幕間 福袋と、羊羹
「……ほどけん」
一月十四日の、朝の八時、二十分。
小沢家の、玄関だった。
***
国務大臣が、上がり框に腰を下ろして、登山靴の紐と戦っていた。
***
冬至の山で履いた靴だった。
紐は、二重に結んであった。その上から、もう一回、結んであった。
***
「……庭は、滑るので」
赤城は、言った。
誰も、聞いていなかった。
***
小沢由紀は、廊下に立って、それを見ていた。
十分前まで、北向きの縁側に正座していた。
***
八千キロ向こうの兄と、息を合わせていた。
膝が、まだ少ししびれていた。
***
門の前には、もう、誰もいなかった。
よく磨いた革靴の足音も。紫の風呂敷も。
***
風呂敷の包みは、赤城の脇にあった。
***
「……お茶、淹れます」
由紀が、言った。
「上がってください。……赤城さんも。皆さんも」
***
「ありがとう、ございます」
赤城は、紐から顔を上げずに言った。
「……もう、少しで」
***
玄関の外で、『ホラー』が前髪のピンを外していた。
一本。
二本。
***
前髪が、下りた。目が、隠れた。
『ホラー』は、長い息を吐いた。
玄関の段に、しゃがみこんだ。
***
「……疲れました」
「お疲れさまです」
「中を、見ると。……疲れるんです」
***
家の角から、『レスラー』が、のっそり出てきた。
***
勝手口から、ぐるっと回ってきたらしかった。
大きな体を、少しだけ縮めて。
***
「……裏は、猫一匹だ」
報告だった。誰も、聞いていなかった。
***
それから、少し黙って。
「……腹が、減った」
***
「羊羹、ありますよ」
由紀が言った。赤城の脇の風呂敷を見ながら。
***
赤城の手が、紐の上で止まった。
「……これは」
赤城は、風呂敷を見た。
***
少しだけ、黙っていた。
「……先に。先生の、ところへ」
***
八時、半。
仏間。
おじいちゃんの仏壇の前に、国務大臣が正座していた。
***
靴下だった。
紐は、結局、『レスラー』がほどいた。四十秒、かかった。
***
仏壇の前に、羊羹が一本、供えてあった。
栗の入っていない、黒いほう。
切らずに、一本のまま。
***
「……鷲尾が」
赤城は言った。遺影を、見たまま。
「先生の、ご仏前に、と。……言って、いたので」
***
由紀は、赤城の後ろに座っていた。
「……あれが、言ったんですか。それとも」
***
赤城は、答えなかった。
線香に、火をつけた。立てた。手を、合わせた。
長かった。
***
由紀も、手を合わせた。
***
おじいちゃん。
お兄ちゃんが、戸を、閉めたよ。
あたしも、ちょっと、手伝った。
***
赤城さんが、来てくれたよ。
おじいちゃんの、道場の、人が。
それから、少し考えた。
***
羊羹の、人も、来たよ。
追い返した、だけ、だけど。
おじいちゃんと、同じ。
***
九時。
居間の、こたつ。
こたつに、国務大臣が入っていた。
***
その向かいに、『ホラー』が入っていた。
前髪の奥で、目を閉じていた。
寝ているのかどうか、分からなかった。
***
『レスラー』は、こたつに入れなかった。
入ると、こたつが浮いた。
廊下に、座布団を敷いて、座っていた。
***
由紀が、お茶を四つ置いた。
羊羹は、もう一本あった。
赤城が、自分の鞄から出した。
***
ゆうべの交歓会の、桐の箱のほうだった。
定規で測ったように、同じ厚さに切ってあった。
***
「……それ、食べて、いいんですか」
「羊羹に、罪は、ない」
***
赤城は、一切れ取った。食べた。
「……うまい」
二十年、同じ味だった、らしかった。
***
『レスラー』が、廊下から手を伸ばした。三切れ、取った。
***
そのとき。
玄関の戸が開く音がした。
「ただいまー」
母の、声だった。
***
由紀の湯呑みが、こたつの天板の上で止まった。
時計を、見た。
九時、二分。
***
福袋の列は、朝の八時から。並ぶと、もらえるはずだった。
加藤さんが、何とかするはずだった。
***
「……お母さん、早くない?」
由紀の声が、少し裏返った。
***
玄関から、加藤さんの声がした。
「すみません、すみません。……優待券が。並ばなくていい、券で」
***
にこにこ、していなかった。少しだけ、困っていた。
「……こんなことは、想定して、ませんでした」
***
特別優待券は、本当に特別だったらしかった。
***
店の裏口から通されて。五分で、福袋を二つ渡されて。
店長に、深々と頭を下げられたらしかった。
***
誰がそういう券を手配したのかは、加藤さんは言わなかった。
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こたつの国務大臣が、湯呑みを置いた。
少しだけ、目を閉じた。
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廊下の『レスラー』が、羊羹を三切れ口に入れたまま、動けなくなっていた。
***
足音が、廊下を来た。
母が、居間の戸口に立った。
***
両手に、福袋を一つずつ提げて。コートを、着たまま。
***
廊下に、大きな男が正座していた。
頬が、羊羹で膨らんでいた。
***
こたつに、前髪の長い男が入っていた。
目は、見えなかった。
***
こたつの上座に、テレビで見る顔が入っていた。
***
母は、しばらく、何も言わなかった。
福袋を両手に提げたまま、三人の顔を順番に見た。
***
それから、玄関のほうを振り返った。
***
上がり框に、大きな登山靴が一足。
紐をほどかれて、並んでいた。
***
もう一度、居間を見た。
「……赤城、さん?」
***
赤城は、こたつから出た。
畳の上に、正座し直した。靴下の、まま。
***
手を、ついた。
「……ご無沙汰、しております」
葬式の日と、同じ声だった。
***
母は、少し首を傾げた。
普通の傾げ方だった。
***
「テレビで、よく、お見かけ、しますけど」
「……よく、言われます」
***
母は、福袋を畳の上に置いた。
コートを、脱いだ。畳んだ。
***
それから、こたつの空いたところに座った。由紀の隣に。
***
「由紀」
「……はい」
「お茶、もう一つ」
「……はい」
***
由紀は、立ち上がった。
台所に、逃げた。
逃げながら、聞いた。
***
居間で、母が、静かに聞いていた。
「……で。皆さんは」
***
三人の答えが、ほとんど同時に重なった。
***
「……家の、行事です」
赤城だった。
「……偶然です」
『ホラー』だった。
「……宅配便です」
***
『レスラー』だった。
制服は、着ていなかった。荷物も、なかった。
頬に、羊羹が入っていた。
***
居間が、静かになった。
***
台所で、由紀は、急須を持ったまま、しゃがみこんだ。
***
笑っていいのか。泣いていいのか。分からなかった。
たぶん、両方だった。
***
九時、十五分。
こたつに、五人。
廊下に、一人。
***
加藤さんも、入っていた。
にこにこ、していた。
さっきまで困っていたのが、嘘みたいに。
***
「……福袋、開けてみませんか」
加藤さんが、言った。
***
母が、一つ目を開けた。
商店街の、洋品店の福袋だった。
***
手袋。マフラー。靴下が、三足。
それから。
赤い、毛糸の、帽子。
***
こたつの『ホラー』が、ぴくりとした。
前髪の奥で、目を開けた気配がした。
***
「……中は」
『ホラー』は、言った。
***
少しだけ、帽子を見た。
「……空っぽです。ただの、帽子です」
***
母が、『ホラー』を見た。
「……帽子の、中身?」
「……癖です」
***
二つ目は、肉屋の福袋だった。
***
コロッケの引換券。
すき焼き用の、牛肉の引換券。
それから。
肉まんの無料券が、十枚。
***
由紀が、声を出して笑った。
こらえられなかった。
母が、由紀を見た。
***
「何が、おかしいの」
「……お兄ちゃんの、友だちが。喜ぶと、思って」
「友だち?」
「肉まんが、好きな」
***
母は、少しだけ黙った。
「……大晦日に。お父さんの、そばを、食べた、お友だち?」
***
由紀の、笑いが、止まった。
赤城が、湯呑みを持ったまま、止まった。
***
母は、湯呑みを両手で持った。
「……あの晩ね。お父さんの、そば。見てたのよ、私」
「……」
***
「お父さんが、俺、もう、食べたか、って、言ったでしょう。……私、食べてたわよ、って、答えたけど」
***
母は、お茶を一口飲んだ。
「食べてなかったわよ。お父さん、一口も」
***
こたつが、静かになった。
廊下も。
***
「それから、元日の、黒豆。お重の、隅が、一つずつ、減ってたし。……冬至の、朝は、座布団が、三枚。縁側に」
***
「今朝も、三枚。……真ん中、誰も、座ってないのに」
母は、由紀を見た。
***
「お父さんの、お父さんの、場所でしょう。真ん中は」
由紀は、何も言えなかった。
***
母は、湯呑みを置いた。
「……全部、って、言ったわよね。私。今朝」
「……言った」
***
赤城が、居住まいを正した。
***
国務大臣の顔になっていた。
説明のできないことを、説明しなければならないときの顔だった。
***
「奥さん。……それについては、私から」
「待ってください」
母が、言った。
赤城が、止まった。
***
「健司が、いないでしょう」
母は、言った。
「あの子が、帰ってきてから。……全員で、聞きます。全部」
***
少し、間を置いて。
「赤城さんも、ですよ」
***
赤城は、母を見た。
長いこと、見た。
それから、頭を下げた。
***
「……はい」
忘年会で、共さんに、飲みなさい、と言われたときと、同じ声だった。
***
「それと、お父さんも」
母は、言った。
「あの人、分かってない、ふりが、上手なのよ。……柚子、浮かべすぎるな、なんて」
***
母は、少しだけ笑った。
「浮かべすぎたこと、ないでしょう。あの人。……一回も」
***
由紀は、母を見た。
母は、それ以上、何も言わなかった。
福袋の手袋を、はめてみていた。
***
少し、大きかった。
***
九時、四十分。
由紀のスマホが、鳴った。
知らない番号では、なかった。
官舎の、電話だった。
***
『……久我です』
共さんの、声だった。
『戸の、内側です。……終わったと、伺いましたので』
***
「……共さん。今朝、どうしてました?」
***
少し、間があった。
『……数えて、おりました』
「え」
***
『八時、十一分から。……吸って、四つ。止めて、二つ。吐いて、六つ。由紀さんと、同じ、間で』
***
「……戸の、中で?」
『戸の、中に、いてください、と。大臣に、言われましたので。……承知、いたしました』
***
『戸の、中で、数えるな、とは。……言われて、おりませんので』
***
由紀は、こたつの赤城を見た。
***
赤城は、聞こえていたらしかった。
湯呑みを持ったまま、天井を見ていた。
***
「……最後の、むっつ」
由紀は、言った。
「軽く、なったんです。急に。……誰かが、一緒に、吐いてくれたみたいに」
***
電話の向こうで、共さんは、何も言わなかった。
***
それから、小さな音がした。
紙をめくる音だった。紺色の手帳の。
***
『……書いて、おきます』
『一月十四日。戸の中で、数える。最後の、むっつ。……由紀さんと、揃う』
『忘れないように』
***
十時。
赤城たちが、帰っていった。
赤城は、玄関で、また、登山靴の紐と戦った。
***
今度は、『レスラー』が、最初からしゃがんで手伝った。
二十秒だった。
母は、玄関で見送った。
***
赤城が、門を出る前に、振り返った。
***
「奥さん」
「はい」
「……健司くんは。よく、やりました。今回も」
***
母は、少しだけ黙った。
「今回、も?」
***
赤城は、しまった、という顔をした。
一秒、だけ。
***
それから、四十五度では、なく。
葬式の日と、同じ深さで。頭を、下げて。
帰っていった。
***
母は、門のところで、しばらく、道の向こうを見ていた。
***
「……由紀」
「はい」
「あの子、いつ、帰ってくるの」
「……十七日。お昼すぎ」
「そう」
***
母は、家に入った。
「じゃあ、十七日の、夜ね。……すき焼き」
***
福袋の牛肉の引換券を、ひらひらさせながら。
***
由紀は、門のところに残った。
スマホを、出した。
兄に、打った。
***
打って、消した。
打って、消した。
三回目で、送った。
『帰ってきたら、覚悟してね』
***
仏間の仏壇の前で、羊羹が一本、切られないまま供えてあった。
***
遺影のおじいちゃんは、いつもと同じ顔をしていた。
少しだけ。
笑っているように、見えた。




