↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
92/176

第八十二章 零時、十一分

『……九日の、夜中の、二時にね』


電話の向こうで、由紀が、言った。


***


一月十三日の、午後三時。

モルクヴィークは、もう、夜の色だった。

日本は、夜の、十一時だった。


由紀は、全部、話した。


***


九日の、夜中の、二時。

共さんの戸の前に、誰かが来たこと。

ドアノブが、二回、回ったこと。開かなかったこと。


***


同じ時刻に、由紀の戸にも、誰かが触ったこと。

目を覚まして、閉め直したこと。

戸の外に、大人の、偉い人の背中を、服みたいに着た、子供みたいな何かが、いたこと。

その何かが、首を傾げて、帰っていったこと。


戸の前に、羊羹が、一切れ、置いてあったこと。


***


それから、今夜のこと。


賀詞交歓会。

『ホラー』さんが、前髪を上げて、名刺を渡して、見つけたこと。

警察庁の、偉い人。鷲尾という名前。

二十年、赤城さんに、羊羹を、持ってきていた人。


***


『伊左衛門先生の、ご家族は、早起きで、いらっしゃいますか、って』


由紀の声は、震えていなかった。一回も。


『明日の朝、八時十二分。……うちに、来ると思う。たぶん』


***


俺は、ホテルの部屋の、ベッドの端に、座っていた。

スマホを、耳に当てたまま。

何も、言えなかった。


九日。

四日前だった。


***


四日前の、夜中に。

由紀は、一人で目を覚まして。

一人で、戸を閉め直して。

一人で、課長に電話して。


***


その四日間、俺は、白鳥を作っていた。

滑り台で、子供と遊んでいた。

由紀に、『そっちは、何もないか』と、送っていた。


なにもないよ、と、返ってきた。

一分、遅れて。


***


「……なんで」


やっと、声が出た。


「なんで、言わなかった」


『お兄ちゃん、向こうで、忙しそうだったから』


即答だった。


***


『帰ってきたら、全部、言おうと思ってた。……でも』


少し、間があった。


『共さんに、言われた。おじいちゃんも、そうだった、って。大事なことほど、後で、言う人だった、って。後で、って思ってるうちに、言わないまま、書いて、閉じちゃう人だった、って』


***


手帳の、開かなかった、ページ。

五十五年分の、異状なし。


『だから、今、言ってる』


***


「……帰る」


口から、出ていた。


「今から、帰る。飛行機、取って」


「帰れん」


***


メレオスだった。

窓際に、立っていた。

小さな赤い帽子を、胸に抱えて。


「今夜は、ここじゃ。……お主が、戸を閉めんで、誰が、閉める」


分かっていた。

分かっていても、言いたかった。


***


『お兄ちゃん』


由紀の声がした。


『帰ってこなくて、いいよ』


『こっちは、赤城さんが、来てくれる。『ホラー』さんも。『レスラー』さんも。……それに、あたしの戸も、ある』


***


『お兄ちゃんは、そっちの戸を、閉めて。……あたしは、息を、送る』


『縁側で。おじいちゃんの、場所で』


俺は、目を閉じた。


***


「……母さんは」


『加藤さんが、何とかするって』


「何とか、って」


『加藤さんの、何とか、だから。大丈夫だって。課長さんが』


***


笑ってしまった。

こんなときに。


由紀も、電話の向こうで、少しだけ笑った。


「……由紀」

『なに』

「じいちゃんに、似るなよ」


『だから、今、言ってるんでしょ』


電話が、切れた。


***


しばらく、スマホを、持ったまま、動けなかった。


「……あの娘は」


メレオスが、言った。


「伊左衛門に、よう似とる。……じゃが、そこだけは、似んかったのぉ」


「……そこ?」


「言うたじゃろう。……伊左衛門は、最後まで、言えなんだ」


***


イングリッドさんは、ゆうべ、答えていた。


ソルヴェイさんに、新しい帽子をかぶせられて。

十三日の夜から、うちに泊まりなさい、と、言われて。

私の部屋の、隣よ、と。


食堂が、静かになって。

誰も、何も、言えなくて。


***


イングリッドさんは、膝の上の、三年前の帽子を、握りしめたまま。

ノルウェー語で、一言だけ、言った。


「……ヤー」


はい、だった。


***


ソルヴェイさんは、嬉しそうに、手を叩いた。

イングリッドさんの頬を、両手ではさんだ。

それから、厨房に戻っていった。


***


あとで、俺の部屋で。

『レディー』に、なぜ、と聞かれて。

イングリッドさんは、眼鏡を押し上げて、答えた。


「断ったら、ソルヴェイさんは、次の手を、打ちます。……『レディー』さんが、前に、言いました」


「それに」


「ソルヴェイさんの、部屋の、隣にいれば。灯台が、消えたかどうか。……一番、近くで、分かります」


***


データの、顔だった。

震えていた。

でも、データの、顔だった。


『レディー』は、しばらく、イングリッドさんを見ていた。


「……ふーん」


それから、一つだけ、条件をつけた。


「その部屋。私も、泊まる」


***


新しい帽子は、その場で、裏返した。


黒い糸が、あった。

二本、だった。


前の帽子より、太い糸が。

二本、よじり合わせて。

紋章の形に、ぐるりと、頭を、一周していた。


***


『レディー』は、何も言わずに、縫い針を出した。

一本目を、抜いた。

二本目を、抜いた。

四十秒と、四十秒だった。


***


抜いた糸は、ハンカチに包んで、俺の手のひらの、火種で、燃やした。

音は、しなかった。


番小屋の、輪の外の、房が。

今、一つ、ほどけたはずだった。


***


一月十三日の、夜の、十一時。


ホテルの、食堂。


ソルヴェイは、テーブルを拭いていた。

客の、いなくなった、食堂だった。

暖炉の火が、小さくなっていた。


表の扉の、鈴が、鳴った。


***


ヨハネスだった。


黒い服に、黒い外套。

帽子は、かぶっていなかった。

白い髪に、雪が、のっていた。


***


右手に、瓶を一本、持っていた。

琥珀色の、古い、酒の瓶だった。


左手に、写真を一枚、持っていた。

白黒の。角の、擦り切れた。


***


ソルヴェイは、布巾を持ったまま、止まった。


「……ヨハネス」


名前を、呼んだ。

牧師さん、では、なかった。


***


ヨハネスは、テーブルに、瓶を置いた。

写真を、伏せたまま、その横に置いた。


「……話を、しに来た」


ヨハネスは、言った。


「五十年ぶんの」


***


ソルヴェイは、写真を見た。

伏せられた、白い、裏側を。


それから、天井を見た。

二階の、山側の、角の部屋のほうを。


***


少しだけ、迷った。

たぶん、生まれて初めて、見せる、迷い方だった。


それから、布巾を置いた。

グラスを、二つ、持ってきた。

ヨハネスの向かいに、座った。


***


食堂の、隅の、柱の陰。

階段の、下。


『レディー』が、立っていた。

二人から、見えない場所に。音を、立てずに。


それから、階段を、上がっていった。


***


二階の廊下。

突き当たりの、角の部屋。


鍵は、かかっていた。

『レディー』には、関係なかった。


部屋の中は、明るかった。


***


窓辺の、揺り椅子の、横。

小さな、テーブルの上。

古い、油のランプが、一つ、灯っていた。

炎が、窓ガラスに、映っていた。山の、ほうに、向いて。


***


『レディー』は、ランプの前に立った。


少しだけ、炎を見ていた。


それから、つまみを、回した。


炎が、小さくなった。

小さくなって。消えた。


***


窓が、暗くなった。

町に、一つだけ、ついていた窓が。


***


隣の部屋で、イングリッドが、ノートパソコンの画面を見ていた。

三年前の、赤い帽子を、膝にのせて。

無線機を、耳に当てて。


『……灯台、消えました』


イングリッドの声が、無線に乗った。


***


十一時、半。


山の、中腹。

木の、途切れるところ。


***


トナカイのおじいさんが、スノーモービルを止めた。

エンジンは、かけたままだった。

後ろの橇で、犬が、耳を寝かせていた。


***


おじいさんは、何も聞かなかった。

ここから先は、行かない、とも、言わなかった。

魔法瓶を、一本、俺に押しつけた。


それから、俺の、足元の、何もないところを見た。

犬が、尻尾を振っていた。


***


おじいさんは、何もないところに向かって、何か言った。

ノルウェー語だった。短かった。


『ジョン』が、訳した。


「……気をつけて行け、と。……小さいほうも、って」


メレオスが、ぴくりとした。


***


番小屋は、暗かった。


戸は、半分、開いたままだった。

焦げた匂いがした。


***


『ジョン』が、戸の外に立った。

照明は、つけなかった。灯台は、一つでないといけない。

無線だけを、握っていた。


俺と、メレオスは、中に入った。


***


焼けた床の、輪の、縁。

その、手前。

畳まれた、二つの帽子の、少し前。


俺は、しゃがんだ。


右手で、メレオスの、襟首を、掴んだ。


***


変な服の、後ろの、襟を。

しっかり。

猫の子を、つまむみたいに、じゃなく。握るように。


「……痛いぞ」

「我慢しろ」

「神の、襟じゃぞ」

「知ってる」


***


左手を、床に当てた。

焼けた、板の上に。輪の、縁に。


冷たかった。

戸の、冷たさだった。

隠り山の、窪みの底と、同じだった。


***


「……明かりは」

俺は、言った。

「どうするんだ。ランプも、懐中電灯も、持ってきてない」


「いらん」


メレオスは、言った。


「わしが、明かりじゃ」


***


メレオスは、右手の、人差し指を立てた。


その先に。


火が、灯った。


***


小さな、火だった。

蝋燭の炎くらいの。

指先で、ゆらゆら、揺れていた。


見たことが、あった。


***


じいちゃんが死んだ年の、アパートの、リビング。

神様です、と名乗った、変な服の子供が。

ハリセンを、振り回しながら。

ほれっ、と、言って。指先に、灯してみせた、火。


一番最初に、教わった、火だった。


***


火種と、焚き火は、別物じゃ。

小さくする、練習をせい。


「……それ」

「覚えとったか」

「忘れるかよ」


***


メレオスは、ふん、と、鼻を鳴らした。

それから、指先の火を、輪の、真ん中のほうへ、向けた。

戸の、向こうへ。

それから、ゆっくり、振り返って。戸口の、外へ。山の下の、町のほうへ。


***


雪原の、どこか。

町の、端の、手前。

ゆうべの、最後の窪みの、上。


あれが、寝ている、ほうへ。


***


一月十四日の、朝、七時、五十分。

日本。


小沢家の、縁側。


北向きの、縁側だった。

座布団が、三枚、並んでいた。


***


右に、由紀。

左は、空いていた。

真ん中も、空いていた。


真ん中は、おじいちゃんの、場所だった。

冬至の朝、かみさまが、座った場所だった。

今日は、誰も、座っていなかった。


左は、兄の、場所だった。


***


庭に、赤城が、立っていた。

背広の上に、黒い外套。

足元は、冬至の山で履いた、登山靴だった。

「……庭は、滑る」と、それだけ、言った。


***


門の前に、『ホラー』が、立っていた。

課長に借りた背広は、もう、着ていなかった。

いつもの、くたびれた、黒い上着だった。

前髪は、下りていた。ポケットの中で、黒いピンを、二本、握っていた。


***


裏の、勝手口に、『レスラー』がいた。

あんパンは、持っていなかった。

さすがに、持っていなかった。


***


母は、七時半に、出かけていった。


玄関に、加藤さんが、迎えに来た。

にこにこ、していた。

商店街の、初売りの、福袋の、特別優待券を、持っていた。

朝の八時から、並ぶと、もらえるらしかった。


***


「……福引の、次は、福袋?」

母は、玄関で、首を傾げた。

普通の、傾げ方だった。

それから、由紀を見た。長いこと、見た。


「……帰ってきたら、聞くからね。全部」


***


冬至の朝と、同じことを、言った。

それから、加藤さんと、並んで、出ていった。


***


父は、六時半に、会社に行っていた。

いつもどおりだった。

出がけに、縁側の座布団を、ちらりと見た。何も、言わなかった。

それから、柚子の木を見た。冬至に、実を全部、摘んでしまった木を。


***


「……浮かべすぎるなよ」


それだけ言って、出ていった。

何を、とは、言わなかった。


***


七時、五十五分。


由紀は、座布団の上に、正座した。

北を、向いて。膝の上に、両手を置いて。


***


スマホは、横に置いた。

兄と、つながっていた。

画面は、真っ暗だった。向こうも、真っ暗だった。


***


『……由紀』


兄の声がした。

小さかった。風の音が、混じっていた。


「いるよ」


『……寒くないか』


「そっちよりは」


兄が、少しだけ、笑った。


***


八時、五分。

零時、五分。


モルクヴィークの、町中の、犬が、吠えた。


一匹。

二匹。

町中の。


山の、ほうに、向かって。


***


でも、今夜は、少しだけ、違った。

何匹かが、山ではなく。

町の、真ん中の、ほうを、向いていた。


ホテルの、ほうを。


***


ホテルの、食堂で。

ヨハネスが、グラスに、酒を注いでいた。

二つ目の、グラスに。


伏せた、写真は、まだ、伏せたままだった。


ソルヴェイは、グラスを、受け取らなかった。


***


窓の、ほうを、見ていた。

食堂の窓から、見えるはずのない。

二階の、自分の、部屋の、窓のほうを。


***


「……ヨハネス」


ソルヴェイは、言った。

やさしい、声だった。


「私の、ランプ。……消えてる、わね」


***


ヨハネスは、答えなかった。

グラスを、ソルヴェイの前に置いた。


「座っていなさい」


ヨハネスは、言った。


「今夜は。……五十年前の、あの夜の、ように」


***


ソルヴェイの手が、テーブルの上で、少しだけ震えた。


***


八時、八分。


小沢家の、門の前で。


『ホラー』が、顔を上げた。


前髪の、隙間から、道の先を見ていた。


***


こつ。

こつ。


足音が、した。


よく磨いた、重たい、革靴の、音だった。


***


「……赤城さん」


『ホラー』は、振り返らずに、言った。


「来ました」


「……後ろ、か」


「いえ」


***


『ホラー』は、ポケットから、黒いピンを、二本、出した。

前髪を、横に流した。留めた。


額が、出た。

目が、出た。


「……前です」


***


道の、向こうから。

濃い灰色の、背広の男が、歩いてきていた。

両手に、紫の、風呂敷の、包みを、持って。


にこにこ、していた。


***


赤城が、庭から、門のほうへ、歩き出した。

登山靴で。一歩ずつ。


「……兄弟子が、だ」


誰に、というわけでもなく。小さく、言った。


***


八時、十分。

零時、十分。


番小屋の、中。


メレオスの、指先の、火が。

戸口の、外の、暗い雪原に、向いていた。


俺には、何も、見えなかった。


***


でも、メレオスの襟を掴んだ手に、伝わってきた。


メレオスが、震えていた。


「……起きよった」


小さな、声だった。


「灯台が、消えたのに、気づいた。……今、探しとる。真っ暗の、中で」


***


無線が、鳴った。


『……ケンジさん』


イングリッドさんの、声だった。


『まだ、揺れて、ません。……零時十二分に、なってないので』


少し、間があった。


『でも。……ホテルの、窓が』

『私の、部屋の、窓が。……少しだけ、曇ってきました。外から』


***


『レディー』の声が、無線に、割り込んだ。


『……窓から、離れなさい』


***


ソルヴェイの、窓の、隣の、部屋。

灯台の、隣。


灯台が、消えて。

あれは、手探りになる。

一番、近くの、帽子を、探す。


一番、ずっと、見ていた、人を。


***


「……メレオス」


「分かっとる」


メレオスは、指先の火を、高く上げた。

番小屋の、戸口の、外へ。雪原の、暗い、ほうへ。


火が、少しだけ、大きくなった。


***


「こっちじゃ」


メレオスは、言った。

日本語だった。

それから。


***


八時、十一分。

零時、十一分。


縁側で、由紀が、目を閉じた。


スマホの、スピーカーから、由紀の声がした。


***


『……吸って』


『ひとつ』


俺は、息を、吸った。

メレオスの、襟を、握ったまま。


***


『ふたつ』


門の前で、鷲尾が、立ち止まった。

四十五度の、礼をした。


***


『みっつ』


食堂で、ヨハネスが、写真を、表に返した。


***


『よっつ』


番小屋の、中で。

メレオスが、口を開いた。


昔の、言葉だった。


名前、だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。