第25話「磨く優しさ、放置する優しさ」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
八月の第一週、月曜日の朝。
お盆休みまであと一週間ほど、というところだった。
お盆が近づくと、フロアの空気が少しだけ緩む。皆、休みの予定を口にし始める。リリースは、お盆前に区切りをつけるものと、お盆明けに回すものに、自然と分かれていく。一年目の僕にも、その季節の呼吸が、なんとなく分かるようになっていた。
その日、僕はいつもより少し大きめの機能修正を、書き終えていた。コード変更は百二十行ほど。テストケースも、十二本、書き加えた。
白瀬さんからもらった、これまでのレビューのコメントを振り返りながら、自分の頭の中で白瀬さんの目線をシミュレーションしながら、書いたコードだった。
変数名は、何を保持しているか分かる名前にした。メソッドは、一つの責務に一つ、と意識して分けた。異常系のテストも、入力が空のとき、長すぎるとき、不正な文字のとき、最初から書いた。白瀬さんの二十二件が、いつのまにか、僕の中のもう一人のレビュアーになっていた。書いていると、その声が聞こえる。ここ、tmpじゃ伝わらない。ここ、テストが足りない。
出す前に、白瀬さんの観点の順番で、自分のコードを一周した。命名、よし。テスト、よし。エラー処理は、一箇所自分で直した。先回りの一周。ノートに書いた、あの順番のとおりに。
……たぶん、白瀬さんから、今回はそんなにたくさん、コメントは来ない。
胸の内で、ちょっとだけ自信があった。
PRを出す時、レビュアーの欄に誰を入れるか、迷った。
いつもなら、まず赤坂さんと白瀬さんの両方を入れる。
今日は、赤坂さんを外して白瀬さんだけにしようかと、ほんの一瞬考えた。
でも、それはたぶん、赤坂さんを明示的に無視する行為になる。OJTトレーナーで、隣の席で、毎日顔を合わせる赤坂さんをレビュアーから外すというのは、関係をこじらせるだけだった。
……結局、両方、入れる。
いつも通り、赤坂さんと白瀬さんを、レビュアーに入れた。
PRを、出した。
時刻は、月曜日の午前十一時頃だった。
赤坂さんから、五分後、返信が来た。
「LGTM!」
絵文字、二つ。
……いつもと同じ。
胸の内で、軽く頷いた。
白瀬さんからは、すぐには返信が来なかった。
予想していた。白瀬さんは、業務時間中に断片的にレビューをするのを好まない。集中できる時間に、まとめて見てくれる。
お昼休み。
社員食堂で、いつもの六人席に、同期六人が揃った。最近、お盆前のばたばたで、なかなか揃ってお昼を取れていなかった。今日は運よく、皆、時間が合った。
葉山さんが、こう聞いた。
「皆、お盆、帰る?」
「私、関東、八月十三から十五」
葉山さんが自分から答えた。
「俺、地元、車で一時間、十四日に日帰り」
黒木が答えた。
「俺、ネパール、帰らない今年。十二月、帰る予定」
アユシュさんが答えた。
「私、東京、十二日から十五」
杉本さんが答えた。
「俺、独身寮のお盆、ぼーっと過ごすっす」
丸山くんが笑った。
「実家、関東なんすけど、両親と、ちょっと間、置きたくて」
……間を置きたい。
その言葉を、胸の内でなぞった。
丸山くんの家庭の事情は、僕はよく知らなかった。けれどいつもの「っす」の明るさの奥に、たぶん彼にも語らない何かがあるということは、伝わった。
「桐谷くんは?」
葉山さんが僕を見た。
「僕、地元、十二日から十五日」
「そっか、桐谷くん、地元、車でいいね」
「乗り継いで四時間半、ですけど」
「そう。四時間半」
葉山さんは軽く頷いた。
お昼休みが終わった。
午後のフロアには、お盆前の調整の声が、ぽつぽつ飛んでいた。諏訪さんが各自の休みの予定をホワイトボードの小さな表に書き込んで、連絡当番の欄を埋めていく。誰が休んでも、誰かが受けられるように。お盆というのは、カレンダーの行事である前に、チームの設計の問題らしかった。
表の白瀬さんの欄には、お盆の三日間に、ちゃんと丸がついていた。白瀬さんも、休む。当たり前のことがなぜか少し意外で、それから、ちゃんと嬉しかった。
午後、業務に戻った。
二時頃、白瀬さんからレビューが来た。
通知のぴょこん、という音。
画面を開いた。
コメント、十五件。
……八件から、少し増えた。
そう、胸で頷いた。
一件ずつ読んでいった。
最初の数件は、前回までに白瀬さんから指摘されて、僕が慣れてきた項目とは違う、新しい指摘だった。
「このメソッドの引数の数、五つあります。三つ以下に減らせると、読みやすくなります。引数オブジェクトにまとめるという選択肢もあります」
……引数オブジェクト。
次の指摘は、依存関係について。
「このクラス、別のサービスクラスを直接newしていますね。コンストラクタで注入してもらう形に変えると、テストが書きやすくなります」
……依存性の注入。
依存性の注入、という言葉は、勉強会でちらりと聞いたことがあるだけだった。コメントには、続きがあった。
「参考までに、修正前と修正後のイメージを書いておきます」
その下に、短いコードが二つ、並んでいた。今の形と、注入の形。差は数行なのに、変えた後の方は、テストの時に本物の代わりの部品を差し込める形になっている。
……コメントの中で、コードまで書いてくれている。
十五件のうち、コードの例が付いているものが、四件あった。一件あたりの白瀬さんの時間を思うと、軽く頭が下がった。LGTMの五分と、この十五件の二時間。同じ「承認」までの道のりが、まるで違う。
白瀬さんが書く言葉は、毎回、僕の知識のちょっと先を指摘してくる。だから、僕は毎回、新しいことを学ぶことになる。
お盆前に、すべての修正は難しいかもしれない。
でも、優先度の高いものから対応した。十五件のうち、十件くらいは対応できた。残りは、お盆明けに対応する。
修正版を、PRにpushした。
マージはしてもらう前に、白瀬さんに再レビューをお願いした。
その時、ふと、隣の赤坂さんの机に目が行った。
赤坂さんは、こちらをちらりと見ていた。
「桐谷くん、白瀬さんにまた見てもらってる?」
赤坂さんの声はいつもの明るさだった。けれど、いつもよりほんの少しだけ、トーンが違っていた。
「はい。最近、白瀬さんに見てもらうようにしています」
答えた。
赤坂さんは軽く笑った。
「俺のレビュー、軽くない? ちゃんと見てるよ?」
……軽くない? ちゃんと、見てるよ?
僕は、止まった。
「いえ、赤坂さんのレビューも毎回ありがたいです。両方の方のレビューがあって、僕、勉強できるので」
言葉を選んで、答えた。
赤坂さんは、表情がほんの一瞬だけ、硬くなった。それから、すぐにいつもの笑顔に戻った。
その一瞬の硬さを、僕は見てしまった。見てしまった自分が、少し申し訳なかった。赤坂さんは、悪気があって放置しているわけではない。たぶん本人も、うまく言葉にできない何かを、笑顔の下に隠している。それを僕が観察してしまうことは、赤坂さんにとっては、たぶん優しくないことだった。
「うん、まあ、桐谷くんが勉強できるなら、それでいいよ」
「ありがとうございます」
頭を、下げた。
それから赤坂さんは、思い出したように付け足した。
「白瀬さんのレビューさ、俺も前に一回もらったことあるよ」
「そうなのですか」
「三年くらい前かな。三十件くらい来て、俺、三日くらいへこんだ。で、次から、白瀬さんに出すのやめちゃった」
軽い声だった。軽い声のまま、たぶんいちばん大事なことを言っていた。
へこんで、やめた人と、へこんで、続けた人。分かれ道は、そういう小さな場所にあるのかもしれなかった。三十件をもらった日の赤坂さんと、二十二件をもらった日の僕は、たぶん同じ場所に立っていた。違ったのは、その次の日だった。
……赤坂さん、たぶん、白瀬さんのレビューが自分のレビューより丁寧であることに、気づいている。
僕は、そう思った。
でも、それを認めるわけにもいかない。だから、「俺のレビュー、軽くない? ちゃんと見てるよ?」と、自分に言い聞かせるような声になる。
……これも、間宮先輩の言う「責任から、逃げているサイン」、なのかもしれない。
胸の内で、つぶやいた。
でも、赤坂さんを「責任から逃げてる人」と、断罪したいわけではなかった。
赤坂さんは、優しい人だった。少なくとも、表面的にはずっと、僕に優しくしてくれた。OJTトレーナーとして、最初の三ヶ月、いろいろ教えてくれた。
ただ、その「優しさ」と、白瀬さんの「優しさ」が違うということが、もう僕の中ではっきりしてきていた。
午後の終わり、白瀬さんから、再レビューが来た。
「修正、いい感じです。マージしてください。残りは、お盆明けに対応で大丈夫です」
承認のボタン。
短いけれど、温かいコメント。
マージのボタンを、押した。
画面が、緑色に変わった。
帰りがけ、白瀬さんの席の横を通った時、少しだけ立ち止まった。
「白瀬さん、コードの例まで書いてもらって、ありがとうございました」
「ああいうのは、書いた方が早いから」
白瀬さんは画面から目を離さずに答えた。それから、少しだけこちらを向いた。
「桐谷くん、最近出す前に一周してるでしょう」
「……分かりますか」
「分かる。直す前から、直してある」
直す前から、直してある。それはたぶん、白瀬さんの言い方での、褒め言葉だった。
退社の時間。
いつもより、少し早めにフロアを出た。
桜並木通り、八月初旬の夕方。日が、まだ高い。蝉の声が、街路樹の緑の中から聞こえていた。
寮に戻る道、一人で考え事をした。
……「優しさ」には、二種類、ある。
胸の内で、そうつぶやいた。
配属まもない五月上旬のノートに書いた、「先輩には二種類いる」と繋がる気がした。
あの時の二種類は、「すぐ答える先輩」と「答えそのものを残す先輩」、だった。
今、考えていた二種類は、別の軸だった。
すぐ答えるか、答えを残すか。それは、速さと丁寧さの違いだった。今日、僕が見たのは、もっと別の何か。相手の今を楽にする優しさと、相手の未来を育てる優しさ。前者は、その場で気持ちいい。後者は、その場では少し重い。蝉の声を聞きながら、僕はその二つを、頭の中で何度も並べ替えた。
寮に戻った。
夕食を食堂で軽く済ませて、部屋に上がった。
ノートを、机に置いた。
今日のページに、こう書いた。
PR、いつものように赤坂さんと白瀬さん、両方にレビュー依頼。
赤坂さん:LGTM! 絵文字二つ。五分。
白瀬さん:十五件のコメント。二時間後。コードの例つきが四件。
二十二件、十五件、八件、そして十五件。増えた時は、指摘の階が上がった時。
白瀬さんの指摘で修正。
赤坂さんが「俺のレビュー、軽くない? ちゃんと見てるよ?」と、こちらに言ってきた。
書きながら、ペンを止めた。
もう一行、書きたい言葉があった。
書いた。
二種類の、優しさがある。
磨く、優しさと、放置する、優しさ。
書いてから、その文字をしばらく見ていた。
白瀬さんは、磨いてくれる優しさ。十五件、二十二件のコメントを書いてくれる。それは、僕が五年後、十年後、もっといいエンジニアになるための、優しさ。
赤坂さんは、放置する優しさ。LGTMで、何も指摘しない。それは楽な選択。今日の僕は、何の修正もしなくていい。けれど、五年後、十年後、僕のコードはたぶん、ぐちゃぐちゃのままになる。
……どちらも、優しさ、と呼ばれる。
そう、口の中でつぶやいた。
でも、本物の優しさはどっちなんだろう。
たぶん、「磨いてくれる、優しさ」が、本物の優しさ。
「放置する、優しさ」は、本当は、優しさではない。それは、責任の回避。
でも、表面的には、両方とも優しく見える。
……赤坂さんも、自分は優しい人だと信じてる。
胸の内で、そう思った。
たぶん、赤坂さん本人は、放置していることには気づいていない。「桐谷くんに優しくしている」と、本気で信じている。
その信じ方が、ある種の自己肯定感を保つ、装置になっているのかもしれない。
間宮先輩の言う「権限と、責任の乖離」とは違う、けれど似た構造だった。
……でも、たぶん、二種類じゃ、足りない。
ふと、そう思った。
赤坂さんは、自分が放置していることに気づいていない。立花さんは、たぶん気づいていて、でも言わない。同じ「優しそう」の下に、まだ名前のついていない顔が、いくつか隠れている気がした。
……でも、今日はここまで。
全部に名前をつけるのは、まだ早い。たぶん、もっと先で、ぜんぶ、並ぶ。
ノートを閉じた。
窓の外、八月初旬の夜風が、開けた窓から入ってきた。蝉の声はまだ続いていた。夜の蝉、ヒグラシ。
お盆休み、もうすぐ。
地元に帰って、父の肩痛を確認して、母と話して、妹とたぶん軽く喧嘩して、四日間、過ごす。
その間、白瀬さんは、赤坂さんは、立花さんは、古川さんは、それぞれ、何をしているんだろう。
諏訪マネージャーは、たぶん、家族と過ごす。葉山さんも、丸山くんも、黒木も、杉本さんも、それぞれ家族と過ごす。アユシュさんは、独身寮でネパールとビデオ通話する、らしい。
……皆、それぞれのお盆。
胸の内で、つぶやいた。
明日も、白瀬さんに、お盆前にもう一つPRを見てもらうつもりだった。
赤坂さんは、たぶん明日も「LGTM!」と、絵文字、二つ。
でも、明日は、僕から一つ、質問を返してみよう。ここ、本当に大丈夫でしたか、と。放置する優しさに、放置されたままでいるのは、たぶん、僕の側の甘えでもあった。観察するだけでなく、半径3メートルの中で、小さく、動いてみる。
……それでも、僕は毎日、観察を続ける。
ノートに、書き続ける。
それが、僕の半径3メートルの変革、だった。




