第27話「とんぼ、定例化の夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
八月の最終週、金曜日の夕方。
お盆休みを実家で過ごしてヨキエルに戻り、最初の週末だった。
寮の自室で机に向かい、僕はぼんやり窓の外を見ていた。十八時前、空はまだ青さを残していた。けれど風には、お盆を越えた夏の終わりがほんの少し混じっていた。
スマホが机の上で短く震えた。
同期六人のグループLINE。
丸山:今夜、また「とんぼ」、行きません?
丸山くんからの一言だった。
文末に絵文字はひとつもなかった。誘い方が、丸山くんにしてはいつもより少し静かだった。
すぐに返信が並んでいった。
杉本:行きたい
アユシュ:行く
黒木:行く
葉山:私も
蒼太:行く
全員来る、ということだった。
……「とんぼ」。
心の中で、僕はその店の名前を繰り返した。
はじめて行ったのは、七月の第三週の金曜日だった。チームBの江口マネージャーの飲み会で白瀬さんの悪口を聞かされ、葉山さんと丸山くんと三人で二次会を断って、ひとりで桜並木通りを寮に向かって歩いていた夜。その帰り道で間宮先輩と偶然すれ違い、よく行く店があるからと連れて行ってもらったのが「とんぼ」だった。
あの夜は間宮先輩に連れられて、初めて辿り着いた店だった。
でも、今夜は違う。
今夜は、六人が自分たちで決めて行く。
ベッドに投げ出したシャツを、僕はもう一度きちんと着直した。
十八時半、桜並木通り。
六人は横並びにはならず、二、三人ずつ固まって歩いた。
丸山くんが先頭、その隣に杉本さん。黒木とアユシュが少し遅れ、葉山さんと僕が最後尾だった。
葉山さんは横顔だけ僕に見せて、ぽつりと言った。
「桐谷くん、なんかいつもと違う」
「何が?」
「シャツの襟、いつもより整ってる」
僕は思わず自分の襟元を触った。
「……整えてきた」
葉山さんは少しだけ笑った。
歩いていくうちに、住宅街の細い路地が目の前に現れた。
路地の奥に、白い暖簾が一枚揺れていた。
黒い字で、「とんぼ」。
丸山くんは暖簾の前で少し立ち止まった。
そして暖簾をゆっくりくぐった。
店に入ると、大将の沼田さんはカウンターの奥で、無言で僕たちを見た。
いらっしゃい、とはまだ言わなかった。
ただ目で僕たちを数えた。一、二、三、四、五、六。
数え終わると、大将は奥のテーブルに目をやり、それからもう一度僕たちを見た。
奥のテーブルは、いつも四人がけだった。けれど今日はそこに、椅子が二つ足されていた。
六人分の椅子。
大将は何も言わずに、奥のテーブルへ僕たちを促した。
六人がばらばらに椅子に座った。
大将はおしぼりを六本運んできた。いつもより少し丁寧に、一人ひとりの前に置いた。
「いらっしゃい」
それだけ言って、大将はカウンターの奥に戻った。
壁には、色の褪せた品書きの短冊が何枚も貼ってあった。煮込み、だし巻き、季節の魚。とんぼの店内は、七月に初めて来たときと何も変わっていない。木のカウンター、橙色の灯り、油と出汁の匂い。変わったのは、奥のテーブルの椅子の数と、たぶん僕たちのほうだった。
カウンターの反対の端には、見覚えのある背中もあった。七月に初めて来た夜、端で静かに飲んでいた背広の常連さんだ。今日も同じ席で同じ角度で杯を傾けている。店の風景には、決まった場所に決まった人がいる。
カウンターの端で、倉田さんが僕たちの方に首を向けた。
「お」
倉田さんはジョッキを一度置いて、軽く笑った。
「若い人ら、また来たな」
倉田さんはそれ以上、何も言わなかった。
ただジョッキを持ち上げて、僕たちの方に少しだけ傾けた。
乾杯の真似ごとのような仕草だった。
葉山さんが思わず笑った。
僕は心の中で、何かがふっと温かくなるのを感じた。
「ここに来ていいよ」とは、誰も言葉では言っていない。
でも、椅子の数で、それはもう言われていた。
ビールが五つと、黒木のウーロン茶が運ばれてきて、六人で軽くジョッキをぶつけた。
最初の一杯は、何も言わずにそれぞれの調子で飲んだ。
二杯目に入った頃、丸山くんがぽつりと言った。
「俺、最近ちょっと変なことやってるんすよ」
杉本さんが丸山くんの方を見た。
「変なこと?」
「配送ルートの最適化」
丸山くんはジョッキを軽く回した。
「話したこと、なかったすけど。うち、親父が個人で運送やってて、体壊して畳んでるんすよ」
初めて聞く話だった。全員、箸が止まった。丸山くんは、深刻にならない声のまま続けた。
「あの後ずっと、運送業のことが頭の隅にあって。最近は土日に、データ集めて地図に落として、配送ルートを引いてみてるんすよ。趣味で」
杉本さんが目を細めた。
「それ、副業にできるんじゃない?」
丸山くんは首を軽く振った。
「いや、副業ってほどじゃないっす。金ももらってないし。ただ」
丸山くんはそこで一度、言葉を止めた。
「親父が、見られなかった景色を、俺が、見たいだけで」
杉本さんはそれ以上、何も言わなかった。
誰もすぐには何も言わなかった。
葉山さんはジョッキを両手で包んだ。黒木はテーブルの木目を見ていた。アユシュは丸山くんの横顔をまっすぐ見ていた。
そのとき、カウンターの端で倉田さんのジョッキが、ことりと置かれた。
いつもより少しだけ長い間があった。
「景色を、見たい、か」
倉田さんは僕たちの方を見ず、手元のジョッキに向かって低く繰り返した。
それだけ言って、また自分のつまみに箸を伸ばした。
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。丸山くんへの相づちなのか。それとも倉田さん自身の、どこかへ向けた独り言なのか。
……倉田さん、何かを知っている人の言い方だった。
心の中で、丸山くんの「見たい」の重みと、倉田さんのその一言を並べて受け止めた。
倉田さんが黙ったあとの短い静けさを、杉本さんが頬杖をついてつないだ。
「私もね、ちょっと続けてることあるんだ」
黒木が杉本さんを見た。
「卒論の続き?」
杉本さんは頷いた。
「雨月物語の写本研究。大学のとき、三つの系統があるって原口先生に教わって、卒論にしたんだけど。最近、四つ目があるかもしれないって思うようになって」
アユシュが少し身を乗り出した。
「四つ目? 論文、書く?」
杉本さんは少しだけ首を傾けた。
「書くかも。書かないかも。まだわからない」
杉本さんはジョッキに口をつけてから、続けた。
「ただ、書かなくても、頭の中で四つ目をずっと考えていられる場所がある。それが、いまの私には必要で」
杉本さんはジョッキを一度置いて、続けた。
「あと、最近は仕事でも思うことがあって」
「仕事で?」
「QAで不具合を報告する前に。これ、そもそも本当に必要な機能なのかな、って。言われた通りに直す前に、一回立ち止まる」
杉本さんは自分の言葉に少し照れたように、ジョッキに口をつけた。
「文学部だから、かもしれません。書かれていることより、書かれていないことのほうが気になります」
葉山さんが頷いた。
「わかる」
葉山さんはそれ以上は言葉にしなかった。
でも、その「わかる」には、葉山さんなりの別の温度が混じっていた。
丸山くんの配送ルートも、杉本さんの写本も、趣味の話のはずだった。でも、僕は気づいていた。丸山くんは受託チームBで、物流の現場の言葉が分かる新人として、もう先輩に頼られ始めているらしい。趣味と仕事は、二人の中で地続きだった。
杉本さんの「本当に要る?」も、僕の中に残った。僕はいつも、言われた改修を言われた通りに直してきた。本当に要るのか、なんて考えたこともなかった。今度、自分のタスクにも一度だけ、その問いを向けてみよう。
三杯目が運ばれてきた。
黒木がジョッキの縁を指でなぞってから、口を開いた。
「来月、帰ろうかと思ってる」
全員が黒木の方を見た。
「奥木野町。鮎が来る川があって。子供のころは毎年、九月の終わりに親父と釣りに行ってた」
黒木はジョッキを置いた。
「久しぶりに行ってみようかなって」
「いいね」
杉本さんが短く言った。
「帰るっていう言葉、いいな」
僕は思わず口に出した。
黒木はしばらく、テーブルの一点を見ていた。
それから、低い声で言った。
「……港川は、帰る場所じゃ、ないかも、まだ」
その「まだ」という一語に、僕は引っかかった。
いまは違う。でも、いつかそうなるかもしれない。
黒木の「まだ」には、そういう温度が混じっていた。
葉山さんがジョッキを軽く傾けた。
アユシュは何も言わずに、ただ頷いた。
「桐谷くんは?」
葉山さんがこちらを向いた。
「桐谷くんは最近、何か続けてることある?」
僕は少し考えた。
「ノート、書いてる。毎日」
「ノート」
「観察したことを書いてる。先輩のこととか、自分のこととか」
「最近は数も書いてる」
「数?」
「レビューのコメントの数とか。減っていくと、自分が進んだのが分かるから」
葉山さんがにっと笑った。たぶん、自分の数えているものを思い出している。
黒木が僕を見た。
「見せて、とは、言わない」
黒木らしい言い方だった。
「でも、続けてるのいいと思う」
「ありがとう」
頭を下げた。誰かにノートのことを話したのは、葉山さん以外では初めてだった。
その後、四杯目を誰が頼んだのかもわからないままに時間は過ぎた。
葉山さんとアユシュの間に、好きな食べ物の話がぽつぽつ流れた。
杉本さんはジョッキを両手で包んだまま、時々、丸山くんの方を見た。
丸山くんは配送ルートの話の後、ずっと聞き役に回った。
アユシュさんは途中、皆をネパール料理の店に連れていく計画を発表していた。Khusi Cafe、という店の名前が出たとき、僕だけが、ああ、と頷いた。夏のカフェの約束は、六人の約束に育っていた。
大将は特に話に入ってこなかった。
ただ、ジョッキが空きそうになると、無言で新しい一杯を持ってきた。
倉田さんはカウンターの端で、自分のジョッキと向き合っていた。さっき丸山くんの言葉にひとことだけ応えたきり、また、いつもの無口な常連に戻っていた。ただ時々、僕たちの方をちらっと見た。その目が、何かを確かめるような目に見えた。
二十一時半。
誰かが、そろそろ、と言った。
六人で立ち上がった。
会計はそれぞれが自分の分を大将に渡した。
大将はお札を一枚ずつ丁寧に受け取った。
最後の一人が会計を済ませた後で、大将は僕たちの方を見て、それだけ言った。
「また、来てね」
それだけだった。
「ここに来ていいよ」とは、最後まで言わなかった。
帰り際、倉田さんが独り言のように、つぶやくのが聞こえた。
「若い人がいる店は、ええ店や」
誰に向かって言ったのか、わからない言い方だった。
でも、それはたぶん、僕たちに向かって言われていた。
外に出ると、桜並木通りに夜風が吹いていた。
お盆を越えた、八月の最後の風だった。
風には、もう夏の盛りの湿り気はなかった。
葉桜の影が、街灯の下で淡く揺れていた。
六人で、来たときと同じ順番で寮の方角に歩いた。
葉山さんが僕の隣で、ぽつりと言った。
「桐谷くん、なんか笑ってる」
僕は思わず自分の口元を触った。
「……笑ってた?」
「うん」
葉山さんはそれ以上は言わなかった。
ただ、葉山さん自身も横顔だけ、少し笑っていた。
寮の玄関で、六人で、おやすみなさい、と短く言って別れた。
部屋に戻って、ノートを開いた。
白いページに、僕はひと言だけ書いた。
……七月の「とんぼ」と、八月の「とんぼ」。
もう一行、付け加えた。
……同じ場所が、同じ場所のままで違って見えた。
書いてから、しばらくその文字を見ていた。
七月のあのときは、先輩に連れてこられた。逃げ込んだ、と言ってもよかった。
今夜は、自分たちで決めて来た。
ただ、それだけの違いなのに、店の温度がまるで違っていた。
いや、店の温度が違ったのではなかった。
たぶん、自分の方が違っていた。
大将と倉田さんは、何も変わっていない。椅子の数だけが、ひとつ、ふたつ増えただけだった。
でも、その「ひとつ、ふたつ」が、僕たちにとっては、ずっと大きな何かになっていた。
居場所、という言葉が頭に浮かんだ。けれど、それはまだ少し大げさな気がした。椅子が六つ、用意されただけ。それでも港川に来て五ヶ月、初めて、自分たちで選んで通える場所が一つできた。黒木が言った「帰る場所じゃ、ないかも、まだ」の「まだ」が、僕の中で静かに揺れた。
ノートを閉じた。
窓の外、夜の桜並木通りに夜風が吹いていた。
遠くで、誰かの自転車が軽い音を立てて過ぎていった。
明日は、土曜日だった。
久しぶりに、何もない一日になるはずだった。
布団に入って、目を閉じた。
眠る前にもう一度、丸山くんの「親父が、見られなかった景色を、俺が、見たい」という言葉が、頭の中をゆっくり通り過ぎていった。
その言葉の温度に、僕は何かをたしかに受け取っていた。
まだ、その何かに名前はつけられなかった。
名前をつけるのは、たぶんもう少し先のことだった。
でも、いつかはつけられるはずだった。
目を閉じたまま、僕はゆっくり息を吐いた。
夜が深まっていった。




