第11話「諏訪、三つの期待」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
配属から五週目に入った、六月の最初の月曜日。
諏訪マネージャーから、Slackの個別メッセージが来た。
「桐谷くん、明日、初の1on1の時間を取りたいです。十時から三十分、空いてますか?」
来ると分かっていたものが、来た。
配属の日に諏訪さんは「来月の終わりに、私と最初の1on1をしましょう」と言っていた。配属の翌週月曜日が始まりだったから、五週目に来るのがちょうど、約束通りの時期だった。
僕はSlackで返信した。
「はい、十時から三十分、空けます。よろしくお願いします」
「了解」とだけ、諏訪さんから返信が来た。
それからしばらくして、もう一通、メッセージが届いた。
「事前に何か用意することは、特にないです。話したいこと、気になっていること、自由に何でも話してください」
……何でも、話してください。
心の中で、その言葉を繰り返した。
その日の夜、僕は寮の部屋でノートを開いて、明日何を話すか、少しだけ考えた。
配属から五週間、観察してきたことはたくさんあった。
白瀬さんと赤坂さんの違い。
立花さんの軽すぎる「了解」。
古川さんの椅子の中の沈み込み。
どれもたぶん、話せば面白い話題ではあった。けれど初対面に近い諏訪マネージャーに、いきなり社内の人を評価する話をするべきではない、という直感もあった。
……何を聞こうか。
話す側ではなく聞く側に回るとしたら、何を聞くべきか。
考えながら僕はノートに、こう書いた。
諏訪さんに聞いてみたいこと。
書き出してみると、最初は何も出てこなかった。けれどペンを止めずに、無理やり書いた。
・諏訪さんは、僕に何を期待しているのか。
・諏訪さんから見て、白瀬さんと赤坂さんはどんな人なのか。
・諏訪さんが入社したばかりの頃、何を考えていたか。
書き並べてみると、二つ目と三つ目はたぶん、初対面の1on1で聞くべきことではなかった。残るのは一つ目だった。
諏訪さんは、僕に何を期待しているのか。
その質問を明日、聞いてみようと思った。
翌日、火曜日、午前十時。
三階の小会議室。普段はお客様向けの打ち合わせで使う部屋らしかった。机を挟んで、椅子が四脚、二脚ずつ向かい合わせに配置されていた。
諏訪さんは僕より先に来ていた。
いつものスーツ、白いブラウスにグレーのジャケット。机の上にはMacBookが一台と、メモ帳が一冊。マグカップにコーヒーが入っていた。
「桐谷くん、座ってください」
諏訪さんは机の向かいの席を、軽く指した。
僕は頭を下げて座った。
「コーヒー、いる?」
「あ、はい、もしよろしければ」
諏訪さんは立ち上がって、給湯室の方に向かった。一分ほどで、僕の分のマグカップを持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
マグカップを両手で受け取った。温かさが手のひらに伝わった。
諏訪さんが自分の席に戻った。
「今日は初の1on1だから、形式的なことは特に考えずに話そう」
諏訪さんの声は、いつもの低くて安定したトーンだった。
「桐谷くん、今、何が、一番、気になってる?」
……来た。
心の中で、僕は軽く息を整えた。
昨夜考えた質問が頭の中にあった。けれどそれをすぐに口に出すのは、なんとなく気が引けた。「気になってる」という質問に答えていない、ように思えた。
「えっと……」
言葉を探した。
「特に気になっていることは……」
言いかけて、止めた。
「特にないです」と答えそうになった自分がいた。
でも、それはたぶん嘘だった。気になっていることはたくさんある。ただそれを初対面の人に、最初の1on1で、どこまで話していいのか分からなかっただけだ。
……でも、ここで話さないなら、いつ話すんだろう。
心の中で、自分に問いかけた。
「気になっていること、と言うか、聞きたいことが、ひとつ、あります」
「うん、聞いて」
諏訪さんが軽く頷いた。
「諏訪さんは今期、僕に何を期待していますか」
言葉が口から出た。
言ってから自分でも、少し驚いた。
「今期」という言葉がなぜか、自然に出てきた。たぶん研修の時に遠野CTOが「三年で土台を作る」と言ったことが、僕の頭の中で「期」という単位で考える癖を作っていたんだろう。
諏訪さんはその質問に一瞬、止まった。
驚いた、というより、何か自分の中で考えを整理する、という止まり方だった。
それからゆっくり、こう言った。
「いい質問、ね」
マグカップを机に置いた。
「桐谷くん、ちょっと待ってもらえる? 整理して答えたい」
諏訪さんは机の上のメモ帳を開いた。ペンを取って、何か三つくらい書いた。
書きながら、口を動かしていた。声には出していない。けれど何かを頭の中で組み立てているのが分かった。
書き終わって、ペンを置いた。
「三つ、あります」
諏訪さんは右手の指を、三本立てた。
「一つ目。Java と Spring の基礎を、体に染み込ませること」
人差し指が、軽く動いた。
「桐谷くんは、もう簡単な機能修正は書ける。それは見ています。でも、Java の言語仕様と、Spring の設計思想を深く理解しているか、というと、そこはまだこれから」
諏訪さんは丁寧に続けた。
「読書なら、『Effective Java』、それから『Spring 徹底入門』、この二冊は半年かけて読んでください。一日十ページでいい。コードを書きながら、その本のページを頭の中で参照できるようになると、書く速度が急に上がります」
……『Effective Java』、『Spring 徹底入門』。
心の中でメモした。
「二つ目。白瀬さんから、設計の考え方を盗むこと」
中指が立った。
「白瀬さんは、うちのチームのいちばんの財産です。彼女が書いてくれているドキュメント、彼女が書いてくれているコードレビューのコメント、彼女がなぜそう書くのか。それをよく観察してください」
……「観察」。
諏訪さんもその言葉を使った。
「白瀬さんがドキュメントに何を書いているか、より、何を書かなかったか、を見ると、設計思想が見えてきます。書かなかったことには、書かなかった理由がある。その理由を自分で考えてみてください」
……書かなかったこと。
心の中で、もう一度メモした。
「三つ目。チームAの仕事の流れを理解すること」
薬指が立った。
「うちは受託開発をやっています。顧客から要件をもらって、設計して、実装して、テストして、リリースして、運用する。この流れのどこに自分がいるか。常に意識してください」
諏訪さんは、少し間を置いた。
「それから、もう一つ。いつか、でいいのだけど」
諏訪さんの声のトーンが、ほんの少しだけ変わった。
「君が書いたコードが、いくらの売上に繋がっているのか。それを、いつか君に見せる日が、来ると思う」
「売上」
「うちは受託。お客さんが、私たちの仕事に値段をつけて、お金を払ってくれる。そのお金の一部が、君の給料になる。コードと、数字は、繋がっている。今すぐ分からなくていい。でも、頭の隅に置いておいて」
……コードと、数字。
心の中で、僕はその言葉をメモした。まだ実感はなかった。けれど、諏訪さんが「いつか見せる」と言ったことは、ノートに書いておこうと思った。
諏訪さんは指を戻した。
「桐谷くんは今、実装と簡単なテストのフェーズにいます。でも半年後には、設計のレビューに参加してもらいたい。一年後には、自分で小さな機能の設計を書いてもらいたい」
「はい」
「半年、一年、二年、三年。少しずつ、自分が関わる範囲を広げていく。それが新卒の三年のロードマップと思ってください」
「三年目の三月、研修員論文発表会で、君のこの三年を社内に置きます。そこを終点として、半年・一年・二年・三年の半段ずつを積み上げる、と思ってもらえばいい」
……三年目の三月。
心の中で僕はその一行を撫でた。研修の初日、沢田さんが入社初日に置いてくれた発表会の日付が、いま諏訪さんの口からもう一度、僕の半径3メートルの中に置き直された。
諏訪さんはそれから少し、間を置いた。
マグカップをもう一度、手に取った。
「桐谷くんから最初の1on1で、こういう質問が来るとは、思っていなかったです」
諏訪さんが軽く笑った。
「驚いた。でも、嬉しい驚きです」
「えっと……ありがとうございます」
頭を下げた。
「期待を聞いてくれる新卒、というのは、ね、実はそんなに多くはないのです」
「そうなのですか」
「ほとんどの新卒は、私の方から期待を伝えます。それはそれでいいのですけど、自分から聞いてくる、というのは少し違う」
諏訪さんはコーヒーをひと口、飲んだ。
「自分から期待を聞く、ということは、自分が何を目指すかを、自分で決めようとしている、ということ。それは新卒の最初の段階では、なかなかできない」
「……」
「桐谷くんはたぶん、観察する人、ですね」
……「観察する人」。
諏訪さんがその言葉を、僕に向けて使った。
「いずれ君は、自分のチームを、自分の半径で変えていく人になる」
諏訪さんがそう言った。
……「半径」。
遠野CTOのホワイトボードの言葉と、同じ単語だった。
「だから私は、君に、こう言いたい」
諏訪さんは姿勢をまっすぐに戻した。
「君の三年で、私も、育つから」
短い言葉だった。
でもその言葉の重さが、僕の中にしっかりと入ってきた。
「君が私の指導の下で育つ」ではなくて、「君の成長の中で、私も育つ」。
……マネージャーが、新卒に、そう言うのか。
心の中で、僕は少しだけ止まった。
「ありがとうございます」
頭を下げた。
「次回の1on1は、来月の同じくらいの時期にします。質問、またたくさん用意してきてください」
「はい」
諏訪さんは笑った。
時計が、十時三十分を指した。
1on1はぴったり、三十分で終わった。
会議室を出た。
フロアに戻る、廊下。
白瀬さんとすれ違った。
白瀬さんはいつものように、無言で軽く頷いた。
僕も軽く頷き返した。
……「白瀬さんから、設計の考え方を盗む」。
諏訪さんの言葉が頭の中で、もう一度響いた。
白瀬さんが僕にとってどういう存在か。それはたぶん、まだ変化していく。今日の白瀬さんと、半年後の白瀬さんと、一年後の白瀬さんは、僕の中で少しずつ違う輪郭を持つようになる。
それもたぶん、観察、ということだ。
退社の時間。
桜並木通りを歩いた。
六月、若葉はもう深い緑に変わっていた。
歩きながら、僕は諏訪さんの最後の言葉を、もう一度思い返していた。君の三年で、私も育つ。あの言葉には、僕を育てるという上からの響きがなかった。代わりに、同じ方向を一緒に歩こうとする人の、横からの声があった。一年目の僕は、その違いをまだうまく説明できない。でも確かに、いつもの「期待」とは温度が違っていた。
寮で夕食を済ませて、部屋に戻った。
机にノートを開いた。
今日のページに、僕はこう書いた。
諏訪マネージャーと、初の1on1。
諏訪さんから、三つの期待をもらった。
一、Java と Spring の基礎を体に染み込ませる。読書二冊、半年。
二、白瀬さんから設計の考え方を盗む。書かなかったこと、を見る。
三、チームAの仕事の流れを理解する。半年で設計レビュー、一年で小さな機能の設計、二年で大きな機能、三年で自分の半径を広げていく。
そして、もう一行、書いた。
諏訪さんが、こう言った。
「君の三年で、私も、育つ」。
書いてからしばらく、その文字を見ていた。
ノートを閉じた。
窓の外、六月の夜風が、開けた窓からすっと入ってきた。
明日、白瀬さんが何かのドキュメントを書く。
その時、白瀬さんが何を書いて何を書かないのか、僕は観察してみようと思った。




