第13話「五月晴れ、城跡公園」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
六月の第二週、土曜日の朝。
目覚まし時計を平日の七時に設定しているのを忘れていた。
休日なのにいつもと同じ時間に、目が覚めた。
布団の中でしばらく、天井を見ていた。
窓の外、薄いカーテンを通って、淡い水色の光が差し込んでいた。
起き上がってカーテンを開けた。
梅雨入りの予報がニュースで、ずっと出ていた。けれど今朝の港川市は、梅雨の合間の青空だった。山に囲まれた盆地の空が、ぐるりと、丸く、青かった。
この時期のこういう晴天を、昔の人は五月晴れと呼んだ。今の暦では六月だけれど、旧暦では五月。それを本で読んだことがあった。
……五月晴れ。
心の中で、その言葉を繰り返した。
軽くシャワーを浴びて、ジーンズと白いシャツに着替えた。スーツでもなくジャージでもない、自分が選んだ服。
寮を出た。
桜並木通りを、街の中心部とは違う方向に歩いた。城跡公園の方角。一度行ってみたいと、配属の頃から思っていた場所だった。けれど平日は通勤と業務で、行くタイミングがなかった。
今日が初めての、本格的な休日の散歩だった。
桜の木はもう完全に、葉桜になっていた。深い緑色の葉が、青空をちらちらと覆っていた。歩道に葉桜の影が、揺れていた。
歩きながら、僕は自分の二ヶ月と少しを振り返った。
四月一日の入社初日。
配属から、二ヶ月。
……早かったような、長かったような。
心の中でぼんやり、そう思った。
城跡公園は駅から徒歩で十五分、寮からだと二十五分。
お堀の跡の低い土塁を上った。土塁の上は市民の散歩道になっていて、犬を連れた老夫婦や、ジョギング中の若者が、ちらほらと歩いていた。
土塁の高い場所から、街を見下ろした。
港川市の街並みは、四方の山に囲まれていた。盆地の真ん中を、川が銀色のリボンのように流れていた。
……入社の日に特急の窓から見た景色と、同じだ。
心の中で、僕は思った。
あの時は夕方で、街の灯りがぽつぽつと点り始めていた。今日は午前中で、太陽が街全体を明るく照らしていた。
同じ街でも見る時間と見る場所で、印象が違う。
特急の窓から見た港川は、これから始まる場所だった。今、土塁の上から見る港川は、もう二ヶ月、僕が暮らした場所だった。同じ盆地、同じ川、同じ山。それでも、知っている街と知らない街は、こんなにも違って見える。
……それも、観察。
僕はベンチを見つけた。お堀の跡を見下ろせる位置の、木のベンチ。誰も座っていなかった。
ベンチに腰を下ろした。
リュックからノートを出した。
配属の前夜、駅前の文具店で買ったノート。プロローグから今日まで、ほぼ毎日書き続けてきた。
最初のページを開いた。
「明日から、観察を始める」
あの一行は今日もそのまま、そこにあった。
ページをめくった。
四月一日の入社初日。
同期六人の名前。村瀬社長と、遠野CTOの言葉。
「半径3メートル」「両輪」「観察」。
そのページを読み返してみると、二ヶ月前の自分がちょっと、可愛く見えた。たぶん入社初日の自分は、緊張でぱんぱんになっていた。今思えば研修室で何を話せばいいのか、よく分かっていなかった。
ページをめくった。
研修期間の、四人のマネージャー。諏訪さん、江口さん、大沢さん、牧野さん。
配属先の、四人の先輩。白瀬さん、立花さん、古川さん、赤坂さん。
「2種類の優しさ」と書いた、僕の文字。
白瀬さんから、二十二件のレビューをもらった日。
諏訪さんの初めての1on1で聞いた、三つの期待。
葉山さんの、「ぴくっとする」回数のノート。
……ぜんぶ、覚えている。
心の中で、僕は思った。
ページをもう一度、戻した。
配属初日のページ。赤坂さんから来た最初のSlackの返事を、僕は書き写していた。
「LGTM!」
次に二十二件のレビューのページを開いた。白瀬さんから来た、二十二件のレビュー。一件ずつ、僕は番号を振って書き写していた。
二つのページを、並べて見た。
赤坂さんの「LGTM!」と、白瀬さんの「二十二件」。
配属の頃、僕はどちらも「先輩の優しさ」として、たぶん同じ引き出しに入れていた。赤坂さんはいつも明るく、白瀬さんはいつも丁寧。二人とも、新人の僕を歓迎してくれている。
でも、二ヶ月後の今、二つのページを並べて見ると、何かが違っていた。
……あの時の引っかかりが、今ならこう見える。
心の中で、僕はつぶやいた。
同じ「優しい」という言葉で表されるけれど、何かが違う。
赤坂さんの「LGTM!」は、僕のコードを読まずに通してくれる優しさ。白瀬さんの「二十二件」は、僕のコードを読み込んで返してくれる優しさ。
前者は早い。後者は遅い。前者は気持ちが楽。後者は気持ちが重い。
でも、僕のコードを変えたのは、たぶん、後者の方だった。
……二種類の優しさ。
心の中で、僕はもう一度、その言葉を繰り返した。
配属の頃にも僕はノートに「2種類の優しさ」と書いていた。けれどあの時の「二種類」と、今の「二種類」は、たぶん少し違う。あの時は、優しさの「種類」を分けていた。今は、優しさの「方向」を見ている。
書き留めたから、二ヶ月後に並べて見ることができた。
心の中で、僕は思った。
ノートに書き留めていなくても、たぶん、覚えていただろう。けれど書き留めていることで、別の何かが加わっている気がした。
書き留めている、ということは、後から読み返せる、ということ。
読み返した時、二ヶ月前の自分が見えた。今ベンチに座っている自分と、入社初日の自分が、ノートを通して対話する、ような感覚。
……これが観察、ということなのかもしれない。
心の中で、僕はつぶやいた。
ノートに新しいページを開いた。
今日のページに、こう書いた。
二ヶ月の、振り返り。
その下に項目を立てて、書いた。
・同期、六人。それぞれ、違う場所から来た。
・諏訪マネージャー:本物のマネージャー。三つの期待を僕に託してくれた。
・白瀬先輩:ドキュメントの人。二十二件のレビューで、僕の書き方を丸ごと変えた。
・赤坂先輩:いつも明るく、いつも「LGTM!」。本当の優しさはたぶん、別の形をしている。
・立花先輩:いつも「了解」。中身はたぶん、まだ見えていない。
・古川先輩:いつも、椅子の中に沈み込んでいる。理由はまだ分からない。
・遠野CTO:「半径3メートル、両輪、観察」。三つの単語が二ヶ月、僕の中で回っている。
・葉山さん:ぴくっとする回数を、ノートに記録している。
書きながら、僕はぴくっとした。
葉山さんの「ぴくっと」と自分の「ぴくっと」がたぶん、違う種類の感覚なのに、同じ言葉で表現される、ということに。
葉山さんは「美月ちゃん」と呼ばれるたびに、ぴくっとする。それは自分の存在の扱いに対する、違和感。
僕の「ぴくっと」はたぶん、観察した何かがノートに書いた何かと繋がる時に起きる。それは発見の感覚。
二つの違う「ぴくっと」が、同じ言葉で語られる。
……日本語、面白い。
心の中でふと、そう思った。
ベンチでノートを、しばらく書いた。
お堀の跡の土塁の周りを、犬を連れた人や、ジョギングの人がゆっくり、通り過ぎていった。
ノートを書き終わって、空を見上げた。
六月の、五月晴れ。
……綺麗だ。
心の中でつぶやいた。
その時、スマホが震えた。
画面を見た。
母からの電話だった。
休日に母から電話が来るのは、珍しかった。普段はLINEのメッセージだけで、声を聞かせる電話は来ない。
通話のボタンを押した。
「もしもし」
「蒼太、今、どこ?」
母の声はいつもの、明るい母の声だった。
「今、城跡公園、っていう、街の真ん中の公園に来てる」
「あら、お休みの日に、お散歩?」
「うん、初めて、ちゃんと、休日の散歩をしてる」
「いいねー、五月晴れだしね」
母も、その言葉を使った。
不思議だった。母はたぶん、旧暦の話を知らない。それでも今日の天気を「五月晴れ」と呼ぶ。日本人の感覚としてそういう言葉が、空気に溶けているのかもしれない。
「お母さん、何か用?」
「うん、ちょっとね、相談、というか、確認、というか」
「うん」
「お盆、八月のね、帰ってこられそう?」
……お盆。
心の中で、僕は軽く止まった。
ゴールデンウィークは母からすでに、聞かれていた。「今回はここに残ってみる、夏休みには帰る」と僕は答えていた。
「うん、帰る、つもり」
答えた。
「何日くらい、いられるかな」
「会社がお盆休みを何日くれるか、まだ確認してないけど、たぶん、三日か四日、いられる」
「あ、そう。じゃあお父さんと妹と、四人でお墓参り、行こうね」
「うん」
母の声は嬉しそうだった。
「お父さん、最近ちょっとね、肩が痛いって言ってるから、蒼太に会えるとたぶん、元気が出るよ」
「そっか」
「無理しないでね、仕事」
「うん」
「じゃ、また、LINEするね」
電話が切れた。
スマホをベンチに置いた。
……お父さん、肩、痛いのか。
心の中で、ふと思った。
父は地元の小さな機械加工の会社の現場で、働いている。子供の頃から父の手はいつも、機械油の匂いと、固いマメの感触があった。父が「肩が痛い」と言うのはたぶん、初めて聞いた。
父も年を取っていく。
僕も、父の肩が痛い年齢にいつか、なる。
……それも観察、なのかもしれない。
心の中で思った。
ベンチから立ち上がった。
帰り道、桜並木通りを歩いた。
葉桜の深い緑が、青空をちらちらと覆っていた。
歩きながらふと、葉山さんが今日、何をしているかを考えた。
葉山さんもたぶん今日は休み。一人で街を歩いているか、自室で何かを書いているか、関東の家族と電話しているか。
葉山さんに会ったら、今日のノートを見せてもいい、とほんの少しだけ思った。
でもまだ会わなかった。葉山さんとの「いつか、見せる」は、もう少し先でいい気がした。
寮に戻ったのは、お昼前だった。
共用ラウンジで、軽くお昼を食べた。
午後は部屋で、本を読んだ。諏訪マネージャーが勧めてくれた『Effective Java』の、最初の十ページをゆっくり読んだ。
夕方、机にノートをもう一度、開いた。
今日のページの最後に、こう書いた。
今日、僕は二ヶ月の振り返りをした。
書き留めることで、過去の自分と対話できる。
それも、観察。
書き終わって、ペンを置いた。
窓の外、五月晴れの夕方がゆっくり、終わりに近づいていた。
月曜日からまた、平日が始まる。
白瀬さんと、諏訪さんと、葉山さんと、それから、まだ見えていないたくさんの人たちが、僕の半径の中にいる。
半径3メートル。
まだ僕はその意味を、半分くらいしかたぶん、分かっていない。
でも今日、五月晴れの空の下で、自分の二ヶ月分のノートを読み返したことで、ほんの少しだけ、その意味に近づいた気がした。
ノートを閉じた。
三年後にこのノートを読み返したら、今日ベンチに座っている僕は、どんなふうに見えるんだろう。
窓の外、街灯がぽつ、ぽつ、と点り始めていた。




