第9話「白瀬、二十二件のレビュー」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
昨日、心の中で「明日、白瀬さんにレビューをお願いしてみよう」と思った僕は、その朝、本当にそうした。
水曜日の朝、九時。
ちょうど新しい小さな機能の修正を、コードに加え終わった頃だった。前のPRよりは、少しだけ大きい修正。コード変更は八十行ほど。テストケースも六本、書き加えた。
プルリクエストの説明文を書いてから、Reviewersの欄に白瀬さんの名前を入れた。赤坂さんも念のため入れておいた。
依頼を出した。
……白瀬さん、何分で返信してくれるだろう。
心の中で、僕はぼんやりとそう思った。
午前中の業務、十時、十一時、お昼前。
Slackに、白瀬さんからの通知は来なかった。
赤坂さんからは今回も、五分後に返信が来た。
「LGTM!」
絵文字、二つ。
……もうこれは、見慣れた。
心の中で僕は思った。
お昼休みも、白瀬さんからの通知はなかった。
社員食堂で和定食を食べながら、僕はちらちらとスマホの画面を確認した。LGTMの絵文字だけが、画面に置かれていた。
午後、一時。
僕は別のタスクを始めていた。Confluenceの整理作業。これは、頭をあまり使わなくていい仕事。けれど手元の作業をしながらも、僕は白瀬さんからのレビューが、心のどこかで気になっていた。
……まだ来ない。
心の中で僕は思った。
他のチームの先輩エンジニアの会話を思い出した。「白瀬さんのレビュー、二十件以上ついた」。
あの会話の中の若手の人は、何時間、待ったんだろう。
午後、二時。
まだ来ない。
午後、三時。
まだ来ない。
……もしかして、僕のPR、忘れられているのか。
心の中で、ふと不安になった。
白瀬さんの方をちらっと見た。
白瀬さんは自分のディスプレイに向かって、何かを書いていた。コードかドキュメントか、見えない。けれど、いつもの集中している姿勢だった。
声をかけるべきか、迷った。
でも声をかけたら、たぶん白瀬さんの集中を邪魔することになる。
……もう少し、待ってみよう。
心の中で、自分に言い聞かせた。
午後の終わり、五時半。
僕は自分のタスクを終えた。Confluenceの整理は、ほぼ片付いた。
退社の時間が近づいてきていた。
白瀬さんからの返信は来なかった。
……まあ、忙しいんだろう。
心の中で、僕は自分にそう言い聞かせた。
六時半に、MacBookを片付けてフロアを出た。白瀬さんはまだ自分の席で、何かを書いていた。
帰り道、桜並木通りを歩いた。五月の下旬の夕方、若葉の香りが空気に溶けていた。
……明日、来るかな。
歩きながら、僕はぼんやりとそう思った。
寮で夕食を済ませて、部屋に戻った。シャワーを浴びて、机に向かった。
ノートを開く前に、もう一度スマホを見た。
まだ、白瀬さんからの返信は来ていなかった。
今日のページに、こう書いた。
白瀬さんに、PRレビューをお願いした。
半日、返信、なし。
明日、たぶん、来る。
ペンを置いて、ノートを閉じた。
その夜は、眠るのに少し時間がかかった。
翌日、木曜日の朝。
いつもより早く起きた。
寮を出て桜並木通りを歩いて、ヨキエルに着いたのが八時半。普段より十五分、早かった。
フロアに着いて、自分の席でMacBookを開いた。
Slackの通知が、ぐわっと、画面の右上に流れた。
白瀬さんから、たくさんの通知が来ていた。
時刻は、昨夜の八時十五分から、九時二十分まで。一時間以上、白瀬さんは僕のPRにコメントを書き続けていた、ことになる。
画面を開いた。
コードレビューの画面。
左端に、コメント数の表示。
二十二件。
……二十二件。
心の中で、僕は息を止めた。
ひとつずつ、コメントを見ていった。
最初の一件は、僕が書いた変数名についてだった。
「`tmp` という変数名は、何を一時保存しているのか、読む人に伝わらないと思います。例えば `pendingOrders` や `unprocessedItems` のように、内容を示す名前にした方が、後から読み返した時に分かりやすいです」
……変数名。
次のコメントは、メソッドの分割について。
「このメソッド、八十行近くあります。読みやすさのために、三つくらいに分割できると思います。例えば、入力検証、ビジネスロジック、結果出力で分けると、それぞれの責務が明確になります」
……メソッド分割。
次のコメントは、テストについて。
「テストケース、正常系は六本あって、十分です。ただ異常系のテストがありません。例えば、入力が空の時、入力が極端に長い時、入力に不正な文字が含まれている時、それぞれのテストを書いておくと、後の保守性がぐっと上がります」
……テスト、足りなかった。
その次のコメントは、エラーハンドリングについて。
その次は、命名規則。その次は、ログの出力方法。その次は、設定ファイルの扱い。
二十二件、全部読み終わるのに三十分かかった。
最初の十件くらいまで読んだ時、僕は軽いショックを受けていた。
自分のコードがこんなに未熟に見えたのは、初めてだった。大学の課題でも、こんなに細かい指摘を受けたことはなかった。
……僕、ダメな新卒だ、たぶん。
心の中で、ぼんやりとそう思った。
でも、十一件目を読んで、十二件目を読んで、十三件目を読んでいくうちに、何かが変わってきた。
白瀬さんのコメントはどれも、責めていなかった。
「ダメだ」とは一言も、書いていなかった。
代わりに「こうした方が、こういう理由で、こうなります」と、毎回、書いてあった。
例を添えてある。具体的なコードの書き方を提示してある。なぜ、それが良いのか、参考リンクがある時もあった。
二十二件、すべてが丁寧で具体的だった。
最後の一件まで読み終わって、僕は深く息を吐いた。
手元のノートに、コメントを要約してメモを取った。
メモはノートの一ページの、両面にぎっしり埋まった。
白瀬さんがコメントを書いていた時間は、一時間以上。
僕がそれを読んで理解する時間は、三十分。
……白瀬さん、本気で書いてくれた。
心の中で、僕ははっきりとそう思った。
午前中、僕は白瀬さんのコメントに、一つずつ対応した。
変数名を変えた。メソッドを分割した。異常系のテストを追加した。エラーハンドリングを整えた。
一つずつ直していくうちに、おかしなことに気づいた。白瀬さんのコメントの通りに直すと、自分の書いたコードが、自分でも読みやすくなっていく。さっきまで自分のものだったはずのコードが、直すたびに少しずつ自分から離れて、誰が読んでも分かるものに変わっていった。
半日、ほぼその作業に費やした。
お昼休みになる前に、修正版のPRを白瀬さんに再レビュー依頼した。
お昼を軽く済ませて、フロアに戻った。
白瀬さんの席を、ちらっと見た。
白瀬さんは自分のディスプレイの前で、いつもの集中の姿勢で、何かを書いていた。
……今、僕の修正版を見てくれているんだろうか。
午後、二時頃、白瀬さんから再レビューが来た。
今度は、コメントが二件だけだった。
「修正、良いと思います。`pendingOrders` の変数名、明確で読みやすくなりました」
「異常系のテスト、追加してくれてありがとうございます。これで、保守性が上がります」
承認のボタンが押されていた。
僕は自分の席で、しばらく画面を見ていた。
……「ありがとうございます」。
白瀬さんが、僕にお礼を言った。
心の中で、何かがふっと温かくなった。
マージのボタンを押した。
画面が緑色に変わった。
席を立った。
白瀬さんの机の方に歩いていった。
白瀬さんはディスプレイから目を上げて、僕を見た。
「白瀬さん、レビュー、ありがとうございました」
頭を下げた。
「いえ」
白瀬さんはそれだけ言った。
僕はもう少し、何か言いたかった。けれど何を言うべきか、思いつかなかった。
白瀬さんがこう言った。
「次も、書くから」
短い、本当に短い、四文字、いや、六文字の言葉だった。
でも、その六文字は僕の中に深く入ってきた。
「あ……はい、よろしくお願いします」
もう一度頭を下げて、自分の席に戻った。
席に座って、もう一度、白瀬さんから来た再レビューの、二件のコメントを読み返した。
「ありがとうございます」と「次も書くから」。
二つの言葉が僕の中で、じわじわと、温かさを広げていった。
退社の時間。
いつもより少しだけ早く、フロアを出た。
桜並木通りをゆっくり歩いた。
五月の下旬の夕方、若葉が街灯の光に、明るく照らされていた。
寮に戻って、夕食を食堂で軽く済ませて、部屋に上がった。
机にノートを置いた。
今日のページに、こう書いた。
白瀬さんから、二十二件のレビュー、来た。
全部、丁寧で具体的で、責めていなかった。
修正版を出したら、白瀬さんが「ありがとうございます」と書いてくれた。
席にお礼を言いに行ったら、白瀬さんは「次も書くから」と言った。
書いてから、僕はペンを止めた。
もう一行、書きたい言葉があった。
書いた。
白瀬さんは、たぶん、本物だ。
書き終わって、自分の文字をしばらく見ていた。
「本物」と書いた。
その意味をたぶん、僕はまだ半分くらいしか分かっていない。
でも、書いてしまった以上、その言葉はこれから先、僕の中にずっと残るのだろう。
ペンを置いた。
窓の外、五月の下旬の夜、若葉の香りが、開けた窓からすっと入ってきた。
明日も白瀬さんは、自分の席で何かを書いているのだろう。
……たぶん、二十二件のコメントを書いてくれた夜、白瀬さんは何を考えていたんだろう。
ふと、そんなことを思った。
その答えは僕には、たぶん、一生分からない。
でも、書いてくれたコメントの一つひとつから、何かを感じ取ることはできる。
そう、思った。
次に白瀬さんが僕のコードに書くコメントは、何件になるんだろう。減っていたら、それはたぶん、僕が少し、近づいたということだった。




