プロローグ「港川行きの特急」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
特急列車の窓の外を、春の夕方の景色が流れていた。
三月の終わり。空はまだ青く、しかし陽は西に傾きはじめ、遠い山の稜線をうすい金色に染めていた。
車両のなかはまばらだった。乗客は僕を入れて十数人。皆それぞれに本を読み、スマホを眺め、あるいは目を閉じて眠っている。誰も話し声を立てない。窓の外で線路沿いの桜の木が一本、また一本と過ぎていく。
座席の背に体を預けて、僕はその景色をぼんやり眺めていた。
膝の上には買ったばかりのノートが一冊、置いてある。
桐谷蒼太、二十二歳。三月一日、地元の県立大学・情報科学部を卒業した。そして明日、四月一日。港川市にある株式会社ヨキエル、社員九十五名、明日からは自分たち新卒六名を加えて百一名となるIT中小企業に、新卒として入社する。
今日はその前日だ。
新幹線で三時間。乗り換えて特急にゆられること一時間半。地元の駅から数えて合計四時間半。これだけ移動してようやくたどり着く街が、港川市である。四方を山に囲まれた人口三十万の盆地の街で、新幹線の通る主要都市から特急で一時間半というのは、地方としてはまあ辺境というほどでもない。とはいえ僕の地元から見れば、十分に遠い。
就職先をここに決めた理由はいくつかあった。
ひとつは、東京の大手企業の選考にことごとく落ちたこと。ひとつは、地元の同期たちが目指したような市役所の情報システム課のような安定した職に、なんとなく気が乗らなかったこと。そしてもうひとつ、ヨキエルという会社の最終面接で耳にした、ある言葉が頭から離れなかったこと。
その面接官は、遠野と名乗った。CTOだと自分で言った。白いシャツにグレーのスラックス。背は高くも低くもない。低くて落ち着いた声で、僕の話を最後まで黙って聞いてくれた人だった。
遠野さんは最後に、こう言った。
「桐谷くん。うちは小さい会社です。だから新卒で入ってくる人には、最初から責任を持ってもらう。三年で土台を作る、それが、ヨキエルに来る人たちの責任です」
そして少しだけ笑った。
「ただしその責任は君ひとりの責任ではありません。私たちの責任でもある。だから君が三年で土台を作れるように、私たちもちゃんと伴走します」
その言葉を僕は何度も思い返した。
他社の最終面接で言われた言葉はもうほとんど覚えていない。ただ遠野さんの、三年で土台を作る、それが僕らの責任、という言い回しだけがなぜかずっと残っていた。
責任という言葉をこんな静かな声で言う大人を僕はそれまであまり知らなかった気がする。
ガタン、と一度、車両が小さく揺れた。
窓の外、景色が変わりはじめていた。山と山の間を縫うように走っていた線路が、ふいに開けた盆地に出る。視界の先、街の灯りがぽつ、ぽつ、と点りはじめていた。
港川市が、見えはじめた。
四方の山々がぐるりと街を取り囲んでいる。盆地の中央を、銀色のリボンのように小さな川が流れている。これが街の名前の由来になった「港川」だと、ガイドブックで読んだ。
駅前に桜並木通り、という通りがあるらしい。寮までの道をその通りが横切っていると、入社案内の地図に書いてあった。
もうすぐ終点。
車内アナウンスが流れた。
「次は、港川。終点、港川でございます」
ノートを軽く撫でて、それから立ち上がった。
駅は、想像していたよりもずっと小ぢんまりとしていた。
ホームに降りる。三月末の夕方、風はまだ少し冷たい。改札を抜けると目の前にロータリーが広がっていて、バス乗り場が三つほど並んでいた。
ロータリーの向こう、街の方へ向かう道に、桜の木が並んでいるのが見えた。あれが桜並木通り、なのだろう。蕾はまだ硬く、咲くまでにはあと一週間ほどかかりそうだった。
寮までは、バスで十五分。そこから徒歩で五分。
会社が用意してくれたワンルームの寮で、家賃は会社負担を除けば月一万円ほどになるらしい。社員食堂もあるし、寮にも共用ラウンジがある。地方IT中小としては、まあ悪くない待遇だ。
バス停のベンチに腰かけて、バスを待った。
目の前を、地元の人らしい年配の男性がゆっくり歩いていく。スーパーの袋を提げて家に帰るところなのだろう。歩く速度が、東京の駅前で見るそれより明らかに遅い。
……これが地方の時間、というものなのか。
ふと、そんなことを思った。
バスが来た。
乗客は僕を入れて五人。皆、座席に静かに座って窓の外を眺めている。バスは桜並木通りに入った。蕾の並ぶ桜の木が、車窓を流れていく。蕾はまだ硬い。けれどほんのり、薄い桃色の気配が、すでにそこにあった。
寮は、桜並木通りから少し外れた住宅街の一角にあった。
古びた三階建ての建物。一階に共用ラウンジ、二階と三階が居室。寮の管理人さんに鍵を受け取り、二階の角部屋を案内された。
六畳のワンルーム。ベッド、机、小さなクローゼット、ユニットバス。窓は西向きで、日の落ちる方向に低い屋根の街並みが広がっている。
荷物は引っ越し業者がすでに運び入れてくれていた。段ボール箱が三つと、衣装ケースがひとつ。明日の朝までに、せめて寝る場所と着替えの分だけは片づけておきたい。
しかし僕はまず、机に座った。
机の上に新しいノートを置く。
特急を降りた直後、駅前の小さな文具店で買ったものだった。何の変哲もない、A5サイズの罫線入りノート。表紙は淡いグレーで、装飾は何もない。
ペンを取る。新品のノートの、最初のページを開く。
空白。
白い紙の上で、ペン先がしばらく止まった。
何を書こう、と考える。けれど書きたいことがありすぎて、選べない。だから結局、何も書かないことにした。
最初の一行。
ペンを走らせて、僕はこう書いた。
明日から、観察を始める。
たった一行だ。
でも、書いてみると、それで十分のような気がした。
ノートを閉じる。表紙の手触りを、もう一度確かめる。
窓の外、日が完全に落ちて、街の灯りがぽつぽつと点りはじめていた。
僕は明日から三年、この街で何を見るのだろう。
まだ、何も分からない。
けれどノートは、ちゃんと用意できた。
それで、十分だ。




