第9話:聖女、魔物(スライム)と戦う?
将軍屋敷の庭園は、レオニードの指示によって常に完璧に手入れされている。
だが、その一角だけは、聖女セレスティーナの手によって「家庭菜園」という名のカオスが展開されていた。
「よしよし、今日もブロッコリーが元気に育っているわね。レオにこれを食べさせれば、彼の鋼鉄のような筋肉もさらに艶を増すに違いないわ!」
セレスは麦わら帽子を被り、鼻歌まじりにじょうろを傾けていた。三十路の楽しみは、今やレオの健康管理と家庭菜園に集約されつつある。
平和な昼下がり。しかし、悲劇は草むらの中からポヨリと這い出してきた。
「……あら?」
セレスの目の前で、水色のプルプルした物体が波打っていた。
野良のスライムである。体長二十センチほど。異世界における最弱の魔物。
だが、前世のゲーム知識と、今世の「極度の心配性」が混ざり合ったセレスの脳内では、即座に緊急事態宣言が発令された。
「ひ、ひぃぃぃぃっ! 出たわ! 最下級にして最強の溶解魔獣、人喰いスライムよ!!」
セレスの叫び声が、静かな庭園に響き渡る。
「大変よ! スライムは物理攻撃が無効なのよ! 油断して近づけば服をドロドロに溶かされ、皮膚を焼かれ、最後には骨まで浄化されて庭の肥やしになる孤独死ルートだわ! 誰か、誰か助けてー!」
その悲鳴を聞きつけ、二階の執務室の窓から黒い影が飛び出してきた。
レオニード将軍である。彼はバルコニーの手すりを踏み台にし、重厚な軍靴を響かせてセレスの前に着地した。
「……セレス様! 何事ですか! 刺客か!? 敵襲か!?」
レオニードが、無言で腰の魔剣を抜き放とうとする。その金色の瞳には、愛する女を脅かす存在に対する、純粋な殺意が宿っていた。
「レオ、ダメよ! 下がって! あんな恐ろしい生き物に近づいちゃダメ!」
セレスは慌ててレオニードの前に立ち、彼の広大な胸板を押し返した。
「スライムの溶解液を浴びたら、あなたの自慢の鎧も溶けちゃうわ! そうなったら、あなたは裸同然で戦わなきゃいけなくなって、風邪を引いて、肺炎になって、誰にも看取られず死んじゃうのよ! そんなの私が許さないわ!」
「……セレス、様? しかし、あれはただのスライム――」
「黙ってレオ! ここは、前世で培った……じゃなくて、私が守るわ!」
セレスは近くにあった大きな洗濯板を盾のように構え、じょうろを聖剣のように握りしめた。
最強の将軍レオニードが、自分より一回りも小さい聖女に背後に隠されるという、前代未聞の光景。
(……ああ。……セレス様が、俺を守ろうとしている)
レオニードの脳内で、殺意が急速に甘い快楽へと変換された。
彼は抜こうとしていた剣を鞘に戻し、あえて「か弱い仔犬」のような顔を作った。
「……分かりました。……では、俺を導いてください、セレス様。……一人では、怖くて戦えません」
「任せなさいレオ! あなたが溶かされるくらいなら、私が盾になるわ!」
セレスは洗濯板を突き出し、プルプルと震えるスライムにジリジリと近づく。
レオニードは便乗し、背後からセレスを包み込むように抱きしめた。
彼の大きな手が、セレスの細い手の上からじょうろを握りしめる。
「……セレス様。……一人で戦わせるのは、俺の心が折れてしまいます。……こうして、一緒に狙いを定めましょう」
「え、レオ!? ち、近……あ、でもそうね! レオが一人で逃げ出さないように、私がしっかり掴んでてあげなきゃ!」
セレスは赤面しつつも、レオニードの胸板に背中を預け、二人三脚でスライムを包囲した。
レオニードは彼女の首筋に顔を寄せ、その香りを深く吸い込みながら、至福の表情を浮かべていた。
「……いいですか。……俺の合図で、聖なる水を。……いきますよ」
「ええ! 喰らいなさい、聖女特製・ミネラルたっぷり浄化水!」
レオニードが、セレスの手ごとじょうろを傾け、同時に指先から微小な衝撃波を放った。
ドォン、という地味な音と共に、スライムは一瞬で霧散し、ただの水溜まりへと変わった。
「……やった! やったわレオ! 勝ったわよ! 私たちは生き残ったのね!」
セレスは勝利の咆哮を上げ、そのままレオニードの首にしがみついた。
「良かったぁぁ、レオがドロドロに溶かされなくて……! あなたが無事なら、私はもう何もいらないわ! うわあああん!」
安堵から大泣きし始めるセレス。レオニードは彼女を軽々とお姫様抱っこで担ぎ上げ、耳元で甘く囁いた。
「……怖い思いをさせました。……埋め合わせに、夜まで俺を離さないでください。……まだ、足が震えているんです(嘘)」
「もう、レオったら! 怖かったのね、分かったわ! 今日は一日中、よしよししてあげるからね!」
屋敷の窓からその様子を見ていた副官は、空になった薬莢を片付けるような虚無の顔で呟いた。
「……スライム一匹に、魔撃砲レベルの衝撃波を使うなよ、将軍。……あと聖女様、あのスライム、さっきから貴女のブロッコリーを食べてただけですよ」
二人の異常な溺愛と「過剰防衛」は、庭の平和を守ると同時に、また一つ周囲の常識を粉砕したのである。




