第19話:追手襲来、そして聖女の逆襲
隠れ家で迎える朝は、これまでの人生で最も「孤独」から遠いものだった。
窓から差し込む朝陽が、寝室の重厚なカーテンの隙間を縫って、セレスティーナの瞼を優しく叩く。ゆっくりと意識を浮上させた彼女が最初に感じたのは、腰をガッチリと、それでいて宝物を壊さないような慎重さで拘束している、熱く逞しい腕の感触だった。
(……ああ、夢じゃないのね。これ、現実なのよね)
セレスは、背後から自分を抱き枕のようにして眠るレオニードの体温を感じながら、じわじわと顔が火照るのを自覚した。
昨夜。あんなに熱っぽく「男」としての独占欲を囁かれ、深い口づけを交わしたというのに。今、腕の中にいる彼は、微かな寝息を立てて安らかに眠っている。その無防備な睫毛の影を見ていると、前世の自分が抱えていた「誰にも看取られず消える」という氷のような恐怖が、春の雪解けのように消えていくのが分かった。
(三十歳。前世の私が人生を終えた年齢。でも、今の私の隣には……こんなに重くて、暑苦しくて、不器用な愛をぶつけてくる『家族』がいるんだわ……)
セレスがそっとレオニードの腕を撫でようとした、その時だった。
湖畔の静寂を切り裂くように、多数の馬の蹄の音が響き渡った。一つや二つではない。数十騎からなる集団が、猛烈な勢いでこの隠れ家を包囲しようとしている。
「……っ。羽虫どもが、朝から騒がしいな」
刹那。先ほどまで安らかに眠っていたはずのレオニードが、瞬時に「狂犬」の眼光を取り戻して跳ね起きた。
彼の金色の瞳には、至上の幸福を邪魔されたことに対する、どす黒い殺意が渦巻いている。
「レオ、あなた……!」
「セレス様、ベッドから出ないでください。……汚い連中が、貴女を『救出』という名の略奪に来たようです。……すぐに全員の首を撥ねて、湖の魚の餌にしてきます」
レオニードは無造作にシャツを羽織ると、壁に立てかけてあった魔剣を手に取った。
その背中からは、隠そうともしない漆黒のオーラが立ち上っている。今の彼は、近づくものすべてを粉砕する破壊の化身そのものだった。
「ダメよ、レオ! 待ちなさい!」
セレスはパジャマの上に、隠れ家のキッチンにあったフリル付きのエプロンをひっ掴んで装着し、レオの前に立ち塞がった。
「あなた、昨夜はあんなに激しく愛を語って(物理)、精神も体力も消耗したばかりじゃない! おまけに朝ごはんだってまだよ! 空腹状態で戦うなんて、血糖値の急降下を招いて、立ちくらみからの孤独死ルートよ! あなたは安静にして、私が淹れたハーブティーでも飲んでなさい!」
「……セレス様? しかし、外には枢機卿が差し向けた聖騎士団が……」
「関係ないわ! 私の安眠と、あなたの栄養補給を邪魔する奴らには、おかんの怒りを叩き込んでやるんだから!」
セレスはレオニードをベッドに押し戻すと、鼻息荒く玄関の扉を蹴破らんばかりの勢いで開け放った。
外には、眩い銀の鎧に身を包んだ聖騎士団が、剣を抜いて隠れ家を包囲していた。
隊長らしき男が、セレスの姿を見て勝ち誇ったように叫ぶ。
「聖女セレスティーナ様! ご安心ください! 反逆者レオニードの手から、今すぐ貴女様を救い出し――」
「うるさーーーーーい!!!」
セレスの、鼓膜を震わせる絶叫が湖畔に響き渡った。
あまりの音圧に、聖騎士たちの馬がヒヒィンと怯えて後退する。
「あなたたち! こんな朝早くから、人の家の前でガチャンガチャンと音を立てて! 近所迷惑……は、ここにはいないけど、レオの睡眠を妨害するなんて万死に値するわよ! 睡眠不足は心筋梗塞の入り口なんだからぁ!」
「な、何を……!? 我々は枢機卿の命を受け、不浄な将軍から貴女様を奪還しに――」
「不浄なのは、その血走った目つきよ! さては昨夜、徹夜でここまで走ってきたわね!? そんな生活習慣の乱れた人たちに、私のレオを触らせるわけにいかないわ! 不衛生よ、除菌してあげるから、そこに直りなさい!」
セレスは両手を天に掲げた。
瞬間、隠れ家を中心に、凄まじい密度の純白の光が渦巻き始めた。
高位聖女としての本気の魔力。
それは慈悲という名の暴力、あるいは徹底的な衛生管理という名の殲滅魔法だった。
「光よ! 彼らの邪な考えと、その鎧にこびりついた昨日の泥汚れを、まとめて浄化(洗浄)しなさーーーーい!!!」
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
爆発的な光の奔流が、聖騎士団を飲み込んだ。
通常の攻撃魔法とは違う。物理的な衝撃波を伴いつつ、対象を「磨き上げる」ような白光。
光が収まった後、そこにいたのは、あまりの眩しさに目を回した聖騎士たちと、新品同様にピカピカに磨かれすぎて逆に滑りやすくなった鎧を纏った、戦意喪失した男たちの群れだった。
「……あ、あれ? 剣が……滑って持てない……。それに、心が……洗われすぎて、戦うのが馬鹿馬鹿しく……」
「さあ、分かったら今すぐ帰りなさい! 帰って、しっかり温かいスープを飲んで寝るのよ! 次にレオを邪魔したら、次は毛穴から浄化して、赤ちゃんに戻してあげるんだから!」
聖女の、あまりに恐ろしい「救済(脅迫)」に、聖騎士たちは脱兎のごとく逃げ出していった。
静かになった玄関先で、セレスはふぅ、とエプロンを正した。
そこへ、窓からその一部始終を見ていたレオニードが、ふらふらと歩み寄ってきた。
彼の顔は、かつてないほどの恍惚感と、深い崇拝の念に彩られている。
「……ああ。……セレス様。……俺の神様が、俺のために怒り、俺のために戦ってくださった……」
レオニードは背後からセレスを抱きしめ、その肩に顔を埋めて、産まれたての仔犬のように喉を鳴らした。
「……惚れ直しました。……貴女のその強さ、その狂気……。一生、貴女の腕の中で飼われてやります。……もう、どこへも行きません」
「もう、レオったら。あなたがしっかりしないから、私が出なきゃいけなかったじゃない。……でも、かっこよかった? 今の私」
セレスが赤面しながら尋ねると、レオニードは彼女の耳たぶを優しく噛み、狂おしいほどの執着を込めて囁いた。
「……最高に、美しかったです。……さあ、朝食の前に……もう一度だけ、俺を甘やかしてください」
二人の甘い朝が再開される。
だが、逃げ帰った聖騎士団の報告を受けた古狸枢機卿は、今や狂気の淵に立っていた。
彼は震える手で、最後の手駒――「レオニードの直属部隊」を、反逆罪で処刑するという布告書を準備していた。
二人の愛を裂くための、卑劣な罠が、王都で牙を剥こうとしていた。




