第八十五章 帰りも、ある
一月十六日の、昼の十一時。
モルクヴィークの空港だった。
***
小さな空港だった。
建物は、平屋が一つ。待合室の椅子は、十二脚。売店はなかった。自動販売機が、一台。
***
壁に、町の名前が書いてあった。
『Mørkvik』
***
「……モルク、ヴィーク」
読めた。唇を、噛まずに。
***
「……言えるように、なったな」
『ジョン』が言った。少しだけ、嬉しそうだった。
***
「帰る日に、ですけどね」
***
保安検査は、ゲートが一つだけだった。係の人も、一人だけだった。
若い男の人だった。制服の帽子を、かぶって。
***
町に一人だけの、駐在さんだった。
***
「……兼任、なのか」
「小さい、町だから」
『レディー』が言った。
***
俺が先に、ゲートをくぐった。鳴らなかった。
後ろから、メレオスがくぐった。見えないまま。
***
ぴー。
鳴った。
***
駐在さんが、顔を上げた。ゲートを見た。ゲートの向こうを見た。
誰もいなかった。
***
俺の足元で、メレオスが自分の胸元を見ていた。
***
変な服の、金色のボタン。それから、ポケットの中の、トナカイの角のボタン。
***
「……神の、ボタンじゃ。二種類」
「黙ってろ」
「角は、鳴らんぞ。……鳴っとるのは、金色のほうじゃ。角は、無実じゃ」
「だから、黙ってろ」
***
駐在さんは、もう一度、ゲートを見た。それから、俺を見た。
少しだけ、黙っていた。それから、ゆっくりの英語で言った。
***
「……ハヴ、ア、ナイス、フライト」
***
俺の足元の、何もないところに向かって。
首は、傾げなかった。手帳も、出さなかった。
***
書けることが、一つもない。それを、この町で一番よく知っている人だった。
***
滑走路に、飛行機が停まっていた。
小さかった。翼の上に、エンジンがあった。エンジンの前に、羽根がついていた。
***
プロペラだった。
***
「……プロペラ」
「プロペラだ」
『ジョン』が言った。
「最初の、一時間だ」
***
「プロペラ!?」
声が、また勝手に大きくなった。
***
「もっと、信じられない! 扇風機ですよ、これ! 扇風機で、人を、運ぶんですか!」
***
「……行きも、乗った」
「行きも、言いました!」
***
『レディー』が、黙って右手を上げた。
手のひらを立てて。行きと、同じ角度で。
***
「……乗ります」
即答だった。
***
『レディー』は、右手を下ろした。それだけだった。
***
人は、二回で、学ぶ。
***
プロペラ機の中は、狭かった。揺れた。行きと、同じくらい揺れた。
***
俺は、震えながら黙っていた。窓の外を、見なかった。膝の上で、メレオスが窓に張りついていた。
***
離陸するとき、窓の下の道路を、車が一台走っていた。
観測所の車だった。
***
見なかったはずなのに、なぜか、見えた。
車が止まった。ヘッドライトが、二回、点いて、消えた。
***
点いて。
消えた。
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それから、また走っていった。坂の上の、観測所のほうへ。
***
「……イングリッドの、やつ」
『ジョン』が、窓の外を見ないまま言った。
***
「データを、見に、行ったな」
***
町が、小さくなっていった。
赤い屋根のホテル。坂の途中の、白い教会。裏の空き地の、氷の滑り台と、白鳥が九羽。
***
その上に、小さな黒い影が、いくつか。手を振っていた。
***
全員、赤い帽子をかぶっていた。黒い糸の入っていない、ただの帽子を。
***
三十分くらい飛んだころ。
***
「……健司」
『レディー』が言った。
「見なさい」
「無理です」
「見なさい」
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二回目だった。右手は、膝の上にあった。握ったり、開いたり、していた。
***
見た。
***
窓の外。南のほう。
山の稜線の向こうが、明るかった。行きの日よりも、ずっと。
***
群青の空の下のほうが、橙色になっていた。その橙色が、少しずつ、少しずつ、濃くなって。
***
山の稜線の上に、何かが、のぞいた。
光る線だった。
それから、光る弧になった。
***
太陽だった。
***
南へ飛んでいるからだった。モルクヴィークより、南へ。日が昇るところまで。
***
モルクヴィークに日が戻るのは、二十一日。あと、五日。
***
俺たちは、五日早く、迎えに来てもらっていた。
***
「……出た」
声が、また勝手に出た。でも、大きくはなかった。
***
「出たわね」
「出ました」
「知ってる」
***
『レディー』は、窓の外を見ていた。俺の頭越しに。行きと、同じように。
***
光が、顔に当たっていた。目を、細めていた。
「……北は」
ぽつりと、言った。
***
「昔、一回だけ、仕事で、来たわ。……そのときは、見なかった」
***
「日の出を、ですか」
「帰りの、窓の、外を」
***
それ以上は、言わなかった。俺も、聞かなかった。
***
膝の上で、メレオスが窓に額をくっつけていた。
何も言わなかった。「おお」とも。「ほお」とも。
***
ただ、じっと、光を見ていた。
***
戸の向こうで、昔の名前を呼ばれた。帰ろう、と言われた。帰らん、と答えた。
***
その神様が、こっちの世界の日の出を、じっと見ていた。
***
俺は、スマホを出した。窓に当てて、シャッターを押した。
山の稜線と、光る弧が、一緒に写った。
共さんに、送った。
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行きに約束した、写真だった。オーロラの穴の写真は、結局、送らなかった。
***
こっちなら、送れた。
***
『帰ります。 小沢健司』
***
一分もしないうちに、返事が来た。日本は、夜の八時半すぎのはずだった。
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『拝見、いたしました。
本日も、戸は、閉まっております。
明日、開けて、お待ちしております。 久我共』
***
開けて、だった。
***
乗り継ぎの、空港。
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大きな空港だった。行きに目を覚ました空港だった。首が痛かった空港だった。
***
搭乗口の前は、ガラス張りだった。ガラスの向こうに、飛行機が停まっていた。
でかかった。
***
白くて、長くて、翼が左右にずっと伸びていた。エンジンが、翼の下にぶら下がっていた。俺の実家が、たぶん、三軒くらい入った。
***
「……あれに」
「乗る」
『ジョン』が言った。
「十三時間くらいだ」
***
「……あれに、乗るんですか」
「乗る。……行きも、乗った」
「行きは、寝てました!」
***
『ジョン』が、止まった。
***
「乗った、記憶が、ないんです! 翼が、しなったところまでしか! だから、俺は、まだ、あれが、飛ぶところを、見てないんです!」
***
理屈は、通っていた。たぶん。
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俺は、ガラスに手をついた。飛行機を見た。もう一度、見た。
鉄だった。どう見ても、鉄の塊だった。
***
「……こんな」
声が、勝手に大きくなっていた。
***
「こんな、鉄の塊が、飛ぶわけない!」
***
搭乗口の前が、静かになった。
***
ベンチに座っていたサラリーマンが、顔を上げた。スマホを見ていた若い人が、イヤホンを外した。
***
日本人の、団体旅行のおばさんたちが、こっちを見て、ひそひそ言い始めた。
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「……『オザケン』」
『ジョン』が、小さい声で言った。
「声を」
***
「だって、鉄ですよ! 鉄! 何トンあると思ってるんですか!」
***
「三百トンくらいだ」
「三百トン!」
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「……行きも、同じ、会話を、した」
「覚えてます! そこは、覚えてます!」
***
子供が、母親の袖を引いていた。
***
「ねえ、あのおじさん、なんで怒ってるの」
「見ちゃいけません」
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見ちゃいけないほうに、また、なった。国が違っても。言葉が違っても。見ちゃいけないほうは、見ちゃいけないほうだった。
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「異世界の、飛竜はですね」
「おい」
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「羽ばたくんですよ。羽ばたくから、飛べるんです。あれは、羽ばたかないでしょう! 翼、ぴくりとも、動いてないでしょう!」
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「……健司」
足元で、メレオスが腹を抱えて転げ回っていた。見えないのをいいことに、床を叩いていた。
***
「お主。……戸を、閉める男が。鉄が、飛ぶのを、信じんのか」
「戸は、俺が、閉めたから、信じられるんだ!」
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周りから見れば、俺は、誰もいない床に向かって、戸の話をしていた。
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白い目が、増えた。たぶん、一番白いのは、『ジョン』の目だった。行きと、同じだった。
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『レディー』は、少し離れたベンチで、サングラスをかけて、座っていた。他人のふりをしていた。完璧な、他人のふりだった。
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行きと、一つだけ、違った。
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右手が、膝の上で、もう、手のひらを立てていた。
***
「……ご搭乗の、お客様に、お知らせいたします」
アナウンスが、流れた。列が、動き出した。
俺は、動かなかった。
***
『ジョン』に、右腕を掴まれた。『レディー』に、左腕を掴まれた。いつの間にか、隣に来ていた。サングラスのまま。
***
引きずられた。
***
席は、窓側だった。メレオスは、俺の膝の上で、窓に額をくっつけていた。
***
隣が、『レディー』だった。通路側が、『ジョン』だった。逃げ道は、なかった。行きと、同じだった。
***
飛行機が、動き出した。
***
「……動いた」
「動くわよ」
「動いた!」
「だから、動くのよ」
***
背中が、座席に押しつけられた。
***
「揺れた!」
「揺れるわよ」
「今、揺れました!」
「知ってる」
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窓の外の地面が、斜めになった。斜めになって、遠くなった。
***
浮いていた。三百トンの鉄が、浮いていた。
「……浮いた」
「浮いたわね」
「浮いちゃだめでしょう!」
***
客室乗務員の人が、来た。
***
「お客様、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです! 今、翼が、しなりました!」
「……しなるように、できておりますので」
***
にこやかに、戻っていった。
***
五分後、また、来た。行きより、五分早かった。今度は、最初から、にこやかさが減っていた。
***
「落ちたら、どうするんですか!」
「……落ちないように、できておりますので」
「絶対ですか!」
「……」
***
客室乗務員の人が、『レディー』を見た。連れの人ですよね、という目だった。
***
『レディー』は、アイマスクをしていなかった。外す手間を、省いていた。
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溜め息も、つかなかった。
右手を、すっと上げた。
***
俺は、とっさに、首の右側を押さえた。
行きで、学んでいた。人は、二回で、学ぶ。
***
首筋に、何かが当たった。
左側だった。
***
とん。
***
軽い音だった。軽い、と思った。そこまでしか、思えなかった。
***
目が覚めたのは、日本の空港だった。
***
首が、痛かった。今度は、左側だけ痛かった。
右も、まだ、少し痛かった。
***
両側だった。左右、均等に痛かった。的確な角度だった。的確すぎる角度だった。
***
「……もう、着いたんですか」
「着いたわよ」
***
『レディー』は、到着ロビーの手前のベンチで、爪を見ていた。何事もなかったような顔だった。
***
「……俺、何か、されました?」
「寝てたわよ。ぐっすり」
「首が、痛いんですけど。……両方」
「寝違えたんでしょ。両方」
***
『ジョン』が、横で、目をそらしていた。
***
「……『ジョン』さん」
「何も、見ていない」
『ジョン』は、言った。
「二回目も、見なかったことに、した」
***
「……貸し、二つ目よ」
『レディー』が、爪を見たまま言った。
***
「……気絶させたのが、ですか」
「静かにさせたのが、よ」
***
メレオスが、ベンチの上で、満足そうに腹をさすっていた。
***
「……健司。機内食は、うまかったぞ。二回、出た」
「俺の分は」
「わしが、食うた」
「……四食?」
「お主は、よう寝とったからのぉ」
***
四食分だった。神様は、四食分、食べていた。俺は、また、ゼロ食だった。
***
一月十七日。
昼の一時、すぎ。
到着ロビーの、自動ドアが、開いた。
***
日本の匂いがした。よく分からないけど、日本の匂いだった。
***
柵の向こうに、人が並んでいた。
***
一番前に、由紀がいた。赤いマフラーを巻いて、手に何か握って、背伸びをしていた。
***
その隣に、紺色のコートの、共さんがいた。背筋を伸ばして、両手を前で揃えて。
***
その後ろに、加藤さんが、にこにこしていた。紙袋を提げていた。
***
由紀が、俺を見つけた。
手を振ろうとして、止まった。
***
俺の顔を見ていた。首を両手で押さえて、よろよろ歩いてくる、兄を。
***
柵の前まで、来た。
「……ただいま」
「……おかえり」
***
由紀は、言った。それから、少しだけ、眉を寄せた。
***
「……お兄ちゃん。なんで、首、押さえてるの」
「……寝違えた。両方」
***
由紀は、『レディー』を見た。
***
『レディー』は、サングラスをかけ直していた。
***
由紀は、何かを察した顔をした。それから、握っていた手を開いた。
飴が、三つ、あった。
いちご。レモン。はっか。
***
「店長から。……無理、しないでね、って」
***
俺は、飴を見た。
***
十一月の、踏み台の日から。店長の中で、俺はずっと、仕事で疲れている人だった。
***
「……疲れてる人に、なってるね」
由紀が言った。笑っていた。泣きそうな顔で。
「……なってるな」
***
飴を、一つ、取った。はっかだった。
口に、入れた。
***
すうっと、した。首の痛いのが、少しだけ、ましになった気がした。
***
共さんが、一歩、前に出た。
四十五度の礼をした。きっちり、三秒。
「……おかえりなさいませ、健司さん」
***
それから、顔を上げて、俺の肩のあたりを見た。メレオスのいる、あたりを。少しだけ、ずれていた。
***
「……神様も」
***
メレオスは、少しだけ、黙っていた。
***
それから、共さんのほうへ、ずれてやった。見えないまま。ちょうど、共さんの目の前に。
「……ただいまじゃ」
共さんには、聞こえないはずだった。
***
でも、共さんは、もう一度、小さく頭を下げた。
***
加藤さんが、紙袋を差し出した。
***
「お疲れさまでした。……こんなこともあろうかと」
中に、肉まんが入っていた。湯気が立っていた。十個。
***
「福袋の、無料券です。……お母さまから、預かりまして」
***
「……母さんから?」
「肉まんの、好きな、お友だちに、って」
***
俺の肩の上で、メレオスが固まった。
***
「……母御が」
「……うん」
由紀が言った。
「バレてる。……わりと」
***
肉まんが、一つ、紙袋から浮かび上がった。
***
ロビーの真ん中で、湯気を立てて、ふわふわ、と。
「浮かせるな!」
「……冷めるじゃろう」
***
肉まんは、俺のコートの中に消えた。もぐもぐ、と、音がした。俺の胸のあたりから。
***
柵の向こうの人たちが、こっちを見ていた。
***
見ちゃいけないほうに、また、なった。帰ってきても。
***
「……それで」
由紀が言った。俺のコートの胸のあたりを、見ないようにしながら。
***
「今夜、すき焼きだから」
「……聞いた」
「お父さんも、いるから。赤城さんも、来るから」
「……聞いた」
「全部、だから」
***
由紀は、俺を見た。
「……覚悟、してね」
***
俺は、はっかの飴を噛んだ。
がり、と、鳴った。
***
「……首が、痛いって、言って、休めないかな」
「お母さんに、言ってみたら」
言えるわけ、なかった。
***
十三時間の鉄の塊より。プロペラの扇風機より。戸の向こうの、昔の名前より。
たぶん、今夜のすき焼きのほうが、ずっと。
***
怖かった。




