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第18話:逃亡先の隠れ家、そしてレオの『本気』

 王都の喧騒が遠ざかり、馬の蹄が叩く地面の音が、硬い石畳から湿った土の音へと変わっていく。

 神殿を脱走し、最強の「狂犬」に攫われた聖女セレスティーナが辿り着いたのは、深い霧に包まれた湖畔にひっそりと佇む、豪奢な石造りの別荘だった。


「……ここは、どこなの? レオ、あなた……いつの間にこんな家を用意していたのよ」


 セレスは、レオニードの逞しい腕に抱き上げられたまま、呆然と周囲を見渡した。

 月の光を浴びて鏡のように静まり返る湖面。周囲には人影一つなく、ただ夜の森が静かに二人を包み込んでいる。


「……ここは、俺が数年前から手配していた場所です。……万が一、貴女を世界から隠さなければならなくなった時のために。……誰にも邪魔されず、貴女の心音だけを聞いて眠れる、俺たちの『聖域』だ」


 レオニードの低い、地を這うような声音。

 そこには、冗談や狂言の類ではない、本物の狂気が宿っていた。

 彼はセレスを降ろそうとせず、そのまま重厚な扉を開け、室内へと足を踏み入れた。


 広々としたリビングには、既に暖炉に火が灯っていた。あらかじめレオの部下が準備を済ませていたのだろう。

 パチパチと爆ぜる薪の音だけが響く静寂。セレスはレオの胸の中で、ようやく自分の置かれた状況を「前世のドラマ知識」に当てはめて理解し始めた。


(……これ、完全に『逃避行の末の監禁』じゃない! 前世の不倫サスペンスなら、ここで悲劇的な最期を迎えるやつよ! でも、レオの体がこんなに冷えて……!)


 セレスの思考は、ロマンスの崖っぷちから即座に「おかんモード」へと急旋回した。


「レオ、そんなことより服を脱ぎなさい! さっきの雨で全身びしょ濡れじゃない! 湿った服は体温を奪い、免疫力を下げ、最終的には孤独死……じゃなくて、肺炎を招くわよ! ほら、暖炉の前へ!」


 セレスはレオの胸板をポカポカと叩き、ようやく地面に降り立つと、主人のような顔で部屋の中を動き回り始めた。


「さあ、タオルはどこ!? あなたは本当に手がかかるんだから! 私がいなきゃ、一日で風邪を引いて寝込んじゃうんだわ、この狂犬さんは!」


 セレスはレオの黒い髪にバサリとタオルを被せると、乱暴かつ愛おしく、ゴシゴシと拭き始めた。

 前世。誰の世話を焼くこともなく、ただ一人の部屋で自分のためだけに生きていた彼女にとって、レオという「世話を焼かなければ死んでしまう(と思い込んでいる)存在」は、孤独という呪いを解く唯一の薬だった。


「……セレス様。……また、そうやって俺を『子供』のように扱う」


 レオニードは、タオルの下から金色の瞳を覗かせた。

 彼は無言でセレスの手首を掴むと、そのまま彼女をぐいと引き寄せ、自分の膝の上に強引に座らせた。


「きゃっ!? レオ、重いわよ! 私は今、あなたの健康管理を……」


「……黙ってください。……もう、あの冷たい神殿には返さないと言ったはずだ。……貴女が俺を『放っておけない』と言うなら、その言葉、一生かけて責任を取ってもらう」


 レオニードの腕が、セレスの細い腰に回される。

 それは、今までの「甘え」を含んだ抱擁とは明らかに違っていた。

 一人の男が、愛する女を屈服させ、独占しようとする、剥き出しの「雄」の熱量。

 セレスは、背中から伝わる彼の鼓動が、かつてないほど重厚で、激しいことに気づき、心臓が跳ね上がった。


(な、何……? レオの匂いが、いつもより濃いわ。……それに、この視線。……蛇に睨まれた、なんとかだわ……!)


「レオ……? 顔が近……っ」


 レオニードは、セレスの首筋に顔を埋めた。

 深く、深く、彼女の清廉な香りを吸い込む。

 そして、白く柔らかな肌に、熱い唇を押し当てた。

 吸い上げるような、しるしを刻みつけるような、激しい口づけ。


「……っ、ん……あ、レオ……! 不潔よ、そんなところ……っ」


「……不潔で結構。……俺だけのものだと、魂に刻み込みたい。……貴女の慈悲も、お節介も、泣き顔も、すべて俺だけが……俺だけが独占するんだ」


 レオニードの手が、セレスの頬を優しく、だが力強く包み込む。

 逃げ場はない。

 湖畔の隠れ家という完全な密室で、二人の視線が至近距離で絡み合う。


「……セレス。……俺を、貴女の『男』として見てください。……『よしよし』で誤魔化せないほど、俺は貴女に飢えているんだ」


 レオニードの唇が、セレスの唇に触れる寸前で止まる。

 セレスは真っ赤になり、目を見開いた。

 目の前にいるのは、かつてスラムで拾った、あの泣き虫の少年ではない。

 十年間、地獄を潜り抜け、彼女を奪うためだけに「力」を蓄えてきた、一人の執着の権身。


(……ああ。……逃げられない。……逃げたくない。……孤独死なんて、もう怖くないわ。……この腕の中にいれば、私は……)


「……レオ……。……馬鹿……。……勝手にしなさいよ……」


 セレスが諦めたように目を閉じ、彼の首に腕を回した瞬間。

 レオニードは、歓喜に震えながら、彼女の唇を深く、奪うように塞いだ。


 暖炉の火が、二人の影を大きく壁に映し出す。

 それは、聖女と将軍という立場を捨てた、一人の女と一人の男の、狂おしいほどの溺愛の完成であった。


 だが、夜の湖畔を、不穏な鳥の鳴き声が切り裂いた。

 王都では今、古狸枢機卿が血走った目で、レオニードを「反逆者」として指名手配する文書に、震える手で判を押していた。


 幸せな密室の扉の外には、国全体を巻き込む、巨大な嵐が迫っていたのである。


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