第八十二章 零時、十一分
『……九日の、夜中の、二時にね』
電話の向こうで、由紀が、言った。
***
一月十三日の、午後三時。
モルクヴィークは、もう、夜の色だった。
日本は、夜の、十一時だった。
由紀は、全部、話した。
***
九日の、夜中の、二時。
共さんの戸の前に、誰かが来たこと。
ドアノブが、二回、回ったこと。開かなかったこと。
***
同じ時刻に、由紀の戸にも、誰かが触ったこと。
目を覚まして、閉め直したこと。
戸の外に、大人の、偉い人の背中を、服みたいに着た、子供みたいな何かが、いたこと。
その何かが、首を傾げて、帰っていったこと。
戸の前に、羊羹が、一切れ、置いてあったこと。
***
それから、今夜のこと。
賀詞交歓会。
『ホラー』さんが、前髪を上げて、名刺を渡して、見つけたこと。
警察庁の、偉い人。鷲尾という名前。
二十年、赤城さんに、羊羹を、持ってきていた人。
***
『伊左衛門先生の、ご家族は、早起きで、いらっしゃいますか、って』
由紀の声は、震えていなかった。一回も。
『明日の朝、八時十二分。……うちに、来ると思う。たぶん』
***
俺は、ホテルの部屋の、ベッドの端に、座っていた。
スマホを、耳に当てたまま。
何も、言えなかった。
九日。
四日前だった。
***
四日前の、夜中に。
由紀は、一人で目を覚まして。
一人で、戸を閉め直して。
一人で、課長に電話して。
***
その四日間、俺は、白鳥を作っていた。
滑り台で、子供と遊んでいた。
由紀に、『そっちは、何もないか』と、送っていた。
なにもないよ、と、返ってきた。
一分、遅れて。
***
「……なんで」
やっと、声が出た。
「なんで、言わなかった」
『お兄ちゃん、向こうで、忙しそうだったから』
即答だった。
***
『帰ってきたら、全部、言おうと思ってた。……でも』
少し、間があった。
『共さんに、言われた。おじいちゃんも、そうだった、って。大事なことほど、後で、言う人だった、って。後で、って思ってるうちに、言わないまま、書いて、閉じちゃう人だった、って』
***
手帳の、開かなかった、ページ。
五十五年分の、異状なし。
『だから、今、言ってる』
***
「……帰る」
口から、出ていた。
「今から、帰る。飛行機、取って」
「帰れん」
***
メレオスだった。
窓際に、立っていた。
小さな赤い帽子を、胸に抱えて。
「今夜は、ここじゃ。……お主が、戸を閉めんで、誰が、閉める」
分かっていた。
分かっていても、言いたかった。
***
『お兄ちゃん』
由紀の声がした。
『帰ってこなくて、いいよ』
『こっちは、赤城さんが、来てくれる。『ホラー』さんも。『レスラー』さんも。……それに、あたしの戸も、ある』
***
『お兄ちゃんは、そっちの戸を、閉めて。……あたしは、息を、送る』
『縁側で。おじいちゃんの、場所で』
俺は、目を閉じた。
***
「……母さんは」
『加藤さんが、何とかするって』
「何とか、って」
『加藤さんの、何とか、だから。大丈夫だって。課長さんが』
***
笑ってしまった。
こんなときに。
由紀も、電話の向こうで、少しだけ笑った。
「……由紀」
『なに』
「じいちゃんに、似るなよ」
『だから、今、言ってるんでしょ』
電話が、切れた。
***
しばらく、スマホを、持ったまま、動けなかった。
「……あの娘は」
メレオスが、言った。
「伊左衛門に、よう似とる。……じゃが、そこだけは、似んかったのぉ」
「……そこ?」
「言うたじゃろう。……伊左衛門は、最後まで、言えなんだ」
***
イングリッドさんは、ゆうべ、答えていた。
ソルヴェイさんに、新しい帽子をかぶせられて。
十三日の夜から、うちに泊まりなさい、と、言われて。
私の部屋の、隣よ、と。
食堂が、静かになって。
誰も、何も、言えなくて。
***
イングリッドさんは、膝の上の、三年前の帽子を、握りしめたまま。
ノルウェー語で、一言だけ、言った。
「……ヤー」
はい、だった。
***
ソルヴェイさんは、嬉しそうに、手を叩いた。
イングリッドさんの頬を、両手ではさんだ。
それから、厨房に戻っていった。
***
あとで、俺の部屋で。
『レディー』に、なぜ、と聞かれて。
イングリッドさんは、眼鏡を押し上げて、答えた。
「断ったら、ソルヴェイさんは、次の手を、打ちます。……『レディー』さんが、前に、言いました」
「それに」
「ソルヴェイさんの、部屋の、隣にいれば。灯台が、消えたかどうか。……一番、近くで、分かります」
***
データの、顔だった。
震えていた。
でも、データの、顔だった。
『レディー』は、しばらく、イングリッドさんを見ていた。
「……ふーん」
それから、一つだけ、条件をつけた。
「その部屋。私も、泊まる」
***
新しい帽子は、その場で、裏返した。
黒い糸が、あった。
二本、だった。
前の帽子より、太い糸が。
二本、よじり合わせて。
紋章の形に、ぐるりと、頭を、一周していた。
***
『レディー』は、何も言わずに、縫い針を出した。
一本目を、抜いた。
二本目を、抜いた。
四十秒と、四十秒だった。
***
抜いた糸は、ハンカチに包んで、俺の手のひらの、火種で、燃やした。
音は、しなかった。
番小屋の、輪の外の、房が。
今、一つ、ほどけたはずだった。
***
一月十三日の、夜の、十一時。
ホテルの、食堂。
ソルヴェイは、テーブルを拭いていた。
客の、いなくなった、食堂だった。
暖炉の火が、小さくなっていた。
表の扉の、鈴が、鳴った。
***
ヨハネスだった。
黒い服に、黒い外套。
帽子は、かぶっていなかった。
白い髪に、雪が、のっていた。
***
右手に、瓶を一本、持っていた。
琥珀色の、古い、酒の瓶だった。
左手に、写真を一枚、持っていた。
白黒の。角の、擦り切れた。
***
ソルヴェイは、布巾を持ったまま、止まった。
「……ヨハネス」
名前を、呼んだ。
牧師さん、では、なかった。
***
ヨハネスは、テーブルに、瓶を置いた。
写真を、伏せたまま、その横に置いた。
「……話を、しに来た」
ヨハネスは、言った。
「五十年ぶんの」
***
ソルヴェイは、写真を見た。
伏せられた、白い、裏側を。
それから、天井を見た。
二階の、山側の、角の部屋のほうを。
***
少しだけ、迷った。
たぶん、生まれて初めて、見せる、迷い方だった。
それから、布巾を置いた。
グラスを、二つ、持ってきた。
ヨハネスの向かいに、座った。
***
食堂の、隅の、柱の陰。
階段の、下。
『レディー』が、立っていた。
二人から、見えない場所に。音を、立てずに。
それから、階段を、上がっていった。
***
二階の廊下。
突き当たりの、角の部屋。
鍵は、かかっていた。
『レディー』には、関係なかった。
部屋の中は、明るかった。
***
窓辺の、揺り椅子の、横。
小さな、テーブルの上。
古い、油のランプが、一つ、灯っていた。
炎が、窓ガラスに、映っていた。山の、ほうに、向いて。
***
『レディー』は、ランプの前に立った。
少しだけ、炎を見ていた。
それから、つまみを、回した。
炎が、小さくなった。
小さくなって。消えた。
***
窓が、暗くなった。
町に、一つだけ、ついていた窓が。
***
隣の部屋で、イングリッドが、ノートパソコンの画面を見ていた。
三年前の、赤い帽子を、膝にのせて。
無線機を、耳に当てて。
『……灯台、消えました』
イングリッドの声が、無線に乗った。
***
十一時、半。
山の、中腹。
木の、途切れるところ。
***
トナカイのおじいさんが、スノーモービルを止めた。
エンジンは、かけたままだった。
後ろの橇で、犬が、耳を寝かせていた。
***
おじいさんは、何も聞かなかった。
ここから先は、行かない、とも、言わなかった。
魔法瓶を、一本、俺に押しつけた。
それから、俺の、足元の、何もないところを見た。
犬が、尻尾を振っていた。
***
おじいさんは、何もないところに向かって、何か言った。
ノルウェー語だった。短かった。
『ジョン』が、訳した。
「……気をつけて行け、と。……小さいほうも、って」
メレオスが、ぴくりとした。
***
番小屋は、暗かった。
戸は、半分、開いたままだった。
焦げた匂いがした。
***
『ジョン』が、戸の外に立った。
照明は、つけなかった。灯台は、一つでないといけない。
無線だけを、握っていた。
俺と、メレオスは、中に入った。
***
焼けた床の、輪の、縁。
その、手前。
畳まれた、二つの帽子の、少し前。
俺は、しゃがんだ。
右手で、メレオスの、襟首を、掴んだ。
***
変な服の、後ろの、襟を。
しっかり。
猫の子を、つまむみたいに、じゃなく。握るように。
「……痛いぞ」
「我慢しろ」
「神の、襟じゃぞ」
「知ってる」
***
左手を、床に当てた。
焼けた、板の上に。輪の、縁に。
冷たかった。
戸の、冷たさだった。
隠り山の、窪みの底と、同じだった。
***
「……明かりは」
俺は、言った。
「どうするんだ。ランプも、懐中電灯も、持ってきてない」
「いらん」
メレオスは、言った。
「わしが、明かりじゃ」
***
メレオスは、右手の、人差し指を立てた。
その先に。
火が、灯った。
***
小さな、火だった。
蝋燭の炎くらいの。
指先で、ゆらゆら、揺れていた。
見たことが、あった。
***
じいちゃんが死んだ年の、アパートの、リビング。
神様です、と名乗った、変な服の子供が。
ハリセンを、振り回しながら。
ほれっ、と、言って。指先に、灯してみせた、火。
一番最初に、教わった、火だった。
***
火種と、焚き火は、別物じゃ。
小さくする、練習をせい。
「……それ」
「覚えとったか」
「忘れるかよ」
***
メレオスは、ふん、と、鼻を鳴らした。
それから、指先の火を、輪の、真ん中のほうへ、向けた。
戸の、向こうへ。
それから、ゆっくり、振り返って。戸口の、外へ。山の下の、町のほうへ。
***
雪原の、どこか。
町の、端の、手前。
ゆうべの、最後の窪みの、上。
あれが、寝ている、ほうへ。
***
一月十四日の、朝、七時、五十分。
日本。
小沢家の、縁側。
北向きの、縁側だった。
座布団が、三枚、並んでいた。
***
右に、由紀。
左は、空いていた。
真ん中も、空いていた。
真ん中は、おじいちゃんの、場所だった。
冬至の朝、かみさまが、座った場所だった。
今日は、誰も、座っていなかった。
左は、兄の、場所だった。
***
庭に、赤城が、立っていた。
背広の上に、黒い外套。
足元は、冬至の山で履いた、登山靴だった。
「……庭は、滑る」と、それだけ、言った。
***
門の前に、『ホラー』が、立っていた。
課長に借りた背広は、もう、着ていなかった。
いつもの、くたびれた、黒い上着だった。
前髪は、下りていた。ポケットの中で、黒いピンを、二本、握っていた。
***
裏の、勝手口に、『レスラー』がいた。
あんパンは、持っていなかった。
さすがに、持っていなかった。
***
母は、七時半に、出かけていった。
玄関に、加藤さんが、迎えに来た。
にこにこ、していた。
商店街の、初売りの、福袋の、特別優待券を、持っていた。
朝の八時から、並ぶと、もらえるらしかった。
***
「……福引の、次は、福袋?」
母は、玄関で、首を傾げた。
普通の、傾げ方だった。
それから、由紀を見た。長いこと、見た。
「……帰ってきたら、聞くからね。全部」
***
冬至の朝と、同じことを、言った。
それから、加藤さんと、並んで、出ていった。
***
父は、六時半に、会社に行っていた。
いつもどおりだった。
出がけに、縁側の座布団を、ちらりと見た。何も、言わなかった。
それから、柚子の木を見た。冬至に、実を全部、摘んでしまった木を。
***
「……浮かべすぎるなよ」
それだけ言って、出ていった。
何を、とは、言わなかった。
***
七時、五十五分。
由紀は、座布団の上に、正座した。
北を、向いて。膝の上に、両手を置いて。
***
スマホは、横に置いた。
兄と、つながっていた。
画面は、真っ暗だった。向こうも、真っ暗だった。
***
『……由紀』
兄の声がした。
小さかった。風の音が、混じっていた。
「いるよ」
『……寒くないか』
「そっちよりは」
兄が、少しだけ、笑った。
***
八時、五分。
零時、五分。
モルクヴィークの、町中の、犬が、吠えた。
一匹。
二匹。
町中の。
山の、ほうに、向かって。
***
でも、今夜は、少しだけ、違った。
何匹かが、山ではなく。
町の、真ん中の、ほうを、向いていた。
ホテルの、ほうを。
***
ホテルの、食堂で。
ヨハネスが、グラスに、酒を注いでいた。
二つ目の、グラスに。
伏せた、写真は、まだ、伏せたままだった。
ソルヴェイは、グラスを、受け取らなかった。
***
窓の、ほうを、見ていた。
食堂の窓から、見えるはずのない。
二階の、自分の、部屋の、窓のほうを。
***
「……ヨハネス」
ソルヴェイは、言った。
やさしい、声だった。
「私の、ランプ。……消えてる、わね」
***
ヨハネスは、答えなかった。
グラスを、ソルヴェイの前に置いた。
「座っていなさい」
ヨハネスは、言った。
「今夜は。……五十年前の、あの夜の、ように」
***
ソルヴェイの手が、テーブルの上で、少しだけ震えた。
***
八時、八分。
小沢家の、門の前で。
『ホラー』が、顔を上げた。
前髪の、隙間から、道の先を見ていた。
***
こつ。
こつ。
足音が、した。
よく磨いた、重たい、革靴の、音だった。
***
「……赤城さん」
『ホラー』は、振り返らずに、言った。
「来ました」
「……後ろ、か」
「いえ」
***
『ホラー』は、ポケットから、黒いピンを、二本、出した。
前髪を、横に流した。留めた。
額が、出た。
目が、出た。
「……前です」
***
道の、向こうから。
濃い灰色の、背広の男が、歩いてきていた。
両手に、紫の、風呂敷の、包みを、持って。
にこにこ、していた。
***
赤城が、庭から、門のほうへ、歩き出した。
登山靴で。一歩ずつ。
「……兄弟子が、だ」
誰に、というわけでもなく。小さく、言った。
***
八時、十分。
零時、十分。
番小屋の、中。
メレオスの、指先の、火が。
戸口の、外の、暗い雪原に、向いていた。
俺には、何も、見えなかった。
***
でも、メレオスの襟を掴んだ手に、伝わってきた。
メレオスが、震えていた。
「……起きよった」
小さな、声だった。
「灯台が、消えたのに、気づいた。……今、探しとる。真っ暗の、中で」
***
無線が、鳴った。
『……ケンジさん』
イングリッドさんの、声だった。
『まだ、揺れて、ません。……零時十二分に、なってないので』
少し、間があった。
『でも。……ホテルの、窓が』
『私の、部屋の、窓が。……少しだけ、曇ってきました。外から』
***
『レディー』の声が、無線に、割り込んだ。
『……窓から、離れなさい』
***
ソルヴェイの、窓の、隣の、部屋。
灯台の、隣。
灯台が、消えて。
あれは、手探りになる。
一番、近くの、帽子を、探す。
一番、ずっと、見ていた、人を。
***
「……メレオス」
「分かっとる」
メレオスは、指先の火を、高く上げた。
番小屋の、戸口の、外へ。雪原の、暗い、ほうへ。
火が、少しだけ、大きくなった。
***
「こっちじゃ」
メレオスは、言った。
日本語だった。
それから。
***
八時、十一分。
零時、十一分。
縁側で、由紀が、目を閉じた。
スマホの、スピーカーから、由紀の声がした。
***
『……吸って』
『ひとつ』
俺は、息を、吸った。
メレオスの、襟を、握ったまま。
***
『ふたつ』
門の前で、鷲尾が、立ち止まった。
四十五度の、礼をした。
***
『みっつ』
食堂で、ヨハネスが、写真を、表に返した。
***
『よっつ』
番小屋の、中で。
メレオスが、口を開いた。
昔の、言葉だった。
名前、だった。




