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新卒エンジニア、観察ノートを開く(上巻) 観察を、始める  作者: 音無 凪


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第24話「全社会議、CTOの言葉」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 七月の最終週、金曜日の午後。


 ヨキエルの四半期に一度の、全社会議の日だった。


 社員百一名のうち、休みや外出中の人を除いた、ほぼ全員が、本社の大会議室に集まる。普段は会議室として使われている広い部屋が、今日は椅子だけがぎっしり並べられて、講演会場のような形になっていた。


 午後三時、開始。


 チームAの僕らも、フロアを離れて、エレベーターで大会議室のある一階に下りた。


 白瀬さんは、僕の前を歩いていた。立花さんは誰かと雑談しながら、後ろから来ている。古川さんは相変わらず無言で、最後の方についてきていた。諏訪マネージャーは、すでに会議室で別の業務を片付けていた。


 大会議室、入り口で、葉山さんと合流した。


「桐谷くん」


 葉山さんは、軽く手を振った。


 葉山さんは、チームBの丸山くんと一緒だった。アユシュさんと黒木は、組込みチームの別の入り口から来ていた。杉本さんも、パッケージ事業チームの人たちと一緒に、別の場所から来ていた。


 同期六人で、奥の方の空いている席に固まって座った。


 ……新卒、皆、初めての、全社会議。


 僕は、そう思った。


 


 午後三時、壇上の左側の扉から、村瀬社長が入ってきた。


 大会議室の入り口の脇、控えのスペースで、社長は一瞬、足を止めた。襟元を軽く整え直した。それから、ゆっくりと壇上に上がってきた。


 ……社長、いつもより、ほんの少しだけ、間が長い。


 僕は、そう思った。


 四代目に就任して六年目の社長が、四半期に一度の全社会議の前に何を思い返しているのか、僕には分からなかった。


 ただ、襟元を整え直すあのほんの数秒、村瀬社長の表情が、いつもよりわずかに引き締まっていた。


 壇の脇の薄暗がりの中で、社長は短く目を伏せた。何かを思い返しているような、数秒だった。それから軽く息を吸って、壇上に上がった。あの数秒に何があるのかを、僕はまだ知らない。


 村瀬社長が、壇上に立った。


 白いシャツにネクタイ、紺のスーツ。いつもの村瀬社長だった。けれど今日はなぜか、いつもより、表情が少しだけ引き締まっていた。


「皆さん、お疲れさまです」


 マイクを通した声は、ゆっくりと、しかしはっきりと、会場に届いた。


「四半期の業績報告をいたします」


 社長は、スライドを出した。


 売上、利益、解約率、新規顧客。それぞれの数字が、並んでいた。


 ……数字、初めて見るの、僕。


 胸の内で、軽く緊張した。


 売上は、前年同期比で五パーセント増加。利益率は、横ばい。解約率は、わずかに改善。新規顧客は、二件、獲得。


 社長はそれぞれの数字に、簡単なコメントを付けながら、説明を続けた。


 数字の説明が終わって、社長はこう言った。


「皆さんご存じの通り、うちは創業以来、受託開発を中心にやってきました」


 社長の声が、少しだけ深くなった。


「しかし、受託だけでは、長期的に会社の成長は限界があります」


 会場の全員が、しんとなった。


「ですから私は就任以来、受託からの脱皮を進めています」


 ……「脱皮」。


 その言葉を、胸の内でなぞった。


「自社サービス事業チーム、パッケージ事業チーム、それぞれの自社プロダクトの売上をもっと太くしていく。受託開発で培った技術力と、顧客との信頼関係を自社プロダクトに活かしていく」


 社長は、続けた。


「それを五年で実現するのが、私の四代目社長としての責任です」


 ……「五年で、実現する」。


「私は新卒でヨキエルに入りました。エンジニア、営業、経理、人事、バックオフィス全般、すべて経験して、社長になりました」


 社長の声は、淡々としていた。けれど、奥に確かな熱があった。


「私はヨキエルのすべての部署を知っています。そしてヨキエルのすべての部署に、苦労があり、可能性があることを知っています」


「その苦労と可能性を信じて、私は変革を進めます」


 会場の空気が、ほんの少しだけ震えた。


 社長は、ゆっくり頭を下げた。


「皆さん、これからもよろしくお願いします」


 拍手が、起きた。


 葉山さんが、僕の方をちらりと見た。


 ……いつもより踏み込んだ社長の発言、だね。


 葉山さんの目は、たぶんそう言っていた。


 僕も、軽く頷き返した。


 社長が、壇上を降りた。


 次に、遠野CTOが登壇した。


 白いシャツに、グレーのスラックス。いつもの遠野さん。


 マイクを手に取って、遠野CTOはこう始めた。


「短く、話します」


 ……短く、話します。


 僕は、軽く笑いそうになった。


 研修の時の最初の挨拶も、遠野CTOは「短く話します」と言って始まった。あの時と同じ、出だしだった。


「技術方針を、三つお伝えします」


 遠野CTOは、ホワイトボードの方は見なかった。代わりに、スライドを出した。


 スライドに、三つの項目が並んでいた。


「一、品質を上げる。二、開発速度を上げる。三、エンジニアが長く働ける組織を作る」


 遠野CTOは、それぞれを簡単に説明した。


 品質については、コードレビューの徹底と、ドキュメント化、それから自動テストの導入。


 開発速度については、リードタイムの計測と、デプロイ頻度の向上。


 三つ目。エンジニアが長く働ける、組織。


 ここで、遠野CTOは少しだけ、間を取った。


「三つ目について、特にお伝えしたいことが、あります」


 会場が、静かになった。


「上に立つ者には、最低限の条件がいくつかあります」


 ……「上に立つ者の、最低限の条件」。


 その言葉を、胸の内でなぞった。


「その中で、私が特に大切にしていることをひとつ、申し上げます」


「マネージャーの最低限の責務は、自分自身を、安定して保つこと」


 ……自分自身を、安定して保つこと。


「マネージャーが自分の状態に責任を持つことで初めて、チームのメンバーが安心して働けます」


 遠野CTOの声は、淡々としていた。けれど、奥にしっかりした芯があった。


「これは簡単なことではないと思います。私自身、三十年以上、エンジニアとして、マネージャーとして、CTOとして、いくつかの場所で働いてきましたが、自分の状態を安定させるということは最も難しい仕事の一つです」


 ……三十年以上。いくつかの場所で。自分でも、難しい、と。


「ですから、皆さんにお願いがあります」


 遠野CTOは、続けた。


「マネージャーの方は、自分の心身の安定に責任を持ってください」


「メンバーの方は、もしマネージャーが安定を欠いていると感じたら、私や人事の沢田、それから産業医の斎藤先生に相談してください」


 ……「相談してください」。


 その言葉が、胸に残った。


 葉山さんの方を、見た。


 葉山さんも、こちらを向いていた。


 ……これ、来たね。


 二人の目が合った。たぶん、同じことを考えていた。


 遠野CTOは、最後にこうまとめた。


「品質、速度、組織。三つの軸は、東京の大企業でも、新興スタートアップでも、地方の中堅企業でも、同じ問いです。答えは、その場所ごとに半段違います。しかし、軸は、同じです」


「ヨキエルの技術力を、ヨキエル流のやり方で上げていきます」


「以上です」


 拍手。


 遠野CTOが、壇上を降りた。


 ……あの研修員制度を発案した人が、今、全社の前で三方針を置いた。


 そう、僕は確かめた。入社初日に沢田さんが「遠野が発案した制度です」と置いた一行と、今日の三方針が、頭の中で薄く重なった。「エンジニアが長く働ける組織」と「親御さんからお預かりした新卒の方にきちんと育ってもらう制度」が、たぶん同じ一本の線で繋がっていた。


 その線の途中に、六月の社内勉強会も置かれていた。あの夕方、遠野CTOがホワイトボードに「Scientist」「Engineer」「Ethics」と書いて、倫理には二つの系統があると話した。科学者の倫理は、真実への忠実さ。技術者の倫理は、見届ける責任。あの二つの倫理が、今日の三方針の奥でも、まだ生きている気がした。


 ……見届ける、という言葉。


 胸の内で、もう一度撫でた。「エンジニアが長く働ける組織を作る」というのも、たぶん遠野CTOにとっては、見届ける責任のひとつの形だった。自分の組織のエンジニアが、長く健やかに働けるかを、見届ける。それは入社初日の研修員制度の発案と、たぶん同じ温度の責任だった。


 大沢マネージャーの方を、ちらりと見た。


 大沢さんは、こちらの列の少し前の方に座っていた。表情は、じっと固まっていた。


 江口マネージャーは、また別の列に座っていた。彼の表情もなぜか、いつもより少しだけ、硬かった。


 ……二人とも、伝わったらしい。


 僕は、そう思った。


 続いて、滝口CFOが壇上に上がった。


 グレーのスーツに、ストライプのネクタイ。背の高い人だった。入社式の壁際で、数字の人、という印象だけ持った人。中身を聞くのは、今日が初めてだった。


「滝口です。財務状況を、補足します」


 スライドの数字を読む声に、抑揚がほとんどない。なのに、不思議と眠くならなかった。数字そのものに語らせて、自分は一歩引いている話し方だった。声は淡々としていた。受託脱皮の進捗を月次の数字で並べたあと、滝口CFOはこう付け加えた。


「自社プロダクトのうち、パッケージ事業の売上が前期から少しずつ落ちてきています。次の四半期で、事業の見直しを始めます」


「あわせて受託開発も。国内のIT市場と開発技術の動向を踏まえますと、中長期では緩やかな縮小が見込まれます。社長の進める脱皮は、外部環境の上でも避けては通れません」


 ……パッケージ事業の売上。受託の、中長期の縮小。


 僕は、二つの言葉を拾った。杉本さんと、僕たちのチームAの行く先だった。


 見直し、という言葉が出た時、会場の空気が少しだけ動いた。パッケージ事業チームの島のあたりで、誰かが小さく咳をした。人垣の中に杉本さんの顔を探したけれど、見つからなかった。


 次に、柳沢CISOが壇上に上がった。


 紺のスーツに白いシャツ。地味な人だった。入社式の壁際では、守る人、という印象だった。スライドは一枚だけ。読み上げる声は滝口CFOよりさらに静かで、なのに内容は、今日いちばん尖っていた。


「柳沢です。情報セキュリティからひとつ、お願いがあります」


「業務の話は、社外の飲食店では話さないでください。顧客の名前も、社員の評価も、同じです」


「当社が入居しているビルのエレベーターの中でも、同じです」


「他人の耳は、思った以上に近くにあります。お酒の入る場では、特に気をつけてください」


「他人の耳に入った瞬間に、それは情報漏洩です」


「以上です」


 ……他人の耳に入った瞬間、情報漏洩。


 柳沢CISOの一行を、胸の内でなぞった。


 ……一週間前の、あの夜。


 あの金曜日の居酒屋。他のお客にも届く声で、白瀬さんの名前と評価が、テーブルの上を通り過ぎていた。


 声の大きかった人たちの肩が、会場のあちこちで、もう一度固まった。


 全社会議は、それから各部の報告で続いた。受託開発部、製品開発部、組込み開発部。それぞれ十分ずつ、報告した。


 受託開発部の報告には、みなと信用金庫の名前が出た。七月の障害と再発防止の取り組みも、一枚のスライドで触れられた。会場の真ん中で聞きながら、僕は少しだけ背筋が伸びた。あの三十分が、全社の資料の一行になっている。


 すべてが終わったのは、午後五時半過ぎだった。


 


 会議室を出る、廊下。


 葉山さんと、目が合った。


「桐谷くん、今日のCTOの話どう思った?」


「……たぶん、ちゃんと伝わってる」


「うん、伝わってる」


 葉山さんは、軽く頷いた。


「桐谷くん、今日寮まっすぐ帰る?」


「うん、帰るよ」


「私も寮、帰る」


 二人で、エレベーターに乗った。


 降りて、ロビーで別れた。


 


 退社して、寮に戻った。


 夕食を食堂で軽く済ませて、部屋に上がった。


 


 ノートを、机に置いた。


 今日のページに、こう書いた。


 四半期、全社会議。


 村瀬社長:受託からの脱皮を、五年で実現する。


 遠野CTO:三つの技術方針。品質、速度、エンジニアが長く働ける組織。


 遠野CTOの、三つ目について。


 「上に立つ者の、最低限の条件」。


 「マネージャーの最低限の責務は、自分自身を、安定して保つこと」。


 滝口CFO:パッケージ事業の売上低下。次四半期で事業見直し。受託も国内市場と技術動向から中長期で縮小予想。


 柳沢CISO:公の場での業務話・顧客話・社員評価話の禁止。お酒の入る場は特に。「他人の耳に入った瞬間に、それは情報漏洩」。


 入社式の壁際の二人に、今日、中身がついた。数字の人は数字で語り、守る人は静かに尖っていた。


 書きながら、ペンを止めた。


 もう一行、書いた。


 大沢マネージャー、江口マネージャー、表情が固まっていた。


 それから、もう一行。


 今日、たぶん、何かが変わる予兆を見た。


 書き終わって、その文字をしばらく見ていた。


 遠野CTOは、直接的に誰かを批判したわけではなかった。「上に立つ者の最低限の条件」と、抽象的な言い方をした。


 でも、その抽象が誰に向けられていたのかは、たぶん会場のほぼ全員が感じ取った。


 ……変革は、こうやって、進むのか。


 胸の内で、つぶやいた。


 声を上げて誰かを叩くのではなく、抽象的な原則を語って、当てはまる人に自分で気づかせる。


 間宮先輩が土曜日に教えてくれた「半径3メートル」と、繋がる気がした。


 半径3メートルの自分の範囲を、ちゃんと見る。それを正しく表現する。誰かを直接叩かず、原則を伝える。


 ……遠野CTO、本物。


 もう一度、胸で確かめた。


 ノートを、閉じた。


 窓の外、七月末の夜風が、開けた窓から入ってきた。


 八月、もうすぐ、お盆。


 お盆に地元に帰る予定。父の肩痛、確認したい。


 明日は、土曜日。


 また「とんぼ」に寄ってみようかと、ちょっとだけ思った。


 でも、土曜日のお昼は、間宮先輩との約束はない。一人で行くのは、まだ早いかもしれない。


 次は、間宮先輩が誘ってくれた時に行こうと思った。


 ……月曜日から、また平日。


 今日、遠野CTOが伝えたことが、何かのきっかけになるか、ならないか、分からない。


 でも、僕は観察を続ける。


 ノートに、書き続ける。


 それが今、僕にできる、半径3メートルの変革だった。


 遠野さんの言う「両輪」を、技術と事業の両方を、僕が自分の手で回せるのは、まだ、ずっと先のことだった。


 


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