第10話「寮の夜、小林の言葉」(インタールード②)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この章は、楽しい話の回です。
配属から一ヶ月が過ぎようとしていた。
五月の下旬、平日の夜。
白瀬さんから二十二件のレビューをもらった日の翌週だった。
あの日以来、僕はコードを書くたびに白瀬さんが何を見るかを意識するようになっていた。「白瀬さんなら、ここをこう指摘するかな」と頭の中でレビュアーをシミュレーションしながら書く。それがちょっと、新しい習慣になりつつあった。
水曜日の夜、十時。
寮の自室で、ノートにその日の記録を書き終えた。
眠るには、まだ早い時間だった。けれど机に向かい続けるのも、ちょっと疲れていた。
……コーヒー、淹れに行こう。
そう思って部屋を出た。
寮の共用ラウンジは一階にある。十畳くらいの広さにソファが二つと、簡易キッチン、それから誰でも使える小さな冷蔵庫が置いてあった。
昼間は誰かしらいる。けれど夜の十時を過ぎると、たいていは無人だった。冷蔵庫の低いモーター音と、廊下の常夜灯の明かりだけが、夜のラウンジを満たしている。一年目の僕にとって、この寮はまだ、どこか他人の家のような場所だった。
今夜もたぶん無人だろうと思って、ラウンジの扉を開けた。
扉を開けた瞬間、目が合った。
ソファの一つに、男性が座っていた。
寝間着姿。グレーのスウェットの上下。髪はボサボサ。目元は少しだけ疲れているように見えた。年齢は三十歳前後だろうか。
手には缶コーヒーを持っていた。
……あ。
「あ、こんばんは」
男性の方が先に口を開いた。
「こんばんは。お邪魔します」
頭を下げてラウンジに入った。
簡易キッチンの方に向かって、コーヒーマシンの前に立った。
「えーと、新卒の人?」
男性がソファから声をかけてきた。
「はい、桐谷蒼太です。今年の四月入社です」
「あー、そうだそうだ、桐谷さん! 隣の部屋の」
「はい」
「俺、小林司、入社六年目、自社サービス事業チーム。隣の部屋」
……隣の住人。
そういえば寮に来た日に、管理人さんから「隣の部屋には入社六年目の方が住んでます」と聞いていた気がする。けれど平日の朝、僕がバスに乗る時間と隣の部屋の人が出る時間は、たぶんずれていた。一ヶ月、いままで顔を合わせなかった。
「お疲れさまです」
「お疲れさま! 桐谷さん、コーヒー、ホット?」
「ホットを淹れようと思ってます」
「俺、これ、缶のやつ。冷蔵庫から取ってきた」
小林さんは缶をぴょこぴょこ揺らした。
コーヒーマシンがガリガリと、豆を挽く音を立て始めた。
その音を聞きながら、小林さんがこう言った。
「桐谷さん、配属、どこ?」
「受託開発部、チームAです」
「あ、諏訪さんのとこか! いいなー、諏訪さん、本物の大人だもんな」
……「本物の大人」。
葉山さんも第二週の研修の後に、同じ言葉を使っていた。社内ではたぶん、諏訪さんに対する共通の評価なんだろう。
「諏訪さん、チームの全員に月一の1on1、やってますからね。あれ、本当に本物なんすよ」
小林さんはなぜか感慨深げに頷いた。
コーヒーが淹れ終わった。
マグカップを持って、僕はソファのもう一つに腰を下ろした。小林さんと向かい合う形になった。
「桐谷さん、もう、配属一ヶ月?」
「はい」
「最初の一ヶ月、どうだった?」
小林さんの聞き方は軽かった。けれどその軽さの奥に、ちゃんと聞きたい気持ちがある気がした。
「色々、ありました」
「色々、いいねー、その答え!」
小林さんが笑った。なぜかすごく面白そうに笑った。
「俺の新卒一年目、ヤバかったよ」
「ヤバいというと」
「えーと、まず入社一週目に、Slackで全社チャンネルに私信を誤投稿した」
……全社チャンネルに、私信。
心の中で、僕は軽く息を止めた。
「新人歓迎会の幹事を頼まれてさ、それで彼女に『今夜、八時、駅前のあの居酒屋でいい?』って送るつもりが、間違えて全社チャンネルに送った」
「……全社員、何人ですか」
「八十八人。全員に、俺の彼女との待ち合わせの時間と場所が共有された」
「……」
僕はコーヒーを飲もうとして止めた。飲むタイミングを間違えた。
「『今夜八時、駅前のあの居酒屋でいい?』だけならいいんだけどさ。『仕事終わったら、ぎゅっとして』って追加で送ってたんだよね」
「……ぎゅっと」
「『ぎゅっと』が、全社共有された」
……「ぎゅっと」が。
心の中で、僕はその言葉を繰り返した。
「ぎゅっと」。
全社員、八十八人、共有。
「で、どうなりましたか」
「翌日、社員食堂で、知らない女性社員から『小林くん、今日は、ぎゅっとしてもらった?』って聞かれた」
僕はコーヒーを噴き出しそうになった。
慌てて口元を抑えた。
「で、笑ってる桐谷さんも、若いね」
小林さんが嬉しそうに続けた。
「他にも、あるのですか」
ついつい僕も聞いてしまった。
「あるある! 三週目、配属先のフロアのコーヒーマシンの中に、自分の弁当のおかず、入れた」
「……コーヒーマシンに、おかず」
「業務終わりにコーヒーを淹れようとしたら、唐揚げの匂いがする、と」
「……唐揚げの匂い」
「その日、出社した時、母が作ってくれた弁当の唐揚げを、なぜかコーヒーマシンの中に入れた、らしい」
「……らしい」
「自分でも、なぜそうしたのか、覚えてない」
小林さんは缶コーヒーを、ぐっと飲んだ。
「翌日、コーヒーが唐揚げ味だった、ってクレーム、フロア中で回った」
「……」
「俺、たぶん、その日から、社内の伝説の人になった」
僕はもう、笑いを堪えるのが辛かった。
声を抑えて笑った。
小林さんも笑った。
二人でラウンジでしばらく笑い続けた。
笑いが収まった頃、小林さんがこう言った。
「俺の新卒一年目、毎日が、こんな感じだった。失敗ばっかり。誤投稿、唐揚げ事件、それから寮のシャワー、長く使いすぎて共用シャワーの時間制限を何回も破った」
「シャワーの時間制限が、あるのですか」
「ある。一回十五分まで」
「……知らなかったです」
「俺、新人の頃、二十分、平気で使って、隣の部屋の先輩からドアをばんばん叩かれた」
「ドア、叩かれたのですか」
「『おい、まだか!』って」
……隣の部屋の先輩。
たぶん今、僕の隣にいる小林さん本人が当時新人で、別の先輩から叩かれていた、ということなんだろう。
「で、桐谷さんも、シャワー、二十分、絶対使わないでね」
「……気をつけます」
小林さんがにっと笑った。
「俺の話、聞いて、安心したでしょ?」
「えっと」
「桐谷さんがこれから何やらかしても、俺ほどじゃないから、大丈夫」
……それはちょっと、変な励まし方だ。
心の中で僕は思った。けれど不思議と励まされた気がした。
「でも、ね」
小林さんは缶コーヒーを、軽く回した。
「失敗ばっかりの一年目だったけど、二年目の終わりに、初めて、自分の作った機能がちゃんとお客さんに使われてるって、知った日があってさ」
「使われてる」
「自社サービスのチームだからね。画面の向こうに、本当に使ってる人がいる。その人が、俺の作ったボタンを、毎日押してる。それを知った時、唐揚げ事件の恥ずかしさが、ぜんぶ、ちゃらになった気がした」
……ちゃらに、なった。
心の中で僕は、その言葉を繰り返した。
「だから桐谷さんも、今は失敗してていい。いつか、ちゃらになる日が、来るから」
小林さんは缶コーヒーを飲み終わった。
立ち上がって、伸びをした。
「最初の三年は、大変だよ」
小林さんがふと、別のトーンで言った。
声が少しだけ、低くなっていた。
「失敗、たぶん、たくさんする。でもね、楽しいことも、ちゃんとある」
……楽しいことも、ちゃんとある。
心の中で、僕はその言葉を繰り返した。
さっきまで唐揚げ事件で大笑いしていた人が、急に静かな声になっていた。失敗の話と、楽しいことの話を、同じ口で続けて言える人。それはたぶん、六年ぶんの何かを通り抜けてきた人の声だった。
「俺、六年目だけど、いまだに、たまに、唐揚げ事件、思い出して、笑うよ」
「……はい」
「桐谷さんも、五年経ったら、今の悩み、笑えるようになる。たぶん」
小林さんはそれから軽く手を振って、ラウンジを出ていった。
部屋に戻る足音が、廊下に響いた。
僕はしばらくソファに座って、コーヒーを飲んでいた。
マグカップの温かさが、両手に伝わってきた。
……隣の部屋の人、いい人だ。
心の中で、僕は思った。
そう思いながらふと、机の上の自分のノートのことを思い出した。
今日のページに、僕は何と書こうか。
「小林さんが新卒一年目に、Slackで全社に『ぎゅっと』を送った」と書こうか。
「コーヒーマシンに唐揚げ弁当を入れた」と書こうか。
書きすぎるとたぶん、明日ノートを開いた自分が笑いすぎて、仕事に集中できない。
……でも、書いておこう。
ラウンジを出て、自分の部屋に戻った。
机にノートを置いた。
今日のページに、こう書いた。
寮のラウンジで、隣の部屋の小林さんと初めてちゃんと話した。
六年目、自社サービス事業チーム。
新卒一年目に、Slack誤投稿、コーヒーマシンに唐揚げ弁当、シャワー二十分超過。
書きながらもう、軽く笑っていた。
それから、もう一行、書いた。
「最初の三年は、大変。でも、楽しいことも、ちゃんとある」
小林さんが最後に言ってくれた言葉だった。
先週、白瀬さんの二十二件で、僕は軽くへこんでいた。今夜、小林さんの唐揚げ事件で、僕は笑った。重い夜と軽い夜が、同じ一週間の中にある。たぶん三年は、その繰り返しなんだろう。
ノートには、重い夜のことも、軽い夜のことも、両方書いておこう。どちらも、僕の半径3メートルの中で起きたことだった。
書き終わって、ノートを閉じた。
窓の外、五月の終わりの夜風が、開けた窓からすっと入ってきた。
……唐揚げ味のコーヒー、どんな味だったんだろう。
ふとそんなことを思って、僕はまた、軽く一人で笑った。
明日もたぶん、同じバス、同じフロア、同じレビューが待っている。
でも今夜のラウンジの笑いの分だけ、明日が少しだけ軽くなった気がした。




