第23話「間宮、構造を語る」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
翌日。土曜日のお昼、十二時。
「とんぼ」の暖簾を押した。
「いらっしゃい!」
大将の声が、奥から聞こえた。
お店の中はお昼の時間帯らしく、お酒の雰囲気よりは定食屋の趣だった。カウンターでは、常連らしき年配の男性が一人、新聞を広げてご飯を食べている。沼田さんが「倉田さん、今日も、いつもの煮魚?」と、カウンターの奥から軽く声をかけていた。倉田さんは新聞から目を上げず、軽く片手を上げて返した。
間宮先輩は、すでに来ていた。カウンターの奥に二席を取って、僕に軽く手を上げた。
「桐谷くん」
「お邪魔します」
頭を下げて、間宮先輩の隣に座った。
女将さんが、おしぼりを持ってきてくれた。
「桐谷くん、昨日はお疲れさま」
「はい、ありがとうございました」
女将さんは笑顔で頷いて、奥に戻っていった。
「お昼、何にする?」
間宮先輩が、カウンターに置かれたお昼のメニューを軽く指した。
お昼の定食メニュー。煮魚定食、刺身定食、唐揚げ定食、中華そば、それから日替わり。
日替わりは今日、夏野菜の揚げ浸し定食だった。
僕は刺身定食。間宮先輩は煮魚定食。
「ビール、頼む?」
「えっと、お昼ですけど」
「土曜日だし、一杯だけ」
間宮先輩は、笑った。
二人で、グラス半分ずつのビールを頼んだ。
料理が来るまでの間。
間宮先輩が、こちらを向いた。
「昨夜の続き、いいかな」
「はい、お願いします」
間宮先輩はビールをひと口飲んでから、こう続けた。
「桐谷くん、昨夜聞いた話、何がいちばん嫌だった?」
「えっと」
考えた。
白瀬さんが悪く言われたことは、嫌だった。けれど、もっと深い嫌なものがあった気がした。
「悪口を言ってる人たちが白瀬さんにほとんど会ったことがないのに、想像で悪く言ってるところです」
「うん、それ、大事なポイント」
間宮先輩は、頷いた。
「想像で悪口を言うのは、なぜか分かる?」
「会ったことないから、本当のことを知らないから?」
「それも、ある。でも、もうひとつある」
間宮先輩はビールをもう一口、飲んだ。
「悪口を言うのは、自分が責任から逃げてるサイン」
……「責任から、逃げてる」。
胸の内で、その言葉をなぞった。
「白瀬さんを悪く言うというのは、つまり、白瀬さんのレビューという面倒くさい行為を自分はやらなくていいことを正当化しようとしてる」
「正当化、ですか」
「うん。レビューを丁寧に書くというのは、責任の取り方の一つ。書かないで、LGTM、と返すのは、責任を回避する選択。前者は面倒くさいけど、責任を果たしてる。後者は楽だけど、責任を果たしていない」
……前者は面倒くさいけど、責任を果たしてる。
もう一度、口の中でなぞった。
「で、面倒くさい人を見ると、楽な選択をしている人は、なぜか不快になる」
「なぜ、不快になるのですか」
間宮先輩は、軽く笑った。
「面倒くさい人が職場にいると、自分の楽な選択が相対的に見劣りするから」
……相対的に、見劣りする。
そう、胸に落とした。
「だから、面倒くさい人を批判する。『あいつ、過剰だ』『あいつ、コミュ障』。そう言うことで、自分の楽な選択を正当化する」
「……」
「これ、心理学的にも、たぶんちゃんと名前がついてる現象。でも俺、心理学者じゃないから、その名前は知らない。ただ、地方IT中小の現場で十年見てきた感覚で語ってる」
刺身定食が来た。
地元の白身魚の刺身。ぷりっとした食感。煮物の小鉢、味噌汁、ご飯。バランスのいい定食だった。
「いただきます」
二人で食べ始めた。
間宮先輩が、続けた。
「もうひとつ、昨夜、桐谷くんが見た構造がある」
「構造、ですか」
「『権限と、責任の乖離』」
……「権限と、責任の乖離」。
その言葉を、もう一度なぞった。
「江口マネージャー、大沢マネージャー、それから立花さん。彼らに共通していることは何?」
「えっと」
考えた。
「悪口を言ったこと、ですけど」
「うん。その悪口を言える立場にいる、ということ。つまり、彼らは職場である程度の権限を持っている」
「マネージャーですし、シニアエンジニアですね」
「で、彼らがその権限に見合う責任を取ってるかというと、たぶん取ってない」
「責任を取ってないというのは」
「江口マネージャー。君も葉山さんから聞いてるかもしれないけど、『現場で決めて』としか言わない」
「はい、聞いてます」
「結果が悪かったら、現場のせいにする。これ、責任を取ってない典型」
……現場のせい、にする。
「大沢マネージャーは機嫌で部下を振り回す。機嫌が悪い日、何を聞いても舌打ちで返す。これも、責任を取ってない」
「責任を取ってないというのは、機嫌、ですか?」
「そう。マネージャーの仕事のいちばん大事な部分は、自分の機嫌をコントロールすること。それができないのは、責任を果たしていないということ」
……自分の機嫌を、コントロールすること。
胸の内で、そう繰り返した。
「立花さんは、コードレビューで『了解』としか書かない。つまり、レビューの責任を果たしていない」
「はい」
「彼らは権限は持っている。でも、責任は取らない。それが『権限と、責任の乖離』」
……「権限と、責任の乖離」。
二度目の、その言葉だった。
「逆にね、権限が大きくなるほど、責任の取り方は外から見えにくくなる。社長とか、CxOとか。あの人たちの責任の取り方は、もっと先で、君にも見えてくる。例えば、規程や通知のいちばん下に、自分の名前を書くっていう取り方」
名前を書く、という責任の取り方。賞与の通知の下にあった、滝口CFOの署名を思い出した。あの一行は、飾りではなかったらしい。
「で、面白いのは、彼らもたぶん、本当は苦しんでる」
……苦しんでる。
「権限と責任の乖離は、長期的には、本人の自己肯定感を削る。なぜなら、自分が本当には何かを果たしていないということを、心の奥のどこかで感じているから」
「……」
「だから、彼らは悪口を言って、自分の楽な選択を正当化する。それは苦しんでるサインでもある」
間宮先輩は煮魚をひと口、食べた。
「白瀬さんは面倒くさい。でも、責任を果たしている。だから白瀬さんは、たぶん長期的に、自己肯定感が保たれる」
「……」
「桐谷くん」
「はい」
「葉山さんが昨夜、何て言ったか、覚えてる?」
「『あれは、悪口の宴じゃなくて、振り返らない人たちの宴』、と」
間宮先輩は、ふっと笑った。煮魚の身を、箸で丁寧にほどきながらこう続けた。
「葉山さん、鋭いな」
「鋭いです」
「桐谷くん、ポストモーテム、って言葉、聞いたことある?」
「いえ、初めて聞きます」
「医学用語でね、死後検証、って意味だ。障害があったあと、犯人探しじゃなく、仕組みを直すための振り返り会のことをITの業界ではそう呼ぶ」
間宮先輩は、箸を一度、置いた。
「アジャイル界隈ではレトロスペクティブ、略してレトロ。こっちは定期開催の振り返り会だ」
指を二本、立てた。
「ポストモーテムは事後検証、レトロは定期検証。やってる組織と、やってない組織で三年経つと景色がまるで違ってくる」
……三年で、景色がまるで違ってくる。
その言葉を、胸に刻んだ。
「もう一つ、マネジメントや改善の基本でPDCA。Plan、Do、Check、Act。ポストモーテムとレトロは、PDCAのCとAを会議体にしたもの、と思ってくれていい」
「PDCA、諏訪マネージャーがこないだ教えてくれました」
「あー、諏訪さんね」
間宮先輩は、頷いた。
「諏訪さんは、たぶん、この『ポストモーテム』も『レトロ』も、ぜんぶ知ってる。それなのに、社内では『振り返り』『振り返り会』、と日本語で通してる」
「日本語、ですか」
「うん。たぶん、その方が組織に染み込む、と思ってるから。横文字で煙に巻くより、日本語で同じことを言う方が現場の人が腑に落ちる」
……諏訪さんは、知っていて、選んでる。
心の中で軽く、止まった。
諏訪さんが川島部長に「当社側のコードの問題でもあります」と頭を下げた声と、Confluenceの「第五十五期・七月 みなと信用金庫障害 振り返り」のページのタイトルが、頭の中で薄く重なった。
カウンターの中で、煮物を温めていた大将が、奥から声を出した。
「ポストなんとか、って横文字は俺ら苦手だがな」
大将は、鍋のふたを片手で押さえながら、こう続けた。
「うちもな、月の終わりに雅代とその月の振り返りやってるよ。今月どの料理がよく出たか、どの常連さんが何を頼んだか」
奥から、女将さんの声がした。
「先月の十日にね、銀行員のお客さんが出汁巻きを少し残されたの。あれが気になって、しばらく出汁の塩加減を変えてみたの」
「お、変えたの?」
「変えたの。今月の煮物、ちょっと味付け薄めにしたのも、その流れ」
「あー、そういうことだったか」
大将は、笑った。
「俺ら、ポストなんとかとか、レトロなんとかとか、知らんけどな。振り返る、っていう言葉なら、分かる」
間宮先輩が、満足そうに頷いた。
「沼田さん、たぶん、それです」
「うちの店、三十年近くやってこられた、いちばんの理由かもしれんなぁ」
大将は、煮物の鍋から、ふっと湯気を立たせた。
……三十年、続いてる店の、たぶん、理由が、ここにある。
僕は、そう思った。
「桐谷くん、君もたぶん面倒くさい人になる側を選んでいる」
「え、僕、まだ面倒くさい人ではないと思いますけど」
「君がノートを書いてること、知ってる」
……ノート。
心の中で軽く、止まった。
「いつ、誰から聞いたのですか」
「白瀬さんがぽろっと言ってた。『桐谷くん、ノートに何か書いてるみたい』って」
……白瀬さんが、見ていた。
「観察してノートに書くというのは、面倒くさい行為。楽なのは、観察しないで流すこと」
「……」
「それ、桐谷くんがやってるノート、業界の言葉で言えば、個人レトロ、だな」
「な、何ですか、個人レトロって」
「自分の一日を振り返って、明日に活かす。立派なレトロだよ。毎日やってるなら、君はこのフロアの誰よりレトロ実践者だ」
……待ってください、それ、褒められてるのか、それとも揶揄われてるのか。
心の中だけで、僕はそうつぶやいた。
大将が、奥でニヤリと笑った。たぶん、僕の表情を見ていた。
「君は、面倒くさい方を選んでる。それは、責任を取る側に立つということ」
……責任を、取る側。
その言葉を、もう一度なぞった。
「だから、君はいずれ白瀬さんのようなポジションに行く」
「白瀬さんのようなポジション、ですか」
「うん。十年、二十年で、君はヨキエルの技術的な芯になる人になるかもしれない」
「そんな、僕、まだ新卒で、何もできないですけど」
「今はそう。でも、十年で変わる。コードは十年書き続けると根本から変わる」
間宮先輩は、笑った。
「俺はたぶん、君ほど執念深く観察できなかった人間。だから、君が観察を続けることが、嬉しい」
……執念深く、観察できなかった。
その一言が、胸に残った。
「間宮さん、昔、何かあったのですか」
「あった」
間宮先輩は、ビールを最後のひと口で飲み干した。
「俺、若い頃、変革したいって思って、たくさん動いた。新しい技術を提案して、新しいドキュメント文化を提案して、組織を変えようとした」
「はい」
「でも、変わらなかった。変わらないことたくさん。何回も、何回も提案して、何回も、跳ね返された」
「……」
「で、ある時、変えるのをやめた」
間宮先輩の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「正確には、変えること自体はやめてない。でも、激しく動くのをやめた。代わりに、自分の半径を狭く保って、その範囲だけちゃんと変える、という方針に変えた」
……「半径を、狭く、保って」。
遠野CTOの言葉と、同じだった。
「遠野CTOの『半径3メートル』。それ、遠野さんが間宮さんに教えてくれたことです?」
「逆」
「逆?」
「俺が遠野さんに相談してた時に出てきた言葉。『間宮、自分の半径3メートルだけ、ちゃんと見ていけ』って、遠野さんが言った」
「遠野さん、間宮さんと深い関係なのですか」
「八年の関係。最初は東京の勉強会で会った。遠野さんがCTOとしてヨキエルに戻ってきた時、俺はもう社員だった」
……八年。
遠野さんも、ヨキエルの外から来た人だった。
「遠野さんは二十年くらい前、別の会社で変革をしようとして潰れかけた。それからヨキエルに来て、半径3メートルから変える、という方針を見つけた」
「遠野さんも、潰れかけたことがあるのですね」
「変革者は、たいてい一回、潰れかける。だから、潰れた経験のある変革者の方が長続きする」
……潰れた経験のある、変革者。
その言葉を、もう一度なぞった。
「桐谷くん、君もたぶんいずれ、潰れかけを経験する。その時、自分の半径を狭く保つ。それが君が長く変革者でいるコツ」
「はい」
「それから、もう一つ。逃げ場をたくさん、持って」
「逃げ場?」
「会社の外に、世界をいくつか持つ。趣味でも、コミュニティでも何でもいい。会社がすべてになる人は潰れやすい」
……逃げ場を、たくさん持つ。
もう一度、胸でなぞった。
「俺、今、自転車、ボードゲーム、自治会、料理、Podcast、それからたまに、小説、書いてる」
「小説、書いてるのですか」
「年に一本、書く程度。発表はしてない」
間宮先輩は、笑った。
「あと、最近は港川のITの勉強会にも、たまに顔を出してる。市内の別のIT会社の人がやってる、小さい集まりなんだけど。主催してるのが、俺の古い友達でね」
「社外の、勉強会」
「うん。社内の勉強会とは、また空気が違う。会社の名前を脱いだエンジニアがどんな顔をしてるか。あれも一つの、観察の場だよ」
会社の名前を脱いだエンジニア、という言い方が、頭に残った。僕はまだ、ヨキエルの中のエンジニアしか知らない。会社の外に、同じ仕事の別の世界が広がっている。その入り口を、間宮先輩は逃げ場の一つとして、さらりと挙げた。
「桐谷くんも、いつか連れていくよ。まだ早いけど」
「まだ早い、ですか」
「まず社内で、足場を作ってから。外の世界は足場のある人の逃げ場になる。足場のない人には、ただの迷子の場所になる」
間宮先輩は、そう言ってお茶を飲み干した。
お昼の定食を、二人で食べ終わった。
お会計、間宮先輩がまた、まとめて払ってくれた。
「いいですか、また」
「いいから、いいから」
お店を出た。
桜並木通り、土曜日の午後。葉桜の影が、地面に揺れていた。
「桐谷くん、またいつでも『とんぼ』、来ていいよ」
「はい」
「俺、平日の夜たまに来るし、土曜日のお昼も、よく来る」
「ありがとうございます」
寮への道、駅への道、別れる場所が来た。
「じゃ、また月曜日」
「はい」
手を振って、別れた。
寮に戻った。
部屋に上がって、ジャケットを脱いだ。
ノートを、机に置いた。
今日のページに、こう書いた。
「とんぼ」、お昼、間宮先輩と。
間宮先輩が教えてくれた、二つの構造。
一、悪口は、責任から逃げてるサイン。
二、権限と、責任の乖離。
間宮先輩が教えてくれた、振り返りの言葉たち。
ポストモーテム(事後検証)。
レトロスペクティブ(略してレトロ、定期検証)。
PDCA(Plan、Do、Check、Act)。
諏訪さんは、知っていて、日本語で「振り返り」と言ってる。間宮さんは、横文字を持ち込んでくれる。役割が、違う。
「とんぼ」の大将「振り返る、っていう言葉なら、分かる」。お店、三十年近く。
間宮先輩が、僕のノートを、「個人レトロ」、と呼んだ。
江口、大沢、立花。彼らは権限を持つが、責任を取らない。だから、苦しむ。
白瀬さんは面倒くさいが、責任を取る。だから、保たれる。
書きながら、ペンを止めた。
もう一行、書いた。
間宮先輩、遠野CTOの「半径3メートル」、自分から出てきた言葉、と言った。
そして、もう一行。
逃げ場を、たくさん持つ。
書き終わって、自分の文字をしばらく見ていた。
……間宮さん、たぶん、本物だ。
胸の内で、そうつぶやいた。
諏訪マネージャー、白瀬先輩、それから間宮先輩、遠野CTO。本物の人たち。
立花、江口、大沢、牧野、それから赤坂(まだ判断は保留)、古川(まだ観察中)、彼らは別の側にいる。
ヨキエルには、二つの世界が共存している。
昨夜の悪口の世界と、温かい「とんぼ」の世界。
……どちらも、同じ会社の、同じ街の、同じ夜。
ぽつりと、口の中でつぶやいた。
ノートを閉じた。
窓の外、土曜日の午後の静けさが、開けた窓から入ってきた。
明日も、休み。
日曜日は、ゆっくり寝る。
月曜日から、また平日。
平日の世界の中で、僕はまた、観察を続ける。




