第八十八章 先に、言う
一月十九日。火曜日。
二週間ぶりの、0課だった。
***
地下の扉を、開けた。
「やあ、来たね」
課長が言った。
初めてここに来た日と、同じ言い方だった。
***
「……ただいま、戻りました」
「うん、うん」
***
課長は、俺の首を見た。
もう、手では押さえていなかった。
代わりに、湿布が貼ってあった。左右、両方に。母が貼った。
***
「……首、どうしたの」
「寝違えました。両方」
***
課長は、『レディー』を見た。
『レディー』は、自分の机で、爪を見ていた。
***
「うん」
課長は言った。
「聞かないことに、するね」
***
加藤さんが、お茶を淹れてくれた。にこにこしていた。
***
「おかえりなさい。……肉まん、いかがでした」
「十個とも、こいつが」
***
肩の上で、メレオスが胸を張っていた。
***
今日は、最初から見えていた。0課では、隠れる必要がなかった。
***
それから、変な服のポケットから、何かを出した。
***
小さなボタンだった。トナカイの角を削った。
***
「見よ」
メレオスは、ボタンを高く掲げた。
***
「北の、果ての、老人が。わしに、くれた。……小さいほうに、と、言うてな」
***
『レスラー』が、のっそり近づいてきた。ボタンを見た。
***
「……角か」
「角じゃ。トナカイの」
「……食えるのか」
「食えん!」
***
『ホラー』が、前髪の奥からボタンを見ていた。
***
「……いい、ボタンです」
『ホラー』は言った。
***
「後ろに、犬が、ついてます。……尻尾、振ってます」
***
メレオスは、ボタンを見た。それから、自分の後ろを見た。
***
「……ついて、きたのか」
「気配、だけです。……好かれてましたね」
***
メレオスは、何も言わなかった。
ボタンをポケットに戻して、上から二回叩いた。
***
『レディー』が、爪から目を上げずに言った。
***
「健司」
「……はい」
「貸し、二つ」
「……覚えてます」
「覚えてるなら、いいわ」
***
何で返すのかは、言わなかった。聞くのが怖かった。
***
十時。
会議室の扉が、開いた。
『ギーク』だった。
***
パーカーのフードをかぶって、ノートパソコンを三台抱えて。
ぼさぼさの髪が、フードからはみ出していた。
***
「どうもー。出社しましたー。週一の、ほうの、出社でーす」
***
机に、パソコンを、どん、と置いた。
「『オザケン』さん、おかえりなさい! 指名手配、解けました?」
「解けてません。パスポート、まだ、あの写真です」
「十年、あの写真ですね!」
***
十年、だった。考えたくなかった。
***
「で。……イングリッドさんから、データ、来てます。全部。本当に、全部」
***
『ギーク』は、一台目を開いた。
「地震計の、生データ。冬至から、一月十四日まで。……それから、これ」
***
画面に、写真が出た。
雪の上の、氷の白鳥だった。一羽だけの。
***
観測所の前に、俺が作ったやつだった。
***
その向こうの空が、少しだけ明るかった。
***
「件名、『おみやげ、です。まだ、溶けてません』」
『ギーク』は、早口で言った。
***
「あと、追伸。『二十一日の、日の出は、この白鳥の、うしろから、撮ります』。……何ですか、これ。『オザケン』さん、北極で、何、してきたんですか」
「……学術視察です」
「白鳥が?」
「白鳥が」
***
十時半。
赤城さんが、来た。
背広に、黒い外套。革靴だった。紐は、普通の蝶結びだった。
***
会議室の空気が、少しだけ締まった。
赤城さんは、座る前に、俺を見た。
***
「……健司くん」
「はい」
「一昨日は。……ごちそうに、なった」
「……こちらこそ」
***
それだけだった。
***
国務大臣が、うちの居間で、畳に額をつけたことも。
母に止められて、「……はい」と言ったことも。
***
0課の誰も、知らなかった。知らなくて、よかった。
***
課長だけが、うん、うん、と頷いていた。
何に対してのうん、うん、なのかは、相変わらず分からなかった。
***
『レディー』が、机の上に、ハンカチの包みを置いた。
***
開いた。
黒い糸の糸巻きが一つ。方眼紙が一枚。
***
ソルヴェイさんが、最後に渡したものだった。
***
方眼紙には、紋章が描いてあった。定規で引いた線で。
***
赤城さんは、方眼紙を手に取らなかった。
***
机の上に置いたまま、見ていた。
長いこと。
***
「……『ギーク』くん」
課長が言った。
***
「はーい。……これ、ゆうべ、『レディー』さんから、写真、もらって。先に、見ときました」
***
『ギーク』は、二台目を開いた。
方眼紙の写真が、画面いっぱいに拡大されていた。
***
「まず、線。全部、定規です。一本も、手で、引いてない。……それは、見れば、分かるんですけど」
***
もっと拡大した。
黒い線の下に、うっすら、灰色の線があった。
***
「下書きが、あります。鉛筆で。……鉛筆の、下書きも、定規です」
***
「下書きを、定規で、引いて。その上を、ペンで、定規で、なぞって。そのあと、鉛筆を、消しゴムで、消してる。……消し残しが、ここと、ここ」
***
『ギーク』は、画面を指で叩いた。
「それから、線の、終わり。……全部、一ミリ、手前で、止めてるんです。交点の。はみ出さないように」
「几帳面、っていうか」
***
『ギーク』は、少しだけ黙った。早口が、止まった。
***
「……ちょっと、怖い、です。これ、引いた人」
***
赤城さんが、背広の内ポケットから、何かを出した。
***
封筒だった。古い封筒が、何通か。輪ゴムで束ねてあった。
***
「……年賀状だ」
赤城さんは言った。
一枚抜いて、机に置いた。
***
毛筆の年賀状だった。きれいな楷書だった。
***
『謹賀新年』。
その下に、名前。
『鷲尾』。
***
『ギーク』が、年賀状を覗きこんだ。
眼鏡を、ずり上げた。
***
「……あ」
年賀状の文字の両脇に、うっすら、鉛筆の線があった。
***
まっすぐな線だった。定規で引いた線だった。
消しゴムで消したあとがあった。
***
文字を書く前に、定規で枠を引いていた。年賀状に。
***
「……消し残しの、場所が」
『ギーク』は、画面と年賀状を交互に見た。
***
「同じ、です。……線の、右の、端だけ、消し残す。癖です。これ」
***
会議室が、静かになった。
***
「……鷲尾は」
赤城さんは言った。
「二十年、年賀状を、よこした。……二十年、この、線だった」
***
「羊羹も、だ。二十年、同じ、厚さだった。……定規で、測ったように」
***
俺は、方眼紙を見ていた。
羊羹を切りそろえたのは、あれだと思っていた。
中に入った、子供みたいな何かの、几帳面な遊びだと。
***
違った。
***
「……手紙が、届いたのは、去年の、夏です」
『レディー』が言った。
***
「ソルヴェイさんに。……冬至の、半年前」
「冬至より、前だ」
『ジョン』が言った。
***
「あれが、入る、前だ」
赤城さんは、頷いた。
***
「この、線は。……鷲尾、本人の、線だ」
***
中身のせいでは、なかった。
***
ノルウェーの町のホテルの女主人に、方眼紙の図案を送って。
若い二人に帽子をかぶせろ、と書いて。読んだら燃やせ、と書いて。
***
それを、定規で。下書きから。
あれが入る前の、自分の手で。
***
教会の祭壇の前の、畳んだ二つの帽子を思い出した。
***
「……鷲尾さんって」
俺は聞いた。
「伊左衛門先生、って、呼んでたんですよね。じいちゃんの、こと」
***
赤城さんは、俺を見た。
「『ギーク』くん」
「はーい。三台目」
***
『ギーク』が、三台目を開いた。
「警察の、古い、名簿です。……紙のやつを、誰かが、スキャンしたやつ。どこから、取ったかは、聞かないでください」
「聞かないよ」
課長が言った。
***
画面に、古い表が出た。手書きの表だった。
***
『術科特別講習 合気道 受講者名簿』
***
その上に。
『講師 小沢伊左衛門』
じいちゃんの名前だった。
***
名簿の一番上に、『鷲尾』とあった。
次の年の名簿にも。その次の年にも。
***
「五年、連続です。……同じ講習、五年、受けてる人、この人だけです」
***
「……覚えている」
赤城さんが言った。
***
「俺は、道場の、弟子だ。警察の、講習には、先生の、手伝いで、ついて行った。……鷲尾は、いつも、一番、前に、いた」
***
「一番、熱心だった。……先生は、あいつを、褒めた。筋が、いい、と」
***
赤城さんは、年賀状の束を見ていた。
「先生は、人を、あまり、褒めなかった」
***
それ以上は、言わなかった。
***
じいちゃんに褒められた人が。
五年、一番前で習った人が。
***
冬至の山で、白い仮面をつけて立っていた。
***
「……熱心だった、理由は」
『レディー』が言った。
***
「一つじゃ、ないかも、しれないわね」
***
赤城さんは、答えなかった。
***
夕方六時。
実家。
「あら、健ちゃん。今日も、来たの」
母は言った。嬉しそうだった。
***
「かみちゃんも」
「母御。わしは、神じゃ。かみちゃんでは、ない」
「はいはい。……かみちゃん、ご飯、食べる?」
「……食べる」
***
メレオスは、当然のように上座に座った。
うさぎの茶碗が、もう出ていた。
***
「母さん」
「何」
「じいちゃんの、葬式の。……芳名帳、まだ、ある?」
***
母の手が、少しだけ止まった。
「……あるわよ。仏間の、押し入れに」
***
理由は、聞かなかった。聞かずに、出してくれた。
***
黒い表紙の帳面だった。
***
じいちゃんの葬式の日。俺は、受付にいた。
***
黒い服の人たちが、次々に来た。知らない顔ばかりだった。
警察の偉い人。政府の人。大臣。
***
頭を下げて、香典を受け取って、こちらにご記帳を、と言って。
***
百人以上いた。誰の顔も、覚えていなかった。
***
帳面を、開いた。
名前が、並んでいた。
筆で。ペンで。上手な字。下手な字。
***
めくった。
めくった。
三枚目の真ん中で、手が止まった。
***
『鷲尾』。
きれいな楷書だった。年賀状と同じ字だった。
***
その両脇に、うっすら、鉛筆の線があった。
***
右の端だけ、消し残して。
***
思い出した。
受付の机の前で、一人だけ。
背広の内ポケットから、小さな定規を出した人がいた。
***
背の高い人だった。肩の広い。
鉛筆で、芳名帳に、すっ、すっ、と、二本、線を引いて。
そのあいだに、名前を書いて。
***
消しゴムで、線を消して。
俺に香典を渡して、四十五度の礼をした。
***
変な人だな、と思った。それだけだった。
じいちゃんが死んだ日で、頭がいっぱいで。
***
「このたびは」と、その人は言った。低い、よく通る声だった。
***
「伊左衛門先生には。……お世話に、なりました」
俺は、ありがとうございます、と言った。
香典を受け取った。この手で。
***
「……健司」
メレオスが言った。上座から。箸を止めて。
***
「顔が、白いぞ」
「……会ってた」
「誰に」
「鷲尾に。……葬式の、日に。俺、受付で」
***
メレオスは、黙った。
あの日、メレオスは、葬式には出なかった。アパートで待っていた。
***
同じ日に、俺は、その数時間前に。
***
七時半。
父が、帰ってきた。
今日も早かった。八時より前だった。
***
「……ただいま」
「うむ。おかえり」
メレオスが言った。うさぎの茶碗を持ったまま。
***
父は、一秒、止まって。
「……ただいま」
二回、言った。
***
食卓に、芳名帳と、もう一つ、帳面があった。
***
じいちゃんの手帳だった。
蔵で見つけた、古い手帳。悪筆の。気で閉じてあったページのある。
***
俺が持っていた。今日、持ってきた。
鷲尾の線と、じいちゃんの字を、並べて見たかった。
***
定規の楷書と、ミミズの這ったような悪筆。
***
五年、一番前で習った人の字と、教えた人の字。
***
父が、手帳を見た。
「……親父のか」
「うん」
***
父は、手帳を手に取った。
ぱらぱらと、めくった。
***
稽古の記録。日付と、人数と、技の名前。
その合間に、紋章を思い出そうとして描き直したあと。
***
父の手が、後ろのほうのページで止まった。
***
「……これは」
俺は、覗きこんだ。
稽古の記録の欄外に、小さな字があった。
ほかの字より、もっと小さい。
***
『二・三 異状なし』
その下のページにも。
***
『二・三 異状なし』
その下にも。
稽古の日付だと思っていた。読み飛ばしていた。
***
「……二月、三日だ」
父が言った。
「節分だ」
***
父は、手帳を持ったまま、少しだけ黙った。
***
「節分の、夜は。……親父は、いなかった」
「毎年だ。……豆まきは、いつも、俺と、お袋だけだった。親父は、稽古だ、と、言って、出ていった」
***
「節分に、稽古なんか、あるか、と。……子供のころ、思った」
***
俺は、上座を見た。
メレオスは、箸を置いていた。
***
「……行っとった」
メレオスは言った。
***
「隠り山じゃ。……冬至の、夜は、庭から、閉める。節分の、夜は、山まで、見に、行く。年に、二回」
「なんで、言わなかった」
「何も、なかったからじゃ」
メレオスは言った。
***
「五十年。節分の、夜に、あの戸が、動いたことは、一度も、ない。……冬至ほどは、ゆるまん。じゃが」
***
「季節の、変わり目じゃ。……冬と、春の、境い目の、夜は。こっちと、向こうの、境い目も。少しだけ、薄うなる」
***
「伊左衛門は、念のため、行っとった。……異状なし、と、書くために」
***
異状なし。
五十五年ぶん。冬至と、節分と。百十回。
***
じいちゃんは、そのうち五十五回、あの山に登っていた。
***
「……今年の、節分は」
俺は言った。
「じいちゃん、いない」
「おらん」
「戸は、閉めた。冬至に。……俺と、由紀で」
「閉めた」
「でも。あれは、外に、いる。……鷲尾の、中に」
***
メレオスは、答えなかった。
また、遊ぼうね、と、あれは言った。赤城さんに。
***
次に、戸がゆるむ夜。
二週間、先だった。
***
父は、手帳を閉じた。そっと。
食卓に、置いた。
***
何も聞かなかった。でも、聞いていた。全部。
***
見えんことに、しとけ、の人は。
もう、見えないことにしていなかった。
***
九時。
台所。
母が、洗い物をしていた。
***
俺は、その横に立った。布巾を取った。皿を拭いた。
***
「あら。……珍しい」
「……母さん」
「何」
***
皿を拭いた。もう一枚、拭いた。
言おう、と思った。
***
一昨日、決めたばかりの決まりだった。破るには、早すぎた。
***
「……危ないこと、ある」
母の手が、止まった。
***
水が、流れっぱなしになった。
「たぶん。……二月の、三日」
***
母は、蛇口を見ていた。
「……節分ね」
「うん」
「山?」
「……たぶん」
「由紀も?」
「……まだ、分からない。分かったら、言う」
***
母は、しばらく黙っていた。
水の音だけが、していた。
***
それから、蛇口を閉めた。
手を拭いた。エプロンで。
***
「……言ってくれて」
母は言った。
「ありがとう」
***
声が、少しだけかすれていた。
母は、俺を見なかった。
流しの中の、うさぎの茶碗を見ていた。
***
「……聞くと、怖いわね。やっぱり」
「……ごめん」
「謝らないの」
母は言った。
***
「聞かないで、あとから、知るほうが。……もっと、怖いんだから」
***
うさぎの茶碗を取って、洗った。
ていねいに。底のテープが濡れないように。
***
「帰ってきたら」
母は言った。
「豆、まくからね」
「……うん」
「鬼は、誰が、やるの」
「……父さん?」
「かみちゃんは?」
***
居間から、声がした。
「聞こえとるぞ! わしは、福の、ほうじゃ!」
***
母が、笑った。
俺も笑った。首が痛かった。両方。
***
皿を拭いた。最後の一枚まで。
***
じいちゃんは、節分の夜、五十五回、あの山に登った。
***
五十五回とも、家族には、稽古だ、と言って出ていった。
***
危ないところへ行く、とは、一回も言わなかった。
***
帰ってきて、手帳に、異状なし、と書いて、閉じた。
***
ばあちゃんも、父さんも、何も知らないまま、二人で豆をまいていた。
***
大事なことほど、後で言う人だった。
後で、と思っているうちに、言わないままだった。
***
俺は、行く前に言った。
母さんに。危ないこと、ある、と。二月の、三日、と。
***
じいちゃんが五十五年、家族に一回も言えなかったことを。
***
俺は、今日、一回、言った。




