第八十六章 すき焼き、前夜
実家の門の前で、俺は十分、立っていた。
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一月十七日の、夕方の、四時半。
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日は、まだあった。西の空が、橙色だった。
きのう、プロペラ機の窓から見たのと、同じ色だった。
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日本は、ちゃんと昼があった。当たり前のことだった。当たり前のことに、少しだけ感動した。
それから、門を見た。
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三日前の朝。ここに、鷲尾が立っていた。赤城さんが、三回、道のほうを向かせた。
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由紀から、全部聞いていた。空港から、ここまでの電車の中で。
福袋のことも。こたつが浮いたことも。宅配便です、のことも。
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笑った。電車の中で、声を出して。首が、痛かった。
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「……入らんのか」
肩の上で、メレオスが言った。
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「入る」
「十分、前から、そう言うとる」
「……入るって」
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門の内側の庭に、柚子の木があった。
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冬至に、実を全部摘まれた木だった。葉っぱだけが、夕日で光っていた。
その根元に、少しだけ、土が盛り上がっていた。
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十二月に、俺が小さな檻を立てたところだった。由紀と、息を合わせて。一人で、五分。二人で、十分。
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あれから、一か月しか経っていなかった。
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「……健司」
「何だよ」
「わしは、隠れとる」
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メレオスは言った。肩から降りて、庭の奥を見た。
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蔵、だった。
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十二月に、由紀に、知らずに閉じこめられた蔵だった。五十年前を、ちいとばかし思い出した蔵だった。
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「あそこで、か」
「あそこが、一番、落ち着く」
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「閉じこめられたくせに」
「だから、じゃ。……一回、閉じこめられた、場所はな。もう、怖うない」
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メレオスは、蔵のほうへ歩いていった。変な服の背中が、夕日の中で、小さかった。
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「呼ばれたら、出る」
振り返らずに、言った。
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「呼ばれんかったら、出ん。……お主が、決めい」
蔵の戸が、少しだけ開いて、閉まった。
音は、しなかった。
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玄関を、開けた。
「……ただいま」
「健ちゃん!」
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母が、台所から飛んできた。エプロンをしたまま。菜箸を持ったまま。
俺の顔を見た。それから、俺の首を見た。
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両手で、首の両側を押さえていた。空港から、ずっと。
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「……どうしたの、それ」
「寝違えた。……両方」
母は、少しだけ黙った。
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「両方、寝違える人、初めて、見たわ」
「俺も、初めて、なった」
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母は、菜箸を持ったまま、俺の頬を両手ではさんだ。
菜箸が、耳に当たった。
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「……痩せた」
「三日で、痩せないよ」
「十二日よ。……十二日、向こうに、いたでしょう」
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数えていた。当たり前みたいに。
「……おかえり」
「……ただいま」
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母は、頬から手を離した。それから、いつもの顔に戻った。
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「手、洗って。うがいして。……それから、台所、手伝って」
「……はい」
「それから」
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母は、台所に戻りかけて、振り返った。
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「逃げたら、だめよ」
にっこり、していた。
逃げられなかった。
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台所は、白菜の匂いがした。
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由紀が、先にいた。ネギを、斜めに切っていた。空港から一緒に帰ってきたはずなのに、もう、エプロンをしていた。
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「……お兄ちゃん、春菊、洗って」
「はい」
「焼き豆腐、切って」
「はい」
「しらたき、湯がいて」
「……はい」
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全部、はい、だった。実家の台所では、俺は、昔から、はい、しか言えなかった。
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母は、冷蔵庫から肉を出した。
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竹の皮に包まれていた。赤い、きれいな肉だった。霜が降っていた。モルクヴィークの窓の霜とは、違う霜だった。
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「……それ、福袋の?」
「引換券。……商店街の、お肉屋さんの」
母は、竹の皮を開いた。
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「引き換えに、行ったらね。お肉屋さんが、奥から、これ、出してきたの。……一番いいのを、とっておいたから、って」
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「……福袋の、券で?」
「福袋の、券で」
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母は、首を傾げた。普通の傾げ方だった。
「この券、どこから、来たのかしらね」
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俺は、春菊を洗っていた。洗い続けた。
由紀は、ネギを切っていた。切り続けた。
二人とも、顔を上げなかった。
***
五時、半。
玄関の戸が、開いた。
「……ただいま」
父の声だった。
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母が、時計を見た。由紀が、時計を見た。俺も、見た。
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父は、證券会社の部長だった。帰ってくるのは、いつも、八時か九時だった。
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冬至の日も。大晦日の日も。仕事をしてから帰ってきた人だった。
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父が、台所の入口に立った。
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背広のまま。鞄を提げたまま。少しだけ、息が上がっていた。
駅から歩いてきたにしては、少し、早足だった。
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「……早いわね」
母が言った。
「……今日は、早く、上がった」
父は、それだけ言った。
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それから、俺を見た。
「……健司」
「……ただいま」
「おかえり」
父は、俺の首を見た。
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「首、どうした」
「寝違えた。両方」
「……そうか」
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それだけだった。父は、両方寝違えることに、何も言わなかった。
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背広の上着を脱いで、ネクタイをゆるめて。
それから、台所の窓から、庭を見た。
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庭の奥を。蔵のほうを。
一秒、だけ。
父は、窓から目を離した。居間へ、行った。
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俺は、春菊を持ったまま、窓の外を見た。
蔵の戸は、閉まっていた。
「……お兄ちゃん」
由紀が、小さい声で言った。
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「今、お父さん」
「……見た」
「蔵、見てたよね」
「……見てた」
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母は、肉を皿に並べていた。一枚ずつ。花びらみたいに。
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何も、言わなかった。
でも、一枚、並べる手が、止まった。
***
六時。
玄関の、チャイムが、鳴った。
母が、出た。エプロンを外しながら。
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俺と由紀は、台所のれんの陰から覗いていた。
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赤城さん、だった。
背広に、黒い外套。足元は、革靴だった。
磨いてあった。紐は、普通の蝶結びだった。
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「……学んだな」
由紀が言った。
「何を」
「登山靴で、来ると、三重結びで、帰れなくなるって」
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赤城さんは、両手に、包みを持っていた。
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右手に、風呂敷。羊羹ではなかった。平たい、四角い箱だった。
左手に、紙袋。有名なお店の名前が、入っていた。
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「夜分に、恐れ入ります」
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赤城さんは、玄関で頭を下げた。四十五度ではなかった。葬式の日の深さだった。
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「本日は、お招き、いただきまして。……これは、つまらないものですが」
風呂敷を、差し出した。
「牛肉、です。……すき焼き、と、伺いましたので」
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母は、風呂敷を見た。
受け取らなかった。
「ありがとう、ございます」
母は、にっこりした。
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「でも、今日は。……うちの、お肉で、やりますから」
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赤城さんの手が、止まった。
「……うちの、お肉、ですか」
***
「福袋の、券で、いただいた、お肉なんです。……誰かさんの、おかげで。一番いいのを」
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母は、にっこりしたままだった。
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赤城さんは、風呂敷を持ったまま、しばらく、母を見ていた。
それから。
「……はい」
風呂敷を、引っこめた。
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のれんの陰で、由紀が口を押さえていた。肩が、震えていた。
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「……そちらは?」
母が、左手の紙袋を見た。
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「……お菓子、です」
赤城さんは、言った。
「……羊羹では、ありません」
聞いていないことを、答えていた。
***
母は、紙袋を受け取った。
「上がって、ください。……靴は、そのままで」
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赤城さんは、上がり框に腰を下ろした。革靴の紐を、ほどいた。
二秒、だった。
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それから、脱いだ靴を、揃えた。
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つま先を、外に向けて。かかとを、きっちり合わせて。上がり框と、平行に。
道場の揃え方だった。
***
じいちゃんが、うるさかった。靴を、脱いだら、揃えろ。戸を、開けたら、閉めろ。
子供のころ、何百回、言われたか、分からない。
***
居間の戸口に、父が立っていた。
赤城さんの手元を、見ていた。
***
揃えられた、靴を。
***
赤城さんが、顔を上げた。父と、目が合った。
***
赤城さんは、立ち上がった。父に、向き直った。
頭を、下げた。
「……総一郎さん。ご無沙汰、しております」
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父は、少しだけ黙っていた。
***
「……葬式、以来ですね」
「はい」
「親父が、世話に、なりました」
「……世話に、なったのは、私の、ほうです」
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父は、頷いた。それ以上、何も言わなかった。
***
六時、十分。
居間。
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こたつは、片づけてあった。代わりに、座卓が出ていた。
***
法事のときにしか出さない座卓だった。真ん中に、カセットコンロ。その上に、鉄のすき焼き鍋。
座布団が、並んでいた。
六枚。
***
母は、五枚、出したはずだった。父と、母と、俺と、由紀と、赤城さん。
***
一枚、多かった。
「……あら」
母が言った。
***
「お父さん。座布団、一枚、多いわよ」
「……数え間違えた」
父は言った。新聞を広げながら。
***
母は、座布団を見た。それから、父を見た。
***
何も、言わなかった。座布団を、片づけもしなかった。
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それから、席を決めることになった。
なった、というか。揉めた。
***
「赤城さん、どうぞ、上座に」
母が言った。床の間を背にした席だった。
***
「いえ。……私は、こちらで」
赤城さんは、一番下座に座ろうとした。台所に、一番近い席だった。
***
「お客さまですから」
「本日は、お詫びに、参りましたので」
***
「お詫びは、あとで、聞きます。……どうぞ、上座に」
「いえ。……上座は、総一郎さんが」
***
赤城さんは、父を見た。
父は、新聞をたたんでいた。
***
「いや」
父は言った。
「上座は。……親父の、席なので」
***
居間が、少しだけ静かになった。
***
じいちゃんの席だった。床の間を背にした座布団。法事のときも、正月のときも、じいちゃんが座っていた場所だった。
***
じいちゃんが死んでから、誰も座っていなかった。
***
父は、上座の右に座った。上座は、空けたまま。
***
赤城さんは、しばらく、空いた上座を見ていた。
それから、上座の左に座った。父の、向かいに。
***
じいちゃんの席を真ん中に、息子と弟子が、並んだ。
***
一分、かかった。忘年会で、共さんと上座を譲り合ったときと、同じくらいだった。
***
母が、父の隣に座った。由紀が、赤城さんの隣に座った。
***
俺は、残った席に座った。下座だった。上座の、真正面だった。
空いた座布団が、真正面にあった。
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縁側と、同じだった。冬至の朝の。三日前の朝の。
***
座布団が、三枚。真ん中だけ、誰も座っていない。
じいちゃんの、場所。
今は、ほかに座るやつが、いた。蔵の、中に。
***
母が、鍋に牛脂を落とした。
じゅう、と、鳴った。
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肉を、一枚、広げた。割り下を、回しかけた。
甘い匂いが、した。
居間じゅうに。廊下に。たぶん、庭にも。
***
たぶん、蔵にも。
***
父が、瓶ビールの栓を抜いた。赤城さんのコップに、注いだ。赤城さんが、父のコップに、注いだ。
***
両手、だった。二人とも。
***
由紀には、母が注いだ。俺には、由紀が注いだ。泡が、多かった。
「……わざとだろ」
「手が、すべった」
***
父が、コップを持った。
***
「……健司」
「はい」
「おかえり」
「……ただいま」
***
父が、コップを上げかけた。
「待って」
母が言った。
全員の手が、止まった。
***
「乾杯は」
母は、自分のコップを置いた。
「全部、聞いてから、ね」
***
父は、コップを持ったまま、少しだけ、母を見た。
***
それから、コップを置いた。
赤城さんも、置いた。由紀も、置いた。
***
俺も、置いた。泡が、こぼれた。
***
鍋の中で、肉が煮えていた。
一枚目の肉が、赤から茶色になっていった。
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誰も、箸をつけなかった。
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俺は、箸を握ったままだった。握っているのを、忘れていた。
***
母が、菜箸で肉を裏返した。それから、二枚目を入れた。三枚目を入れた。
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じゅう。
じゅう。
***
煮えていく音だけが、していた。
***
赤城さんが、背筋を伸ばした。
***
国務大臣の顔になっていた。説明のできないことを、説明しなければならないときの顔だった。
三日前と、同じ顔だった。由紀に、聞いた。
***
「奥さん。……総一郎さん。まず、私から」
「赤城さん」
母が言った。
***
赤城さんが、止まった。
***
三日前と、同じ止まり方だった。たぶん。
「赤城さんの、お話も、聞きます。……ちゃんと」
母は、菜箸を置いた。
***
「でも、最初は」
母は、俺を見た。真正面から。じいちゃんの、空いた座布団の向こうから。
***
「健ちゃん」
「……はい」
「全部って、言ったわよね」
***
鍋の中で、一枚目の肉が、煮えすぎていた。
***
父は、黙っていた。コップのビールの泡が、消えていくのを見ていた。
***
赤城さんは、背筋を伸ばしたまま、目を閉じた。
***
由紀が、座卓の下で、俺の膝を、一回、叩いた。
***
とん。
***
『レディー』のとは、違う。軽くて。痛くない。
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息を、吸った。
***
吸って、四つ。
止めて、二つ。
吐いて、六つ。
***
じいちゃんの、間だった。
***
俺は、握っていた箸を、置いた。




