来る。それが、怖い」


 白瀬さんは、机の本を、指で軽く叩いた。


「資格も、この本も、山の写真も、私には、勉強を止めないための口実。止めないでいるために、口実をいくつも持ってるだけ」


 ……止めないための、口実。


 心の中で、その言葉を繰り返した。


 白瀬さんの「怖いから」は、立花さんの自信とも赤坂さんの優しさとも、違う動機だった。前を向いて走り続けている人の、静かな怖さだった。


 同じチームに、止まった人たちと、進み続ける人がいた。その違いは、資格を持っているかどうかでは、なかった。


 


 寮に戻って、夕食を済ませて、自室に上がった。


 退社後、寮の自室では、社用のパソコンは開けない。社内のものは、社外からは何も見られない。だから夜の同期との連絡は、いつも私用のLINEだった。


 その私用LINEに、今度は大学の同期のグループが動いていた。


三浦:みんな、最近どう?

三浦:こっちでまた勉強会あるんだけど、遠隔で来ない?

安西:私は相変わらず、市役所。安定はしてる

安西:でも、正直、面白くはないかな。放っとくと、五年で錆びる気がする

西原:私はエンジニアじゃないから、資格とかないけど

西原:手を動かして、自分のものを作れる人、ちょっとうらやましい

山本:こっちは研究。機械学習、面白い

山本:分からないことを、分からないって、ちゃんと言えるようになるための勉強、って感じ

早川:いいなあ、みんな

早川:うちは深夜まで残業で、勉強どころじゃない。客に言われた資格だけ、無理やり取らされてる


 画面を見ながら、僕はそれぞれの距離を思った。


 安西さんは地元の市役所。西原は東京の大手通信で、企画の仕事。山本は大学院。早川は東京の大手SIerで、毎晩遅い。みんな、同じ大学を出て、別々の場所にいた。


 資格ひとつ取っても、会社によって、まるで意味が違った。受けないと昇進できないところもあれば、客に取らされるところもある。能動的に受けろと強く勧めるところもあれば、制度すらないところもある。


 業務時間の外で勉強すべきかどうか。その話にもなった。早川は、会社が時間内に学ばせるべきだと言った。三浦は、放っておいても自分でやる人とやらない人で、差は開くと言った。西原は、人それぞれが自分の生き方で選べばいい、と書いた。


 ヨキエルは、と僕は思った。基本情報は業務命令で、勉強の時間も業務の中にある。早川が言う「会社が時間内に学ばせるべき」を、うちは半分、もうやっていた。当たり前だと思っていたことは、当たり前ではないらしかった。


 最後に、三浦が長めのメッセージを送ってきた。


三浦:俺、いま二十人くらいのスタートアップにいるけど

三浦:うちのすごい人たち、例外なく、めっちゃ勉強してるよ。コミュニティにもよく行くし、本も読む

三浦:で、これが大事なんだけど、みんな、楽しそうにやってる。強制じゃなくて、面白いからやってる感じ

三浦:こないだ参加した技術コミュニティでさ、「学び続けることの大切さ」みたいな発表があって

三浦:開発の技術って、毎年どんどん新しいのが出てくるだろ。だから、学ぶのを止めた瞬間に、置いていかれるって話だった

三浦:あと、マズローの欲求段階ってあるじゃん。承認とか、自己実現とか。エンジニアとして、どこを目指して生きるのか、って話にもなって

三浦:まあ、もっと俗な話もあったけどな。勉強しないやつは、年収も上がらないぞって(笑)

三浦:桐谷も、たまには外に出てこいよ


 ……楽しそうに、やってる。


 三浦は、いつも僕の半歩先を歩いている。


 学ぶのを止めた瞬間に、置いていかれる。その一行が、妙に刺さった。古川さんの、褪せた本棚が、頭をよぎった。止めたら、たぶん、ああなる。


 ふと六月の社内勉強会を思い出した。あの夕方、遠野CTOが地図の話をしたあとで、白瀬さんと間宮さんが廊下で言っていた。自分はこの地図に何度も助けられた、と。


 あとで知ったことだけれど、遠野CTOは、いまも週に何冊も技術書を読むらしい。英語の新しい本を、何冊も。国内外の勉強会にも出かけていく。CTOになっても、止めていなかった。


 三浦の言う「すごい人」は、たぶん遠野CTOと同じ顔をしていた。例外なく勉強していて、しかも楽しそうにしている人たち。


 僕はその人たちの、ずっと手前にいた。


 


 スマホを置いて、机に向かった。


 免除された自分には、もう要らないはずの基本情報の参考書を、本屋でもう一度買っていた。丸山くんに先生と頼まれたのが、どこかで引っかかっていた。忘れたままでは、教えるどころじゃない。最初のページを、めくってみた。


 二進数の繰り上がり。スタックとキュー。計算量の記号。学生のときに暗記したはずのものが、ほとんど頭から抜けていた。一方で、いまの業務で毎日触るJavaの例外処理やトランザクションの話は、参考書の言葉とところどころでつながった。つながると、少しだけ面白かった。


 机の隅には、六月の勉強会のあとで印刷したきりの、SWEBOKの紙が置いてあった。ソフトウェアエンジニアリングの、知識の地図。地図を持っているだけで、僕は一度も、開いていなかった。


 基本情報という紙も、この地図の紙も、僕は持っているだけだった。


 


 ノートを、開いた。


 今日のページに、見たことを書いた。


 諏訪さんから、業務命令。上位の資格を受けること。候補は、応用情報。受託の会社は、いまも資格の合格者数で見られる。基本情報がないと、案件すら受けられないことがある。


 立花さん。資格は点数稼ぎ、現場が全て。新しい技術の話は、しない。


 古川さん。基本情報は持っている。でも、中身は忘れた。本棚の本は、褪せたまま。


 赤坂さん。無理しなくていい、適当でいい。スマホを見ながら。


 白瀬さん。止まると怖いから、続ける。資格も本も山の写真も、止めないための口実。


 三浦。学ぶのを止めた瞬間、置いていかれる。すごい人は、例外なく勉強して、楽しそうにしている。


 書きながら、ペンを止めた。


 五月に、僕はこのノートに「先輩には、二種類いる」と書いた。磨いてくれる先輩と、そうでない先輩。あの線と、今日の線は、たぶん同じ一本だった。立花さんも古川さんも赤坂さんも、資格のあるなしと関係なく、止まっていた。白瀬さんだけが、進み続けていた。


 もう一行、書いた。


 ……僕は紙を持っている。でも、いまは、古川さんの段にいる。


 書いてから、その文字を、しばらく見ていた。


 最後に、もう一行、書き足した。


 ……今度は、取らされて終わりに、しない。


 ノートを、閉じた。


 スマホを、もう一度手に取って、同期のLINEに短く打った。


蒼太:今度の勉強会、僕も行く

蒼太:教えるっていうより、もう一回、自分でやり直したいから

丸山:おお、心強いっす!

葉山:桐谷くん、もう持ってるのに?

蒼太:持ってるだけ、だからね


 窓の外、夜の桜並木通りの枝は、もうほとんど葉を落としていた。街灯の光が、裸の枝の影を、地面に淡く落としていた。


 古川さんの段に、まだ片足は残っている。けれど、もう片方の足を、半歩だけ別の段に置こうと思った。


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