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第八十七章 真ん中の、席

何から話せばいいのか、分からなかった。


***


十二日、ずっと考えていた。飛行機の中では、気絶していたけど。それ以外は、ずっと。


***


0課のこと。魔法のこと。メレオスのこと。由紀のこと。ノルウェーのこと。


***


どれから言っても、母は、たぶん、「は?」と言う。


***


口から出てきたのは、どれでもなかった。


「……じいちゃんが、死んだ日に」


***


母の手が、菜箸を置いたまま止まった。


父が、コップから顔を上げた。


***


「葬式の、帰りに。……アパートに、帰ったら」


「リビングに、子供が、いた」


***


「変な服、着てて。金色の、ボタンが、ついてて。……神様です、って、名乗った」


***


言ってから、思った。やっぱり、どこから言っても、同じだった。


***


母は、「は?」と、言わなかった。


何も言わなかった。俺を、見ていた。


***


父も、何も言わなかった。父は、俺じゃなく、上座の空いた座布団を見ていた。


***


「……それで」


母が言った。


「それで、どうなったの」


***


続きを、促されていた。信じたのか、信じていないのか、分からない声だった。


***


「……仕事、変わったの。言ったよね」


「公務員に、なったって」


「公務員、だけど。……警察の、中の」


***


「公安、0課、っていう、ところ」


「普通の、事件じゃない、ほうの」


***


母は、少しだけ首を傾げた。


「……普通じゃない、ほうって」


「普通じゃない、ほう」


***


説明になっていなかった。分かっていた。


***


「……危ない、仕事なの?」


母が聞いた。


嘘をつこうか、と、一秒、思った。


***


由紀が、座卓の下で、俺の膝を見ていた。叩きはしなかった。


***


「……危ない、仕事、だった」


母の顔が、少しだけ白くなった。


***


赤城さんが、座布団から降りた。


畳の上に、正座し直して、両手をついた。額が、畳につくくらい。


***


「……ご子息を。危ない、場所に、呼んだのは。私です」


***


居間が、静かになった。


鍋の中で、肉が煮えていた。


***


「伊左衛門先生の、お孫さん、だから。……先生の、技を、継いでいる、方だから。……頼りました。お二人に、何も、申し上げずに」


***


「申し訳、ありませんでした」


国務大臣が、うちの居間で、母に向かって、頭を下げていた。


***


テレビで見る顔が、畳についていた。


***


母は、しばらく、赤城さんの後頭部を見ていた。


***


「……頭を、上げてください」


赤城さんは、上げなかった。


「赤城さん」


***


二回目だった。『レディー』の、「見なさい」と、同じ二回目だった。


赤城さんは、頭を上げた。


***


「赤城さんが、謝ることかどうかは」


母は言った。


「健司に、聞きます」


***


母は、俺を見た。


「健ちゃん。……嫌々、やってたの?」


***


考えた。


最初は、そうだった。拉致されて。有無を言わさず。異動させられて。


***


でも。


***


倉庫の夜。隠り山の冬至。白鳥と、滑り台と、子供たちの笑い声。番小屋の戸。


***


「……最初は」


「今は」


少しだけ、間を置いた。


「……今は、自分で、やってる」


***


母は、何も言わなかった。


それから、赤城さんに言った。


「……だ、そうです」


***


赤城さんは、もう一度、頭を下げた。今度は、浅く。


座布団に、戻った。


***


父は、最後まで、何も言わなかった。コップの泡が、全部、消えていた。


***


「それで」


母が言った。


「その、普通じゃない、お仕事で。……健ちゃんは、何を、するの」


***


来た、と思った。


「……魔法が、使えるんだ」


言った瞬間に、自分で、笑いそうになった。


***


三十近い男が、すき焼きを前にして、母親に、魔法が、使えるんだ、と。


***


「……は?」


母が言った。


やっと、言った。


***


言葉は、あきらめた。


***


鍋の下のカセットコンロが、いつの間にか消えていた。煮えすぎていたのを、母が止めたらしかった。


***


俺は、右手の人差し指を立てた。


その先に、火が灯った。


***


小さな火だった。蝋燭の炎くらいの。指先で、ゆらゆら、揺れていた。


***


番小屋で、メレオスが灯した火と、同じ大きさだった。


***


じいちゃんが死んだ年に、アパートのリビングで、一番最初に教わった火。


***


火種と、焚き火は、別物じゃ。小さく、する、練習を、せい。


***


指を、コンロの火口に近づけた。


***


ぽ。


コンロに、青い火がついた。


俺は、指先の火を握って、消した。


***


居間が、静かだった。


母は、コンロの青い火を見ていた。


長いこと、見ていた。


***


それから。


「……便利ね」


***


由紀が、吹き出した。


両手で口を押さえて、座卓に突っ伏して、肩が震えていた。


***


「……便利、って」


「便利でしょう。マッチ、いらないじゃない」


***


母は、真顔だった。


真顔で言いながら、手が、少しだけ震えていた。


***


赤城さんが、小さく咳払いをした。たぶん、笑いをこらえていた。


***


父だけが、笑わなかった。


父は、火を見ていなかった。


俺の手を、見ていた。


***


火が消えたあとの、握った右手を。じっと。


***


「……教えて、もらったんだ」


俺は言った。


「火も。風も。氷も。……全部。教えてくれた、やつが、いる」


***


母が、俺を見た。


「……さっきの、神様?」


「……うん」


***


俺は、立ち上がった。


縁側のほうへ行った。障子を開けた。ガラス戸を開けた。


冷たい風が、入ってきた。


***


庭は、暗かった。柚子の木の影があった。その奥に、蔵の白い壁が、ぼんやり見えていた。


***


呼ばれたら、出る。呼ばれんかったら、出ん。お主が、決めい。


***


決めていた。門の前で、十分、立っていたときから。たぶん、もっと前から。


***


「……メレオス」


小さな声だった。蔵まで届くとは、思えなかった。


***


届いた。


***


蔵の戸が、音もなく、開いた。


それから、閉まった。


***


何も出てこなかった。見えなかった。俺以外の、誰にも。


俺の横を、何かが通った。


肉の匂いのほうへ。


***


俺は、ガラス戸を閉めた。障子を閉めた。

戸を、開けたら、閉めろ。じいちゃんが、うるさかった。


***


振り返った。


***


上座の、空いていた座布団の上に、変な服の子供が、正座していた。


***


金色のボタン。金色の髪。背筋を伸ばして、両手を膝に置いて。


***


じいちゃんの席に。


見えていた。全員に。


***


母が、息をのんだ。


由紀は、笑うのをやめていた。


赤城さんは、メレオスを見て、それから、父を見た。


***


メレオスは、母に向かって、頭を下げた。


***


神様のくせに、きっちり四十五度だった。たぶん、共さんの真似だった。


「……お邪魔、しとる」


***


母は、メレオスを見ていた。


金色のボタンを。金色の髪を。小さな手を。


***


それから。


「……おそばの、子ね」


メレオスの背筋が、ぴくりとした。


***


「大晦日の。お父さんの、おそば。……それから、黒豆の」


メレオスは、少しだけ黙った。


***


「……うまかった」


「そう」


母は言った。


「よかった」


***


それだけだった。


***


それだけ言って、母は、父を見た。


父は、メレオスを見ていた。


驚いていなかった。


***


父の顔は、驚いている顔ではなかった。もっと、ずっと昔の、何かを思い出している顔だった。


***


長い間があった。


鍋の中で、割り下が、ことことと鳴っていた。


***


「……大きく」


父が言った。かすれた声だった。


「大きく、ならんのだな」


***


居間の空気が、止まった。


俺も。由紀も。母も。赤城さんも。


***


父を、見ていた。


父は、メレオスだけを見ていた。


***


「……四つか、五つの、ころだ」


父は言った。


ゆっくり。一つずつ。新聞の見出しを読むみたいに。


***


「冬至の、朝だった。……縁側で、親父が、手を、合わせてた。北を、向いて」


***


「その、背中に。……子供が、いた」


「金色の、ボタンの。……変な服の」


由紀が、両手で口を押さえた。


***


「親父に、言った。……お父さんの、背中に、子供が、いる、って」


***


「親父は、振り向かなかった。……手を、合わせたまま、言った」


父は、少しだけ黙った。


***


「……見えんことに、しとけ」


じいちゃんの声だった。父の喉から出ていたけど、じいちゃんの言い方だった。


***


「だから、見えないことに、した」


***


「次の年の、冬至も。その次の、年も。……縁側の、親父の、背中に、いた。毎年。見えないことに、した」


***


「いつからか、本当に、見えなくなった。……大人に、なったからだろう」


***


「それでも。……いるのは、分かってた」


父は、コップを持った。泡の消えたビールを、一口、飲んだ。


***


「……五十年、な」


***


母が、父の横顔を見ていた。


「……あなた」


「言わなかったのは。……悪かった」


***


父は言った。母のほうは、見ずに。


***


「親父が、見えんことに、しとけ、と言った。……それを、守るのが。俺の、役目だと、思ってた」


***


「道場に、入らなかったのも」


父は、俺を見た。


***


「親父に、止められたわけじゃない。……自分で、決めた」


***


「……なんで」


俺は聞いた。


父は、少しだけ笑った。


めったに笑わない人だった。


***


「親父の、背中は。……もう、埋まってたからな」


メレオスを見て、言った。


***


メレオスは、上座の座布団の上で、両手を膝に置いたまま、父を見ていた。


***


「……知っとった」


メレオスが言った。


***


「見えとるのは、知っとった。……縁側の、廊下の、柱の、陰から。毎年。小さいのが、こっちを、見とった」


***


「伊左衛門が、見えんことに、しとけ、と、言うたのも。……聞いとった」


***


「わしも、見えとらん、ふりを、した」


***


メレオスは、少しだけ黙った。


「……お互い、下手な、ふりじゃったのぉ」


父は、何も言わなかった。


***


メレオスは、父を、上から下まで見た。


證券会社の部長の。白髪のまじった。ネクタイをゆるめた。


***


「……でかく、なったのぉ」


メレオスは言った。


***


「総一郎」


***


父の目が、少しだけ赤くなった。


***


なったように、見えた。父は、すぐにコップを持ち上げた。顔の前に。


ビールは、もう、空だった。


***


赤城さんが、父と、上座を、交互に見ていた。


息子と、先生の背中にいたもの。


***


赤城さんは、何も言わなかった。


ただ、黙って、父のほうに、頭を下げた。


***


母が、空のコップを顔の前に持った父を見ていた。


「……浮かべすぎるな、って」


母は言った。


***


「冬至に、言ってたわよね。あなた。由紀に。……柚子の、こと」


***


父は、コップを下ろした。


「……あの朝」


父は言った。


***


「親父の、柚子湯に。……こいつが、浮いてたんだ」


***


全員が、メレオスを見た。


メレオスは、背筋を伸ばしたまま。


***


「浮いとらん」


「浮いてた」


「……泳いどった」


***


由紀が、また、座卓に突っ伏した。


母も、口元を押さえていた。


***


赤城さんの咳払いが、さっきより長かった。


俺は、笑いながら、少しだけ、泣きそうだった。


***


冬至の朝。三日前の朝。父は、由紀に、浮かべすぎるな、と言っていた。


***


俺は、ずっと、柚子のことだと思っていた。


***


「……健ちゃん」


母が言った。


「由紀は」


***


笑いが、止まった。


由紀が、顔を上げた。


母は、由紀を見ていた。


「由紀も、何か、してたのね」


***


聞いていなかった。知っている声だった。


***


冬至の朝の座布団。三日前の朝の座布団。有休。福袋の優待券。由紀の、真ん中に誰も座らない縁側。


***


「……うん」


由紀は言った。


背筋を伸ばして、膝の上に両手を置いて。縁側の座り方だった。


***


「あたし、戸が、閉められるの」


母は、黙っていた。


由紀は、話した。


***


小さいころ、縁側で、おじいちゃんと、お兄ちゃんがやっていた朝の呼吸に、自分も混ざっていたこと。


***


柔軟体操だと思っていたこと。いつも、途中で寝て、おじいちゃんに抱っこで布団に戻されていたこと。


***


「それ、お母さんが、言ったやつ」


「……言ったわね」


***


それが、残っていたこと。魔法は使えないけど、戸だけは閉められること。


***


冬至の夜。縁側で、北を向いて。山の兄と、息を合わせたこと。


***


一月九日の、夜中。自分の戸に、誰かが触ったこと。閉め直したこと。


***


三日前の朝。縁側で、八千キロ向こうの兄と、息を合わせて、戸を閉めたこと。


***


「……温泉の、福引も」


由紀は言った。


***


「あれ、本当は、当たってないの。……冬至の、夜。お父さんと、お母さんを、家から、出すために」


***


父が、小さく、「……そうか」と言った。金色の玉のことを、思い出したのかもしれなかった。


***


由紀は、全部、話した。


声は、震えていなかった。一回も。


***


兄に、電話で話したときと、同じだった。


母は、最後まで、黙って聞いていた。


***


由紀が、話し終わった。


母は、しばらく、何も言わなかった。


***


それから。


「……あんたまで」


母の声が、崩れた。


初めて、だった。


***


俺の魔法でも。国務大臣の土下座でも。上座の神様でも。父の五十年でも。


***


崩れなかった、母の声が。


「あんたまで。……そんな、ことを、してたの」


***


由紀は、母を見ていた。背筋を伸ばしたまま。


***


「……あたしが、決めたの」


由紀は言った。


「おじいちゃんの、縁側で」


***


母は、返事をしなかった。


できなかった、のだと、思う。


母の手が、座卓の上を、由紀のほうへ伸びた。


***


由紀の手を、握った。強く。


由紀は、握り返した。


それから、少しだけ、泣いた。


***


三日前の朝も。九日の夜中も。兄の電話でも。一回も震えなかった声が。


母の手の中で、やっと。


***


居間が、静かだった。


鍋が、ことことと鳴っていた。


***


赤城さんは、目を閉じていた。父は、由紀の頭のあたりを見ていた。メレオスは、上座で、膝の上の手を握っていた。


***


どれくらい、そうしていたか、分からない。


***


母が、由紀の手を離した。


目を、一回だけ拭った。エプロンの端で。


***


それから、鍋を見た。


「……お肉が、煮えすぎてる」


***


母は、菜箸を取った。


煮えすぎて、茶色く縮んだ肉を、全部引き上げて、取り皿に山盛りにした。


***


それから、新しい肉を一枚、鍋に広げた。


じゅう、と、鳴った。


***


「健ちゃん。由紀」


「……はい」


「……はい」


***


母は、新しい肉に割り下を回しかけながら、言った。


「今日から、うちの、決まりを、一つ、作ります」


***


母は、菜箸を置いた。


「危ないことは」


俺と、由紀を、見た。


***


「……後で、じゃなくて。先に、言いなさい」


***


由紀が、少しだけ、目を見開いた。


「……おじいちゃんは」


由紀は言った。


***


「後で、言う人だった。……大事なことほど。後で、って、思ってるうちに。言わないまま、書いて、閉じちゃう人だった」


***


共さんの言葉だった。由紀は、もう、自分の言葉みたいに言っていた。


***


「だから、よ」


母は言った。


「だから、うちは。……先に、言うの」


***


父は、何も言わなかった。


五十年、言わなかった人だった。


でも、小さく、頷いた。


***


「赤城さんも、ですよ」


母が言った。


赤城さんは、背筋を伸ばした。


「……はい」


***


忘年会で、共さんに、飲みなさい、と言われたときと。三日前に、母に、全員で、と言われたときと。同じ声だった。


***


母は、上座を見た。


「神様も、ですよ」


***


メレオスは、目を丸くした。


「……わしもか」


「うちの、席に、座ってるんだから」


***


メレオスは、少しだけ黙った。


じいちゃんの席を。自分の座っている座布団を。見下ろした。


***


「……はい」


神様が、はい、と言った。


俺は、こいつとずっといて、はい、を聞いたのは、初めてだった。


***


母は、自分のコップを取った。


「……じゃあ」


母は言った。


「乾杯」


***


父が、赤城さんを見た。


赤城さんは、コップを持ったまま、少しだけ考えて、上座を見た。


***


それから、床の間のほうを。じいちゃんの遺影は、仏間にあったけど。


***


「……伊左衛門先生に」


父が、頷いた。


「親父に」


***


父が、メレオスの前に、空のコップを一つ置いた。ビールを、注いだ。


***


「……飲めるのか」


「飲める」


「飲ませるな!」


俺は言った。


***


慰安旅行で。忘年会で。こいつが、酔って、何をしたか。


***


母が、俺を見た。


「健ちゃん。……今日は、いいじゃない」


「……よくない」


「いいの」


***


よくなかった。でも、言えなかった。実家では、俺は、昔から、はい、しか言えなかった。


***


六つのコップが、座卓の真ん中で、鳴った。


***


かちん。


***


母が、メレオスの取り皿に、肉を取り分けた。


新しいほうの、一番いいところを。


「神様は、生卵は?」


***


メレオスは、取り皿を見た。それから、母を見た。


***


少しだけ、黙って。


「……要る」


***


母は、生卵を一つ割った。メレオスの小鉢に。菜箸で、ほぐした。


***


肉を、くぐらせた。


メレオスが、食べた。もぐもぐ、と、音がした。


***


見えていた。全員に。もう、浮いて見えなかった。


***


肉が、宙を飛ばなかった。ただ、金色のボタンの子供が、すき焼きを食べていた。


***


「……うまい」


メレオスは言った。


***


「母御の、肉は。……うまいのぉ」


「お肉屋さんの、お肉よ」


「母御が、焼いた、肉じゃ」


***


母は、少しだけ黙った。


それから、もう一枚、取り分けた。


***


九時。


***


赤城さんが、紙袋を開けた。


最中、だった。


***


商店街の外れの、古い和菓子屋の。じいちゃんが、道場の帰りに、よく買ってきた最中だった。


***


「……羊羹では、ないので」


赤城さんは、また、言った。


***


赤城さんと、父が、最中を一つずつ持って、仏間に行った。


***


仏壇の前に、三日前の羊羹が、まだあった。切られないまま。


その隣に、最中を二つ、置いた。


***


二人で、並んで、手を合わせた。


息子と、弟子が。


長かった。


***


俺は、居間を抜けて、縁側に出た。


ガラス戸を、少しだけ開けた。


***


冷たい風が、入ってきた。モルクヴィークの風より、ずっと、やわらかかった。


***


庭に、柚子の木があった。


実のない木だった。冬至に、由紀が全部摘んだ。


来年の冬至には、また、なる。


***


全部、言った。


そう言われたら、たぶん、そうだった。


でも。


全部、ではなかった。


***


共さんの、五十年。じいちゃんの道場の人が、五十年、何に住まわれていたか。


***


鷲尾という人の中にいるものが、まだ、遊ぼうね、と言っていること。


***


番小屋の戸の向こうに、あの二人の匂いがしなかったこと。


***


言わなかった。


***


先に、言いなさい。母は、そう言った。


危ないことは、先に。


だから、いつか、言う。


***


後で、じゃなく。でも、今夜じゃ、なく。


***


居間から、笑い声がした。


由紀の声だった。それから、母の。


それから、メレオスの。


***


「……健司! 母御が、卵を、もう一つ、くれたぞ!」


「二つ目は、だめだって、言っただろ!」


***


言ってなかった。でも、言った。


***


ガラス戸を、閉めた。ちゃんと。


戸を、開けたら、閉めろ。


じいちゃんの声がした、気がした。


***


今夜は、ここまでで、いい。


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