第22話「悪口の宴、そしてとんぼへ」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
七月の第三週、金曜日の夕方。
チームBの江口マネージャーから、Slackの個別メッセージが来た。
「桐谷くん、今夜うちのチームの歓迎会やるんだけど、君も来ない? 越境交流、ってことで」
……越境交流。
その言葉を、胸の内でなぞった。
チームAとチームBは同じフロアの隣同士で仕事をしている。技術的にはほぼ同じことをしている。普段は違うチームだけれど、会社の都合でたまにお互いの仕事を手伝うこともある。
越境交流と言われると、たしかに聞こえはいい。
でも、なぜ急に僕に声がかかったのか。
Slackの別のメッセージを見ると、立花さんからこう来ていた。
「桐谷くん、今夜江口さんから誘われた? 僕、推薦しといたよ!」
……立花さんが推薦。
胸の内で、軽く止まった。
立花さんはなぜ、僕をチームBの飲み会に推薦したんだろう。
葉山さんの方を見た。チームBのフロアにいる葉山さん。社内Slackで確認した。
蒼太:今夜のチームB歓迎会、僕も呼ばれた
葉山:あー、立花さんが桐谷くん紹介したんだ
蒼太:そうなの?
葉山:朝、立花さんがうちのフロアに来て、江口さんと何か話してた
……立花さんが江口さんと話していた。
また、軽く止まった。
葉山:行く?
蒼太:皆、行く?
葉山:私と丸山くんは断れない。チームの飲み会だから
葉山さんと丸山くんは強制参加に近い。僕は断れるはずだった。
でも、断るとあとで立花さんから「ノリ悪いね」と言われそうな気がした。
……一回、行ってみるか。
心の中で決めた。
葉山さんにこう返した。
蒼太:行く。皆と合流する
午後、業務を終えて十九時、駅前の別の居酒屋。「海宝亭」とは別の、もう少し安そうなお店だった。
お店に着くと、すでにチームBの全員、それから組込みチームの大沢マネージャーも来ていた。
……大沢さんもいる。
胸の内で、僕は軽く止まった。
黒木とアユシュさんは招待されていなかったらしい。組込みチームから大沢さんだけ、というのはたぶん、マネージャー同士の別の繋がりなのだろう。
古川先輩も来ていた。チームAから、立花さんと、僕と、古川さんと、三人。チームBは、葉山さんと丸山くん、それからシニアエンジニア二人と、中堅一人、それから江口マネージャー。
席は大人数の長机だった。
江口さんが僕を自分の隣の席に誘導した。
葉山さんは僕の正面の席。丸山くんは僕の隣、もう一方。
乾杯。
「桐谷くん、ようこそ、チームBの夜に!」
江口さんがジョッキを軽く僕に向けた。
「ありがとうございます」
頭を下げて乾杯した。
最初の三十分は雑談だった。チームBの仕事の話、夏の予定、家族の話。
雑談の間、僕は少しだけ、テーブルの全体を観察していた。話題は途切れなかった。けれど、仕事の中身の話は、出ては消えた。誰かの技術の話が始まりかけると、誰かが冗談で受けて、別の話題に流れる。チームAの飲み会なら、たぶん誰かが一度は、こないだのリリースの話を最後までする。ここでは、仕事は酒の肴にならない。肴になるのは、たぶん、人だった。
江口さんはお酒が進むにつれ、いつもの「いろいろ」「まあ」「たまたま」が減って、代わりにもう少しはっきりした言い方をするようになってきた。
四十分が過ぎた頃、大沢マネージャーがジョッキをぐっと傾けて、こう言った。
「いやー、最近白瀬さんのレビューがまたすごいらしいね」
……来た。
僕は軽く、止まった。
大沢さんは続けた。
「桐谷くんに二十二件コメントつけたって? あれ、新人潰す気だろ?」
……新人潰す気。
江口さんがジョッキの半分くらいを飲んでから頷いた。
「あの人、たぶんコミュ障だよね」
……コミュ障。
声が少し大きかった。お店の中の別の客にも聞こえそうなくらい大きかった。
実際、隣の席の知らないお客さんが、ちらりとこちらを見た。白瀬さん、という名前が、お店の空気の中に裸で置かれていた。社外の、夜の、誰の耳があるかも分からない場所に。その置き方の無造作さに、悪口の中身と同じくらい、僕はひやりとした。
立花さんがにっこり笑った。
「白瀬さんね、たぶん自分が新人の頃ちゃんとレビューされなかった、って勘違いしているのですよ」
……「勘違い」。
僕は、止まった。
白瀬さんが新人の頃、ちゃんとレビューされなかったというのは、たぶん本当のことだった。白瀬さん本人がいつか誰かに話した話だったかもしれない。
立花さんはそれを「勘違い」と呼んだ。
「だから、桐谷くんに過剰にレビュー書くんだよ」
「ぴったり、その人的外れだよね」
江口さんが頷いた。
「あの人、まあドキュメントは書いてくれるけど、人間関係が苦手なんだよね」
大沢さんが笑った。
「人間関係、苦手っていうかさ、職場で笑顔見せないんだよ。挨拶もろくに返さないし」
立花さんが続けた。
「桐谷くん、白瀬さんに振り回されないようにね」
……「振り回されないように」。
立花さんは僕を見て、にっこり笑った。
ちらりと、僕は古川先輩の方を見た。
古川さんは隅で空のジョッキを、両手で包むように持っていた。指先がジョッキの曇った表面を、ゆっくり辿っていた。
立花さんの「振り回されないように」が、たぶん、古川さんの耳にも届いていた。
その瞬間、古川さんが鼻でふっと笑った。
「ふん」
短い、ほんの一音。
……自嘲、なのか。同意、なのか。
僕は、止まった。
立花さんたちは古川さんの笑いに気づかなかった。気づかれない程度の音量で、古川さんはそれを漏らした。
次の瞬間、古川さんの目が、僕の目と合った。
古川さんは何かを言いたげな表情を、ほんの一瞬だけ見せた。口元が動きかけた。けれどすぐに、目をそらして、ジョッキの底に視線を落とした。
古川さんの背中が、椅子の中にゆっくり、また沈み込んだ。
……古川さん。
胸の内で、その名前を呼んだ。
ちらりと葉山さんの方を見た。
葉山さんは無表情だった。けれど机の下で何かをしている気配があった。
次の瞬間、丸山くんがぴくっとした。
たぶん、葉山さんが机の下で丸山くんの足を蹴ったのだ。
葉山さんも机の下で、僕の足にも軽く触れた。「黙って」というメッセージ、たぶん。
僕は何も言わなかった。
古川さんは隅でビールをゆっくり飲んでいた。表情はない。何を考えているのか、分からない。けれど立花さんと大沢さんと江口さんの悪口に参加することはなかった。
「ま、桐谷くん、うちのチームに来たかったらいつでもおいで」
江口さんが笑った。
「うちは、白瀬さんみたいな面倒くさい人はいないから」
「俺の組込みチームも同じく」
大沢さんが頷いた。
……「面倒くさい人」。
その言葉が、胸に残った。
白瀬さんは面倒くさいではない。
面倒くさいというのは、二十二件のコメントを書き続ける行為のことを指している、のかもしれない。
でも、その「面倒くさい」が僕のコードを変えた。
たぶん、立花さんも大沢さんも江口さんも、白瀬さんにレビューを書いてもらった経験がない。彼らは白瀬さんの面倒くささを、自分のコードに当てはめたことがない。
彼らが見ているのは、白瀬さんの表面だけだった。
江口さんが「現場で決めて」としか言わないのも、最初からああだったわけではないのかもしれない。チームBには、江口さんが昔は何でも自分で抱え込む人だった、という古い噂が残っているらしい。どこかで一度、大きく外して、それから、決めることを手放したのかもしれない。
でも、と僕は思った。事情があることと、いま、白瀬さんを「面倒くさい」と笑うことは、別だった。
お会計の時間が近づいていた。
お腹が満たされたフリをして、僕はお酒のジョッキをほぼ空にした。
葉山さんがトイレに立った。
数分後、丸山くんも立った。
僕もトイレに立った。
お店のトイレの前の廊下。狭い薄暗い廊下。葉山さんと丸山くんが並んで立っていた。
僕が来ると葉山さんがこちらを向いた。
「ねぇ、何あれ」
声を潜めていた。
でも、はっきり怒っていた。
「マジっす、何っすかあれ」
丸山くんが続けた。
「白瀬さんに会ったことない人たちが、想像で悪口言ってるよね」
「想像で悪口、っすね」
……「想像で、悪口」。
胸の内で、繰り返した。
たぶん、それがいちばん的確な表現だった。
大沢マネージャーは白瀬さんと業務で関わったことがほぼない。江口マネージャーも同じ。立花さんは同じチームAだけれど、白瀬さんからレビューをもらったことはたぶん、ほとんどない。彼らは白瀬さんの本当の姿を知らない。
知らないのに、想像で悪口を言っている。
葉山さんがもうひとつ、こう続けた。
「ねぇ、思ったんだけど」
「うん」
「あの人たち、過去の自分の失敗、ぜんぶ、他人のせいにしてきた人たちなんじゃないかな」
……過去の失敗を、他人のせいに。
僕は半秒、止まった。
「『新人潰す気』って白瀬さんに言うのは、たぶん自分が新人にレビューを書く習慣がないってことを、白瀬さんの問題にすり替えてる」
「うん」
丸山くんが頷いた。
「『面倒くさい』も同じっすね。面倒くさいことを避けてきた自分のことは、棚に上げて」
「うん。だから今夜のあれは、悪口の宴、っていうよりは、振り返らない人たちの宴なんだと思う」
「振り返らない、か……」
丸山くんが、めずらしく、少しだけ声を落とした。
「俺、前の現場でいちばん口酸っぱく言われたの、それなんすよ。事故とか、ヒヤッとしたことは絶対に振り返れ、って。出発前の点検も、指差して声に出して確認する。正直、面倒くさいっす。でも、それをサボる現場は、絶対に同じ事故を繰り返すんす」
「……運送も、同じなんだ」
葉山さんが言った。
「同じっす。振り返る現場は、強い。振り返らない現場は、いつか大きいのをやるっす。人の命に関わることも、ある。……ソフトで人は死なないかもしれないっすけど、根っこは、たぶん一緒っすよね」
丸山くんは、そう言って、また、いつもの明るい顔に戻った。
……振り返る現場は、強い。
丸山くんの一言は、トラックの荷台の重さを通ってきた言葉だった。白瀬さんがあれだけ丁寧にレビューを書くのも、たぶん、同じ根っこから来ているのかもしれない。
……「振り返らない人たちの、宴」。
その表現を、胸の内でなぞった。
たぶんそれが、もっと的確な表現だった。
トイレから戻った。
お会計を済ませてお店を出た。
時刻は二十一時半。
江口さんと立花さんと大沢さんと古川さんと、チームBの先輩二人は二次会に行くと言っていた。葉山さんと丸山くんと僕は、それぞれ用事があると言って別れた。
葉山さんは寮に戻ると言った。丸山くんも寮に戻る。
僕は駅とは反対の方向に歩いた。寮への道は桜並木通りを抜ける道だった。
桜並木通り、夜の九時半。
葉桜の深い緑が街灯の光に、ちらちらと揺れていた。湿気を含んだ夏の夜風。
僕はゆっくり歩いた。
今夜の悪口を頭の中で整理していた。
歩き始めて十分くらいした時、後ろから足音が聞こえた。
振り返った。
三十代前半くらいの男性がこちらに歩いてきていた。
白いシャツにノーネクタイ、グレーのスラックス。手にはビニール袋を持っていた。中身はたぶん、コンビニのおつまみ。
……間宮さんだ。
社員食堂で賞与のことを教えてもらったり、勉強会に誘ってもらったりしたことはあった。けれど、二人きりでゆっくり話したことは、まだなかった。
間宮さんは僕に気づいて軽く頷いた。
「お、桐谷くん。帰り、この方向だったんだ」
「間宮さん。お疲れさまです」
「改めて名乗っておくとね。俺、間宮啓、入社八年目。受託開発部のチームAともチームBとも別の、市役所系の案件をやってるチームのシニアエンジニア」
……間宮、啓。
名前も所属も、ノートには何度か書いていた。けれど、こうして本人の口から通して聞くのは、初めてだった。
「これから、寮?」
「はい」
「俺、これからよく行く店に寄るところなんだけど、もしよかったらちょっと寄っていく?」
……寄っていく。
胸の内で、軽く迷った。
今夜のチームBの飲み会の不快感が、まだ残っていた。寮にすぐ戻ってノートに今夜のことを書きたい気持ちもあった。
でも、間宮さんが誘ってくれている、その誘い方になぜか悪い感じがしなかった。
「えっと、お邪魔じゃなければ」
「全然、お邪魔じゃない。一杯だけ飲もう」
間宮さんは軽く笑った。
二人で桜並木通りから一本、横の通りに入った。
住宅街の一角。古い二階建ての木造の建物。
入り口に小さな木製の看板。
「とんぼ」と書いてあった。
暖簾を間宮さんが押した。
「ご無沙汰してます」
間宮さんが声をかけた。
「間宮さん、いらっしゃい!」
六十代くらいの男性の声が、奥から返ってきた。
お店の中は八席ほどのカウンターと、奥に四人席が二つ。木の壁、温かい橙色の照明。
大将らしい男性がカウンターの中で、笑顔を向けてきた。日に焼けた肌、きれいに整えた白い髭、清潔な白い割烹着。
「沼田さん、今日新卒の子を連れてきました」
間宮さんが紹介した。
「あら、いらっしゃい!」
お店の奥から女性の声が聞こえた。
六十代くらいの女性が出てきた。割烹着の上にエプロン、髪をすっきり後ろでまとめている。
「初めまして、ヨキエルの新卒、桐谷蒼太です」
頭を下げた。
「あら、桐谷くんね、いらっしゃい。私、沼田の嫁の雅代です。主人は寿です」
「沼田、寿です。よろしく」
大将も笑顔で頷いた。
カウンターの端には、先客の背中が二つあった。一人は背広の中年の男性で、もう一人はラフなシャツの男性。二人とも、慣れた様子で大将と短い言葉を交わしては、静かに杯を傾けている。常連、というのはたぶん、ああいう背中のことを言う。
間宮さんと僕はカウンターの中央あたりに座った。
「ビール二つお願いします。あと、おばちゃん、何か軽い肴」
「はいはい」
女将さんがすぐに用意を始めた。
間宮さんがこちらを向いた。
「桐谷くん、今夜何かあった?」
「え?」
「顔に書いてある」
……顔に書いてある。
胸の内で、軽く止まった。
間宮さんは笑った。
「俺も若い頃、似たような顔をたくさんした」
ビールが来た。
二人で軽く乾杯した。
「俺、急いで聞かないから」
間宮さんが続けた。
「話したいと思ったら、話していい」
……話したいと思ったら。
その言葉を、胸の内でなぞった。
大将がお通しを出してくれた。冷たい枝豆と、小鉢の煮物。
女将さんがもう一品、軽い肴を出してくれた。鯖の棒寿司。
お店の温かさが僕の中にゆっくり入ってきた。
今夜初めて来たお店なのに、なぜか何度も来たことのあるような感覚があった。
間宮さんがビールをひと口、飲んだ。
僕もビールをひと口、飲んだ。
「間宮さん」
「うん」
「今夜、チームBの飲み会で白瀬さんのことを悪く言ってる人たちがいまして」
言葉が口から出た。
言ってから自分で少しだけ驚いた。間宮さんにこんな話をしてしまった。
間宮さんは軽く頷いた。
「うん」
それだけ言って続きを待ってくれた。
「白瀬さんに会ったことない人たちが、想像で悪口言ってて」
「想像で悪口、ね」
「葉山さんと丸山くんと僕で、トイレの前で、『何あれ』って言ったのですけど」
間宮さんが軽く笑った。
「桐谷くん、その『何あれ』、ちゃんと言葉にできてるのいいね」
「……」
「明日、もう少しゆっくり話そうか」
間宮さんがこう言った。
「明日?」
「土曜日、空いてる?」
「はい、空いてます」
「お昼の十二時、またここで」
「はい」
「沼田さん、明日お昼開けてる?」
大将がこちらを向いた。
「土曜日のお昼、空いてますよ。間宮さんならいつでも」
「じゃ、明日お昼来ます。桐谷くん、一緒に来てね」
「分かりました」
その夜はそれから軽い世間話だけで過ごした。沼田大将の若い頃の話、女将さんの商店街の昔話、間宮さんの最近はまっているボードゲームの話。
時計が十時半を指した時、間宮さんが立ち上がった。
「今夜はこれくらいで」
お会計を間宮さんがまとめて払ってくれた。
「いやー、間宮さん、いいですよ、私が」
「いいからいいから。新卒におごるのが、地方IT中小のおじさんの義務」
間宮さんは笑った。
お店を出た。
女将さんが見送ってくれた。
「桐谷くん、またいつでも来てね」
「はい、ありがとうございます」
桜並木通りまで間宮さんと二人で歩いた。
「明日、十二時」
「はい」
「ゆっくり寝て、来てね」
軽く手を振って別れた。
寮に戻ったのは、夜の十一時過ぎだった。
部屋に上がってジャケットを脱いだ。
ノートを机に置いた。
今日のページにこう書いた。
チームBの飲み会。
大沢マネージャー、江口マネージャー、立花先輩。
白瀬さんの悪口。「コミュ障」「面倒くさい人」「新人潰す気」。
全員、白瀬さんにほとんど会ったことがない。想像で悪口を言っていた。
葉山さんの言葉:「あの人たち、過去の自分の失敗を、ぜんぶ、他人のせいにしてきた人たちなんじゃないかな」。
今夜のあれはたぶん、悪口の宴ではなく、振り返らない人たちの宴だった。
葉山さんと丸山くんとトイレの前で確認した。
古川さん、今日の表情。何かを言いたかった? それとも、もう諦めている?
帰り道、間宮先輩と偶然出会った。
「とんぼ」、初めて行った。
沼田夫婦、温かい人たち。
間宮さんが、明日お昼、また「とんぼ」でゆっくり話そうと。
書きながら僕はペンを止めた。
もう一行、書いた。
今夜、僕は二つの世界を見た。
書いてからその文字をしばらく見ていた。
悪口の世界と、温かいお店の世界。
同じ港川市の夜という時間と場所の中に、二つの世界が共存していた。
ノートを閉じた。
窓の外、夏の夜風が開けた窓からすっと入ってきた。
明日、間宮さんが僕に何を話してくれるんだろう。
明日がほんの少しだけ、楽しみだった。




