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第八十六章 すき焼き、前夜

実家の門の前で、俺は十分、立っていた。


***


一月十七日の、夕方の、四時半。


***


日は、まだあった。西の空が、橙色だった。

きのう、プロペラ機の窓から見たのと、同じ色だった。


***


日本は、ちゃんと昼があった。当たり前のことだった。当たり前のことに、少しだけ感動した。


それから、門を見た。


***


三日前の朝。ここに、鷲尾が立っていた。赤城さんが、三回、道のほうを向かせた。


***


由紀から、全部聞いていた。空港から、ここまでの電車の中で。

福袋のことも。こたつが浮いたことも。宅配便です、のことも。


***


笑った。電車の中で、声を出して。首が、痛かった。


***


「……入らんのか」


肩の上で、メレオスが言った。


***


「入る」


「十分、前から、そう言うとる」


「……入るって」


***


門の内側の庭に、柚子の木があった。


***


冬至に、実を全部摘まれた木だった。葉っぱだけが、夕日で光っていた。


その根元に、少しだけ、土が盛り上がっていた。


***


十二月に、俺が小さな檻を立てたところだった。由紀と、息を合わせて。一人で、五分。二人で、十分。


***


あれから、一か月しか経っていなかった。


***


「……健司」


「何だよ」


「わしは、隠れとる」


***


メレオスは言った。肩から降りて、庭の奥を見た。


***


蔵、だった。


***


十二月に、由紀に、知らずに閉じこめられた蔵だった。五十年前を、ちいとばかし思い出した蔵だった。


***


「あそこで、か」


「あそこが、一番、落ち着く」


***


「閉じこめられたくせに」


「だから、じゃ。……一回、閉じこめられた、場所はな。もう、怖うない」


***


メレオスは、蔵のほうへ歩いていった。変な服の背中が、夕日の中で、小さかった。


***


「呼ばれたら、出る」


振り返らずに、言った。


***


「呼ばれんかったら、出ん。……お主が、決めい」


蔵の戸が、少しだけ開いて、閉まった。


音は、しなかった。


***


玄関を、開けた。


「……ただいま」


「健ちゃん!」


***


母が、台所から飛んできた。エプロンをしたまま。菜箸を持ったまま。


俺の顔を見た。それから、俺の首を見た。


***


両手で、首の両側を押さえていた。空港から、ずっと。


***


「……どうしたの、それ」


「寝違えた。……両方」


母は、少しだけ黙った。


***


「両方、寝違える人、初めて、見たわ」


「俺も、初めて、なった」


***


母は、菜箸を持ったまま、俺の頬を両手ではさんだ。


菜箸が、耳に当たった。


***


「……痩せた」


「三日で、痩せないよ」


「十二日よ。……十二日、向こうに、いたでしょう」


***


数えていた。当たり前みたいに。


「……おかえり」


「……ただいま」


***


母は、頬から手を離した。それから、いつもの顔に戻った。


***


「手、洗って。うがいして。……それから、台所、手伝って」


「……はい」


「それから」


***


母は、台所に戻りかけて、振り返った。


***


「逃げたら、だめよ」


にっこり、していた。


逃げられなかった。


***


台所は、白菜の匂いがした。


***


由紀が、先にいた。ネギを、斜めに切っていた。空港から一緒に帰ってきたはずなのに、もう、エプロンをしていた。


***


「……お兄ちゃん、春菊、洗って」


「はい」


「焼き豆腐、切って」


「はい」


「しらたき、湯がいて」


「……はい」


***


全部、はい、だった。実家の台所では、俺は、昔から、はい、しか言えなかった。


***


母は、冷蔵庫から肉を出した。


***


竹の皮に包まれていた。赤い、きれいな肉だった。霜が降っていた。モルクヴィークの窓の霜とは、違う霜だった。


***


「……それ、福袋の?」


「引換券。……商店街の、お肉屋さんの」


母は、竹の皮を開いた。


***


「引き換えに、行ったらね。お肉屋さんが、奥から、これ、出してきたの。……一番いいのを、とっておいたから、って」


***


「……福袋の、券で?」


「福袋の、券で」


***


母は、首を傾げた。普通の傾げ方だった。


「この券、どこから、来たのかしらね」


***


俺は、春菊を洗っていた。洗い続けた。


由紀は、ネギを切っていた。切り続けた。


二人とも、顔を上げなかった。


***


五時、半。


玄関の戸が、開いた。


「……ただいま」


父の声だった。


***


母が、時計を見た。由紀が、時計を見た。俺も、見た。


***


父は、證券会社の部長だった。帰ってくるのは、いつも、八時か九時だった。


***


冬至の日も。大晦日の日も。仕事をしてから帰ってきた人だった。


***


父が、台所の入口に立った。


***


背広のまま。鞄を提げたまま。少しだけ、息が上がっていた。


駅から歩いてきたにしては、少し、早足だった。


***


「……早いわね」


母が言った。


「……今日は、早く、上がった」


父は、それだけ言った。


***


それから、俺を見た。


「……健司」


「……ただいま」


「おかえり」


父は、俺の首を見た。


***


「首、どうした」


「寝違えた。両方」


「……そうか」


***


それだけだった。父は、両方寝違えることに、何も言わなかった。


***


背広の上着を脱いで、ネクタイをゆるめて。


それから、台所の窓から、庭を見た。


***


庭の奥を。蔵のほうを。


一秒、だけ。


父は、窓から目を離した。居間へ、行った。


***


俺は、春菊を持ったまま、窓の外を見た。


蔵の戸は、閉まっていた。


「……お兄ちゃん」


由紀が、小さい声で言った。


***


「今、お父さん」


「……見た」


「蔵、見てたよね」


「……見てた」


***


母は、肉を皿に並べていた。一枚ずつ。花びらみたいに。


***


何も、言わなかった。


でも、一枚、並べる手が、止まった。


***


六時。


玄関の、チャイムが、鳴った。


母が、出た。エプロンを外しながら。


***


俺と由紀は、台所のれんの陰から覗いていた。


***


赤城さん、だった。


背広に、黒い外套。足元は、革靴だった。


磨いてあった。紐は、普通の蝶結びだった。


***


「……学んだな」


由紀が言った。


「何を」


「登山靴で、来ると、三重結びで、帰れなくなるって」


***


赤城さんは、両手に、包みを持っていた。


***


右手に、風呂敷。羊羹ではなかった。平たい、四角い箱だった。


左手に、紙袋。有名なお店の名前が、入っていた。


***


「夜分に、恐れ入ります」


***


赤城さんは、玄関で頭を下げた。四十五度ではなかった。葬式の日の深さだった。


***


「本日は、お招き、いただきまして。……これは、つまらないものですが」


風呂敷を、差し出した。


「牛肉、です。……すき焼き、と、伺いましたので」


***


母は、風呂敷を見た。


受け取らなかった。


「ありがとう、ございます」


母は、にっこりした。


***


「でも、今日は。……うちの、お肉で、やりますから」


***


赤城さんの手が、止まった。


「……うちの、お肉、ですか」


***


「福袋の、券で、いただいた、お肉なんです。……誰かさんの、おかげで。一番いいのを」


***


母は、にっこりしたままだった。


***


赤城さんは、風呂敷を持ったまま、しばらく、母を見ていた。


それから。


「……はい」


風呂敷を、引っこめた。


***


のれんの陰で、由紀が口を押さえていた。肩が、震えていた。


***


「……そちらは?」


母が、左手の紙袋を見た。


***


「……お菓子、です」


赤城さんは、言った。


「……羊羹では、ありません」


聞いていないことを、答えていた。


***


母は、紙袋を受け取った。


「上がって、ください。……靴は、そのままで」


***


赤城さんは、上がり框に腰を下ろした。革靴の紐を、ほどいた。


二秒、だった。


***


それから、脱いだ靴を、揃えた。


***


つま先を、外に向けて。かかとを、きっちり合わせて。上がり框と、平行に。


道場の揃え方だった。


***


じいちゃんが、うるさかった。靴を、脱いだら、揃えろ。戸を、開けたら、閉めろ。

子供のころ、何百回、言われたか、分からない。


***


居間の戸口に、父が立っていた。


赤城さんの手元を、見ていた。


***


揃えられた、靴を。


***


赤城さんが、顔を上げた。父と、目が合った。


***


赤城さんは、立ち上がった。父に、向き直った。


頭を、下げた。


「……総一郎さん。ご無沙汰、しております」


***


父は、少しだけ黙っていた。


***


「……葬式、以来ですね」


「はい」


「親父が、世話に、なりました」


「……世話に、なったのは、私の、ほうです」


***


父は、頷いた。それ以上、何も言わなかった。


***


六時、十分。


居間。


***


こたつは、片づけてあった。代わりに、座卓が出ていた。


***


法事のときにしか出さない座卓だった。真ん中に、カセットコンロ。その上に、鉄のすき焼き鍋。


座布団が、並んでいた。


六枚。


***


母は、五枚、出したはずだった。父と、母と、俺と、由紀と、赤城さん。


***


一枚、多かった。


「……あら」


母が言った。


***


「お父さん。座布団、一枚、多いわよ」


「……数え間違えた」


父は言った。新聞を広げながら。


***


母は、座布団を見た。それから、父を見た。


***


何も、言わなかった。座布団を、片づけもしなかった。


***


それから、席を決めることになった。


なった、というか。揉めた。


***


「赤城さん、どうぞ、上座に」


母が言った。床の間を背にした席だった。


***


「いえ。……私は、こちらで」


赤城さんは、一番下座に座ろうとした。台所に、一番近い席だった。


***


「お客さまですから」


「本日は、お詫びに、参りましたので」


***


「お詫びは、あとで、聞きます。……どうぞ、上座に」


「いえ。……上座は、総一郎さんが」


***


赤城さんは、父を見た。


父は、新聞をたたんでいた。


***


「いや」


父は言った。


「上座は。……親父の、席なので」


***


居間が、少しだけ静かになった。


***


じいちゃんの席だった。床の間を背にした座布団。法事のときも、正月のときも、じいちゃんが座っていた場所だった。


***


じいちゃんが死んでから、誰も座っていなかった。


***


父は、上座の右に座った。上座は、空けたまま。


***


赤城さんは、しばらく、空いた上座を見ていた。


それから、上座の左に座った。父の、向かいに。


***


じいちゃんの席を真ん中に、息子と弟子が、並んだ。


***


一分、かかった。忘年会で、共さんと上座を譲り合ったときと、同じくらいだった。


***


母が、父の隣に座った。由紀が、赤城さんの隣に座った。


***


俺は、残った席に座った。下座だった。上座の、真正面だった。


空いた座布団が、真正面にあった。


***


縁側と、同じだった。冬至の朝の。三日前の朝の。


***


座布団が、三枚。真ん中だけ、誰も座っていない。


じいちゃんの、場所。


今は、ほかに座るやつが、いた。蔵の、中に。


***


母が、鍋に牛脂を落とした。


じゅう、と、鳴った。


***


肉を、一枚、広げた。割り下を、回しかけた。


甘い匂いが、した。


居間じゅうに。廊下に。たぶん、庭にも。


***


たぶん、蔵にも。


***


父が、瓶ビールの栓を抜いた。赤城さんのコップに、注いだ。赤城さんが、父のコップに、注いだ。


***


両手、だった。二人とも。


***


由紀には、母が注いだ。俺には、由紀が注いだ。泡が、多かった。


「……わざとだろ」


「手が、すべった」


***


父が、コップを持った。


***


「……健司」


「はい」


「おかえり」


「……ただいま」


***


父が、コップを上げかけた。


「待って」


母が言った。


全員の手が、止まった。


***


「乾杯は」


母は、自分のコップを置いた。


「全部、聞いてから、ね」


***


父は、コップを持ったまま、少しだけ、母を見た。


***


それから、コップを置いた。


赤城さんも、置いた。由紀も、置いた。


***


俺も、置いた。泡が、こぼれた。


***


鍋の中で、肉が煮えていた。


一枚目の肉が、赤から茶色になっていった。


***


誰も、箸をつけなかった。


***


俺は、箸を握ったままだった。握っているのを、忘れていた。


***


母が、菜箸で肉を裏返した。それから、二枚目を入れた。三枚目を入れた。


***


じゅう。

じゅう。


***


煮えていく音だけが、していた。


***


赤城さんが、背筋を伸ばした。


***


国務大臣の顔になっていた。説明のできないことを、説明しなければならないときの顔だった。


三日前と、同じ顔だった。由紀に、聞いた。


***


「奥さん。……総一郎さん。まず、私から」


「赤城さん」


母が言った。


***


赤城さんが、止まった。


***


三日前と、同じ止まり方だった。たぶん。


「赤城さんの、お話も、聞きます。……ちゃんと」


母は、菜箸を置いた。


***


「でも、最初は」


母は、俺を見た。真正面から。じいちゃんの、空いた座布団の向こうから。


***


「健ちゃん」


「……はい」


「全部って、言ったわよね」


***


鍋の中で、一枚目の肉が、煮えすぎていた。


***


父は、黙っていた。コップのビールの泡が、消えていくのを見ていた。


***


赤城さんは、背筋を伸ばしたまま、目を閉じた。


***


由紀が、座卓の下で、俺の膝を、一回、叩いた。


***


とん。


***


『レディー』のとは、違う。軽くて。痛くない。


***


息を、吸った。


***


吸って、四つ。

止めて、二つ。

吐いて、六つ。


***


じいちゃんの、間だった。


***


俺は、握っていた箸を、置いた。


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