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新卒エンジニア、観察ノートを開く(上巻) 観察を、始める  作者: どん


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第14話「初めての賞与」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 六月の給料日の昼休みだった。


 社員食堂のいちばん奥の席で、僕は社用のMacBookを開いた。給与明細のページに、二度目の数字が並んでいた。


 額面、二十二万。大卒のひと月の額面。先月初めて見た数字と同じだった。


 その下に、引かれていく項目がいくつかあった。健康保険、厚生年金、雇用保険。社会保険料というやつだ。それでも手取りは思っていたより残っていた。一年目はまだ住民税がかからないと、先月、間宮先輩に教わっていた。


 給料の額には、もう最初ほどの驚きはなかった。二度目の数字は、すでに少しだけ日常になりかけていた。


 驚いたのは、その下にもう一つ、見慣れない明細があったからだった。


 賞与明細。額面、十万。


 ……賞与。


 心の中で僕はつぶやいた。新卒一年目の、初めての夏の寸志だった。給料日と同じ日に、それは振り込まれていた。


 十万。固定だった。四月に入ったばかりで査定の期間もないから、初回は固定額なのだとあとで知った。月給とは別に、もう一度お金が出る。学生時代のバイトにはなかった、初めての感触だった。


 ……これは、何に対して、出たんだろう。


 心の中で僕はつぶやいた。働いた時間に対してではない、ということだけはなぜか分かった。


 


 午後一番、チームAのフロアに戻る前に、間宮先輩がコーヒーを淹れながら教えてくれた。


「夏の寸志、出たろう。初回は、固定の十万だろう」


「はい、十万でした」


「一年目の夏はね、査定の期間がほとんどないから。四月に入って、六月の賞与でしょう。働いた分がまだ評価に乗らない。だから初回だけ固定なんだ。お祝いみたいなものだよ」


「賞与って、何で、決まるのですか」


「会社の業績と、君がその半期で何を出したか。賞与は半年の通信簿みたいなものだよ。冬になれば少し増える。来年の夏はもっと増える」


 間宮先輩は淡々と言って、自分の席に戻っていった。


 ……賞与は、半年の通信簿。


 心の中で僕はその言葉をもう一度なぞった。給料は、ひと月の労働に。賞与は、半年の何かに。同じお金でも、出てくる理屈が違うらしい。


 寸志が満額の賞与になるのは、たぶん研修員の三年が終わって担当になってから。一年目は四分の一。それが半分になり、四分の三になり、いつか満ちる。まだずっと先のことだった。


 


 昼休みの終わりに、6人室が動いていた。同期六人の、社内Slackのプライベートチャンネル。


丸山:夏の寸志、出たっすね! みんな、なに使う?

葉山:初回は十万固定なんだってね。来年から査定で差がつくらしい

黒木:先月カードで買ったラズパイ代、返す。残りは部品箱

アユシュ:少し、家族に送ります

杉本:本を、何冊か

丸山:黒木、給料出る前に、カードで買ったんすか

黒木:待てなかった

丸山:十万あっても、結局ぜんぶ部品っすね

黒木:それでいい

杉本:黒木くん、それ、楽しそう


 初めての寸志の使い道の温度が、それぞれ違っていた。黒木はラズパイ代の返済と部品、アユシュくんはネパールの家族への送金、杉本さんは本。葉山さんは固定額の仕組みを早くも調べていて、丸山くんは最後に「とりあえず、貯金っす」と書いていた。


 僕はまだ決めかねていた。


 画面を見ながら、なんとなく口の端がゆるんだ。六人とも、十万の使い道にその人がそのまま出ている気がした。


 


 午後の手があいた時間に、僕は諏訪マネージャーから薦められた二冊のうちの一冊を、机の上で開いていた。


 『Effective Java』。


 六月の最初の1on1で、諏訪さんは「この二冊は半年かけて読んでください。一日十ページでいい」と言った。指示というより宿題に近い、必ず読むべきものだった。だから僕は、毎日少しずつ義務のように読み進めていた。


 ただ、正直に言うと、どう読めばいいのかがまだ分かっていなかった。書いてあることをなぞって、ふんふんと頷いて、ページをめくる。それで何かが身についている気があまりしなかった。


 そこへ、立花先輩が通りかかった。


「桐谷くん、熱心だねえ」


 立花さんは僕の手元をのぞき込んで、にこやかに言った。それから表紙の本が諏訪さんと白瀬さんに薦められたものだと察したらしく、それ以上は踏み込まなかった。


「諏訪さんも白瀬さんも、良かれと思って言ってるんだろうけどさ。桐谷くん、いまOJTで覚えること多くて、ただでさえ大変だろ。勉強みたいに業務じゃないことは、後回しにしてもいいと思うよ」


 やわらかい、親切めかした声だった。だから、表立った否定にはならなかった。


「あ、はい」


「俺はそういうの読まないけどね」


 立花さんは軽く笑って、自分の席へ戻っていった。


 ……勉強みたいに、業務じゃないこと。


 心の中で僕はその言い方に半分うなずきかけ、けれどどこかで小さく引っかかった。


 


 夕方、退社の少し前に、僕は白瀬さんの席へ行った。


「白瀬さん、この本、どう読めばいいですか」


 白瀬さんは画面から目を上げて、二冊の表紙を確かめた。


「諏訪さんの二冊は、まず読むべきもの。ただ、手順書として読むと、もったいない」


「手順書」


「そう。これは、なぜそう設計するのかが書いてある本。だからコードを書きながら、なぜ、を問いながら読むといい。手順だけ覚えても、応用は効かないから」


「なぜ、を問いながら」


「道具の使い方そのものは、毎日の開発である程度身につく。本で読む価値は、その後ろの、背景と目的のほうにある」


 白瀬さんの声は、いつものとおり淡々としていた。けれど、その淡々の奥に芯のようなものがあった。


 僕の中で、本の見え方が少しだけ変わった。


「あと」


 白瀬さんは続けた。


「歴史を知ることも、エンジニアとして当たり前だと、私は思ってる」


「歴史」


「道具は変わる。言語も、フレームワークも、十年で入れ替わる。でも人とプロジェクトでつまずくところは、何十年もほとんど変わらない。だから過去から学べることはとても多い」


「過去から」


「ブルックスの『人月の神話』とか、ワインバーグとか。ああいう古典は、いつかでいい。日々の仕事からは学べないから」


 白瀬さんはそれだけ言って、また画面に目を戻した。


 僕は自分の席に戻り、ノートの端に、白瀬さんの言葉を短く写した。


 立花さんの「業務じゃない」と白瀬さんの「過去から学べる」が、僕の中でちょうど逆を向いて並んだ。


 ……勉強は、仕事なのか、仕事じゃないのか。


 心の中で僕はその食い違いにうっすら引っかかった。けれど、まだうまく言葉にできなかった。どっちが正しいのかも分からなかった。


 ただ、ひとつだけ決めたことがあった。今日もらったお金で、自分から一冊買おう。誰かに言われたからではなく、自分で選んで。


 


 退社後、駅前の本屋に寄った。


 技術書の棚の前で、僕は『人月の神話』の背表紙をしばらく見ていた。手に取って、最初の数ページをめくると、書いてあることの半分も正直わからなかった。


 棚には、似た背表紙が何十冊も並んでいた。どれもまだ、僕の知らない言葉でできている。指で背を辿りながら、この棚のどこまでが三年後の自分の手の中に入るのだろうと思った。一冊の重さは、思ったよりも手に確かだった。


 それでも、いつか分かる、という気がした。


 レジで、今日もらったお金の中から、その一冊を買った。諏訪さんの指示でも、立花さんの「無駄」でもなく、自分の意思で選んだ最初の一冊だった。


 袋を提げて店を出ると、六月の夕方の風が、葉桜の並木をゆっくり撫でていた。


 


 寮の部屋に帰って、僕は実家に電話をかけた。


 松倉町の、地方銀行に勤める父が出た。


「賞与、出たか」


 父は言葉少なだった。けれど、その短い一言の中に、確かに喜びがあった。


 父は松倉町の地方銀行で、窓口や融資を三十年以上やってきた人だった。子どもの頃、父の手はいつも数えることに慣れた指先をしていた。電話の向こうの声は、その指先と同じくらい落ち着いていた。


「明細は、ちゃんと見たか」


 最初に出てきたのは、額の話ではなかった。いかにも銀行員らしい入り方だと思った。


「見たよ。社会保険で引かれてる分も、賞与の欄が別にあるのも」


「そうか。なら、いい」


 受話器の向こうで、お茶をすする音がした。


「……せっかくだから、少し話しておくか」


 湯呑みを置く音がして、父の声が少しだけ低くなった。窓口の声から、父親の声に変わった気がした。


「給料も賞与も、会社からもらう金は全部、報酬だ。その報酬が何に対して払われてるか、考えたことはあるか」


「働いた分、だと思ってた」


「半分は合ってる。だが、大事なほうの半分が抜けてる」


 父は続けた。


「会社が、気前で配ってるんじゃないぞ」


「うん」


「会社や客が、お前に金を払うのはな。作業をしたから、じゃない。作業の成果を出すのは当たり前だ。出して当たり前のものに、誰も金は払わん」


「……当たり前」


「その成果が誰かの役に立って、価値になったとき。そこに初めて、金がつく。やったこと、じゃない。生んだ価値のほうだ」


 ……やったこと、じゃなくて、生んだ価値。


 心の中で僕はその言葉をゆっくりなぞった。


「その金の元手もな。お前の会社が客から受け取った金だ。客が価値を感じたから、払った。回り回って、お前の口座に振り込まれる。一円残らず、どこかの誰かが価値を認めた証だ」


「……一円残らず」


「窓口に長くいるとな、振込の数字の後ろにあるものが少しは見えてくる。給料日の通帳の一行は、どれも同じに見えて一つも同じじゃない。どの一行にも、払った側の事情と受け取った側の暮らしがある」


 父がこんなふうに自分の仕事を語るのを、初めて聞いた気がした。


「学生のバイトは、レジに立った時間に金がついた。立ってるだけで、もらえた。社会人は、違う。時間じゃない。価値だ。そこの感覚を変えられない奴は、何年いても、中身はバイトのままだ」


「……うん」


「その上でな。賞与は、とくにだ」


 父は少し間を置いてから続けた。


「月給は、毎月の暮らしを支える金だ。多少の出来不出来があっても、毎月決まって出る。だが賞与は、会社の半期の成績と、お前がその半期で生んだ価値が乗ってくる」


「間宮先輩は、半年の通信簿みたいなものだって」


「うまいことを言う先輩だな。だから賞与は、いくらもらったかより先に、何に対して出たのかを考えるといい」


 ……何に対して、出たのか。


 心の中で僕はその言葉を受け取った。今日もらったばかりのお金で本を一冊買ったことが、父の一言と静かに重なった。


「つまりな」


 父の声が、最後にもう一段深くなった。


「報酬は、会社が決めて払ってるものじゃない。お客様が決めて払ってるものだ。会社はそれをお客様に代わって分配してるにすぎん。これを忘れるな」


 ……会社じゃなくて、お客様が、決めて払っている。


 給与明細の発行元は会社なのに、元をたどると会社の外に出る。頭の中で、お金の流れる向きがひとつ裏返った。


「実は今日、寸志で技術の本を一冊買った。自分で選んで」


「いい使い方だ。使い方にも、人は出るからな」


 声が少しやわらいだ。母には地元の菓子のお礼を送ろうと決めた。


 銀行で何十年も、人と会社の金を見てきた父の言葉だった。普段は、こんなに喋る人ではなかった。


 電話の向こうで、父がふと黙った。


「……まあ、その、なんだ」


 言い終わってから、自分が柄にもなく長く喋ったことに、今さら照れているようだった。


「お父さん、めずらしく、たくさん喋ったわねえ」


 後ろで、母の、からかうような声がした。


「うるさい」


 父の、ばつの悪そうな声。電話の向こうで、母がくすくす笑っているのが聞こえた。


 僕も、受話器を持ったまま、思わず笑った。


 お金の話をあんなに真剣にした父が、母の一言で、ただの照れた父親に戻る。その落差が、なんだか温かかった。


 電話の向こうで、母に代わった。


「蒼太、ちゃんと食べてる? お金が入ったからって、無理に使わなくていいのよ」


「うん、大丈夫」


「お父さん、口では何も言わないけど、今日は何度もお茶を淹れ直してたのよ。あなたの初めての賞与の日だって」


 ……お茶を、何度も。


 受話器の向こうの、父の照れた顔がなんとなく浮かんだ。地方銀行で人の通帳の数字を毎日見てきた父が、自分の息子の初めての賞与の日に、湯呑みだけ落ち着かなかったらしい。


「初めての賞与で何か送ってくれるなら、お母さん、なんでもいいの。それよりあなたの声のほうが嬉しいけどね」


 ……声のほうが、嬉しい。


 その一言が、社会保険料で引かれた数字よりも、僕の中に深く残った。


 電話を切って、僕は机の上に、買ったばかりの本を置いた。


 明細の数字を頭の中でもう一度なぞった。父は、これは働いた時間の対価じゃない、と言った。僕の出したものが誰かの価値になったとき、初めて意味を持つ金だ、と。


 正直、まだ実感はなかった。今日の僕は、出して当たり前のことを出しているだけ。それが誰かの価値になっているかは、まだ分からない。


 でも、この数字の一円ずつが、どこかの誰かが価値を認めた証なのだとしたら。軽く扱うわけには、いかなかった。


 いつか習うかもしれない、受託は人件費が大半、という話。その人件費の一粒が、僕の給料なのだとしたら。その一粒もきっと、誰かが価値を認めて払ってくれた金だった。


 


 ノートを開いた。


 四月一日の朝の一行、「一年目、観察を始める」。その下に、今日の分を書いた。


「稼ぐ、ということ」


「報酬は、働いた時間でなく生んだ価値に出る。父がそう言った」


「報酬を決めて払うのは、会社じゃなくお客様。会社は代わって分配しているだけ」


「賞与は、半年の通信簿。次の冬、少し増えるらしい」


「指示で読む、から、自分で選んで読む、へ」


 少し迷って、その下に、もう一行だけ書き足した。


「勉強は、仕事なのか、仕事じゃないのか。答えは、まだ書けない」


 ペンを置いて、机の上の、まだ半分も読めない一冊を見た。


 学生の気分の、最後の一枚が、静かにめくれた夜だった。


 勉強は、仕事なのか、仕事じゃないのか。その答えを書ける日は、いつ来るんだろう。


 窓の外で、六月の夜の風が、葉桜を撫でていた。


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