第八十四章 一番、やさしい人
朝の、九時だった。
外は、まだ真っ暗だった。
モルクヴィークの、一月の朝だった。
***
食堂に、コーヒーの匂いがしていた。
***
ソルヴェイさんが、ポットを持って、テーブルを回っていた。
***
いつもと同じ、赤いカーディガン。
いつもと同じ、丸い眼鏡。
銀色の髪を、後ろで一つにまとめて。
***
ゆうべから、一睡もしていないはずだった。
***
俺のカップに、コーヒーを注いだ。
なみなみと。いつもと同じ量を。
***
ポットの口が、少しだけカップの縁に当たった。
かち、と、鳴った。
***
ソルヴェイさんは、何も言わなかった。
次のカップに、行った。
***
「……習慣じゃな」
俺の肩の上で、メレオスが言った。
「四十年、注いできたんじゃ。……手のほうが、先に、動く」
***
テーブルには、六人、座っていた。
***
俺と、『ジョン』と、『レディー』。
イングリッドさん。
ヨハネスさん。
***
それから、若い警官が一人。
***
町に一人だけの、駐在さんだった。
二十代の半ばくらい。制服の帽子を、膝に置いて。
***
頭には、赤い毛糸の帽子をかぶっていた。
***
ソルヴェイさんが、編んだ帽子だった。
七つ目の椅子は、空いていた。
***
ソルヴェイさんは、全員にコーヒーを注ぎ終わると、ポットをテーブルの真ん中に置いた。
***
それから、空いた椅子に座った。
***
エプロンを、外した。
四つの角をそろえて、畳んだ。膝の上に、置いた。
それから、話しはじめた。
***
ノルウェー語だった。
ゆっくり。一つずつ。
客に、朝食の献立を説明するみたいに。
***
『レディー』が、訳した。
全部では、なかった。
***
あとで、聞いた。
全部訳したら、俺が朝飯を食べられなくなるから、だそうだった。
一時間、かかった。
***
俺が分かったのは、こういうことだった。
***
去年の夏。差出人のない手紙が来た。
方眼紙の図案と、便箋が一枚。
***
便箋には、やることが書いてあった。
***
帽子に、図案を編みこむこと。
冬至の前の日に、若い二人にかぶせること。
***
冬至の夜から、窓に明かりをともすこと。
読んだら、手紙を燃やすこと。
***
ソルヴェイさんは、手紙を燃やした。
図案だけ、燃やせなかった。
***
母親が最後に編んでいた帽子と、同じ模様だったから。
***
「消印は」
『ジョン』が、聞いた。
『レディー』が訳した。ソルヴェイさんが答えた。
「……覚えてない、って」
***
『レディー』は、少しだけ黙った。
「嘘じゃ、ないわ。……見なかったのよ。図案を、見た瞬間から、ほかは、何も」
***
冬至の前の日。結婚したばかりの二人が、ココアを飲みに来た。
***
ソルヴェイさんは、お揃いの帽子をかぶせた。似合うわね、と言った。
***
冬至の夜。窓にランプをともした。
揺り椅子に座って。双眼鏡で。
山へ歩いていく二人を、見ていた。
***
止めに、出なかった。
***
「……ここまでが、あの人が、したこと」
『レディー』は、言った。
「ここからが、あの人が、しなかったこと」
***
冬至から、毎晩。ランプをともして。揺り椅子で、待った。
***
何を待っているのか、本当は分かっていなかった。
***
母親がどこへ行ったのか。それが分かると、書いてあった。
それだけで、よかった。
***
町じゅうの帽子は、便箋には書いていなかった。
***
ソルヴェイさんが、自分で考えた。
もし、自分のところに来なかったら。町の誰かが、次になる。
***
だから、自分がだめだったときのために、町じゅうに配った。
***
「……順番が、逆よ」
『レディー』は言った。訳では、なかった。
***
「自分が、だめだったら、町の、誰かが、って。……それを、防ぐために、配ったんじゃ、ないの。そうなっても、いいように、配ったの」
***
ソルヴェイさんは、『レディー』を見た。
日本語は、分からないはずだった。
***
でも、頷いた。
イングリッドさんのことも、話した。
***
冬至から、三週間。観測所の若い研究員が、毎晩、山の揺れを見ている。
***
町の誰も見ようとしないものを。一人で。
ソルヴェイさんは、知っていた。
***
あれが、ランプよりイングリッドさんのほうを向きはじめていることも。
***
データの線が、少しずつ観測所のほうへ曲がっていることも。
***
だから、イングリッドさんを、自分の部屋の隣に呼んだ。
ランプの、すぐ隣に。
***
あれがイングリッドさんを目指しても。ランプを目指しても。
どっちにしても、同じ場所に来るように。
***
帽子の糸を二本にしたのは、イングリッドさんが夜中に逃げないように、だった。
***
イングリッドさんは、コーヒーのカップを両手で持ったまま、ソルヴェイさんを見ていた。
***
何か、言った。
短かった。
『レディー』は、訳さなかった。
***
イングリッドさんが、自分で日本語にした。
***
「……ごめんなさい、とは、言わない、そうです」
声が、少しだけ震えていた。
***
「言っても、しかたない、ことだから。……言ったら、私が、許すか、許さないかを、決めないと、いけなくなるから」
***
イングリッドさんは、カップを置いた。
***
「……決めなくて、いいように、して、くれたんだと、思います」
***
それから、少し笑った。
下手な笑い方だった。俺と、同じくらい。
***
「……データに、なりません」
若い駐在さんは、一時間、ずっと黙って聞いていた。
***
手帳を、開いていた。
でも、ほとんど書いていなかった。
***
最後に、何か言った。困った声だった。
『レディー』が、訳した。
「……何を、書けば、いいのか、分からない、って」
***
そうだろうな、と思った。
***
帽子を、編んだ。帽子を、かぶせた。窓に、明かりをつけた。
二人が山へ歩いていくのを、止めなかった。
***
どれも、この国のどの法律にも、たぶん、どこの国の法律にも、書いてなかった。
***
「……書かなくて、いいわ」
『レディー』が言った。駐在さんに、ノルウェー語で。
***
それから、俺たちに、日本語で。
「書けることが、一つも、ないもの。……あの人も、知ってる。知ってて、全部、話したの」
***
駐在さんは、手帳を閉じた。
***
それから、膝の制服の帽子を取って、その下の、自分の頭の赤い毛糸の帽子を脱いだ。
***
少しだけ、それを見ていた。
裏返しは、しなかった。
***
畳んで、ポケットに入れた。
制服の帽子を、かぶり直した。
***
ソルヴェイさんに頭を下げて、食堂を出ていった。
表の扉の鈴が、鳴った。
***
ソルヴェイさんは、しばらく、扉のほうを見ていた。
***
それから、立ち上がった。
二階へ、上がっていった。
***
降りてきたとき、手に二つ持っていた。
黒い糸の糸巻きが一つ。
方眼紙の図案が一枚。
***
『レディー』の前に、置いた。
何も、言わなかった。
***
『レディー』も、何も言わなかった。
糸巻きと図案を、ハンカチに包んだ。
***
「……それ、どうすんだ」
俺は、小さく聞いた。
「日本に、持って帰る」
『レディー』は、言った。
***
「方眼紙と、定規の、線。……赤城さんが、見たら、何か、分かるかもしれない。1970と、一緒に」
***
ソルヴェイさんは、空いたカップを集めはじめた。
俺の前のカップも。取ろうとして、手が止まった。
***
俺の顔を、見ていた。
俺は、何か言おうとした。
***
いい人ですね、と。三回、言った。この人に。
「……いい人だと、思ってました」
***
日本語だった。通じないのは、分かっていた。
***
ソルヴェイさんは、少しだけ首を傾げた。
***
普通の傾げ方だった。
中には、何も入っていない。ただの、人の。
***
それから、ゆっくりの英語で、言った。
「……アイ、ワズ」
***
カップを、取った。
「……ワンス」
厨房に、戻っていった。
***
俺は、しばらく動けなかった。
昔は、そうだった。一度は。
***
この町で一番やさしい人だった、と。
ヨハネスさんが、言っていた。過去形で。
***
ヨハネスさんは、自分のカップのコーヒーを、最後まで飲んだ。
***
それから立ち上がって、俺たちに短く何か言った。
「……二時に、教会で、って」
『レディー』が、訳した。
***
昼の、十二時。
『ジョン』が、課長に電話した。
日本は、夜の八時だった。
***
スピーカーから、課長の声がした。
『うん。……うん。そう』
***
いつもの相槌だった。
何を報告しても、同じ相槌だった。
***
『レディー』が、糸巻きと図案のことを言った。
***
『ジョン』が、1970の写真のことを言った。
『うん。……赤城さんに、上げるね。全部』
***
それから、少しだけ間があった。
***
『……小沢くん』
「はい」
『お疲れさま』
「……はい」
***
『帰ってきたら、妹さんに、会ってあげてね』
「会いますよ、そりゃ」
***
『うん。……今、ちょっと、大変そうだから』
「……大変?」
『お母さんに、捕まったみたい』
***
電話の向こうで、課長が少しだけ笑った。
***
『赤城さんと、一緒に』
「……は?」
『詳しくは、妹さんに、聞いて。……じゃあね』
切れた。
***
俺は、スマホを見た。
由紀から、メッセージが一件来ていた。
日本の、朝の十時に。
***
『帰ってきたら、覚悟してね』
それだけ、だった。
「……何の、覚悟だ」
「母御の、じゃろう」
***
メレオスが言った。楽しそうだった。
「伊左衛門も、あの母御には、勝てなんだ」
***
昼の、二時。
教会は、坂の途中にあった。
小さな、白い教会だった。
***
中は、蝋燭の明かりだけだった。
外は、まだ昼のはずだった。
でも、窓の外は、暗い青だった。
***
席は、埋まっていた。
町の人たちだった。大人も。子供も。
***
ほとんどの人が、赤い帽子をかぶっていた。教会の中なのに。
***
脱いで、膝に置いている人もいた。
ポケットから、端だけ出している人もいた。
***
裏返して、見ている人もいた。一人だけ。
見て、それから、かぶり直していた。
***
何を見たのかは、分からなかった。
たぶん、糸の抜けた穴を。
***
祭壇の前に、棺はなかった。
代わりに、小さな台の上に、赤い帽子が二つ。
***
四つの角をそろえて、畳んで置いてあった。
お揃いの、帽子だった。
***
ヨハネスさんが、話した。
短かった。
***
『レディー』が、小さい声で訳してくれた。
でも、途中で、訳すのをやめた。
***
「……訳さなくても、分かるでしょう」
分かった。
***
去年の夏に、この二人の結婚式を、ここで挙げた、と。
ヨハネスさんは、言っていた。
***
同じ場所で。同じ人が。半年で。
***
一番後ろの席に、ソルヴェイさんが座っていた。
***
帽子を、かぶっていなかった。
銀色の髪を、まとめもせずに下ろして。
***
赤いカーディガンでは、なく。黒い服を、着て。
一人だった。
***
ソルヴェイさんの両側の席は、空いていた。
***
町の人たちは、何も知らないはずだった。
知らないはずなのに、誰も、その隣に座らなかった。
***
年寄りは、覚えている。
ヨハネスさんが、そう言っていた。
***
一九七〇年の冬至の夜。町じゅうの窓が暗かったのに、一つだけついていた窓のこと。
***
今年の冬至の夜。また、一つだけついていた窓のこと。
***
途中で、小さな足音がした。
一番小さい、女の子だった。
***
滑り台の行列の、一番後ろに並んでいた子。
黒い糸を、一番最後に抜いた帽子の子。
***
ソルヴェイさんが、耳まで引き下ろして、頬をつついた子。
***
母親の手を振りほどいて、通路をとことこ歩いてきて。
***
ソルヴェイさんの隣に、座った。
ソルヴェイさんは、動かなかった。
***
女の子は、ソルヴェイさんの手を取った。
***
何か、言った。小さな声で。ノルウェー語で。
『レディー』が、訳した。
***
訳すかどうか、少し迷ってから。
「……ココアの、おばちゃん。帽子、どうしたの、って」
***
ソルヴェイさんは、答えなかった。
答えられなかった。
***
女の子は、自分の帽子を脱いだ。
赤い帽子を。内側に、糸の抜けた穴のある。
***
それを、ソルヴェイさんの膝に置いた。
***
貸してあげる、と。言ったのだと思う。
『レディー』は、もう訳さなかった。
***
ソルヴェイさんの肩が、一回だけ震えた。
***
それから、帽子を両手で持って、膝の上で、四つの角をそろえて、畳んだ。
***
女の子に、返さなかった。
かぶりも、しなかった。
***
ただ、膝の上に置いて、両手をその上に重ねていた。
***
ヨハネスさんが、祭壇の前で帽子にしたのと、同じ手つきだった。
***
女の子の母親が、通路を来た。
連れて戻ろうとして、ソルヴェイさんの顔を見て、止まった。
***
少し、迷って。
女の子の反対側の隣に、座った。
***
葬式のあいだ、メレオスは、教会の梁の上に座っていた。
***
何も、言わなかった。
ずっと、祭壇の二つの帽子を見ていた。
***
最後の賛美歌のとき。
「……戸の、向こうで」
***
メレオスが言った。俺にだけ聞こえる声で。
「あの二人の、匂いは、せなんだ」
***
俺は、梁を見上げた。
「……どういう、意味だ」
「分からん」
メレオスは、言った。
***
「分からんから、言うとる。……向こうに、おらんのか。向こうでも、ないところに、おるのか」
「……それは」
「伊左衛門なら」
***
メレオスは、帽子から目を離さなかった。
「……手帳に、書いて、閉じとったじゃろうな」
***
俺は、何も言えなかった。
帰ったら、由紀に言おう、と思った。
書いて、閉じる、前に。
***
教会を出ると、トナカイのおじいさんがいた。
***
毛皮の帽子をかぶって。教会の階段の下で。
スノーモービルに、もたれて。
***
葬式には、入っていなかった。
外で、ずっと待っていたらしかった。
***
橇の犬が、俺の足元の何もないところに飛びついた。
***
「……こりゃ。喪中じゃぞ」
尻尾は、止まらなかった。
***
おじいさんは、何も言わずに、外套のポケットから何かを出した。
***
小さなものだった。親指の先くらいの。
***
トナカイの角だった。削って、磨いて。小さなボタンの形にしてあった。
真ん中に、糸を通す穴が二つ。
***
おじいさんは、それを、俺の手のひらに置いた。
***
それから、俺の足元の何もないところを、顎でしゃくった。
***
イングリッドさんが、訳した。
「……小さいほうに、って」
***
おじいさんは、もう、スノーモービルにまたがっていた。
エンジンをかけた。犬が、しぶしぶ橇に戻った。
***
走っていった。坂の下へ。振り返らなかった。
***
俺は、手のひらの角のボタンを見た。
メレオスが、肩に降りてきた。ボタンを、見た。
***
長いこと、見た。
「……金色では、ないのぉ」
「いらないのか」
「いらんとは、言うとらん」
***
メレオスは、ボタンを取った。
浮かないように握りこんで、変な服のポケットにしまった。
***
それから、ポケットの上から、二回叩いた。
***
一月十五日。昼の、十二時。
観測所。
帰りの飛行機は、あしたの朝だった。
***
イングリッドさんは、玄関で待っていた。
来た日と、同じ場所で。
***
帽子を、かぶっていなかった。
金色の三つ編みに、雪が少しのっていた。
***
「……帽子は」
「データと、一緒に、しまいました」
イングリッドさんは、言った。
***
「三年前のも。おととしのも。去年のも。十一月のも。……全部」
「もらったものは、全部、取っておくので。……データなので」
***
それから、少しだけ黙った。
「……でも、もう、かぶりません」
***
二階の窓が、開いた。
ベルグ所長だった。
灰色の髭。眉間の皺が、三本。
***
俺たちを見下ろして、英語で言った。
「学術視察は、昼の、二時間だけだ」
***
『ジョン』が、腕時計を見た。
「……今、昼だな」
「十二時、三分だ」
***
所長は、窓を閉めなかった。
少し、黙っていた。
それから、英語で、ゆっくり言った。
***
『レディー』が、訳した。
訳さなくても、半分は分かった。
***
「……前の、所長に、言われた。俺が、若いころに」
「山の、揺れを、騒ぐな。……騒げば、誰かが、見に行く、と」
***
所長は、イングリッドさんを見ていた。
***
「前の、所長は。……一九七〇年の、冬を、この窓から、見ていた、そうだ」
***
イングリッドさんが、所長を見上げた。
「……カメラの、故障、って」
***
イングリッドさんの声が、震えていた。
「だから、ですか」
***
所長は、答えなかった。
眉間の皺が、一本、減った。
***
「……お前は、三回、調べた」
所長は、言った。
***
「故障じゃない、と、言いに来た。……三回とも」
「それから、内緒で、データを、上げた。……知っていた」
***
イングリッドさんは、口を開けた。
「……知ってたんですか」
「サーバーの、管理者は、俺だ」
***
所長は、窓を閉めた。
ばたん、と。
閉めたあとも、窓の向こうに立っていた。腕を、組んで。
***
イングリッドさんは、しばらく、窓を見上げていた。
***
眼鏡を、外した。袖で、拭いた。かけ直した。
「……『ジョン』さんの、言うとおり、でした」
***
「怪しすぎるのは、だいたい、外れだ」
『ジョン』は言った。少しだけ、得意そうだった。
***
イングリッドさんは、俺を見た。
それから、俺の横の、何もないところを見た。
***
少し、ずれていた。メレオスは、反対側にいた。
***
「……気功の、先生は、そこですか」
「……反対です」
***
イングリッドさんは、反対側を向いた。
***
背の高い体を、少しだけかがめて。
何もないところに向かって、頭を下げた。
***
「お世話に、なりました」
アニメの日本語では、なかった。
データの日本語でも、なかった。
***
メレオスは、少しだけ黙って。
それから、イングリッドさんの肩掛けの鞄に、手を伸ばした。
***
中から、紙に包んだサンドイッチが浮かび上がった。
包みが、ひとりでに開いた。
***
茶色いチーズのサンドイッチだった。ブルーノストの。
***
空中で。
がぶ、と。
一口ぶん、消えた。
***
イングリッドさんは、それを見ていた。
目を丸くして。口を、開けて。
***
一口ぶん欠けたサンドイッチが、ゆっくり、イングリッドさんの手の中に降りてきた。
***
「……最初の、日も」
イングリッドさんは、言った。
「ケンジさんが、食べたと、思ってました」
***
「……すみません」
「なんで、ケンジさんが、謝るんですか」
***
イングリッドさんは、笑った。
下手な笑い方では、なかった。
***
「……マジ、ですか」
それから、サンドイッチの欠けたところを見て、もう一度言った。
「データに、します」
***
帰り際。イングリッドさんが、言った。
「ケンジさん。……一つ、お願いが、あります」
***
「何ですか」
「最後に、一回だけ。……言って、ください」
分かっていた。
***
『ジョン』が、横を向いた。
『レディー』が、腕を組んだ。
メレオスが、肩の上でにやにやしていた。
***
俺は、観測所の前の凍った地面に、手をついた。
氷が、立ち上がった。
***
格子の檻では、なかった。
白鳥、だった。
***
一羽だけの。小さな。羽を、広げた。
イングリッドさんが、口を押さえた。
***
「……アイス」
俺は、言った。
「……プリズン、じゃ、ないな。これは」
「じゃあ、何ですか」
***
少し、考えた。
「……お土産、です」
***
イングリッドさんは、長いこと、白鳥を見ていた。
写真は、撮らなかった。
***
「……二十一日に」
イングリッドさんは、言った。
「日が、昇ります。この町に。……二か月、近く、ぶりに」
***
「……見られないのが、残念です」
「データ、送ります」
イングリッドさんは、言った。
***
「日の出の、データ。……『ギーク』さんに。今度は、半分じゃなくて。全部」
***
その夜。ホテルの部屋で、荷物を詰めていた。
***
窓の外は、真っ暗だった。
町の窓は、ほとんど暗かった。
ホテルの角の窓も。
***
戸を叩く音がした。
開けると、誰もいなかった。
足元に、お盆が置いてあった。
***
蜂蜜の入ったホットミルクが一つ。湯気が、立っていた。
***
それから、小さなカップが、もう一つ。
同じ蜂蜜のミルクが、半分だけ。
カードは、なかった。
***
廊下の突き当たりで、部屋の戸が閉まる音がした。
鍵の音は、しなかった。
***
「……小さいほうの、ぶんじゃな」
メレオスが、小さいカップを見た。
***
「飲むのか」
メレオスは、少しだけ黙った。
***
それから、カップを取った。
浮かせて。両手で、持って。
一口、飲んだ。
***
「……甘い」
それだけ、言った。
残りも、全部、飲んだ。
***
俺も、飲んだ。
仮病の日に、湯たんぽと一緒に持ってきてくれたミルクと、同じ味だった。
***
一番、やさしい人だった。
一度は。
たぶん。
今も、少しだけ。




