幕間 福は、内
「予行演習を、します」
母が、言った。
***
一月二十八日。木曜日の、夜の七時。
実家の居間だった。
節分まで、あと六日あった。
***
こたつの上に、買い物袋が三つ並んでいた。
一つ目から、豆が出てきた。福豆の大袋が、三つ。
二つ目から、升が出てきた。木の升が、二つ。
***
三つ目から、お面が出てきた。
赤鬼。
青鬼。
それから、白くて丸くて、ほっぺたの赤い、にっこり笑った女の人の顔。
お多福だった。
***
「……母さん」
「何」
「節分、来週だよ」
「だから、予行演習、でしょう」
母は、当たり前みたいに言った。
***
「うちは、今年、鬼が、多いんだから。……当日、ばたばた、しないように」
「鬼、多いの?」
「二人」
母は、赤鬼と青鬼を並べた。
***
「去年までは、いなかったのよ。鬼。……お父さんと、二人で、庭に、豆、まくだけで」
「今年は、いるでしょう。人手が」
人手、と言った。
鬼の人手だった。
***
「で」
母は、俺とメレオスを順番に見た。
「誰が、やるの」
「わしは、やらん」
メレオスが言った。
上座の座布団の上で、腕を組んで。即答だった。
***
「わしは、神じゃ。……神に、豆を、投げるとは、何事じゃ」
「かみちゃんには、頼んでないわよ」
母は、三枚目のお面を取った。
白くて丸いほう。
「かみちゃんは、こっち」
***
メレオスは、お多福を見た。
お多福は、にっこりしていた。
「……何じゃ、これは」
「お多福さん。福の、神様よ」
「……女子では、ないか」
「福は、内、の、福よ。……かみちゃん、福の、ほうなんでしょう」
***
言った。九日前に。台所まで聞こえる声で。
わしは、福のほうじゃ、と。
***
メレオスは、お多福とにらみ合っていた。
「……福の、神は」
「うん」
「こんな、顔を、しとるのか。こっちでは」
「してるわよ。昔から」
「……ほっぺたが、赤いぞ」
「かわいいでしょう」
***
メレオスは、長いこと考えた。
それから、お多福を受け取った。
かぶった。
***
金色の髪と、金色のボタンのあいだに、白くて丸い女の人の顔があった。
にっこりしていた。
俺は、こたつに突っ伏した。
***
「……笑うな」
お多福が言った。メレオスの声で。
「笑って、ない」
「肩が、震えとる」
「首が、痛いんだ。……治りかけなんだよ」
「なら、青いのは、お主じゃな」
***
顔を上げた。
母が、青鬼を差し出していた。
にっこりしていた。お多福と同じくらい。
***
「……母さん。俺、首が」
「鬼は、首、使わないでしょう」
「使うよ。よけるとき」
「よけちゃ、だめよ。鬼なんだから」
よけちゃ、だめらしかった。
***
「……はい」
青鬼を受け取った。
実家では、俺は昔から、はい、しか言えなかった。
***
七時十五分。
玄関が、開いた。
「ただいまー」
由紀だった。
***
居間に入ってきて、止まった。
こたつに、青鬼とお多福が座っていた。
「……何、これ」
「予行演習」
青鬼が答えた。
***
由紀は、お多福を見た。
三秒、見た。
スマホを出した。
「撮るな!」
「撮る」
かしゃ。
「グループに、送るな!」
「送った」
***
ぴろん。
ぴろん。
ぴろん。
俺のスマホが鳴った。三回、続けて。
***
『ギーク』から。
『保存しました』
『レスラー』から。
力こぶのスタンプ。
課長から。
『うん、うん』
***
少し遅れて、もう一件。
『大変、福々しい、お顔で。 久我共』
共さんは、真面目にほめていた。
***
「……久我のは、分かっとる」
お多福が言った。
少しだけ、機嫌が直っていた。
***
由紀は、鞄から何か出した。
飴だった。三つ。
いちご。レモン。はっか。
それから、湿布が一箱。
***
「……店長から」
「飴は、分かる。湿布は、何だ」
「お兄ちゃん、首、両方、寝違えたって、言ったら」
由紀は、言った。
「店長、しばらく、黙って。……それ、寝違えじゃ、ないよ、って」
「……」
「お兄さん、会社で、何か、されてない? って」
***
されていた。手刀を。二回。
「何て、答えたんだ」
「……ちょっと、遠くで、頑張ってて、って」
十一月から、同じ答えだった。
***
「店長、泣きそうな、顔、してた。……労働基準監督署の、電話番号、くれた」
湿布の箱の裏に、付箋が貼ってあった。
電話番号が書いてあった。丸い、やさしい字で。
***
俺は、公安0課の人間だった。
労働基準監督署に、電話はできなかった。部署が存在しないので。
***
「飴、四回目だね」
由紀は、言った。
「次は、たぶん、弁護士、紹介される」
***
七時半。
「次は、豆です」
母が、言った。
こたつの上に、小皿が並んだ。人数ぶん。
***
「年の、数だけ、食べるのよ。……予行演習だから、今日は、数えるだけ」
「数える、だけなら、やらなくて、よくない?」
「数えるのが、大変な、人が、いるでしょう」
***
全員が、お多福を見た。
お多福は、にっこりしていた。
「……わしか」
「かみちゃん、おいくつ?」
母は、福豆の袋を開けながら聞いた。近所の子に聞くみたいに。
***
メレオスは、お多福のまま、腕を組んだ。
「……数えとらん」
「だいたいで、いいわよ」
「だいたい、で、言うとな」
「うん」
「千は、超えとる」
***
母の手が、止まった。
袋の中の豆を見た。
「……三袋で、足りるかしら」
「母さん! 数えようと、しないで!」
「だって、年の、数でしょう」
「千個、食ったら、腹、壊すだろ!」
***
「壊さん」
お多福が言った。
「神の、腹じゃ」
「機内食、四食、食った、腹だろ」
「……あれは、別腹じゃ」
「千個は、別腹に、入らない」
***
母は、もう数えはじめていた。
小皿に。一つ。二つ。三つ。
「母さん!」
「十ずつ、山に、すれば、すぐよ」
***
百の山ができる計算だった。
こたつが豆で埋まる計算だった。
***
「……母御」
お多福が言った。
少しだけ、声が小さくなっていた。千個の豆の山を想像したらしかった。
「見た目の、年で、よい」
「見た目?」
「七つじゃ」
「七つ」
***
母は、手を止めた。お多福を見た。
「……かみちゃん」
「何じゃ」
「この前、五十年、あの人の、背中に、いたって、言ったわよね」
「……言うた」
「七つの、子は、五十年、背中に、いられないでしょう」
「……」
「千か、七つか、どっちかに、してちょうだい」
***
母は、真顔だった。
千個、数える覚悟のある真顔だった。
***
お多福は、しばらく黙っていた。
にっこりしたまま。
「……あいだを、取って」
「あいだ?」
「五百じゃ」
「なんで、あいだを、取るんだよ!」
***
由紀が、こたつの向こうで、豆を数えながら言った。
「かみさま、うちに、来てから、何年?」
手が止まった。全員の。
***
「……うちに?」
「この家の、子に、なってから。……お母さんが、茶碗に、名前、書いてから」
母が、指を折った。
「十八日だから。……十日ね」
「じゃあ、ゼロ歳じゃん」
「ゼロは、かわいそうよ。……数えで、一つね」
***
母は、小皿に豆を一つ置いた。
お多福の前に。
一つ。
ぽつん、と。
***
「……一つ」
お多福が言った。
「千でも、五百でも、七つでも、なく」
「一つ」
「一つじゃと!」
***
お多福が、立ち上がった。座布団の上で。
「わしは、神じゃぞ! この家の、誰より、年を、食うとる! それが、一つ!」
「来年は、二つよ」
「来年も、数えるのか!」
「毎年、数えるのよ。うちの、子は」
***
お多福は、立ったまま止まった。
毎年。
うちの、子は。
にっこりしたお面の下で、どんな顔をしていたのかは、見えなかった。
***
メレオスは、座った。
小皿の一粒を見た。
「……一つで、よい」
小さな声だった。
***
それから、少しだけ間を置いて。
「健司は、いくつじゃ」
「二十九」
「……ほう」
***
お多福が、俺の小皿を見ていた。
にっこりしたまま。
「取るなよ」
「取らん」
「絶対、取るなよ」
「神を、疑うか」
疑っていた。全力で。
***
母は、自分の小皿に豆を置いていた。
一つ。
二つ。
二十で、止めた。
***
由紀が見た。俺も見た。
「……お母さん」
「何」
「二十?」
「二十よ」
「……お兄ちゃんが、二十九なんだけど」
「そうね」
「お母さん、お兄ちゃんより、年下に、なるんだけど」
「予行演習だから」
***
母は、言った。
「当日は、ちゃんと、数えるわよ。……たぶん」
たぶん、が、ついた。
課長の決定と同じだった。
***
八時五分前。
玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
母が、出た。
***
戻ってきたとき、お皿を持っていた。
ラップがかかっていた。
太巻きが並んでいた。五本。
一本だけ、細くて短かった。
***
「斉藤さんから。……恵方巻きの、練習で、巻いたんですって」
「練習」
「今年、初めて、自分で、巻くんですって。……試しに、食べてみて、って」
「隣も、予行演習、してるのか」
「してるのよ。みんな」
***
母は、細くて短い一本を取った。
「これは、かみちゃんに、って」
「……わしにか」
「屋根の、上の、かみちゃんに、って。……お口が、小さいでしょうから、って」
***
お多福は、細い太巻きを受け取った。
じっと、見た。
「……斉藤は、良い、女子じゃ」
「斉藤さん、六十、過ぎてるけどな」
「わしから、見れば、女子じゃ」
***
千は、超えとる、ほうの物言いだった。
さっき、一つになったばかりなのに。
***
「恵方巻きはね」
母が、言った。
「今年の、いい、方角を、向いて。……一本、丸ごと。黙って、食べるの」
「黙って」
「途中で、しゃべったら、福が、逃げるのよ」
***
由紀が、スマホを見た。
「今年の、恵方。……北北西」
「どっちだ」
「北の、ちょっと、左」
***
全員が、同じほうを向いた。
縁側だった。
北向きの縁側の、ちょっと左。
***
じいちゃんが、五十五年、手を合わせたほう。
冬至の夜。十四日の朝。由紀が、息を数えたほう。
***
「……うちは、毎年、だいたい、合ってるのよね。なぜか」
母が、言った。
なぜか、ではなかった。
でも、誰も言わなかった。
***
「じゃあ、練習。……いただきます」
四人で、北北西を向いた。
母と、由紀と。青鬼と、お多福。
お面は、頭の上にずらした。食べられないので。
***
太巻きを、くわえた。
黙って。
もぐ。
もぐ。
居間が、静かになった。
***
四人の人間と、一柱が、同じ方角を向いて、太巻きをくわえて、黙っていた。
***
変な絵だった。
言いたかった。変な絵だ、と。
言えなかった。福が逃げるので。
***
もぐ。
もぐ。
十秒、経った。
***
「うまい」
メレオスだった。
***
母が、太巻きをくわえたまま、メレオスを見た。
目で、言っていた。
しゃべったら、だめ、と。
***
「かんぴょうが、甘い。……斉藤は、腕が、ええ」
母の目が、細くなった。
「卵も、ええ。……母御の、卵焼きには、負けるがの」
母の目が、少しだけゆるんだ。
でも、まだ、だめ、と言っていた。
***
俺は、太巻きをくわえたまま、メレオスをにらんだ。
しゃべるな。
福が、逃げる。
***
「……健司。何を、にらんどる」
黙れ。
「目で、言うな。口で、言え」
言えないんだよ。
「……ああ」
***
メレオスは、やっと気づいた。太巻きを持ったまま。
「しゃべると、福が、逃げるのじゃったな」
そうだ。
「逃げん」
***
メレオスは、言った。
頭の上のお多福を、指で、とん、と叩いた。
「福は、わしじゃ」
***
由紀が、噴いた。
太巻きのご飯粒が、北北西に飛んだ。
「……っ、ごほっ」
「由紀!」
***
母が、しゃべった。
しゃべってから、口を押さえた。
「……あ」
***
俺だけが、最後まで黙って食べた。
一本、丸ごと。北北西を向いて。
食べ終わって、言った。
「……俺だけ、福が、来るな」
「来とる」
***
メレオスが、言った。
「とうに、来とるじゃろうが。……伊左衛門が、死んだ、日からな」
何も、言い返せなかった。
***
八時十分。
「……ただいま」
父が、帰ってきた。
***
居間の戸口に、立った。
背広のまま。鞄を提げたまま。
こたつの上を見た。
***
豆の小皿。太巻きの皿。木の升。
それから、俺の頭の青鬼。メレオスの頭のお多福。
こたつの端に残った、赤鬼。
***
父は、何も聞かなかった。
鞄を置いた。上着を脱いだ。ネクタイをゆるめた。
こたつに、入った。
赤鬼を、取った。
かぶった。
眼鏡の、上から。
それから、新聞を広げた。
***
居間が、静かになった。
***
證券会社の部長が、ネクタイをゆるめて、赤鬼の顔で、夕刊を読んでいた。
経済面、だった。
角が二本、新聞の上から出ていた。
誰も、何も言えなかった。
***
母が、普通にお茶を置いた。赤鬼の前に。
「おかえりなさい」
「……ああ」
***
赤鬼が、お茶を飲もうとした。
飲めなかった。口の穴が、小さかった。
赤鬼は、お面を少しだけ持ち上げて、下からお茶をすすった。
ずず、と、鳴った。
由紀が、こたつ布団に顔をうずめた。
***
「……総一郎」
メレオスが、言った。
「お主。……鬼か」
赤鬼は、新聞から顔を上げなかった。
「……鬼だ」
「なぜ、鬼じゃ」
「……そこに、あったからだ」
山が、あるから、登る人の言い方だった。
***
「父さん」
俺は、言った。
「それ、俺の、ぶんと、父さんの、ぶんで。……鬼、二人、らしいよ」
***
赤鬼が、こっちを見た。
青鬼を、見た。
「……健司も、か」
「……俺も」
***
赤鬼は、少しだけ頷いた。
角が、揺れた。
「……そうか」
仲間を見つけた鬼の頷き方だった。
***
八時半。
庭。
***
寒かった。
一月の夜の庭だった。
柚子の木の前に、鬼が二人、立っていた。
赤と、青。背広と、ジャージ。
***
縁側に、母と由紀が立っていた。
升を持って、豆を山盛りにして。
「いい? 予行演習だから。……軽くよ。軽く」
母が、言った。
由紀は、もう振りかぶっていた。
***
「由紀。軽く、って」
「鬼は、外!」
軽く、なかった。
***
豆が、飛んできた。まっすぐ。顔に。
ばちばちばち。
「痛っ! お前、本気だろ!」
「鬼は、外!」
二投目が、来た。
よけた。
***
「よけちゃ、だめ!」
母だった。
「鬼は、よけないの!」
「痛いんだよ!」
「お父さんは、よけてないわよ」
***
隣を、見た。
赤鬼が、立っていた。
まっすぐ、両手を体の横に下ろして、一歩も動かずに。
***
豆が、当たっていた。
背広に。お面に。ばち、ばち、と。
よけなかった。
三十年、満員電車に乗ってきた人の立ち方だった。
***
「……父さん」
「何だ」
「痛くないの」
「……痛い」
痛い、らしかった。
***
「鬼は、外!」
母のぶんが、来た。
軽かった。
ぱらぱら、と、足元に落ちた。本当に、軽くだった。
「福は、内!」
母は、居間のほうにもまいた。
***
「……母御」
声がした。玄関のほうから。
「母御!」
見た。
***
玄関の戸の前に、お多福が立っていた。
外に。一人で。寒そうに。
***
「……お前、何、してんだ」
「福じゃ」
お多福は、言った。
「福は、内、と、言われてから、入るのじゃろうが。……じゃから、外で、待っとる」
***
律儀だった。変なところで。
「言われたぞ。今」
「あれは、居間に、向かって、言うた。……わしに、向かって、言うとらん」
「面倒くさい、福だな!」
「福とは、そういうものじゃ! 呼ばれんと、入れん!」
***
呼ばれたら、出る。
呼ばれんかったら、出ん。
蔵の前でも、同じことを言っていた。
***
母が、升を持ったまま、縁側から玄関のほうへ歩いていった。
戸を開けた。内側から。
お多福の前に、立った。
***
豆を、ひとつかみ。
お多福の足元ではなく、自分の後ろの、玄関の中にまいた。
「福は、内」
***
お多福は、母を見上げていた。
「……もう一回」
「福は、内」
「……もう一回じゃ」
「福は、内。……早く、入りなさい。風邪、引くわよ」
***
お多福は、とことこ入った。
玄関の敷居をまたぐとき、一回だけ、ぴょん、と跳ねた。
「入ったぞ! 福が、入った!」
居間まで走っていく音がした。
***
庭で、俺と父は、それを聞いていた。
鬼の、まま。
***
「……健ちゃん」
母が、縁側に戻ってきた。
「最後、健ちゃんも、まいてごらんなさい。……当日、できないんだから」
「鬼が、まくの?」
「予行演習だから」
何でも、それで通る日だった。
***
升を受け取った。豆をつかんだ。
父に向かって投げるのは、気が引けた。
「……父さん、ごめん」
「……来い」
赤鬼が、言った。
***
投げた。
軽く。ぱらぱら、と。
「届いてないわよ」
母が、言った。
「もっと、ちゃんと。……ほら、あの、風の」
「母さん。豆まきに、魔法は」
「乾かなかった、洗濯物は、乾いたでしょう」
***
理屈になっていなかった。
でも、逆らえなかった。
「……はい」
***
豆を、手のひらにのせた。
風を、少しだけ。
そよ風くらいの。豆が、ふわっと飛ぶくらいの。
首が、まだ少し痛かった。
手元が、狂った。
***
ごう。
升の豆が、全部、一斉に、飛んだ。
ばばばばばばばばばば。
豆の機関銃だった。
***
赤鬼が、豆の嵐の中に立っていた。
背広が鳴っていた。お面が鳴っていた。
角が、一本、曲がった。
よけなかった。
一歩も。
***
豆が、やんだ。
庭が、静かになった。
赤鬼の足元に、豆が積もっていた。雪みたいに。
***
「……父さん」
「……」
「……大丈夫?」
赤鬼は、ゆっくり、こっちを向いた。
角が、一本、曲がっていた。
「……痛い」
「ごめん!」
***
「便利ね」
母が、言った。
「一回で、庭じゅう、まけるじゃない」
「母さん! 父さんが!」
***
そのとき、隣の家の二階の窓が開いた。
斉藤さんだった。
窓から、うちの庭を見下ろしていた。
***
豆の積もった庭。角の曲がった赤鬼。升を持った青鬼。
居間の窓の内側で、ぴょんぴょん跳ねているお多福。
「福が、入ったぞ! 斉藤! 見たか! わしが、福じゃ!」
***
斉藤さんは、しばらく黙っていた。
それから、にっこりした。
「……にぎやかねえ、小沢さんち。今年は」
「すみません、斉藤さん。予行演習なんです」
母が、言った。
「あら。うちも、やろうかしら。……かみちゃん、太巻き、どうだった?」
「うまかったぞ! かんぴょうが、甘い!」
「あら、よかった。……じゃあ、本番は、もう一本、細いの、巻くわね」
***
斉藤さんは、窓を閉めた。
赤鬼と青鬼については、何も言わなかった。
去年まで、鬼のいなかった家に、鬼が二人いることに。何も。
***
九時。
庭の豆を拾った。父と、二人で。
お面は、もう外していた。
***
父の顔に、お面のあとがついていた。
額に、まっすぐ、赤い線。
角は、一本、曲がったままだった。
***
「……ごめん。当日までに、直す」
「いい」
父は、言った。豆を拾いながら。
「曲がってる、ほうが、鬼らしい」
***
しばらく、二人で黙って拾った。
柚子の木の根元にも、豆が飛んでいた。
***
「……子供の、ころな」
父が、言った。
「節分に、鬼が、いる、家が。うらやましかった」
俺は、手を止めた。
***
「友だちの、家は。親父が、面を、かぶって。……追いかけ回されて。逃げ回って」
「うちは、いなかった。……親父は、稽古だ、と言って、出ていった」
「お袋と、二人で。……誰も、いない、庭に。豆を、まいた」
***
稽古では、なかった。
隠り山だった。五十五年。節分の夜。
***
「……鬼の、いない、豆まきは」
父は、言った。
「何に、向かって、まいているのか。……分からなかった」
***
柚子の木の根元の豆を、一粒、拾った。
「今日は、分かった」
「……父さんが、鬼だったけど」
「それで、いい」
父は、言った。
「鬼が、うちの、者なら。……追い出しても、また、帰ってくる」
***
少しだけ、笑った。
額に、赤い線をつけたまま。
***
居間の窓の中で、メレオスがこたつに入っていた。
お多福を頭の上にのせて、小皿の前に座って。
一粒の豆を、じっと見ていた。
食べなかった。
当日まで取っておくつもりらしかった。
***
その隣の、俺の小皿は、空だった。
二十九粒。一粒も残っていなかった。
***
「……あいつ」
父が、窓の中を見た。
「……変わらんな。五十年」
「取ってたの? じいちゃんの、ぶんも」
「親父は、節分に、いなかった。……次の、朝。親父の、小皿だけ、いつも、空だった」
「お袋は、ねずみだ、と、言っていた」
***
ねずみでは、なかった。
金色のボタンの、ねずみだった。
***
片づけが終わって、居間に戻ると。
由紀が、台所の入口に立っていた。
母の背中を見ていた。
母は、洗い物をしていた。升を洗っていた。
***
由紀は、息を吸った。
四つ、ぶん。
「……お母さん」
「何」
「あとで。……話、ある」
***
母の手が、止まらなかった。
升を、洗い続けていた。
「知ってるわよ」
母は、言った。
「だから、今日、やったの」
***
由紀が、少しだけ口を開けた。
「三日は。……健ちゃんも、由紀も、かみちゃんも。いないんでしょう」
母は、升をすすいだ。
「本番は、帰ってきてから、やるわよ。ちゃんと」
「でも、その前に」
水を、止めた。
「一回。……全員で、笑って、おきたかったの」
***
予行演習、ではなかった。
***
母は、手を拭いた。振り返った。
「お茶、淹れるわね。……それから、聞くわ」
由紀は、頷いた。
***
こたつで、メレオスが一粒の豆を見ていた。
頭の上で、お多福がにっこりしていた。
***
福は、内にいた。




