↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
99/176

幕間 母御の、朝ごはん

小沢幸子は、四時五十分に目を覚ました。

いつもと同じ時刻だった。三十年、同じ時刻だった。


***


違ったのは、ゆうべ、ほとんど眠れなかったことだった。


***


一月十八日。月曜日。

まだ、外は真っ暗だった。


隣の布団は、空だった。

夫が、先に起きていた。三十年で、初めてのことだった。


***


幸子は、布団の中で天井を見ていた。


危ない仕事だった。

息子の声が、まだ耳に残っていた。


***


だった、と過去形で言った。言葉を選んで。


あの子は、昔からそうだった。

嘘が下手で、下手なりに、相手が傷つかない言い方を探す子だった。


***


選んだということは、今もそうだ、ということだった。


***


幸子は起き上がった。

それから、決めた。


家では、普通にする。


***


台所に行こうとして、廊下で止まった。

縁側のほうから、声がしていた。


***


「……吸って」


娘の声だった。


「ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ」


***


幸子は、廊下の角からそっと覗いた。


縁側に、座布団が三枚。

右に由紀、左に健司。

真ん中に、金色のボタンの子供が座っていた。


***


北を向いて、背筋を伸ばして、目を閉じて。

三人とも、同じ息をしていた。


***


吸って。止めて。吐いて。


***


その後ろの廊下に、夫がいた。


パジャマの上にどてらを着て、廊下の板の上にあぐらをかいて。


***


横に、お盆があった。湯呑みが四つ。


三つは、縁側の三人のぶんだった。

まだ渡していなかった。数え終わるのを待っていた。


***


一つは、夫の手の中にあった。


***


夫は、三人の背中を見ていた。

真ん中の、小さな背中を。


***


柱の陰からでは、なかった。廊下の真ん中から。


五十年、と夫は言った。


***


幸子は、三十年、あの人の隣にいた。

三十年、何も知らなかった。


***


腹は立たなかった。不思議と。


ただ、どてらの背中が、少しだけ小さく見えた。

四つか五つの子供の背中に。


***


幸子は、声をかけなかった。


台所に行った。お米を研いだ。

いつもより、一合、多く。


***


六時半。


食卓。


神様は、当然のように上座に座っていた。


***


ゆうべ、すき焼きを食べた席だった。お義父さんの席だった。


***


誰も、何も言わなかった。

そこが、神様の席になっていた。一晩で。


***


「神様は」


幸子は、しゃもじを持ったまま聞いた。


「ご飯? パン?」


***


神様は、少しだけ考えた。


「両方じゃ」


健司が、味噌汁を噴きかけた。


***


「両方って、何だよ」

「ご飯と、パンじゃ」

「だから、どっちか、だろ」

「母御は、どっちか、とは、言うとらん」


***


言っていなかった。


***


幸子は、ご飯をよそった。

それから、トースターにパンを一枚入れた。


***


「お母さん!」

「いいじゃない。……育ち盛りなんでしょう」

「育たないんだよ、こいつは!」


***


夫が、新聞の向こうで、小さく咳をした。


***


茶碗が、なかった。

正確には、神様の茶碗が、なかった。


***


ゆうべは、取り皿で済ませた。朝ごはんは、そうはいかなかった。


***


幸子は、食器棚の一番奥を探した。


出てきた。


***


小さな茶碗だった。

白い地に、ピンクのうさぎの絵がついていた。


***


由紀が、幼稚園のころに使っていた茶碗だった。


捨てられなかった。

三十年、捨てられないものが、この家にはたくさんあった。


***


ご飯をよそって、神様の前に置いた。


***


「それ、あたしの!」


由紀が言った。


神様は、茶碗を両手で持ち上げて、うさぎをじっと見た。


***


「……ほう」

「ほう、じゃない! あたしの、茶碗!」

「今日から、わしのじゃ」

「なんで!」

「母御が、よそうた」


***


由紀は、幸子を見た。


***


幸子は、マスキングテープを出した。

油性ペンで書いた。


***


『かみさま』


茶碗の底に貼った。


「……お母さん」

「名前、書いとかないと。……誰のだか、分からなくなるでしょう」


***


神様は、茶碗をひっくり返して、底のテープを見た。


***


長いこと見ていた。ひらがなの四文字を。


***


それから、何も言わずに、茶碗を元に戻した。

ご飯を食べた。うさぎの茶碗から。


***


耳の先が、少しだけ赤かった。


***


夫は、新聞を読んでいた。


毎朝のことだった。

三十年、毎朝、新聞を広げて、その向こうでご飯を食べる人だった。


***


新聞の裏側を、神様が覗きこんでいた。

上座から身を乗り出して、トーストをくわえたまま。


***


テレビ欄だった。


***


夫が、ページをめくった。


「あっ」


神様が言った。


「まだ、読んどる」


***


夫の手が止まった。

少しだけ黙って、それから、新聞をたたんだ。


***


半分に。もう半分に。


それから、くるりと裏返して、神様の前に置いた。


***


四コマ漫画のところが、一番上になっていた。


***


夫は、何も言わなかった。

自分は、新聞なしで味噌汁をすすった。


***


幸子は、しゃもじを持ったまま、それを見ていた。


三十年。

あの人が、新聞を誰かのためにたたむのを、見たことがなかった。


***


健司にも。由紀にも。たぶん、お義父さんにも。


***


神様は、四コマ漫画を読んでいた。

一回読んで、もう一回読んで、それから。


***


「……総一郎」

「……何だ」

「これは、どこが、面白いんじゃ」


***


夫は、少しだけ身を乗り出した。

四コマ漫画を覗きこんだ。しばらく黙っていた。


***


「……俺にも、分からん」

「毎朝、読んどるくせに」

「……毎朝、分からん」


***


由紀が、テーブルに突っ伏した。

健司は、両手で首を押さえたまま、肩を震わせていた。

幸子も、こらえきれなかった。


***


三十年、毎朝。

分からないまま、読んでいたらしかった。


***


七時十分。


夫が、玄関で靴を履いていた。

背広を着て、鞄を提げて。いつもの朝だった。


***


幸子は、いつものように、玄関まで送りに出た。


その横を、神様がとことこついてきた。

うさぎの茶碗を持ったまま。まだ食べている途中だった。


***


夫が立ち上がった。戸を開けた。


外は、まだ少し暗かった。東の空だけが白んでいた。


***


「……行ってくる」


いつもの声だった。三十年、同じ声だった。


***


「うむ」


神様が言った。


「行ってこい」


***


夫が、止まった。

戸を開けたまま。背中を向けたまま。


***


一秒。


幸子には、その一秒が、もっと、ずっと長く見えた。

五十年ぶんくらい。


***


夫は、振り返った。

神様を見下ろした。


うさぎの茶碗を持った、小さな、金色のボタンの。


***


「……行ってきます」


言い直していた。


神様は、茶碗を持ったまま、鼻を鳴らした。


***


「……車に、気をつけい」


夫は、少しだけ笑った。


めったに笑わない人だった。ゆうべから、二回目だった。


***


戸が、閉まった。


***


幸子は、しばらく、閉まった戸を見ていた。


隣で、神様がご飯を食べていた。玄関で、立ったまま。


***


「……神様」

「何じゃ」

「お行儀」

「……はい」


神様は、食卓に戻っていった。


***


二回目の、はい、だった。

ゆうべの一回目のとき、健司が目を丸くしていた。


***


九時。


由紀が、出勤していった。


「店長に、言っとく。……お兄ちゃん、首、両方、寝違えたって」

「言わなくていい」

「飴、もう三つ、もらってくる」

「いらない」

「疲れてる人なんだから」


***


由紀は、赤いマフラーを巻いて、笑いながら出ていった。


***


幸子は、門のところで、娘の背中を見送った。


***


戸が、閉められるの。


ゆうべ、そう言った。

背筋を伸ばして、縁側の座り方で。


***


あんたまで、と言ってしまった。

言うつもりは、なかった。勝手に出た。


***


由紀の手を握ったら、由紀が泣いた。


三十年、母親をやって。

娘がどこで泣くのかを、ゆうべ、初めて知った。

母親の手の中で、だった。


***


幸子は、門を閉めた。


***


十時。


洗濯物が、乾かなかった。


一月の庭だった。日は出ていた。でも、風がなかった。


***


ゆうべ、すき焼きの鍋を拭いた布巾。

健司の旅行鞄から出てきた、十二日分の着替え。

それから、客用のシーツ。


***


物干し竿にずらりと並んで、ぴくりともしなかった。


***


幸子は、縁側に座っている息子を見た。


健司は、両手で首を押さえて、柚子の木を見ていた。


***


公安0課。普通の事件じゃないほう。危ない仕事だった。


***


その息子が、縁側で、柚子の木を見ていた。


***


「……健ちゃん」

「何」

「あの、風の」


健司が、振り返った。


***


「……風の?」

「ゆうべ、言ってたでしょう。火と、風と、氷って」


***


健司は、物干し竿を見た。

十二日分の、自分の着替えを。


***


「……母さん」

「お願い」

「魔法は、そういうのに、使うもんじゃ」

「乾かないのよ」


***


健司は、少しだけ黙った。


「……はい」


実家では、この子は、昔から、はい、しか言わない子だった。


***


健司は、庭に降りた。

物干し竿の前に立った。

右手を、軽く上げた。


***


風が、吹いた。


最初は、そよ風だった。洗濯物が揺れた。


***


「あら」


それから、少し強くなった。シーツがはためいた。


***


「あらあら」


それから。


「健司! 強い!」


神様の声がした。縁側から。


***


「加減じゃ、加減! お主、首が、痛いから、手元が、狂うとる!」


***


遅かった。


***


客用のシーツが、一枚、物干し竿から外れて、空に舞い上がった。


***


白いシーツが、一月の青い空を、ゆっくり、ゆっくり飛んでいった。


***


隣の家の屋根の上に、ふわりと落ちた。


庭が、静かになった。


***


「……健ちゃん」

「……ごめん」


***


神様が、縁側から消えた。


次の瞬間。

隣の家の屋根の上に、立っていた。


***


金色のボタンの子供が、瓦の上に。

シーツを両手で抱えて。


***


「取ったぞ!」


***


そのとき、隣の家の二階の窓が開いた。


隣の奥さんだった。布団を干そうとしていた。


***


窓の外の、自分の家の屋根の上に。

金髪の子供が、シーツを抱えて立っていた。


***


奥さんは、布団を持ったまま固まった。

神様も、シーツを抱えたまま固まった。


***


幸子は、物干し竿の前から、にっこりした。


「すみません、斉藤さん。……親戚の、子なんです」


***


斉藤さんは、屋根の子供を見た。それから、幸子を見た。


***


「……あら。親戚の」

「親戚では、ない」


屋根の上から、神様が言った。胸を張って。


***


「神じゃ」


***


斉藤さんは、しばらく黙っていた。

それから、にっこりした。


***


「……そう。かみちゃん、って、いうの」

「……かみちゃん?」

「かわいい、お名前ねえ。……屋根、滑るから、気をつけてね、かみちゃん」


***


斉藤さんは、布団を干して、窓を閉めた。


***


神様は、屋根の上で、シーツを抱えたまま、しばらく動かなかった。


***


「……かみ、ちゃん」


庭で、健司が、首を押さえたまましゃがみこんでいた。

笑いすぎて。首が痛くて。


***


幸子は、シーツを受け取った。神様から。

次の瞬間には、もう庭にいた。


***


「ありがとう、かみちゃん」

「母御まで!」


***


十一時。


台所の窓が、曇っていた。


外側に、霜が残っていた。

北側の窓だった。昼まで溶けない窓だった。


***


「健ちゃん」

「……今度は、何」

「火の、小さいの」


***


健司は、少しだけ遠い目をした。

それから、窓の前に立って、人差し指を立てた。


***


火が、灯った。

小さな火だった。蝋燭の炎くらいの。


***


ガラスに、近づけた。


霜が、指先のところから、丸く溶けていった。


***


窓の向こうに、庭が見えた。柚子の木が見えた。


***


「……便利ね」


幸子は言った。


健司が、少しだけ笑った。


***


「母さん、それ、ゆうべも、言った」

「便利なんだもの」


***


健司は、窓の霜を全部溶かして、指先の火を握って消した。

縁側に戻っていった。首を押さえながら。


***


幸子は、溶けた窓を見ていた。


便利ね、と言った。ゆうべも。今も。


***


本当は、便利だなんて思っていなかった。


あの小さな火で、あの子は、何をしてきたのか。

あの風で、何と戦ってきたのか。


***


聞けば、たぶん話す。先に言いなさい、と言ったから。


***


でも、今日は聞かない。


便利ね、と言わなかったら、たぶん、泣いてしまうから。


***


だから、便利ね、と言う。何度でも。


あの子が、魔法で洗濯物を乾かして、窓の霜を溶かす。

そのくらいのことにしか使わなくていい日が、一日でも多くあるように。


***


午後二時。


仏間。


幸子は、仏壇の前に座った。お線香を立てた。


***


仏壇には、羊羹が一本。最中が二つ。


違った。


最中が、一つだった。


***


幸子は、後ろを振り返った。


仏間の入口の柱の陰に、金色のボタンが見えた。半分だけ。


***


「……かみちゃん」


柱の陰で、ボタンがぴくりとした。


***


「それ、お義父さんの」


神様が、柱の陰から出てきた。


***


両手に、最中を一つ持っていた。まだかじっていなかった。


***


「……伊左衛門は」


神様は言った。最中を見下ろして。


***


「道場の、帰りに、これを、買うてきた。……毎回、二つ」

「一つは、自分の。……一つは、半分に、割って」

「半分を、わしに、くれた」


***


神様は、最中を両手で持ったまま、仏壇の遺影を見た。


***


「……残りの、半分は。誰の、じゃったか。分からんかった」


***


「毎回、半分、余っとった。……伊左衛門は、それを、懐に、入れて、帰った」


***


幸子は、少しだけ黙った。


***


道場の帰りのお義父さん。

最中の包みを提げて、この家の玄関をくぐって。


***


半分の最中を、懐から出して。


総一郎に、渡していた。


***


幸子は、覚えていた。

結婚したばかりのころ、夫が、よく半分の最中を食べていた。


***


どうしていつも半分なの、と聞いたら。

親父がくれるんだ、と言っていた。いつも半分なんだ、と。


***


幸子は、神様の手から、最中を受け取った。


半分に、割った。


***


半分を、仏壇の前に戻した。

もう半分を、神様の両手にのせた。


***


「……はい」


神様は、半分の最中を見た。

それから、幸子を見た。


***


「……母御」

「何」

「残りの、半分の、行き先が。……五十年、分からんかった」

「今、分かった」


***


神様は、最中をかじった。

もぐもぐ、と、小さな音がした。


***


幸子は、遺影を見た。


お義父さんは、いつもと同じ顔をしていた。


***


お義父さん。


先に、言ってくださいね、って。言いたかったです。


***


でも、半分の最中は、ちゃんと届いてました。


***


幸子は、手を合わせた。


隣で、神様が、最中の粉を口のまわりにつけたまま。

同じように、小さな手を合わせていた。


***


三十年目の、月曜日だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。