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第八十九章 違う、座り方

『ホラー』は、一週間で三回、前髪を上げた。


***


一回目は、一月二十一日。国会の委員会の廊下だった。

二回目は、二十三日。警察庁の定例の会議の前だった。

三回目は、二十六日。ホテルの何かの式典のロビーだった。


***


三回とも、赤城さんの半歩後ろに立って。

胸に名刺を入れて、加藤さんの黒いピンで前髪を留めて。


***


三回とも、鷲尾はにこにこしていた。

四十五度の礼をした。何事もなかったみたいに。


***


警備局長は、今日も、警備局長の仕事をしていた。


***


一月二十七日。水曜日。


0課の会議室。


***


節分まで、あと七日だった。


***


『ホラー』は、椅子に深く座っていた。

前髪は、下りていた。顔色は、いつもよりもう二段悪かった。


***


「……三回、見ました」


『ホラー』は言った。


***


「三回とも、同じです」


***


会議室には、赤城さんと課長と、『レディー』と、『ジョン』と、『レスラー』。

加藤さんが、お茶を配っていた。


***


俺の隣の椅子に、メレオスが座っていた。足が、床に届いていなかった。


***


それから、部屋の隅の小さな机に、共さんがいた。


***


紺色のセーターで、背筋を伸ばして、封筒に宛名のシールを貼っていた。


***


一件、十円。加藤さんのお財布から。0課のプラス一のお仕事だった。


***


シールは、一枚も曲がっていなかった。


***


「手前に、子供が、います」


『ホラー』は言った。


***


「窓から、顔を、出すみたいに。……三回とも、俺を、見て、笑いました。おでこの人、って」

「奥は」


赤城さんが聞いた。


***


「……います。三回とも」


『ホラー』は、少しだけ目を閉じた。

思い出していた。見たものを、もう一度見ていた。


***


「正座、してます。……背筋を、伸ばして」

「膝の、上で。両手を、重ねてます」

「顔は、上げてます。……目も、開いてます」

「三回とも。同じ、姿勢です。……一ミリも、動いてません」


***


一ミリも。定規で、測ったように。


***


「……助けを、待ってるんですね」


俺は言った。


***


じいちゃんに五年習った人だった。筋がいい、と褒められた人だった。

自分から迎え入れたのだとしても。

中で、五十年ぶん後悔しているのかもしれなかった。


***


共さんが、そうだったみたいに。


***


部屋の隅で、シールを貼る音が止まった。


***


「……平沼さん」


共さんが言った。


***


共さんは、『ホラー』を本名で呼ぶ。

コードネームというものが、どうにも口になじまないらしかった。


***


「……はい」

「一つ、伺っても、よろしいですか」

「……どうぞ」


***


共さんは、シールの台紙を机に置いた。

両手を、膝の上に戻した。


***


「手は。……どちらが、上ですか」


***


『ホラー』は、少しだけ考えた。


***


「……右です。右が、上です」

「握って、いますか。開いて、いますか」

「……開いてます。重ねてる、だけです」

「目は、開いている、と、おっしゃいました」

「はい」

「何を、見て、おられますか」


***


『ホラー』は、もう一度、目を閉じた。


***


長い間だった。


「……子供の、背中を」


『ホラー』は言った。


***


「前に、いる、子供の。……背中を、ずっと、見てます」


***


共さんは、頷いた。


ゆっくり。一回だけ。


***


「……私は」


共さんは言った。


***


「うつむいて、おりました」


会議室が、静かになった。


***


「五十年。……同じように、奥に、おりました。正座を、して」


共さんの声は、いつもと同じだった。

丁寧で、低くて、かすれていて。


***


「ですが、私は。……顔を、上げられませんでした」

「手は、握って、おりました。膝の、上で。こう」


***


共さんは、膝の上で、両手を握った。


***


拳だった。白くなるほど握った拳だった。


***


「道場で。……叱られるときの、座り方です」

「目は、閉じて、おりました。……開けると、見えて、しまうので」


***


「自分の、手が。……自分の、口が。していることが」


***


共さんは、拳をほどいた。


それから、手を重ねた。右を上に。開いたまま。


***


背筋を伸ばした。顔を上げた。


***


『ホラー』が言ったとおりの姿勢だった。


***


「……これは」


共さんは言った。その姿勢のまま。


***


「違う、座り方です」

「これは、叱られる、座り方では、ありません」

「控える、座り方です」


***


「上の、方の、後ろで。……お呼びが、あるまで。ご用が、済むまで」

「待って、おられるのです。……その方は」


***


「助けを、では、ありません」


***


共さんは、姿勢を戻した。いつもの共さんの座り方に。


***


「……主人を、です」


***


誰も、何も言わなかった。


俺は、自分の言ったことを思い出していた。


***


助けを、待ってるんですね。


違った。


***


方眼紙の線を思い出した。

下書きから、定規で引いた線。交点の一ミリ手前で止めた線。


***


あの人は、ノルウェーの町に図案を送った。

自分の手で。あれが入る前に。


***


冬至の山で、仮面をつけて、両腕を広げて。


***


迎え入れたのでは、なかった。


***


差し出したのだった。


***


「……熱心だった、理由」


『レディー』が言った。爪は、見ていなかった。


***


「五年、一番前で、習ったのも。二十年、羊羹を、届けたのも」


***


「近くに、いるためよ。……伊左衛門先生の。先生の、山の。先生の、一番弟子の」

「仕事、だったのよ。全部」


***


赤城さんは、黙っていた。


机の上の、自分の手を見ていた。


***


二十年。毎年、年始に。栗の入っていない、黒いほうを。


***


「……大臣」


課長が言った。うん、うん、とは言わなかった。


***


赤城さんは、顔を上げた。


「……変わらない」


赤城さんは言った。


***


「一人も、死なせるな。……鷲尾も、含めてだ」

「助けてくれ、と、言っていない、相手でも、ですか」


『ジョン』が聞いた。

責める声では、なかった。確かめる声だった。


***


「言っていない、相手でも、だ」


赤城さんは言った。


***


「先生は。……撃ってくれ、と、言った、相手を。撃たなかった」


***


部屋の隅で、共さんが、少しだけ目を伏せた。


***


課長が、手帳を開いた。


俺が来た最初の週から、腕時計とメジャーで測ってきた手帳だった。


***


「……そうなるとね」


課長は言った。


***


「一つ、困ったことが、ある」

「冬至の、とき。久我さんから、あれを、引きはがしたでしょう。……外から、檻で、押さえて。中に、気を、通して」


***


「あのとき。久我さんは、中から、手を、離してくれた」


構いません、と、共さんは言った。

五十年、ずっと、痛かったので、と。


***


「今度は」


課長は、手帳のページを指で押さえた。


***


「中の、人が。……離して、くれないよね」


***


「離すまい」


メレオスが言った。


***


今日、初めて口を開いた。


「中から、戸を、押さえとる者が、おる。……開けたまま、押さえとる。あれが、出ていかんように」

「そこへ、外から、気を、通せば、どうなる」


***


メレオスは、俺を見た。


「……器が、割れる」

「押せば、押すほど、じゃ。……あれより、先に。鷲尾という、男が、壊れる」


***


一人も、死なせるな。鷲尾も、含めてだ。


***


引きはがせば、死ぬ。


***


「……じゃあ」


俺は言った。


「どうすれば」

「あれが、自分から、出るしか、ない」


メレオスは言った。


***


「器を、割らずに、出すにはな。……あれが、自分で、この体は、もう、いらん、と。思うしか、ない」

「いらん、と、思わせる。……どうやって」


***


メレオスは、答えなかった。


答えたのは、部屋の隅だった。


***


「……もっと、いい体が、あれば」


***


共さんだった。


***


全員が、共さんを見た。


共さんは、膝の上の手を、開いたまま重ねていた。


***


違った。

握ってもいなかった。重ねてもいなかった。


***


ただ、膝の上に置いていた。


「あれは。……私の、体に、戻りたがって、おります」


***


「一月九日の、夜中。私の、戸を、二度、試しました。……開かないと、分かって、帰りました」


***


「五十年、住んだ、家ですから。……どこに、何が、あるか。全部、知っている、家ですから」


***


共さんは、自分の胸に、手を当てた。


***


「偉い人の、体より。……こちらのほうが、いいのです。あれには」

「私が、参ります」


共さんは言った。


***


「節分の、夜に。隠り山へ。……あれが、自分から、出てくるように」


***


「駄目だ」


赤城さんだった。


即答だった。賀詞交歓会の夜と、同じ速さだった。


***


「久我さんは、戸の、中に、いてください。……あれは、久我さんに、入れる」


***


あの夜。

共さんは、長い沈黙のあと、承知、しました、と言った。

承知していない声で。


***


今日は、沈黙がなかった。


***


「赤城さん」


共さんは言った。


***


「伊左衛門さんは、五十年前。……私を、置いて、山を、下りました」


***


赤城さんの口が、閉じた。


「正しかった、と、思って、おります。……今も」

「あのとき。私は、頼みました。……構わず、撃ってください、と。伊左衛門さんの、家族を、守ってください、と」


***


「伊左衛門さんは、撃ちませんでした。……でも。守りました」


***


「五十五年。冬至と、節分と。……一回も、休まずに」


***


百十回。異状なし。


***


「私は。……その、五十五年。あれの、奥で。うつむいて、おりました」


***


「あれが、伊左衛門さんの、ことを。うるさい、と、言うのを。……自分の、口で、言うのを。聞いて、おりました」

「何も、できませんでした」


***


共さんは、赤城さんを見ていた。まっすぐ。


***


「今度は」

「私の、番です」


***


赤城さんは、首を振った。


「……あなたに、もう一度。あれを、入れるわけには、いかない」

「入りません」


共さんは言った。


***


それから、俺を見た。


「戸が、あります。……由紀さんの」

「私の、形だけ、通れる、戸です。……九日の、夜。あれは、二度、試して、開けられませんでした」


***


「私は、戸の、内側に、おります。……山でも」

「あれは、戸の、前まで、来ます。……来て、入れません」

「そこを」


***


共さんは、俺を見たまま、少しだけ頭を下げた。


***


「健司さんに。……お願い、できれば」


***


体の外に出た、あれ。器のない、あれ。


***


ノルウェーの雪原で、氷の檻の中に、一度だけ入れた。

軽くて、冷たかった。


***


番小屋の戸の前で、呼んで、戻して、閉めた。


***


器から引きはがすのでは、ない。

あれが、自分から器を捨てたところを。


***


「……できます」


口から出ていた。


***


「できると、思います。……由紀が、いれば」


***


「駄目だ」


赤城さんは、もう一度言った。


***


さっきより、少しだけ声が低かった。


***


「久我さん。……あなたは、五十年、もう」

「赤城さん」


***


共さんが、座り直した。


椅子の上で、背筋を伸ばして、両手を膝に置いて。


***


道場で、稽古をつける側の座り方だった。


***


「兄弟子として、申し上げます」


***


赤城さんが、止まった。


忘年会の夜と、同じだった。同じ言葉だった。

あの夜は、そのあとに、飲みなさい、と続いた。


***


今日は。


「……私を、使いなさい」


***


会議室が、静かだった。


国務大臣は、三十七歳の顔をした。

九十三歳の兄弟子を見ていた。


***


長い間だった。


***


赤城さんの口元が動いた。

何か言おうとして、やめた。


***


それから。


「……はい」


忘年会の夜と、うちのすき焼きの夜と、同じ、はい、だった。


***


共さんは、頭を下げた。四十五度。きっちり、三秒。


***


「……恐れ入ります」


***


俺の隣で、メレオスが、椅子から降りた。


***


とことこ歩いて、部屋の隅の小さな机の前に立った。


***


共さんを見上げた。


「……久我の」

「はい。神様」

「わしも」


メレオスは言った。


***


「うつむいとった」


共さんは、メレオスを見下ろした。


***


「窪みの、底でな。……五十年。膝を、抱えて。目を、つぶって」

「開けても、真っ暗じゃったが。……つぶっとった」

「同じ、相手に、じゃ」


***


共さんは、何も言わなかった。


***


椅子から降りた。床に膝をついた。

メレオスと同じ高さになった。


***


「……神様」

「何じゃ」

「今度は」


共さんは言った。


***


「顔を、上げて、参ります」


メレオスは、ふん、と鼻を鳴らした。


***


「……当たり前じゃ」


***


それから、机の上の封筒を見た。


***


「……曲がっとらんのぉ。一枚も」

「恐れ入ります」

「わしのは、曲がる」

「……存じて、おります」


***


加藤さんが、手帳に何か書いた。


***


「共さん、本日、十二件。……途中で、手が、止まりましたので」

「申し訳、ありません」

「いえ。……百二十円です」


***


加藤さんは、少しだけ、手帳を見ていた。


***


「……二月の、三日の、ぶんは。先に、お支払い、しておきますね」

「まだ、貼って、おりませんが」

「帰ってきてから、貼って、ください」


***


にこにこしていた。目だけが、少し赤かった。


***


十二時半。


由紀の昼休みだった。


***


廊下で、電話した。


全部、言った。

奥の正座のこと。違う座り方のこと。共さんが言ったこと。


***


戸のこと。


***


『……山で』


由紀は言った。


『共さんの、戸を。あたしが、閉めるの』


「……縁側からじゃ、届かないかも、しれない。その場で、閉めないと」

「嫌なら」


『嫌じゃない』


***


即答だった。


『戸なら、あたしが、閉める。……あたしの、戸だもん』


***


少し、間があった。


『共さん、ね』

『冬至の、あと。病院で。……あたしに、頭、下げたの。守って、くださって、って』


***


『五十年、守って、もらえなかった、人なのに』

『今度は、自分が、行くって、言ったんでしょ』


「……言った」


『じゃあ、あたしも、行く』


***


電話の向こうで、店のチャイムが鳴っていた。


***


『でも、その前に』


「……うん」


『お母さんに、言う。……先に』


「……俺から、言おうか」


『だめ』


由紀は言った。


***


『自分の、危ないことは。自分で、言うの。……そういう、決まりでしょ』


***


そういう決まりだった。


電話が、切れた。


***


廊下の突き当たりに、会議室の扉があった。


***


扉のガラスの向こうに、共さんがいた。

机に戻って、封筒にシールを貼っていた。


***


背筋を伸ばして。


顔を、上げて。


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