第1話「ヨキエル株式会社、四月一日」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
四月一日、月曜日。
目覚ましが鳴る前に、僕は目を覚ましていた。
六時。寮の窓から差し込む朝の光は、昨日の夕方とは違う、冷たく、しかしまっすぐな光だった。布団の中でしばらく、じっと天井を見ていた。
今日から、新卒一年目が始まる。
起き上がってシャワーを浴び、新品のスーツに袖を通した。スーツは、就活の時に母が買ってくれたものだ。母は「就職してからも、二、三年は使えるからね」と言っていた。今、その「二、三年」の最初の一日が始まろうとしている。
ネクタイを締めるのに、二回失敗した。
……朝から、緊張している。
共用ラウンジに下りてコーヒーを淹れ、一口飲んだ。インスタントの薄い味。それでも温かさは、ちゃんとあった。
寮を出る。
桜並木通りを、駅と反対の方向、街の中心部に向かって歩いた。
桜の蕾はまだ硬い。けれど一週間前にここを歩いた誰かが見たそれとは、少しだけ違うはずだ。蕾の表面に、薄桃色の気配が確かにある。
バスは八時に来た。
乗客は十人ほど。皆スーツ姿で、新聞を読んだり、スマホを眺めたりしている。このバスに、僕と同じヨキエルの新卒が乗っているかもしれない。そう思って車内を見渡したけれど、誰がそうなのか、見てもまったく分からなかった。
バスを降り、徒歩で五分。
株式会社ヨキエル。五階建てのビルの一階から三階までを借り切って本社にしている。残りの二階分は、別の会社が入っているらしい。看板はシンプルな白い背景に、青い文字で「Yokiel Inc.」とだけ書かれていた。「良き縁」という社名の由来は、入社案内に書いてあった。すぐ隣には、同じヨキエルが借りている八階建ての雑居ビルがあって、その八階に会議室と研修室があるのだと、案内には書いてあった。
ビルの自動ドアが開く。
受付に女性が一人座っていた。
三十代後半くらいだろうか。髪を緩く後ろで結び、眼鏡をかけている。穏やかな目でこちらを見て、それから小さく頷いた。
「新卒入社の方ですね。お待ちしておりました」
声は低くも高くもない、ちょうどいい温度だった。
「桐谷蒼太です」
受付の女性は来訪者バッジではなく社員バッジを差し出してきた。透明なケースに僕の名前と社員番号が印字されている。
「桐谷さん、ご入社おめでとうございます」
女性は少しだけ笑って、それからこう言った。
「ここは新卒を本気で育てるところです。三年間、よろしくお願いします」
その言葉の温度に僕は少し驚いた。
形式的な挨拶ではない。本気でそう思って言っているという重みが、声の中にあった。
「……はい、よろしくお願いします」
頭を下げ、エレベーターに向かう。
隣のビルの八階。会議室と研修室がある階だと、案内には書いてあった。
エレベーターの中でもう一度ネクタイを直した。
扉が開く。
研修室は廊下の突き当たりにあった。ガラスの仕切りの向こうに、すでに何人か、新卒らしいスーツ姿が見えた。
扉を開ける。
「おはようございます」
声は思ったよりちゃんと出た。
部屋の中には五人の新卒がすでに揃っていた。
長机が二つ向かい合わせに並べられていて、それぞれの席にネームプレートが置いてある。自分の名前のプレートを探した。
奥の席、窓側。「桐谷 蒼太」と書かれた紙が置かれていた。
席に着く。
他の五人はすでに自己紹介らしき会話をぽつぽつ交わしている。けれどまだ皆、互いに名前を呼び合うような関係ではない。
真向かいに座っていたのは女性だった。
肩で揃えた黒髪、白いシャツに濃紺のジャケット。背筋がまっすぐ伸びている。少しきつめに見える目元だけれど、笑うと印象が変わるタイプの顔立ちだった。
彼女は僕を見て軽く会釈した。
「葉山美月、と言います。東京から来ました」
「桐谷蒼太です。よろしくお願いします」
葉山さんはそれだけ言って、また姿勢を正した。背筋の真っ直ぐさに、僕は少しだけ感心した。
左隣の席に座っていたのは、若い男性だった。
いや、若いというより、幼い、という方が近いかもしれない。短く整えた髪に、白いシャツの上からグレーのジャケット。けれど肩幅はがっしりしていて、姿勢にはどこか職人的な静かさがあった。
彼は僕の方を向かず、机の上のネームプレートを見ていた。
ネームプレートには「黒木 律」と書いてある。
「黒木です。県内の高専卒です。よろしく」
短い、本当に短い自己紹介だった。
目線は最後まで、机の上から動かなかった。
葉山さんが、向かいの席の左の方に視線を送った。
そこには、褐色の肌の男性がいた。
彫りの深い顔立ち、黒い癖毛、きっちり締めたネクタイ。けれどシャツの襟元の合わせ方が、ほんの少しだけ、日本人のそれとは違うように見えた。
彼は僕と目が合うと、にっと笑った。
「アユシュ・タパ、です。ネパール、から、来ました。日本語、少し、下手。すみません。ヨキエル、研究、と、仕事、両方、頑張ります」
日本語はゆっくりだった。一語一語、置いていくような話し方。それでもちゃんと伝わった。語尾の助詞がところどころ抜けていて、たしかにネイティブとは違っていた。
「桐谷蒼太です。よろしくお願いします、アユシュさん」
「Hi, Soota. Nice to meet you」
アユシュさんは軽く英語で挨拶し、それから笑った。
右隣にいたのは、日に焼けた男性だった。
いや、日に焼けた、というのは正確ではないかもしれない。屋外で長く働いた人の肌、という感じだった。
体格はがっしりしていて、スーツの上からでも、肩のあたりに筋肉がついているのが分かる。袖口から見える腕も、明らかに内勤の人のそれではなかった。
ネームプレートには「丸山 健司」とあった。
「丸山っす、よろしくっす」
声は太く明るかった。
「俺、神奈川から来てます。前職、運送ドライバーやってまして、独学でエンジニアになったクチっす。皆さんよりちょっと年上で、二十五なんすけど、よろしくお願いしますっす」
……「っす」が語尾に規則的に並ぶ。
最後の一人。
葉山さんの右隣に座っていた女性は、肩までの黒髪を後ろで一つに結んでいた。
白いブラウスの上に、グレーのカーディガン。机の上には、小さなメモ帳と万年筆がきちんと並べて置いてある。スーツではなく、スーツに近いオフィスカジュアル、という服装だった。
「杉本結、と申します」
声は丁寧で低い。
「埼玉から来ました。大学では文学部の史学科で、近世日本史を研究していました。IT、まったくの未経験ですが、頑張ります」
……史学科。
一瞬、何を言うべきか分からなくなった。
「桐谷蒼太です。情報科学部卒です。よろしくお願いします」
杉本さんは軽く頭を下げ、それからメモ帳に何かを書き留めた。
……何を書いているんだろう。
心の中で少しだけ気になった。
最後は僕の番だった。
「桐谷蒼太、と言います。地元の県立大学の情報科学部を先月卒業しました。よろしくお願いします」
他の五人と比べると、たぶんいちばん平凡な自己紹介。
けれど五人とも、ちゃんと頷いてくれた。
時計が九時を指した。
扉が開いて、男性が一人入ってきた。
五十代後半くらいだろうか。髪が薄くなりかけているけれど、鬢はきれいに整えられている。背は高くも低くもない。穏やかな目元、丁寧な歩き方。手には、薄いクリアファイルを一つ持っていた。
「皆さん、おはようございます。人事部の沢田と申します」
沢田さんの声は低く、ゆっくりとしていた。
「今日から三週間、皆さんは研修期間です。私はこの三週間、皆さんの相談役です。何か困ったこと、戸惑ったことがあれば、いつでも声をかけてください」
「ひとつ、お伝えしておきたいことがあります」
沢田さんは少しだけ間をとった。
「ヨキエルでは新卒の三年間を、『研修員期間』と定めています。この三週間の集中研修だけで終わりではなく、配属後の三年間ずっと、皆さんは社内で『研修員』という身分です。お名刺の役職欄は、この三年間は空白のままです」
「三年目の三月には、研修員論文発表会があります。皆さんがこの三年で観察したこと、学んだこと、考えたこと。それを社内論文にまとめて、社内で発表してもらいます。形式的な合否はありません。三年で受け取ったものを社内に置く、ひとつの儀式です」
「この制度は、二年前にCTOの遠野が発案して始まったものです。『親御さんからお預かりした新卒の方に、きちんと育ってもらうための制度』というのが遠野の言い方でした。まだ若い制度で、いまも遠野とマネージャー陣の間で、どう実効性のあるものにしていくか、議論が続いています。皆さんもこの三年で、制度の改善点を見つけたら、遠慮なく声をあげてください」
「このあとお話される社長と遠野CTOの『三年で大事にしてほしいこと』は、この研修員制度の上に乗っています」
沢田さんは新卒一人ずつの顔を、ゆっくり順番に見た。
目が合ったとき、軽く微笑んだ。
……研修員、三年間。論文発表会、最後に。
心の中で僕はその二つを繰り返した。
バスの中で考えていた「二、三年」が、もう少しはっきりした形で目の前に置かれた気がした。
……この人はたぶん、ちゃんと話を聞いてくれる人だ。
なぜそう思ったのか自分でもはっきりとは分からなかった。
「では、まず、社長の村瀬からご挨拶があります」
沢田さんが扉を開け、村瀬社長が入ってきた。
社長の後ろから、何人かの男女がそっと入ってきて、壁際に静かに並んで立った。たぶん各部の部長たちだろう、と僕は推測した。一人ずつ詳しく見る余裕はなかった。視線は自然に、社長の方に戻った。
六十代後半。白髪、仕立ての良いダークグレーのスーツ。歩き方は少しゆっくりめだけれど、姿勢はまっすぐだ。しわの寄った目元が、しかし優しい。
「皆さん、ヨキエルへようこそ」
社長はゆっくりと、しかしはっきりと話しはじめた。
「うちは地方の小さな会社です。これまで社員九十五名でしたが、本日、皆さん六名を迎えて、百一名となりました。創業五十五年。私は四代目の社長で、就任して五年目です」
社長は、新卒一人ずつの顔をゆっくり見た。
「私は、新卒でこの会社に入りました。エンジニアから始めて営業を経験し、経理も人事もバックオフィス全般も、全部やってきました。四十二年、この会社の中で過ごしてきた人間です」
四十二年、という言葉が、僕の中に少しだけ重く響いた。
「うちは完璧な組織ではありません。良いところも悪いところも、両方あります」
村瀬社長はそこで少しだけ笑った。
「だから、皆さんにひとつだけお願いがあります。良いところと悪いところの違いを、ちゃんと見抜いてほしい」
……違いを見抜く。
その言葉を僕は心の中で繰り返した。
「そして、もうひとつ。三年後、もし皆さんが別の会社を選んでヨキエルを辞めることになったとしても、私は皆さんの味方です。三年で皆さんが学んだものは、皆さんの財産です。私はそれを応援します」
……三年後、辞めても、味方。
その言葉にどう反応すべきなのか、すぐには分からなかった。
村瀬社長はそれだけ言うと、もう一度ゆっくり、新卒一人ずつの顔を見た。そして軽く頭を下げて、出ていった。
扉が、静かに閉まる。
「続いて、CTOの遠野からご挨拶があります」
沢田さんの声で我に返った。
扉が開いた。
白いシャツに、グレーのスラックス。あの面接の日と同じ服装の遠野CTOが入ってきた。
……あれ、もしかして、いつも同じ服装なのか。
心の中で、少しだけ突っ込んだ。
遠野CTOは新卒の前に立った。それから研修室の壁にあるホワイトボードに、ゆっくり、三つの単語を書いていく。
「半径3メートル」
「両輪」
「観察」
書き終わって、振り返った。
「短く話します。皆さんがこれから三年で大事にしてほしいことを、三つだけ」
遠野CTOはホワイトボードの一つ目の言葉を指さした。
「半径3メートル。これは、自分の手の届く範囲、という意味です。会社全体をいきなり変えようとする必要はありません。まず、自分の半径3メートルから変えていく。それが変革の出発点です」
「ちなみにこの『半径3メートル』、私が考えた言葉ではありません。昔、宮崎駿監督がどこかの対談で語ったとされる表現を、若い頃の私が読んで、以来、自分の指針にしてきました」
……半径3メートル。
なんだ、それ。距離感の話か。
「両輪。技術と、事業。コードを書くだけがエンジニアの仕事ではありません。自分が書いたコードが誰の役に立っているのか、いくらの売上を生んでいるのか、それを意識してほしい」
……両輪。自転車みたい。
「観察。皆さんはこれから、たくさんの人と、たくさんの場面に出会います。それをちゃんと観察してほしい。良い人もいれば悪い人もいます。良い場面もあれば悪い場面もあります。それを自分の目で見て、自分の頭で考えてほしい」
……観察。
心の中の突っ込みを、僕は止めた。
膝の上の、新品のノート。
昨日、特急を降りた直後に駅前の文具店で買ったノート。
最初のページに、もう書いてある。
「明日から、観察を始める」
昨日書いた一行が今、遠野CTOの口から、確かに出てきていた。
偶然か必然か、それは分からない。
けれど少なくとも、自分の選んだ言葉が間違っていなかったことを、僕は知った。
「以上です。三年間、よろしくお願いします」
遠野CTOはホワイトボードの三つの単語を消さず、そのまま残して出ていった。
扉が閉まる。
研修室は、しばらく静かだった。
沢田さんが軽く咳払いをして、それから午前中の研修プログラムの説明を始めた。
昼休みになるまで、僕は何度もホワイトボードの三つの言葉を見た。
昼食は社員食堂で、新卒六人で取った。
メニューは和定食、洋定食、麺類の三種類から選べた。和定食を選んだ。葉山さんも、同じものを選んでいた。
席に着いて、皆で「いただきます」と言った。
「ねぇ、桐谷くん」
葉山さんが味噌汁の器を持ち上げながら、僕の方を見た。
「は、はい」
「私、今、ちょっと、来てよかったかも、って思ってる」
声は低かった。けれど目はまっすぐだった。
「……うん、僕も、そう思ってます」
答えながら、僕も味噌汁の器を持ち上げた。
味噌汁は、温かかった。
午後の研修も、あっという間に終わった。
帰りのバスの中で、僕はぼんやりと外の景色を見ていた。
桜並木通りの蕾は、朝とほとんど変わっていない。けれど夕方の光の中で見ると、薄桃色の気配が、朝よりも少しだけ濃くなっているように見えた。
寮に着いて部屋に戻り、ジャケットを脱ぐ。
机に座る。
ノートを開いた。
最初のページの、「明日から、観察を始める」という一行のすぐ下に、新しい一行を書いた。
四月一日。同期五人と、出会った。
葉山美月、黒木律、アユシュ・タパ、丸山健司、杉本結。
名前を書きながら、それぞれの顔を思い出した。
それから、もう一行書いた。
半径3メートル、両輪、観察。
ひと呼吸おいて、最後の一行を書いた。
観察、始めた。
ノートを閉じる。
明日から、僕はいちばん最初に、何を観察することになるんだろう。
窓の外、日が落ちて、街の灯りがぽつぽつと点りはじめていた。




