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新卒エンジニア、観察ノートを開く(上巻) 観察を、始める  作者: どん


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第2話「研修の日々、四つの出会い」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 研修が始まって二週目が終わろうとしていた。


 四月の中旬。


 桜並木通りの桜はすでに満開を過ぎて散りはじめていた。朝、寮を出てバス停まで歩く間、足元にふわり、ふわりと薄桃色の花びらが落ちてくる。風が吹くたび、まとまった花びらが雪のように舞い上がった。


 ヨキエルの新卒研修は、最初の三週間で社内のほぼ全部署の概要を学ぶカリキュラムになっていた。一週目はビジネスマナーと、社内のITツールの使い方。

 その合間に、各部の部長が一人ずつ研修室に挨拶に来てくれた。受託開発部の島田副部長から始まり、製品開発部・組込み開発部・管理部の部長たちが順に短い自己紹介をしていった。最後に開発系を束ねる統括開発部長の沢渡さんが、CTOの隣に立って一言だけ挨拶した。一人あたり五分ほど。それぞれの部の仕事の輪郭が、薄くだけ僕の中に残った。

 二週目に入ると、各部署のマネージャーが順番に研修室を訪れて、自分の部の仕事を紹介してくれる。


 「全社の景色をまず覚えてもらう」というのが、人事の沢田さんの言葉だった。


「皆さん、配属先は研修の最終日に発表します。それまでに、できるだけたくさんの大人と顔を合わせて、自分なりの印象を持ってもらいたい」


 沢田さんはいつものように低くて落ち着いた声でそう言った。


 ……自分なりの印象を持ってもらいたい。


 その言い方が僕は少しだけ気になった。「印象」ではなく「自分なりの印象」。後者にはどこか、判断する側の責任を新卒の僕らに渡してくれているような響きがあった。


 その日、午前中の最初に研修室にやってきたのは、四十歳前後の女性だった。


 肩の長さで切り揃えた髪に、白いブラウスとグレーのジャケット。背は葉山さんよりも、少し低い。歩き方は静かで、しかし芯のある歩き方だった。


 名札には「諏訪 千絵」と書いてあった。


「皆さん、おはようございます。受託開発部、チームAのマネージャーをしている諏訪です。よろしくお願いします」


 声は決して大きくない。けれどはっきりとこちらに届く声だった。


 諏訪さんは新卒一人ずつの顔を、ゆっくり順番に見た。葉山さん、黒木、アユシュさん、丸山さん、杉本さん、そして僕。目が合ったとき、軽く頷いてくれた。形だけの頷きではなかった。「あなたを見ています」という意思の入った、ちゃんとした頷きだった。


 ……機嫌が安定している人だ。


 なぜそう思ったのか説明はできない。けれど彼女と目を合わせた瞬間、確かに僕はそう思っていた。


 諏訪さんは自分のチームの仕事を、丁寧に説明してくれた。受託開発、つまり顧客の依頼を受けて作るシステム開発。顧客は地元の銀行や市役所、製造業の中堅企業など、いろいろあるという。チームの規模は、マネージャーの諏訪さんを含めて十二人。新卒の場合、最初の半年は先輩の下について学び、半年後から少しずつ自分の担当を持つ、という流れになるそうだ。


 説明の合間に諏訪さんはこう言った。


「うちは若い人を大事にする部です。新卒で配属になった人には必ず私が直接、月一回の1on1をしています」


 ……月一回の1on1。


 心の中でメモした。


 諏訪さんは最後にもう一度、新卒一人ずつの顔を見た。


「皆さんといつかどこかでまた会えると、嬉しいです」


 形式的な挨拶のはずだった。


 けれど彼女の声にはどこか本気の温度があった。


 諏訪さんが研修室を出ていくと、葉山さんが僕の方に小さく身を乗り出してきた。


「ねぇ、桐谷くん」


「うん」


「今の人、たぶん、本物の大人だね」


 声を潜めて葉山さんが言った。


 ……本物の大人。


 その言い方に僕は少しだけ笑った。葉山さんも笑った。


 


 二人目のマネージャーは、午前中の二コマ目に来た。


 四十代半ばの男性。スーツの仕立ては、悪くない。しかしネクタイの結び方が、ほんの少しだけ緩んでいる。髪は短く整えられているけれど、生え際の処理に、どこかぞんざいさがあった。


 名札には「江口 弘樹」と書いてあった。


「えーと、受託開発部、チームBのマネージャーの江口です。よろしく」


 声はそれほど高くも低くもない。けれど語尾がふわっと弱い。


「うちのチームは、まあ、A班とほぼ似たような仕事を、別の顧客に対してやってます。違いは、まあ、たまたまですかね、いろいろありますけど」


 江口さんはそこから、自分のチームの仕事を説明しはじめた。けれど説明の中身は、なんというか、よく分からなかった。「いろいろ」「まあ」「たまたま」という言葉が、規則的に文の隙間に挟まる。


 ……何を言っているのか。


 心の中で僕は首をかしげた。


「うちのチームでは、新卒の人には、まあ、現場の若い人に頼んで、適当に教えてもらってますね」


 現場の若い人に頼む。


 ……マネージャー本人は教えないのか。


 心の中の突っ込みは抑えた。


 葉山さんの方を、ちらっと見た。彼女は机の上のメモ用紙に、何も書いていなかった。さっきの諏訪さんの時には、何行かメモを取っていたのに、今はペンを持つ手が動いていない。


 江口さんは十五分ほど話して、研修室を出ていった。最後の挨拶は「期待してるよ」だった。


 ……何を期待しているのか。


 心の中でもう一度首をかしげる。


 


 お昼休みになった。


 社員食堂の、いつもの六人席。


「今日の二コマ、対比、すごかったね」


 最初に口を開いたのは葉山さんだった。


「諏訪さん、本物の大人。江口さん、なんていうか、フワフワしてた」


 言葉を選ぼうとしているのがはっきり分かる言い方だった。


「フワフワ、っすか」


 丸山さんが麺をすすりながら笑った。


「俺も、なんか、頭に何も残らないなぁ、って思ってたっす」


「私、メモを取れませんでした」


 杉本さんが控えめに言った。「諏訪さんの時はたくさん書きたいことがあったのに、江口さんの時は書く言葉が見つかりませんでした」


 黒木は小さく頷いただけだった。


 アユシュさんは和定食の魚をゆっくり食べながら、こう言った。


「諏訪さんの英語、たぶん、ちゃんと通じる。江口さんの英語は、たぶん、私、聞き取れない、even if speaking Japanese」


 ……英語の話ではないのだろうな。


 心の中で僕は思った。


 


 午後。研修室に戻ると、三人目のマネージャーがすでに待っていた。


 三十代後半の男性。背は高い。少しだけがっしりした体格。短く刈った髪、清潔感のあるスーツ。表情は明るい。


 名札には「大沢 祐介」と書いてあった。


「皆さん、こんにちは! 組込み開発部のマネージャーをやっている大沢です」


 声は明るかった。今までの誰よりも明るい声だった。


「うちのチーム、扱ってるのはね、製造業向けの組込みシステム。具体的には、工場の生産ラインの制御とか、検査装置のソフトウェアとか、そういう機械寄りのコードを書く部署です」


 大沢さんはホワイトボードにぱっぱと図を描いた。手際はいい。説明はテキパキしていた。技術的な内容も的確に整理されている。


「組込みやりたい人、いる?」


 大沢さんが新卒の方を見た。


 黒木が机の下で少しだけ片手を挙げた。


 大沢さんがそれに気づいて笑った。


「お、いいね。組込みやりたい高専の人、うちのチーム、絶対歓迎するから」


 黒木の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


 ……今日の大沢さんは機嫌が良さそうだ。


 心の中で僕は思った。なぜ「今日の」と思ったのかは自分でもよく分からなかった。


 大沢さんは二十分ほど話して研修室を出ていった。


 葉山さんがこちらを向いた。


「大沢さん、悪い人じゃなさそうだね」


「機嫌、良かった」


 つい、そう答えてしまった。


「あ、今、桐谷くん『今日は』って、言いそうだった?」


「……」


 葉山さんはちょっと笑って、それからノートに何かを書いた。


 


 四人目のマネージャーは、午後の二コマ目に来た。


 五十代の男性。


 スーツの仕立ては悪くないのに、肩のあたりが、本人の体格に対してやや大きく見えた。髪は黒く染められていて、しかし生え際で薄くなっているのが、わずかに分かる。歩き方は、肩を揺するような、いわゆる「貫禄」のある歩き方だった。


 名札には「牧野 茂」と書いてあった。


「やー、新卒の皆さん、ようこそヨキエルへ!」


 声が大きい。研修室の壁に声が、ばんっ、と当たって跳ね返ってくる感じがした。


「自社サービス事業チーム、マネージャーの牧野です! よろしくお願いします!」


 牧野さんは新卒一人ずつの顔を、はっきりと見た。けれど見方が、諏訪さんのそれとは違っていた。「あなたを見ています」ではなく、「あなたを覚えました」という、何か別の意図のある見方だった。


 牧野さんはホワイトボードの前に立った。


「うちは、ね、自社サービス事業チーム、っていうんだけどね」


 ホワイトボードには何も書かなかった。


「大事にしてることが、ひとつ、あるんだ」


 間を取った。


「それはね、皆さん、家族みたい、ってことなんだ」


 ……家族みたい。


「うちはね、本当にアットホームなチームでね、全員が、家族みたいに、仲がいいんだよ」


 ……アットホーム。


「飲み会も多いし、休みの日にも、よく集まったりしてね、子供連れてくる人もいたりしてね」


 ……休みの日にも、集まる。


 心の中で、僕は三回繰り返した。一回ごとに、何かざわっとするものが、胸の奥に積もっていった。


 葉山さんの方を、ちらっと見る。


 彼女は机の上のメモ用紙に、何も書いていなかった。けれど表情が、明らかにさっきまでとは違っていた。じっと牧野さんを見ている。観察している、という目だった。


 牧野さんは自分のチームの仕事の話を、ほとんどしなかった。「家族みたい」「アットホーム」「みんな仲がいい」という言葉を、形を変えながら、何度も繰り返した。


 最後にこう言った。


「皆さん、配属先、楽しみにしてるよ。うちに来た子は、家族みたいに、可愛がるからね」


 ……可愛がる。


 その言葉が、研修室の壁をもう一度、ばんっ、と叩いて跳ね返ってきた。


 牧野さんが出ていった。


 しばらく、誰も、何も言わなかった。


 最初に口を開いたのは、丸山さんだった。


「あの……ちょっと、いいすか」


 声がいつもの「っす」のテンションから、少しだけ落ちていた。


「俺、前職、運送会社で七年いたんすけど、ああいう、『家族みたい』って言いながら休日呼び出ししてくる経営者、結構いたんすよ」


 丸山さんは机の上で両手を組んだ。


「あれ、結構な確率で、なんていうか、地雷っす」


 ……地雷。


 葉山さんが深く頷いた。


「同感」


 杉本さんも控えめに頷いた。


「私も、なんとなく……あの方の話を聞いていて、文学作品の中で言うところの『過剰な親切』というのを思い出しました」


 黒木は小さく息を吐いた。


 アユシュさんは英単語を一つ、つぶやいた。


「……『love bombing』、と、私の国でも、言います」


 ……ラブ・ボミング。


 その単語の意味を、僕はよく知らなかった。けれど皆が同じ感覚を、それぞれ違う言葉で表現しているのは、伝わった。


 葉山さんが、僕の方を向いた。


「桐谷くんは、どう思った?」


 少し考えてから、ノートを開いた。最初のページの、二日目の記録を見せる。


 そこには、こう書いてあった。


「半径3メートル、両輪、観察」


 葉山さんがそれを見て、笑った。


「うん。桐谷くんなら、観察するよね」


 


 午後の研修が終わって夕方、皆で帰り支度をしていた。


 ふと、研修室の窓の外を見た。


 午後の遅い陽が、桜並木通りの方向から斜めに差し込んでいた。風が吹いて、桜の花びらがたくさん舞っている。地面に積もり、また舞い上がる。


 ……あと一週間で、配属先発表だ。


 明日も、別のマネージャーがまた何人か来る予定だった。


 


 寮に帰り、夕食を食堂で済ませて、自分の部屋に戻った。


 


 ノートを、机に置く。


 今日のページに、僕はこう書いた。


 諏訪マネージャー:機嫌が安定している人。本物、と葉山さんは言った。


 江口マネージャー:いろいろ、まあ、たまたま、を多用。中身は薄かった。


 大沢マネージャー:技術力高い、機嫌が良い。今日の。


 牧野マネージャー:家族みたい、アットホーム、可愛がる。同期六人全員、同じ違和感を持った。


 書き終わって、ペンを置いた。


 窓の外、日が落ちている。


 ……同じ違和感を、持った。


 その事実がなぜか、僕には心強く思えた。


 今日、僕は五人の同期と、四人のマネージャーと出会った。


 それぞれの印象を、ノートに書き留めた。それが、自分なりの印象、だった。


 明日もたぶん、新しい誰かと出会うのだろう。


 


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