第12話「葉山の違和感」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
六月の第一週、金曜日のお昼休み。
配属から、ほぼ六週間が経っていた。
社員食堂はいつものように混んでいた。新卒の同期たちは今日、それぞれの部のメンバーと食べることになっていて、お昼に集まれなかった。
食堂に向かう階段で、スマホが軽く震えた。同期六人の社内Slackのグループだった。杉本さんの投稿。
杉本:皆さん、パッケージ事業チーム、お客様の問い合わせ対応が多くて、コードを書く時間が思ったより少ないです……
短い、控えめな一文。最後の三点リーダに、杉本さんの今の温度が少しだけ滲んでいた。
丸山:分かるっす、お客様対応、想像以上に時間取られるっすね
葉山:杉本さん、お疲れさま
……杉本さんも、半径3メートルの中で、ぴくっとしている。
心の中で僕は思った。
返信を一行打って、スマホをポケットに戻した。
蒼太:お疲れさまです。今度ゆっくり聞かせてください
パッケージ事業チームの話は、また別の世界の話に聞こえた。コードを書く時間が少ない、という困りごとは、書く時間しかない今の僕と、ちょうど裏返しだった。六人いると、六つの現場がある。
僕は和定食をトレイに乗せて、食堂を見回した。
六人席はほぼ埋まっていた。空いている席を探していると、奥の方の四人席に、葉山さんが一人で座っているのが見えた。
葉山さんは僕に気づいて、軽く手を上げた。
「桐谷くん」
「葉山さん、隣いいですか」
「うん」
葉山さんの正面の席に、トレイを置いた。
葉山さんは和定食を食べていた。僕も和定食。今日はメインが、鯖の塩焼きだった。
配属されてから葉山さんとお昼を二人だけで食べるのは、初めてかもしれなかった。同期の集まりで一緒に食事をする機会は、何度もあった。けれど二人だけ、というのは初めてだった。
「杉本さん、ああ書いてたけどたぶん向いてるんだよね、今の仕事」
葉山さんも、さっきの投稿を見ていたらしい。
「研修の最後の週、壊れたプログラムの欠陥を見つけるのが一番早かったし。本人がそれに気づくのはもう少し先かもしれないけど」
観察している人が、ここにもう一人いた。
「ねぇ、桐谷くん」
葉山さんが味噌汁の器を持ち上げながら、口を開いた。
「うん」
「聞いてくれる?」
「聞きます」
短い、けれどはっきりした、お願いの言葉だった。
葉山さんは味噌汁をひと口、飲んだ。
それから、こう話し始めた。
「先週の水曜日、A顧客との定例打ち合わせがあって私、議事録を書いた」
「議事録を書く担当、決まってるのですか」
「決まってない。会議室に入った瞬間、立花……じゃなかった、うちの先輩が私に『美月ちゃん、頼める?』って」
立花、と言いそうになって、葉山さんは自分で訂正した。けれど葉山さんが「立花さん」と呼びたくない、ということが、僕には伝わった。
「沢田さん、って名前なんだけど。チームBの中堅。声の高さも笑い方も立花さんに似てる。だから私の頭の中で、二人がたまにごっちゃになる」
「ごっちゃに」
「同じ人じゃないのは、分かってる。でも『美月ちゃん』の温度が、ぴったり同じ」
葉山さんは少しだけ笑った。自分を観察している笑い、だった。
チームAの立花さんとチームBの沢田さん。別々のチーム、別々の先輩。それでも葉山さんの中で、二人は「同じタイプの『美月ちゃん』先輩」として、無意識に重ねられている。たぶん葉山さんは、二人を一括りにしないように努めながら、結局は同じ反応を内側で繰り返している。
「会議室に入ったら、男性が五人。私、一人。誰も議事録は振られない」
葉山さんは淡々と続けた。
「もちろん、私が新卒でいちばん下なのは分かってる。だから議事録を書くのが嫌、というわけじゃない」
「うん」
「議事録自体はちゃんと書くよ。決まったこと、宿題、期限、担当。形式は私が勝手に作った。チームBには議事録の型もなかったから」
「型から、作ったのですか」
「うん。で、二回目からはその型のまま私に頼まれる。型を作った人が、型の担当になる」
型を作った人が、型の担当になる。便利な人になることと、評価されることは、たぶん別の話だった。葉山さんの「ぴくっと」の何回かぶんは、ここにも埋まっている気がした。
「ただ、ね」
葉山さんはひと呼吸、置いた。
「『美月ちゃん』って呼ばれる時、毎回、何かぴくっとする」
「ぴくっと」
「分からないんだけど、ぴくっとする」
……「美月ちゃん」。
五月の最初の飲み会の夜、葉山さんはその呼ばれ方の回数を、もう数えはじめていた。配属からひと月あまり、毎日、葉山さんはその「ぴくっと」を感じ続けてきた、ということになる。
「葉山さん、それ、辛いっていうか、しんどい感じ?」
言葉を探した。
「しんどい、というよりは、じわじわ削られる感じ」
「じわじわ」
「一回一回は、大したことない。でも五十回、百回って続くと、どこかで、ぼん、と来る気がする」
葉山さんの言い方は冷静だった。けれど冷静さの奥に、確かに、何かが堆積している、という感覚が伝わった。
僕はしばらく、何を言うべきか考えた。
答えはすぐには出なかった。
「……江口マネージャーは、どんな感じですか」
質問の方向を、少し変えた。
「江口さんはこっちの方が、もっと、たぶん長期的にはしんどい」
葉山さんは即答した。
「そっか」
「『現場で決めて』しか、言わない」
「うん、研修で聞いた」
「あれ、本当に何を聞いても『現場で決めて』なんだよ。技術的な判断も、顧客との交渉も、メンバーの仕事の振り方も、全部」
葉山さんは味噌汁をもう一度、ひと口、飲んだ。
「で、現場で決めて結果が悪かったら、たぶん最終的には現場の責任になる」
「責任は振り分けないけれど、結果が悪かったら現場のせい」
「うん、たぶんそう」
葉山さんはほんの少しだけ笑った。冷たい笑い、というより、自分の状況を観察している、という笑いだった。
「仕事の進め方も、だいぶ違うのですか。チームBにも、朝会はある?」
「あるよ。あるんだけど」
葉山さんは箸を一度、置いた。
「江口さんが新聞を片手に立って、何かあったら言って、で終わり。昨日やったこと、今日やること、誰も言わない。三分で解散」
「議事録とかは」
「ない。お客様との打ち合わせの議事録は私が書くのに、チームの中の決まりごとはどこにも書いてない。ドキュメント自体がほとんどないの。新しく入った人は、隣の人に口で聞いて覚える」
「うちは逆だ。ドキュメントが何百ページもあって、最初は溺れそうになった」
「いいなあ。溺れたい」
葉山さんは半分笑って、半分笑っていなかった。
「コードレビューは、どうですか。チームB」
「私、まだPRを三回しか出してないけど、三回ともコメントが何も付かないでマージされてた。気づいたら、入ってる」
「コメント、ゼロ」
「ゼロ。承認の記録だけ。桐谷くんのところの二十二件が、ちょっとうらやましい」
「もらってる最中は、結構苦しいよ」
「でも、もらえてるじゃない」
もらえてる、という言い方に、僕は返す言葉を少しだけ失った。二十二件は、僕にとっては事件だった。葉山さんにとっては、降らない雨だった。同じ六週間で、僕と葉山さんは、別々の渇き方をしている。
同じ会社の、同じ受託開発部の、隣同士のチーム。それでこんなに違う。配属の日にLINEで感じた小さな違和感は、気のせいではなかった。チームの文化は、マネージャーの形をしている。
「諏訪さんと対比すると、はっきりするね」
葉山さんが続けた。
「諏訪さんはたぶん、現場で決めた結果が悪かったら『自分の責任です』って言う人。江口さんは、現場で決めた結果が悪かったら現場のせいにする人」
……同じ「現場に判断を任せる」という行為でも、二つは本当は違うことだ。
心の中で、僕は思った。
「丸山くんは、どうしてますか」
「丸山くん、たぶん私より強い。前職の運送会社でいろんな上司を見てきたから、慣れてる」
「ああ」
「それでも、たまにぽろっと文句を言ってる。『現場で決めろっつーのも、限度があるっす』って」
……「限度があるっす」。
心の中で、僕はちょっとだけ笑いそうになった。
「桐谷くんのチームAは、どうなの?」
葉山さんがこちらに向いた。
「諏訪さんは本物だと思う。今週、初の1on1をやってはっきり分かった」
「いいね」
「白瀬さんも本物。これまでに出したPRに、白瀬さんから合計二十件以上のレビューをもらった」
「赤坂さんは……」
「赤坂さんは、いつも『LGTM』だけ、と。立花さんは『了解』だけ」
「うん、なんで知ってるの?」
「桐谷くんがノートに書きそうな話を、私、想像してた」
……葉山さん、僕の観察を、観察している。
心の中で、僕は思った。
葉山さんが笑った。
二人でしばらく笑った。
笑いが収まった頃、葉山さんがふと、こう言った。
「ねぇ、桐谷くんのノート、いつか見せてくれる?」
……ノート。
心の中で、僕は軽く止まった。
ノートには、僕の観察した内容がぎっしり書かれている。先輩やマネージャーの名前と、それぞれの第一印象が書かれている。葉山さんに見せると、たぶん葉山さんも、その分類に自分なりの観察を重ねるだろう。
二人の観察が重なる。それは僕にとって、心強いことのはずだった。
でもノートは僕の中の、たぶん、いちばん内側にあるものだった。誰かに見せるのには、少しだけ勇気が要った。
「うん、いつか」
答えた。
「いつか、ね」
葉山さんはにっと笑った。
「私も最近、ノートを書き始めた」
「そうなのですね」
「ぴくっとした瞬間をノートに記録する。今、何回目の『美月ちゃん』だった、とか」
「回数まで」
「先月、七十三回だった」
……七十三回。
心の中で僕はその数字を、繰り返した。
一ヶ月、二十営業日として一日平均、三回半。会議のたび、廊下ですれ違うたび、Slackで呼ばれるたびに、葉山さんの中で「ぴくっと」が一回ずつ刻まれている。それを数えている、ということ。
「数えると、何か変わるのですか」
「変わらない。でも数えると、自分の感覚が本当だって確かめられる」
葉山さんは淡々と続けた。
「七十三回ぴくっとしたのは、私の気のせいじゃない、って」
「……ああ」
「気のせいじゃないって、自分で言えるようになるための数」
「その数、誰かに言いましたか」
「言ってない。言う相手もまだいない。江口さんに言ったら、たぶん『現場で解決して』だし」
「……だよね」
「だから今は数えて、貯めてる。いつか使う日のために」
いつか使う日、という言い方が、葉山さんらしかった。感情で言えば済む話を、データにして持っておく人。大学でユーザーの行動を研究してきた人の、闘い方だと思った。
「……それ、すごく観察ですね」
「桐谷くんに影響されたかも」
葉山さんは味噌汁を、最後のひと口で飲み干した。
「お互いに、観察、続けよう」
「あとね、今度、桐谷くんのチームの話、もっと聞かせて。朝会の型とか、レビューのやり方とか。うちに輸入できるものがあるかもしれないから」
輸入、という言い方に、僕は少し笑った。観察して、数えて、そのうち輸入までするつもりでいる。葉山さんの中では、もう次の手が動き始めていた。
葉山さんが軽く、こちらに頷いた。
僕も頷き返した。
お昼休みの終わりのチャイムが、食堂の壁のスピーカーから鳴った。
六月の昼下がり、食堂の窓から、もう夏の予感のある、白い光が差し込んでいた。
午後の業務が始まった。
白瀬さんからまた、僕のPRにレビューが来ていた。今度は十五件。前回より少し、減っていた。
内訳を、今回も数えた。命名の指摘は、ゼロだった。前回五件あった命名が、ゼロ。テストは四件から二件。代わりに、設計寄りの指摘が増えていた。減っただけではなくて、指摘の階が一つ、上がっている。
……減っているのは、僕の書き方が少しだけ白瀬さんに近づいた、ということなのかもしれない。
心の中で、ちょっとだけ嬉しくなった。
最初の二十二件から、七件、減った。たった七件。けれどその七件は、僕が白瀬さんのコメントを覚えて、次からは自分で気をつけられるようになった分だった。減った数が、そのまま、僕の学んだ数だった。葉山さんがぴくっとした回数を数えるように、僕も知らないうちに、自分の何かを数え始めていた。
退社して、寮に戻った。
夕食を食堂で済ませて、部屋に上がった。
ノートを机に置いた。
今日のページに、こう書いた。
葉山さんと、お昼を二人だけで食べた。
葉山さんはチームBで毎日、「ぴくっとする」回数をノートに記録している、らしい。
江口マネージャーの「現場で決めて」と、諏訪マネージャーの「私の責任」は、同じ「現場に判断を任せる」でも、まったく違う。
チームの文化は、マネージャーの形をしている。
白瀬さんのレビュー、二十二件から十五件へ。命名五件からゼロへ。
葉山さんのチームBは、三回出して、コメントゼロ。同じゼロでも、意味がまるで違う。
葉山さんから「ノート、いつか、見せて」と言われた。
書きながら、僕はペンをほんの一瞬、止めた。
もう一行、書いた。
いつか、葉山さんにノートを見せよう。
書き終わって、ノートを閉じた。
窓の外、六月の夜風が開けた窓から、すっと入ってきた。少しだけ湿気が増えていた。梅雨の予感だった。
明日は土曜日。
葉山さんもたぶん、自分のノートを書き続けるんだろう。
二人の観察が、いつか、どこかで合流する。それが何になるかは、まだ分からない。
でも合流する予感だけは、今日、確かに感じた。




