幕間 母御の、朝ごはん
小沢幸子は、四時五十分に目を覚ました。
いつもと同じ時刻だった。三十年、同じ時刻だった。
***
違ったのは、ゆうべ、ほとんど眠れなかったことだった。
***
一月十八日。月曜日。
まだ、外は真っ暗だった。
隣の布団は、空だった。
夫が、先に起きていた。三十年で、初めてのことだった。
***
幸子は、布団の中で天井を見ていた。
危ない仕事だった。
息子の声が、まだ耳に残っていた。
***
だった、と過去形で言った。言葉を選んで。
あの子は、昔からそうだった。
嘘が下手で、下手なりに、相手が傷つかない言い方を探す子だった。
***
選んだということは、今もそうだ、ということだった。
***
幸子は起き上がった。
それから、決めた。
家では、普通にする。
***
台所に行こうとして、廊下で止まった。
縁側のほうから、声がしていた。
***
「……吸って」
娘の声だった。
「ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ」
***
幸子は、廊下の角からそっと覗いた。
縁側に、座布団が三枚。
右に由紀、左に健司。
真ん中に、金色のボタンの子供が座っていた。
***
北を向いて、背筋を伸ばして、目を閉じて。
三人とも、同じ息をしていた。
***
吸って。止めて。吐いて。
***
その後ろの廊下に、夫がいた。
パジャマの上にどてらを着て、廊下の板の上にあぐらをかいて。
***
横に、お盆があった。湯呑みが四つ。
三つは、縁側の三人のぶんだった。
まだ渡していなかった。数え終わるのを待っていた。
***
一つは、夫の手の中にあった。
***
夫は、三人の背中を見ていた。
真ん中の、小さな背中を。
***
柱の陰からでは、なかった。廊下の真ん中から。
五十年、と夫は言った。
***
幸子は、三十年、あの人の隣にいた。
三十年、何も知らなかった。
***
腹は立たなかった。不思議と。
ただ、どてらの背中が、少しだけ小さく見えた。
四つか五つの子供の背中に。
***
幸子は、声をかけなかった。
台所に行った。お米を研いだ。
いつもより、一合、多く。
***
六時半。
食卓。
神様は、当然のように上座に座っていた。
***
ゆうべ、すき焼きを食べた席だった。お義父さんの席だった。
***
誰も、何も言わなかった。
そこが、神様の席になっていた。一晩で。
***
「神様は」
幸子は、しゃもじを持ったまま聞いた。
「ご飯? パン?」
***
神様は、少しだけ考えた。
「両方じゃ」
健司が、味噌汁を噴きかけた。
***
「両方って、何だよ」
「ご飯と、パンじゃ」
「だから、どっちか、だろ」
「母御は、どっちか、とは、言うとらん」
***
言っていなかった。
***
幸子は、ご飯をよそった。
それから、トースターにパンを一枚入れた。
***
「お母さん!」
「いいじゃない。……育ち盛りなんでしょう」
「育たないんだよ、こいつは!」
***
夫が、新聞の向こうで、小さく咳をした。
***
茶碗が、なかった。
正確には、神様の茶碗が、なかった。
***
ゆうべは、取り皿で済ませた。朝ごはんは、そうはいかなかった。
***
幸子は、食器棚の一番奥を探した。
出てきた。
***
小さな茶碗だった。
白い地に、ピンクのうさぎの絵がついていた。
***
由紀が、幼稚園のころに使っていた茶碗だった。
捨てられなかった。
三十年、捨てられないものが、この家にはたくさんあった。
***
ご飯をよそって、神様の前に置いた。
***
「それ、あたしの!」
由紀が言った。
神様は、茶碗を両手で持ち上げて、うさぎをじっと見た。
***
「……ほう」
「ほう、じゃない! あたしの、茶碗!」
「今日から、わしのじゃ」
「なんで!」
「母御が、よそうた」
***
由紀は、幸子を見た。
***
幸子は、マスキングテープを出した。
油性ペンで書いた。
***
『かみさま』
茶碗の底に貼った。
「……お母さん」
「名前、書いとかないと。……誰のだか、分からなくなるでしょう」
***
神様は、茶碗をひっくり返して、底のテープを見た。
***
長いこと見ていた。ひらがなの四文字を。
***
それから、何も言わずに、茶碗を元に戻した。
ご飯を食べた。うさぎの茶碗から。
***
耳の先が、少しだけ赤かった。
***
夫は、新聞を読んでいた。
毎朝のことだった。
三十年、毎朝、新聞を広げて、その向こうでご飯を食べる人だった。
***
新聞の裏側を、神様が覗きこんでいた。
上座から身を乗り出して、トーストをくわえたまま。
***
テレビ欄だった。
***
夫が、ページをめくった。
「あっ」
神様が言った。
「まだ、読んどる」
***
夫の手が止まった。
少しだけ黙って、それから、新聞をたたんだ。
***
半分に。もう半分に。
それから、くるりと裏返して、神様の前に置いた。
***
四コマ漫画のところが、一番上になっていた。
***
夫は、何も言わなかった。
自分は、新聞なしで味噌汁をすすった。
***
幸子は、しゃもじを持ったまま、それを見ていた。
三十年。
あの人が、新聞を誰かのためにたたむのを、見たことがなかった。
***
健司にも。由紀にも。たぶん、お義父さんにも。
***
神様は、四コマ漫画を読んでいた。
一回読んで、もう一回読んで、それから。
***
「……総一郎」
「……何だ」
「これは、どこが、面白いんじゃ」
***
夫は、少しだけ身を乗り出した。
四コマ漫画を覗きこんだ。しばらく黙っていた。
***
「……俺にも、分からん」
「毎朝、読んどるくせに」
「……毎朝、分からん」
***
由紀が、テーブルに突っ伏した。
健司は、両手で首を押さえたまま、肩を震わせていた。
幸子も、こらえきれなかった。
***
三十年、毎朝。
分からないまま、読んでいたらしかった。
***
七時十分。
夫が、玄関で靴を履いていた。
背広を着て、鞄を提げて。いつもの朝だった。
***
幸子は、いつものように、玄関まで送りに出た。
その横を、神様がとことこついてきた。
うさぎの茶碗を持ったまま。まだ食べている途中だった。
***
夫が立ち上がった。戸を開けた。
外は、まだ少し暗かった。東の空だけが白んでいた。
***
「……行ってくる」
いつもの声だった。三十年、同じ声だった。
***
「うむ」
神様が言った。
「行ってこい」
***
夫が、止まった。
戸を開けたまま。背中を向けたまま。
***
一秒。
幸子には、その一秒が、もっと、ずっと長く見えた。
五十年ぶんくらい。
***
夫は、振り返った。
神様を見下ろした。
うさぎの茶碗を持った、小さな、金色のボタンの。
***
「……行ってきます」
言い直していた。
神様は、茶碗を持ったまま、鼻を鳴らした。
***
「……車に、気をつけい」
夫は、少しだけ笑った。
めったに笑わない人だった。ゆうべから、二回目だった。
***
戸が、閉まった。
***
幸子は、しばらく、閉まった戸を見ていた。
隣で、神様がご飯を食べていた。玄関で、立ったまま。
***
「……神様」
「何じゃ」
「お行儀」
「……はい」
神様は、食卓に戻っていった。
***
二回目の、はい、だった。
ゆうべの一回目のとき、健司が目を丸くしていた。
***
九時。
由紀が、出勤していった。
「店長に、言っとく。……お兄ちゃん、首、両方、寝違えたって」
「言わなくていい」
「飴、もう三つ、もらってくる」
「いらない」
「疲れてる人なんだから」
***
由紀は、赤いマフラーを巻いて、笑いながら出ていった。
***
幸子は、門のところで、娘の背中を見送った。
***
戸が、閉められるの。
ゆうべ、そう言った。
背筋を伸ばして、縁側の座り方で。
***
あんたまで、と言ってしまった。
言うつもりは、なかった。勝手に出た。
***
由紀の手を握ったら、由紀が泣いた。
三十年、母親をやって。
娘がどこで泣くのかを、ゆうべ、初めて知った。
母親の手の中で、だった。
***
幸子は、門を閉めた。
***
十時。
洗濯物が、乾かなかった。
一月の庭だった。日は出ていた。でも、風がなかった。
***
ゆうべ、すき焼きの鍋を拭いた布巾。
健司の旅行鞄から出てきた、十二日分の着替え。
それから、客用のシーツ。
***
物干し竿にずらりと並んで、ぴくりともしなかった。
***
幸子は、縁側に座っている息子を見た。
健司は、両手で首を押さえて、柚子の木を見ていた。
***
公安0課。普通の事件じゃないほう。危ない仕事だった。
***
その息子が、縁側で、柚子の木を見ていた。
***
「……健ちゃん」
「何」
「あの、風の」
健司が、振り返った。
***
「……風の?」
「ゆうべ、言ってたでしょう。火と、風と、氷って」
***
健司は、物干し竿を見た。
十二日分の、自分の着替えを。
***
「……母さん」
「お願い」
「魔法は、そういうのに、使うもんじゃ」
「乾かないのよ」
***
健司は、少しだけ黙った。
「……はい」
実家では、この子は、昔から、はい、しか言わない子だった。
***
健司は、庭に降りた。
物干し竿の前に立った。
右手を、軽く上げた。
***
風が、吹いた。
最初は、そよ風だった。洗濯物が揺れた。
***
「あら」
それから、少し強くなった。シーツがはためいた。
***
「あらあら」
それから。
「健司! 強い!」
神様の声がした。縁側から。
***
「加減じゃ、加減! お主、首が、痛いから、手元が、狂うとる!」
***
遅かった。
***
客用のシーツが、一枚、物干し竿から外れて、空に舞い上がった。
***
白いシーツが、一月の青い空を、ゆっくり、ゆっくり飛んでいった。
***
隣の家の屋根の上に、ふわりと落ちた。
庭が、静かになった。
***
「……健ちゃん」
「……ごめん」
***
神様が、縁側から消えた。
次の瞬間。
隣の家の屋根の上に、立っていた。
***
金色のボタンの子供が、瓦の上に。
シーツを両手で抱えて。
***
「取ったぞ!」
***
そのとき、隣の家の二階の窓が開いた。
隣の奥さんだった。布団を干そうとしていた。
***
窓の外の、自分の家の屋根の上に。
金髪の子供が、シーツを抱えて立っていた。
***
奥さんは、布団を持ったまま固まった。
神様も、シーツを抱えたまま固まった。
***
幸子は、物干し竿の前から、にっこりした。
「すみません、斉藤さん。……親戚の、子なんです」
***
斉藤さんは、屋根の子供を見た。それから、幸子を見た。
***
「……あら。親戚の」
「親戚では、ない」
屋根の上から、神様が言った。胸を張って。
***
「神じゃ」
***
斉藤さんは、しばらく黙っていた。
それから、にっこりした。
***
「……そう。かみちゃん、って、いうの」
「……かみちゃん?」
「かわいい、お名前ねえ。……屋根、滑るから、気をつけてね、かみちゃん」
***
斉藤さんは、布団を干して、窓を閉めた。
***
神様は、屋根の上で、シーツを抱えたまま、しばらく動かなかった。
***
「……かみ、ちゃん」
庭で、健司が、首を押さえたまましゃがみこんでいた。
笑いすぎて。首が痛くて。
***
幸子は、シーツを受け取った。神様から。
次の瞬間には、もう庭にいた。
***
「ありがとう、かみちゃん」
「母御まで!」
***
十一時。
台所の窓が、曇っていた。
外側に、霜が残っていた。
北側の窓だった。昼まで溶けない窓だった。
***
「健ちゃん」
「……今度は、何」
「火の、小さいの」
***
健司は、少しだけ遠い目をした。
それから、窓の前に立って、人差し指を立てた。
***
火が、灯った。
小さな火だった。蝋燭の炎くらいの。
***
ガラスに、近づけた。
霜が、指先のところから、丸く溶けていった。
***
窓の向こうに、庭が見えた。柚子の木が見えた。
***
「……便利ね」
幸子は言った。
健司が、少しだけ笑った。
***
「母さん、それ、ゆうべも、言った」
「便利なんだもの」
***
健司は、窓の霜を全部溶かして、指先の火を握って消した。
縁側に戻っていった。首を押さえながら。
***
幸子は、溶けた窓を見ていた。
便利ね、と言った。ゆうべも。今も。
***
本当は、便利だなんて思っていなかった。
あの小さな火で、あの子は、何をしてきたのか。
あの風で、何と戦ってきたのか。
***
聞けば、たぶん話す。先に言いなさい、と言ったから。
***
でも、今日は聞かない。
便利ね、と言わなかったら、たぶん、泣いてしまうから。
***
だから、便利ね、と言う。何度でも。
あの子が、魔法で洗濯物を乾かして、窓の霜を溶かす。
そのくらいのことにしか使わなくていい日が、一日でも多くあるように。
***
午後二時。
仏間。
幸子は、仏壇の前に座った。お線香を立てた。
***
仏壇には、羊羹が一本。最中が二つ。
違った。
最中が、一つだった。
***
幸子は、後ろを振り返った。
仏間の入口の柱の陰に、金色のボタンが見えた。半分だけ。
***
「……かみちゃん」
柱の陰で、ボタンがぴくりとした。
***
「それ、お義父さんの」
神様が、柱の陰から出てきた。
***
両手に、最中を一つ持っていた。まだかじっていなかった。
***
「……伊左衛門は」
神様は言った。最中を見下ろして。
***
「道場の、帰りに、これを、買うてきた。……毎回、二つ」
「一つは、自分の。……一つは、半分に、割って」
「半分を、わしに、くれた」
***
神様は、最中を両手で持ったまま、仏壇の遺影を見た。
***
「……残りの、半分は。誰の、じゃったか。分からんかった」
***
「毎回、半分、余っとった。……伊左衛門は、それを、懐に、入れて、帰った」
***
幸子は、少しだけ黙った。
***
道場の帰りのお義父さん。
最中の包みを提げて、この家の玄関をくぐって。
***
半分の最中を、懐から出して。
総一郎に、渡していた。
***
幸子は、覚えていた。
結婚したばかりのころ、夫が、よく半分の最中を食べていた。
***
どうしていつも半分なの、と聞いたら。
親父がくれるんだ、と言っていた。いつも半分なんだ、と。
***
幸子は、神様の手から、最中を受け取った。
半分に、割った。
***
半分を、仏壇の前に戻した。
もう半分を、神様の両手にのせた。
***
「……はい」
神様は、半分の最中を見た。
それから、幸子を見た。
***
「……母御」
「何」
「残りの、半分の、行き先が。……五十年、分からんかった」
「今、分かった」
***
神様は、最中をかじった。
もぐもぐ、と、小さな音がした。
***
幸子は、遺影を見た。
お義父さんは、いつもと同じ顔をしていた。
***
お義父さん。
先に、言ってくださいね、って。言いたかったです。
***
でも、半分の最中は、ちゃんと届いてました。
***
幸子は、手を合わせた。
隣で、神様が、最中の粉を口のまわりにつけたまま。
同じように、小さな手を合わせていた。
***
三十年目の、月曜日だった。




