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第八十三章 暗い、入り江

聞いたことのない、音だった。


言葉なのは、分かった。

名前なのも、分かった。


***


でも、覚えられなかった。

耳に入ったそばから、こぼれていった。


覚えちゃ、いけない音だった。


***


メレオスの襟を握った右手に、震えが止まったのが伝わってきた。


***


『……止めて』


床のスマホから、由紀の声がした。


『ひとつ』


俺は、息を止めた。


***


『ふたつ』


番小屋の中は、何の音もしなかった。

風も。犬も。俺の心臓のほかは。


***


『……吐いて』


メレオスの指先の火が、戸口の外の暗いほうへ向いたまま、ちっとも揺れなかった。


***


「……聞こえたか」


俺は、小さく聞いた。


「聞こえた」


***


メレオスは、戸口の外から目を離さずに答えた。


「……返事を、しよった」


***


零時、十二分。


床が、鳴った。


***


下から一回だけ、どん、と。

焼けた板の輪の縁が、左手の下で跳ねた。


無線が、鳴った。


***


『……揺れ、一回』


イングリッドさんの声だった。

データの声だった。


***


『……でも。いつもと、違います』


『四百、メートルじゃ、ありません。……こっちに、来てます』


***


少し、間があった。


『ホテルの、ほうに』


***


八時、十二分。


小沢家の、門の前。


***


鷲尾が、礼から顔を上げた。

四十五度の礼だった。きっちり、三秒。それから、背筋を伸ばした。


***


「おはようございます、大臣」


低い、よく通る、大人の声だった。


***


「朝早くから、恐れ入ります。……伊左衛門先生の、ご仏前に、と、思いまして」


***


紫の風呂敷の包みを、両手で少しだけ持ち上げた。


「栗の、入っていない、ほうです」


***


門の内側に、赤城が立っていた。

登山靴で。黒い外套の前を閉めて。


***


「……鷲尾」


赤城は、言った。


「今日は、帰れ」


***


鷲尾は、にこにこしていた。

それから、首を傾げた。


「……やだ」


***


声は、大人のままだった。

喋り方だけが、変わっていた。


「遊ぼうって、言ったよ。……きのう」


***


門の横で、『ホラー』が鷲尾の目を見ていた。

前髪を、ピンで上げたまま。


***


「……出てきてます」


『ホラー』は言った。声は、震えていなかった。


「中の、子供が。……窓から、顔を、出すみたいに」


***


鷲尾の目が、『ホラー』のほうへ動いた。


***


「……あ。おでこの、人だ」


嬉しそうだった。


「きょうも、出してるね。……ねえ」


「こっち、来る?」


***


『ホラー』は、少しだけ考えた。


「……行きません」


「なんで」


「中が。……狭そうなので」


***


鷲尾は、声を出して笑った。

大人の喉で。子供の笑い方で。


***


赤城が一歩、横にずれた。

『ホラー』と鷲尾のあいだに。


***


縁側で、由紀は目を閉じたままだった。


***


「……吸って」


「ひとつ」


数える声は、少しも変わらなかった。


***


零時、十二分。


ホテルの、食堂。


***


テーブルの上で、写真が表を向いていた。

白黒の。角の擦り切れた。


***


赤い屋根のホテルの前だった。

今と同じ屋根だった。夏の写真だった。


***


若い女が一人、毛糸の帽子をかぶって笑っていた。

白黒でも分かった。赤い帽子だった。


***


その腕の中に、小さな女の子が一人。

同じ帽子の小さいのをかぶって、写真のこっちをにらんでいた。


***


その横に、痩せた若い男が一人。

帽子をかぶらずに、困った顔で立っていた。


***


裏に、鉛筆で書いてあった。

『1970』。


***


ソルヴェイは、写真を見ていた。

グラスには、手をつけていなかった。


***


床が、鳴った。


下から一回だけ。

食器棚のグラスが触れ合って、ちりん、と鳴った。


***


ソルヴェイが、立ち上がった。

椅子が、後ろに倒れた。


「……来たわ」


ソルヴェイは、言った。


***


嬉しそうな声だった。

それから、怖がっている声だった。

どっちも、本当の声だった。


***


「座っていなさい」


ヨハネスは、座ったまま言った。


「来るのよ。……私の、ところに」


***


ソルヴェイは、天井を見ていた。


***


「そのために。……ずっと、明かりを、つけてた。毎晩。冬至から」


「知っている」


「あの子たちも。……私が、行かせた」


***


ソルヴェイの手が、椅子の背を探した。

倒れていて、なかった。


***


「結婚の、お祝いに。お揃いの、帽子を、編んで。……私が、かぶせたの。冬至の、前の日に。似合うわねって。……二人とも、笑ってた」


***


「知っている」


ヨハネスは、言った。


「あの夜。……窓の、君を、見た」


***


ソルヴェイは、ヨハネスを見た。


***


「町の、帽子も。全部。……もしもの、ためだった。私のところに、来なかったら。ほかの、誰かに、って」


***


声が、少しずつ小さくなっていった。


***


「……あの子を、隣の、部屋に、呼んだのも」


ヨハネスは、黙っていた。


***


二階で、窓の鳴る音がした。


ソルヴェイの部屋の窓では、なかった。

その、隣だった。


***


零時、十二分。


二階の。山側の。角から二つ目の部屋。


窓が、白かった。


***


曇りでは、なかった。霜だった。

外から内へ向かって、ガラスの上を、白い枝が伸びていた。


***


枝は、真ん中に向かって伸びていた。

ゆっくり。何かの形を描くみたいに。


手の、形だった。


***


イングリッドは、ベッドの端に座っていた。


***


膝の上に、ノートパソコン。

画面の線が跳ねていた。

一本の線が、町の真ん中へ向かって伸びていた。


***


このホテルへ。

この部屋へ。


イングリッドは、画面から目を離せなかった。


***


「……イングリッド」


『レディー』が言った。

窓とイングリッドのあいだに立っていた。背中を、窓に向けて。


***


「パソコン、閉じなさい」


「でも。……データが」


「見るのを、やめなさい」


***


『レディー』は、窓を振り返らなかった。


「あれは、見てる人を、見るの。……あんたは、三週間、ずっと、見てた。誰よりも、ずっと」


***


イングリッドの指が、キーボードの上で止まった。


***


冬至の夜から。毎晩。

零時、十二分に。一分もずれずに。


***


誰も見ていなかったものを。

一人で。カメラを三回調べて。所長に内緒で。誰かに見てほしくて。


***


「……最後まで」


イングリッドは言った。

ノルウェー語で。それから、日本語で言い直した。


***


「最後まで、見たかった、です」


「知ってる」


『レディー』は、言った。


「だから、閉じるのよ」


***


イングリッドは、目をつぶった。

パソコンを、閉じた。


ぱたん、と、小さな音がした。


***


部屋が、暗くなった。


『レディー』は、もう、しゃがんでいた。


***


足元のスーツケース。

鍵を開けた。ファスナーに挟んだ髪の毛が落ちた。


***


中から、赤い帽子を一つ出した。


***


十一月の帽子だった。

イングリッドが最初にもらった帽子だった。


***


内側に、黒い糸が一本。抜かずに、とってあった。


帽子は、温かかった。


***


毛糸の温かさでは、なかった。

中から、誰かが息を吹きこんでいるような。


***


「……一本、残しておいたの」


『レディー』は、縫い針を出した。


「あれが、どっちを、見てるか。……分かるように」


***


針先を、糸の端にかけた。


「今、分かったわ」


引いた。


***


一目。二目。

編み目を崩さずに。いつもと同じ速さで。


***


窓の霜の手が、ガラスの上で、指を一本伸ばした。


『レディー』は、見なかった。


***


イングリッドも、見なかった。

目をつぶったまま、三年前の帽子を両手で胸に抱えていた。


***


口の中で、何か数えていた。

日本語だった。


「……ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ」


***


零時、十二分。


番小屋の、中。


***


「……来ん」


メレオスが、言った。


「名は、届いた。……返事も、した。じゃが」


***


指先の火が、初めて揺れた。


「向こうを、見とる。……あの娘を」


***


分かっていた。

イングリッドさんの無線を聞いたときから。


***


灯台は、道だ。

着いた先で何に入るかは、あれが決める。


***


「……『レディー』は」


戸口の外から、『ジョン』の声がした。


***


無線を耳に当てたまま。


「最後の、一本を、抜いてる。……四十秒、だそうだ」


四十秒。


***


『……止めて』


由紀の声がした。


『ひとつ』


『ふたつ』


***


俺は、息を止めたまま、輪の外側を見た。


***


メレオスの火の明かりで、床の縁に並んだ赤い房が見えた。


町の、人の数だけの、房。


***


ほどけた房が、並んでいた。

二十五と、きのうの一つ。


***


縛られた房が、並んでいた。

町の、大人たちの。


戸口に一番近いところに、二つ。


***


一つは、俺のだった。

もう一つが、動いていた。


***


風もないのに。

根元の黒い糸が、きりきりと、町のほうへ引っぱられるみたいに。


***


『……吐いて』


『ひとつ』


***


八時、十二分。


小沢家の、門の前。


鷲尾が、門をくぐろうとした。


***


赤城は、止めなかった。


止めずに、鷲尾の右手から、風呂敷の包みを、そっと受け取った。


***


「……いただこう」


鷲尾の手が、空になった。


***


その空の右手首に、赤城の左手が添えられていた。


***


握ってはいなかった。

添えていた、だけだった。


赤城が半歩、踏みこんだ。体を、回した。


***


それだけ、だった。


鷲尾は、門の外に立っていた。

道のほうを、向いて。


「……あれ?」


***


鷲尾は、道の向こうを見た。それから、振り返った。

首を、傾げた。


***


「……いま、何、したの」


「帰り道を、教えた」


赤城は言った。風呂敷の包みを、左の脇に抱えたまま。


***


「伊左衛門先生の、道場で。……一番、最初に、習うことだ」


***


鷲尾は、にこにこした。

もう一度、門をくぐろうとした。


***


今度は、速かった。

大人の体の速さでは、なかった。


***


赤城の手が、また、手首に添えられた。

半歩。回る。


***


鷲尾は、また、門の外で道を向いていた。


「……ずるい」


***


三回目は、横からだった。

垣根を越えようとした。


赤城は、垣根の内側で待っていた。


***


鷲尾の磨いた革靴が、霜の降りた庭石に乗った。


滑った。


***


背の高い、肩の広い体が、後ろに倒れかけた。

頭から。庭石の角のほうへ。


***


赤城の手が、鷲尾の背広の襟を掴んでいた。


倒れる、前に。


***


「……庭は、滑ると、言った」


赤城は言った。

鷲尾をゆっくり起こしながら。門の外に、向けながら。


***


鷲尾に言ったことでは、なかった。

朝、誰にともなく言ったことだった。


***


『ホラー』が、小さく息をのんだ。


「……赤城さん」


「何だ」


「……奥に、もう一人、います」


***


赤城の手が、止まった。


「子供の、後ろに。……ずっと、奥に」


***


『ホラー』は、鷲尾の目を見たまま言った。


「背中を、丸めて。……正座、してます」


***


鷲尾は、襟を掴まれたまま、にこにこしていた。


***


聞こえていないのか。

聞こえていて、笑っているのか。

分からなかった。


***


縁側で、由紀は数えていた。


「……吐いて。ひとつ。ふたつ」


「由紀さん」


鷲尾が、呼んだ。


***


大人の声だった。

丁寧で。非の打ちどころの、ない。


***


「お兄さまに、よろしく、お伝えください」


由紀は、目を開けなかった。


「みっつ。よっつ」


***


「……ねえ」


子供の喋り方になった。


***


「数、間違えてるよ。……そこ、五つだよ」


「いつつ」


由紀は、言った。


「むっつ」


***


少しも、変わらなかった。

おじいちゃんの間だった。道場の間だった。


***


勝手口のほうから、大きな足音がした。


『レスラー』が、家の角を曲がってきた。


***


門の外。鷲尾の後ろに。黙って、立った。


***


鷲尾の背中をふさぐように、ではなく。

道のほうを、空けて。


***


帰るなら、そっちだ、と。

言わずに、言っていた。


***


零時、十二分と、少し。


ホテルの、食堂。


***


ソルヴェイは、階段のほうへ歩いていた。


エプロンのポケットに、マッチがあった。


***


「……あの子じゃ、ないの」


階段の一段目に足をかけて、ソルヴェイは言った。

誰にでも、なく。


***


「あの子の、ところに、行かせるつもりじゃ、なかった。……私に、来るはずだったの。私が、明かりを、つければ。……今、つければ」


***


「ソルヴェイ」


ヨハネスが、立っていた。


階段の下に。いつのまにか。写真を、持って。


***


「座っていなさい」


「どいて」


「あの夜も。……君は、そう、言った」


***


ソルヴェイの足が、止まった。


ヨハネスは、写真をソルヴェイの前に出した。


***


「一九七〇年の、冬至。……君の、お母さんが、山へ、歩いていった」


***


声は、低かった。短かった。

いつもの、言葉を選ぶ声だった。


***


「町じゅうの、窓が、暗かった。……言い伝えの、とおりに」


***


「君は、三つだった。……二階の、窓に、ランプを、つけた。お母さんが、帰り道に、迷わないように」


***


ソルヴェイは、写真を見ていた。


***


笑っている若い女を。

その腕の中で、こっちをにらんでいる、小さな女の子を。


***


「私は、山に、登った。……番小屋に、着いたときには、もう、誰も、いなかった」


***


「床に、焦げた、輪が、あった。……その、真ん中に」


ヨハネスは、少しだけ黙った。


***


「帽子が、一つ。……四つの、角を、そろえて、畳んであった」


***


ソルヴェイの手が、階段の手すりを握った。


***


「私は、帽子を、持って、帰った。君は、窓の、ランプの、前で、待っていた。……階段を、駆け上がろうとした。お母さんを、迎えに行く、と」


***


「私は、言った。……座っていなさい、と」


「君は、どいて、と、言った。……三つの、子が。私を、にらんで」


***


ヨハネスは、写真の女の子を、指でなぞった。


***


「この、顔で」


「それから、朝まで。……この、食堂で。二人で、座っていた」


***


ソルヴェイは、何も言わなかった。


***


「今夜は」


ヨハネスは、言った。


「あの夜の、ように。……座っていなさい」


***


ソルヴェイは、階段の上を見た。


暗かった。


自分の部屋のほうも。

隣の部屋のほうも。


***


「……図案がね」


ソルヴェイは言った。手すりを握ったまま。


「去年の、夏に。……手紙で、来たの。差出人の、ない」


***


「方眼紙に。定規で、引いてあった。……母さんが、最後に、編んでた帽子と。同じ、模様だった」


***


「明かりを、ともしなさい、って。……出てきたものは、明かりに、来る。迎え入れれば、向こうのことが、分かる、って」


***


「……知りたかった」


ソルヴェイの声が、初めて崩れた。


***


「母さんが、どこへ、行ったのか。……五十年。ずっと」


***


ヨハネスは、答えなかった。


答えられることは、なかった。

たぶん、誰にも。


***


二階で、窓の鳴る音がやんだ。


ソルヴェイは、耳をすませた。


***


外で、町の犬が吠えた。


さっきまでホテルに向いていた何匹かが、向きを変えていた。


***


山の、ほうへ。


一匹。二匹。町中の。


山の、ほうへ。


***


零時、十二分と、四十秒。


番小屋の、中。


戸口に一番近い房が、ほどけた。


***


根元の黒い糸が、音もなく、灰になって消えた。


***


『……抜けた』


無線の向こうで、『レディー』が言った。


同時に。


***


メレオスの指先の火が、ぐん、と、戸口の外へ引っぱられた。


***


「……向いた」


メレオスが、言った。


「こっちを、向きよった」


***


戸口の外で、『ジョン』が振り返った。


山の下のほうを、見ていた。


***


「……健司」


「何だ」


「雪が」


***


俺には、戸口の四角い暗がりしか見えなかった。


***


でも、その四角の下のほうで、雪原の雪が、一本の線になって舞い上がっていた。


***


町のほうから。こっちへ。まっすぐ。


***


三キロ、あった。

一晩に、四百メートルの、はずだった。


帰り道は、一息じゃ。


***


戸が、呼んでいた。

俺の左手の下で、輪の縁が。冷たく。冷たく。吸いこむみたいに。


***


「『ジョン』! どけ!」


『ジョン』が、戸口から横に跳んだ。


冷たいものが、入ってきた。


***


見えなかった。音もしなかった。


でも、メレオスの火が、真横に倒れた。

風もないのに。


***


それから、俺の顔のすぐ前を、何かが通った。


***


冬至の山の窪みの底の冷たさだった。

五十年、閉じこめられていたものの冷たさだった。


***


輪の真ん中へ。

戸の向こうへ。


入った。


半分。


止まった。


***


メレオスが、前に出た。


違った。出ようとした、のではなかった。


引かれていた。


***


襟を掴んだ右手に、重さがかかった。


***


メレオスの小さな体が、輪の真ん中へ。戸の向こうへ。引かれていた。


***


メレオスの顔が見えた。火の明かりで。


戸の向こうを、見ていた。


見たことのない、顔だった。


***


小さな子供の顔だった。

ずっと遠くの家の窓を見ている、子供の顔だった。


***


「……呼んどる」


メレオスが、言った。


「わしの、名を。……昔の、名を」


***


戸の向こうから、何かが聞こえた。

さっきと同じ、覚えられない音が。


***


一緒に帰ろう、と。言っている音だった。

言葉が分からなくても、それだけは分かった。


***


俺は、右手に力を入れた。


「メレオス」


返事が、なかった。


***


「メレオス!」


「……分かっとる」


メレオスは言った。戸の向こうを見たまま。


***


「分かっとる。……離すな」


「離さない」


「一秒も、じゃぞ」


「一秒も、だ」


***


メレオスは、戸の向こうに向かって、小さく言った。


***


日本語、だった。


「……帰らん」


「わしの、家は。……こっちじゃ」


***


『……吸って』


由紀の声がした。


『ひとつ』


俺は、吸った。

左手を、輪の縁に押しつけて。


***


『ふたつ』


気を、流した。

床の板に。焼けた輪に。戸の縁に。


***


戸締まりの気だった。

じいちゃんが教えてくれた。隠り山で、由紀と二人で流した。


***


『みっつ』


戸が、押し返してきた。


重かった。隠り山の戸より、ずっと重かった。


***


半分向こうに入ったあれが、向こうへ戻りながら、こっちのものを引いていた。


***


『よっつ』


『止めて』


止めた。


右手に、メレオス。

左手に、戸。


***


両方、重かった。


『ひとつ』


『ふたつ』


『吐いて』


吐いた。


***


八千キロ、向こうで。

由紀も、吐いていた。


分かった。


***


縁側の。北向きの。座布団の上で。膝に両手を置いて。


***


一つの息を、二人で回していた。


戸が、少しだけ動いた。


閉まる、ほうへ。


***


八時、十三分。


小沢家の、門の前。


鷲尾は、道のほうを向いたまま、振り返らなかった。


***


北の空を、見ていた。


冬の朝の、薄い青の空を。

その、ずっと向こうを。


***


「……あ」


鷲尾が、言った。


「向こうの、戸。……閉まって、きてる」


『ホラー』が、鷲尾の目を見ていた。


***


「……中の、子が」


『ホラー』は、言った。


「窓から、引っこみました。……奥の、ほうへ」


***


縁側で、由紀が数えていた。


「……吸って。ひとつ」


二回目、だった。


***


零時、十三分。


番小屋の、中。


『ふたつ』


『みっつ』


戸が、また、押し返してきた。


***


メレオスの襟が、右手の中で、ずる、と滑った。


指に力を入れた。入らなかった。


***


左手に気を流しすぎていた。

右手が、痺れてきていた。


***


倉庫の夜と、同じだった。

肉じゃがの箸が持てなかった、夜と。


***


「……健司」


メレオスが言った。戸の向こうを見たまま。


「わしの、火を、使え」


***


「……は?」


「わしは、灯台じゃ。……もう、ええ。あれは、戸の、中じゃ。灯台は、もう、要らん」


***


メレオスは、指先の火を、自分の胸の前に下ろした。


俺の右手の、上に。


***


「火種と、焚き火は、別物じゃ。……小さく、する、練習を、したじゃろう」


***


火が、俺の手の甲に移った。


熱く、なかった。


温かかった。


***


冬至の日没の縁側の。柚子湯の。肉まんの。


痺れていた指に、血が戻った。


***


握った。

メレオスの襟を。もう一度。しっかり。


***


『よっつ』


『止めて』


『ひとつ』


『ふたつ』


『……吐いて』


***


戸が、動いた。


閉まるほうへ。さっきより、大きく。


***


戸の向こうから、また、あの音がした。


メレオスの昔の名前だった。たぶん。


***


少しだけ、さみしそうな音だった。


メレオスは、答えなかった。


***


零時、十四分。


『……吸って』


三回目、だった。


『ひとつ』


『ふたつ』


***


『みっつ』


『よっつ』


『止めて』


『ひとつ』


『ふたつ』


『吐いて』


***


戸の向こうの冷たさが、遠くなった。


どんどん、遠くなった。


***


冬至の山の窪みの底より、ずっと深いところへ。


***


『……いつつ』


『むっつ』


閉まった。


音は、しなかった。


***


左手の下で、焼けた床の輪が、ただの焼けた床になった。


***


冷たく、なかった。

冬の山小屋の床の冷たさだった。普通の。


***


メレオスの体から、重さが消えた。


俺は、後ろにひっくり返った。


***


メレオスが、俺の腹の上に落ちてきた。


***


「……ぐえ」


「神の、尻に、敷かれて、ぐえ、とは、何じゃ」


***


番小屋の中は、真っ暗だった。


火は、消えていた。

俺の手の甲の火も。メレオスの指先の火も。


***


「……離して、ええぞ」


メレオスが、言った。


俺は、右手を見た。暗くて、見えなかった。


***


でも、まだ、メレオスの襟を握っていた。


「……もう、少し」


***


メレオスは、何も言わなかった。


俺の腹の上で、じっとしていた。


***


しばらく。


戸口に、『ジョン』の影が立った。


***


「……閉まったか」


「閉まった」


『ジョン』は、無線に言った。


「閉まった」


***


無線の向こうで、イングリッドさんの声がした。


『……揺れ、ゼロ。……たぶん』


***


『たぶん?』


『データ、ない、です。……見て、なかったので』


少し、間があった。


***


『……初めて、です。見なかったの』


***


泣いているのか、笑っているのか、分からない声だった。

たぶん、両方だった。


***


『レディー』の声が、割りこんだ。


『窓の、霜。……消えたわ』


それから、少しだけ黙って。


***


『……よくやったわね。全員』


赤城さんみたいな、言い方だった。


***


八時、十四分。


小沢家の、門の前。


鷲尾は、首をまっすぐに戻した。


傾げていなかった。


***


「……閉まっちゃった」


子供の喋り方だった。

でも、少しだけ小さかった。


***


「向こうの、子。……帰っちゃった」


赤城は、答えなかった。


***


鷲尾は、道のほうを見た。

それから、自分の空の両手を見た。羊羹が、なかった。


***


「……つまんない」


それから、背筋が伸びた。


赤城のほうへ向き直って、四十五度の礼をした。


***


きっちり、三秒では、なかった。


もっと、長かった。


***


「……大臣」


大人の声だった。低い、よく通る声だった。


***


「朝早くから。……失礼、いたしました」


顔を、上げた。


にこにこ、していなかった。


***


一瞬だけ。


それから、また、にこにこした。首を、傾げた。


「また、遊ぼうね。赤城さん」


***


鷲尾は、歩いていった。


こつ。

こつ。


***


よく磨いた、重たい革靴の音が、道の向こうへ、小さくなっていった。


***


『レスラー』が、赤城を見た。


「……追いますか」


「追うな」


赤城は、言った。


「……今日は。追い返した、だけだ」


***


『ホラー』は、道の向こうを見ていた。前髪を、上げたまま。


***


「……中のも、一緒に、帰りました」


「奥のは」


「……まだ、正座、してました」


***


赤城は、少しだけ目を閉じた。


それから、脇に抱えた風呂敷の包みを見た。


***


縁側で、由紀が目を開けた。


庭の霜が、朝日で光っていた。

柚子の木の影が、長かった。


***


赤城が、門のほうから歩いてきた。

登山靴で。一歩ずつ。


***


縁側の前で、止まった。頭を下げた。

葬式の日と、同じ下げ方だった。


***


「由紀さん。……終わりました」


***


由紀は、赤城を見た。


「……追い返したんですか」


「追い返した、だけです」


***


由紀は、少しだけ黙った。


おじいちゃんも、そうだった。


***


五十年前。隠り山で。殺さずに。追い返した、だけだった。


それで、五十年。


***


「……それで、いいと、思います」


由紀は、言った。


「おじいちゃんの、道場の、人が、やったんなら」


***


赤城は、何も言わなかった。

口元が、少しだけ緩んだ。


***


横に置いたスマホから、声がした。


『……由紀』


兄の声だった。息が、切れていた。


***


「いるよ」


『閉まった』


「……知ってる」


由紀は、言った。


***


「最後の、むっつ。……軽く、なったから」


『……そっちは』


「帰った。……赤城さんが、追い返した」


***


電話の向こうで、兄が長い息を吐いた。


数えていない、息だった。


***


由紀も、吐いた。


「……お兄ちゃん」


『なに』


「今、言ったからね。全部」


***


少し、間があった。


『……聞いた』


***


零時、四十分。


番小屋を、出る前に。


***


『ジョン』が、懐中電灯をつけた。

もう、灯台は要らなかった。


***


床の焼けた輪の真ん中に、二つの帽子が残っていた。


***


お揃いの、赤い帽子。

四つの角をそろえて、畳まれたまま。


***


輪の外側の房は、全部ほどけていた。


***


町の大人たちのぶんも。俺のぶんも。

根元の黒い糸は、一本も残っていなかった。


***


『ジョン』が、言った。


「……町じゅうの、帽子の、糸も。たぶん、今ごろ」


***


俺は、二つの帽子を拾った。


そっと。畳んだ形のまま。


***


「……それ、どうする」


「ヨハネスさんに、渡す」


葬式が、まだだった。遺体が、ないから。


***


メレオスは、何も言わなかった。


柱の根元の『1970』を、見ていた。


***


その下の、古い、焦げた輪を。


「……こっちの、輪は」


「閉まっとる。……とうの、昔にな」


***


木の途切れるところで、トナカイのおじいさんが待っていた。


***


スノーモービルのエンジンは、かけたままだった。


***


おじいさんは、俺の手の赤い帽子を見た。


長いこと、見た。


***


それから、外套のポケットに手を入れた。

赤い毛糸の帽子を出した。

一度もかぶったことのなさそうな、帽子だった。


***


裏返して、見た。


黒い糸は、なかった。

糸の抜けた穴が、並んでいた。


***


おじいさんは、赤い帽子をポケットに戻した。

毛皮の帽子を、耳まで深くかぶり直した。


***


何も、言わなかった。


***


橇の犬が、俺の足元の何もないところに鼻を突っこんで、尻尾をちぎれそうなくらい振っていた。


***


「……顔を、舐めるでない」


メレオスの声は、少し鼻にかかっていた。


***


一時、半。


ホテルの、食堂。


表の扉を開けると、暖炉の火が小さく残っていた。


***


テーブルに、二人、座っていた。


ソルヴェイさんと。

ヨハネスさん。


***


グラスが、二つ。

どっちも、空だった。


テーブルの真ん中に、白黒の写真が一枚。

表を向いて。


***


階段の途中に、『レディー』が座っていた。

膝の上で、縫い針をハンカチにしまいながら。


***


イングリッドさんは、その一段上にいた。

三年前の帽子をかぶって。閉じたノートパソコンを抱えて。


***


ソルヴェイさんが、顔を上げた。


丸い眼鏡の奥の目が、赤かった。


***


俺の手の二つの帽子を、見た。


少しだけ、口が開いた。


何か言おうとして、言えなかった。


***


俺は、二つの帽子を、ヨハネスさんの前に置いた。


***


ヨハネスさんは、帽子を見た。

それから、両手をその上に重ねた。


***


ノルウェー語で、短く、何か言った。


***


『レディー』が、階段から訳した。


「……葬式を、しよう。あした。……二人の」


***


ソルヴェイさんは、目を閉じた。


それから、ノルウェー語で、ゆっくり、何か言った。


***


俺には、分からなかった。


『レディー』は、すぐには訳さなかった。


しばらく、黙っていた。


***


「……全部、話す、って」


『レディー』は、言った。


「朝に、なったら。……あんたたちに。警察にも」


***


「それと」


『レディー』は、少しだけ間を置いた。


「……私じゃ、なかったのね、って」


***


ソルヴェイさんは、目を開けた。


階段の上の、イングリッドさんを見た。


長いこと、見た。


***


イングリッドさんは、帽子のつばを両手で握った。

目を、そらさなかった。


***


データの顔では、なかった。


***


ソルヴェイさんは、何も言わなかった。


***


それから、テーブルの布巾を取って、四つの角をそろえて、畳んだ。


***


座ったまま、だった。


朝まで。

二人は、そこに座っていた。


***


部屋に戻る前に、俺は、表の扉を少しだけ開けて、外を見た。


***


モルクヴィークは、真っ暗だった。


どの窓にも、明かりはなかった。

ホテルの角の窓にも。


***


空の真上に、オーロラが出ていた。


穴は、なかった。


***


「……暗い、入り江、か」


肩の上で、メレオスが言った。


「ええ、名前じゃのぉ」


***


俺は、扉を閉めた。


ちゃんと。

戸締まり、した。


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