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新卒エンジニア、観察ノートを開く(上巻) 観察を、始める  作者: 音無 凪


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第26話「港川の夏祭り、六人の浴衣」(インタールード④)

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

※ この話は、楽しい話の回です。


 八月の第二週、土曜日の夕方。


 港川市の夏の風物詩、と地元の人が口を揃えて言う「港川夏祭り」が開催される日、だった。


 お盆休みに入る二日前。


 地元の商工会議所が主催している、年に一度のお祭り。城跡公園の広場とその周辺の桜並木通りが、屋台で埋め尽くされる。夜には川沿いで花火が千五百発、上がる。


 「皆、絶対、来てね!」と、寮の管理人さんが廊下で出会うたびに、僕に言ってきていた。地元の人が本気で推しているお祭り、らしかった。


 同期六人のグループLINEで一週間前に相談して、皆で行くことに決めていた。


葉山:夏祭り、行こう

丸山:行きますっす

黒木:行く

アユシュ:Yes! お祭り、love it

杉本:私も、ご一緒します

蒼太:行きたい


 集合は、夕方の五時。桜並木通りの入り口、だった。


 


 寮を、四時半に出た。Tシャツに、ジーパン。お祭り用の特別な格好では、なかった。


 桜並木通りの入り口に着いたのは、五時、五分前。


 すでに、丸山くんと黒木が来ていた。


「お、桐谷さん、お疲れっす!」


 丸山くんは、いつもの「っす」で軽く手を上げた。


 黒木は、軽く頷いた。


 数分後、アユシュさんが来た。手にスマホを持っていた。


「Soota, I'm ready, my camera」


「動画、撮るの?」


「Yes! 港川 summer festival、家族に見せたいです」


 アユシュさんは、にこにこと笑っていた。


 次に、杉本さんが来た。手に、小さな手帳を持っていた。


「杉本さん、何、それ?」


 丸山くんが、聞いた。


「お祭りの屋台の看板。書体が面白いと思って、観察しようと思って」


「観察、っすか」


「私、文学部の史学科なので。古い字体の研究に興味があって」


 ……杉本さん、お祭りでも、観察してるんだ。


 心の中で、ちょっと笑った。


 最後に葉山さんが来た。


 ……あ。


 葉山さんは、浴衣を着ていた。


 濃紺の地味な色合いに、白い小花の柄。髪は、いつもより上の方で軽く結んでいた。化粧も、ほんの少しだけ、いつもより夏らしくなっていた。


 全員が、一瞬、軽く止まった。


 葉山さんが自分からこう言った。


「うん、浴衣着てきた。お祭りだから」


「葉山さん、いいねっす!」


 丸山くんがすぐにフォローした。


「ありがと、丸山くん」


「Yes! 浴衣、似合います、Yamayamaさん」


 アユシュさんが、にこにこ笑った。


「アユシュ、ヤマヤマじゃなくて、ハヤマ」


「そう。葉山さん、すごく似合います」


 全員で、軽く笑った。


 葉山さんが、僕の方をちらりと見た。


「桐谷くん、何かコメントない?」


 ……コメント。


 心の中で、軽く構えた。


「えっと、いいと思う」


 葉山さんは、にっと笑った。


「無難な答え、ね」


「うん、無難」


「無難で、いい」


 葉山さんが軽く肩をすくめた。


 六人で、桜並木通りを歩き始めた。


 


 夕方の五時を過ぎた頃から、屋台が灯りを点け始めていた。たこ焼き、焼きそば、お好み焼き、フランクフルト、それから地元の海産物の屋台。射的、金魚すくい、輪投げ。そういう昔ながらの屋台も、並んでいた。


 お囃子の音が、遠くから聞こえていた。


 丸山くんが、最初に屋台に突進した。


「綿菓子、っすね!」


「丸山くん、それ子供の食べ物」


 葉山さんが軽くツッコんだ。


「いやー、夏祭りに来たら、まず綿菓子っすよ」


 丸山くんは五百円払って、綿菓子を買った。


 大きいピンクの綿菓子、だった。


 丸山くんは、それをぱくぱく食べ始めた。


 ……速い。


 心の中で、思った。


 数分後、丸山くんは、もう二つ目の綿菓子を買おうとしていた。


「丸山くん、まだ食べるの」


「俺、お祭りでは綿菓子、最低三つ食べるルールっす」


「ルール、なんだ」


「子供の頃から。小学生の頃、夏祭りで一回だけ買ってもらえなかった年があったんすよ。それから絶対、自分で買って食べるって決めたんす」


 丸山くんは、嬉しそうに笑った。


 ……綿菓子の話だけど、丸山くんの「子供の頃」の温度が、その一言に薄く乗っていた。


 黒木が、屋台を見ながら、ぽつりとこう言った。


「金魚すくい、ある」


「黒木、金魚すくい好き?」


「やったことない」


「えー、やったことないっすか?」


 丸山くんが、驚いた。


「県外出たことないというより、お祭り自体あまり行ってない」


 黒木は、軽く頷いた。


「じゃ、今日デビューっすね!」


 丸山くんが、黒木の肩を軽く叩いた。


 六人で、金魚すくいの屋台に行った。


 黒木が、五百円払って、紙の網をもらった。


 水槽の中に、赤い金魚がたくさん泳いでいた。


 黒木は、真剣な表情で水槽を覗き込んだ。


 組込みのエンジニアが検査装置のドライバを書く時のような、集中力だった。


 網を、水に入れる。


 ぐっと、金魚をすくおうとした。


 網が、破れた。


 一匹も、すくえなかった。


「黒木、惜しいっす!」


「もう一回」


 黒木は、もう五百円、出した。


 二回目、また網が破れた。


 三回目、また。


 四回目、ようやく一匹、すくえた。


「やった!」


 黒木が、初めてお祭りらしい声を上げた。


 全員で、拍手した。


 黒木は、ビニール袋に入れてもらった金魚を、嬉しそうに見ていた。


「黒木、それ寮で飼うのか」


「うん」


 黒木は、頷いた。


「名前、付けるか」


「『金魚一号』」


 ……ネーミング、組込みエンジニアっぽい。


 心の中で、ちょっと笑った。


 杉本さんは、屋台の看板をずっと観察していた。手帳に、何かを書いている。


「杉本さん、何を書いてるのですか」


 葉山さんが、聞いた。


「『綿菓子』の字体、注目してました。一般的な明朝体なのですけど、『綿』の糸偏の部分が左に寄ってて、地元の書体の特徴が出ているかも」


「そんなとこ、観察してるんっすか」


 丸山くんが、感心半分、ツッコみ半分、で笑った。


「これ、たぶん地元の看板職人さんのお弟子さんっぽい字体です。会社の近くの商店街の看板と似てます」


 ……杉本さん、お祭りで、看板の書体研究。


 心の中で、もう一度、笑った。


 アユシュさんは、ずっとスマホで動画を撮っていた。


「Soota, look at me」


 アユシュさんが、僕にカメラを向けた。


「えっ」


「Smile」


「えっと」


 ぎこちなく、笑った。


「Soota, more natural smile, please」


 ……無理。


 心の中で、思った。


 お祭りの屋台をぐるぐる回りながら、夜の八時近くになった。


 大きな地元のシンボル、川沿いの堤防に移動した。


 花火が、上がる場所。


 すでに堤防の上には、地元の人たちがたくさん、シートを広げて座っていた。


 六人で、空いている場所を見つけて、横一列に並んで座った。


 順番は、丸山くん、アユシュさん、黒木、杉本さん、葉山さん、僕。


 葉山さんが、僕の右隣、だった。


 時刻、八時。


 最初の花火が、上がった。


 ぱん!


 


 夜空に、大きな菊の花のような花火が開いた。


 全員で、声を上げた。


「うわー」


「すごいっす」


「Wow」


「綺麗ですね」


「綺麗」


「綺麗です」


 六人それぞれの感嘆の言葉が、ばらばらに出た。


 五月の最初の飲み会で、乾杯の声が揃わなかったことを思い出した。あの時も、六人の声はばらばらだった。今夜も、ばらばら。でも、ばらばらのまま、同じ花火を見上げている。声が揃わないことが、いつのまにか、心地よくなっていた。


 花火は、十分間、休みなく上がり続けた。菊、牡丹、しだれ柳、それから最近流行りの文字型の花火。


 葉山さんが、ふと、僕の方に顔を向けた。


 花火の光が、葉山さんの顔をちらちらと照らしていた。


「桐谷くん」


「うん」


「私、今、楽しい」


 短いけれど、はっきりした言葉、だった。


 ……「私、今、楽しい」。


 心の中で、その言葉を繰り返した。


「うん、僕も」


 答えた。


 葉山さんは、ふっと、軽く笑った。


 それから、また空を見上げた。


 花火は、続いていた。


 しばらく、二人で無言で、空を見ていた。


 ……葉山さん、入社、四ヶ月。


 心の中で、僕は思った。


 葉山さんは、チームBで毎日、「美月ちゃん」と呼ばれてぴくっとしている。


 江口マネージャーの「現場で決めて」を、毎日聞いている。


 それでも今日、葉山さんは浴衣を着てお祭りに来てくれて、僕の隣で「楽しい」と言ってくれた。


 ……葉山さんが、楽しいと感じる時間がある。


 それはたぶん、葉山さんがヨキエルで続けるための必要な時間。


 花火のフィナーレが、来た。


 数十発の花火が、一気に夜空を埋めた。


 全員で、空を見上げた。


 最後の一発が消えて、夜空がまた、暗くなった。


 拍手が、堤防のあちこちから聞こえた。


「終わったっすね」


 丸山くんが軽く息を吐いた。


「皆、来年も来ようね」


 葉山さんがこう言った。


「来年も」


 黒木が繰り返した。


「Yes, next year, also」


 アユシュさんが頷いた。


「私も、来年来ます」


 杉本さんも頷いた。


「俺、五年連続で綿菓子、四つ目指すっす」


 丸山くんが笑った。


「桐谷くん、来年も来る?」


 葉山さんが僕の方を向いた。


「うん、来る」


「絶対?」


「絶対」


 葉山さんは頷いた。


 堤防から駅前の方に戻る道。


 屋台はもう店じまいを始めていた。


 お祭りの終わり特有の、少しだけ寂しい空気。


 でも全員、満足した表情だった。


 


 駅前で解散。


 黒木は金魚一号をビニール袋に入れて持って、寮に戻った。


 


 帰り道、駅前の路地の入り口で、ふと足が止まった。


 路地の奥に、小さな灯りがひとつ。藍色の暖簾に、白く抜かれた「澪」の一文字が見えた。祭りの夜でも、静かに開いている店らしかった。浴衣の人の流れは、誰もその路地には曲がらない。曲がらないのに、灯りは点いている。


 ……こんなところに、お店、あったんだ。


 それだけ思って、通り過ぎた。


 寮に戻ったのは夜の十時近くだった。


 部屋に上がってTシャツを着替えた。


 


 ノートを机に置いた。


 今日のページに、こう書いた。


 港川市夏祭り、同期六人で行った。


 葉山さん、浴衣。


 丸山くん、綿菓子、最終、四つ。


 黒木、初めての金魚すくい。四回目で一匹、ゲット。名前は「金魚一号」。


 杉本さん、屋台の看板の書体研究。


 アユシュさん、動画撮影。ネパールの家族に見せる、らしい。


 花火、千五百発。


 葉山さんが隣で「私、今、楽しい」と言ってくれた。


 書きながら、ペンを止めた。


 もう一行、書いた。


 今日の「楽しい」を、ノートに書き留めた。


 書き終わって、その文字をしばらく見ていた。


 ……ノートに書き留めるのは、観察した違和感だけじゃない。


 胸の内で、そう思った。


 観察した楽しい時間も、書き留める。それも、観察。


 今日、たくさんの笑顔を見た。


 丸山くんの綿菓子四つ。黒木の金魚一号ゲットの瞬間。アユシュさんの動画。杉本さんの看板研究。葉山さんの浴衣。


 それぞれが、それぞれの楽しみ方でお祭りを過ごした。


 ……皆、それぞれの「楽しい」を持ってる。


 心の中で思った。


 ノートを閉じた。


 窓の外、八月の夜風が、開けた窓から入ってきた。蝉の声と遠くの誰かのお祭り帰りの笑い声が、混じっていた。


 明後日からお盆休み。


 地元に帰る。


 でも今日のお祭りの楽しい時間は、たぶん地元に帰っても僕の中に残る。


 来年も再来年もまた皆で来ようと、葉山さんが言ってくれた。


 ……来年。再来年。


 その約束があるだけで、なぜか僕の中で何かがふんわりと温かくなった。


 お祭りは楽しい。


 お祭りにまた来年も来ると約束できる人たちがいるということが、もっと楽しい。


 今日、僕はそれを知った。


 


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