第八十一章 後ろではなく、中を
「……前髪、上げます」
『ホラー』が、言った。
***
一月十三日の、夕方、五時半。
都内のホテルの、地下の駐車場だった。
0課の、黒いワゴンの、後部座席。
課長が、運転席で振り返った。
加藤さんが、助手席で振り返った。
***
「……切らなくて、いいって、赤城さんは」
「切りません」
『ホラー』は、言った。
「上げるだけです」
***
『ホラー』は、借りた背広を着ていた。
課長の、一番いい背広だった。
袖が、少しだけ短かった。
***
「名刺を、渡すとき。後ろじゃなくて、目を、見るので」
『ホラー』は、自分の前髪に、指を入れた。
「……見えるように、しておきたいので」
***
加藤さんが、黙って、鞄を開けた。
小さな箱を出した。
中に、黒いヘアピンが、並んでいた。百円ショップの、ふつうのピンだった。
「こんなこともあろうかと、と、思いまして」
こんなことを予想していた人は、加藤さんしか、いなかった。
***
加藤さんが、身を乗り出した。
『ホラー』の前髪を、指で、そっとすくった。
横に流して。ピンで、二か所、留めた。
額が、出た。
目が、出た。
車の中が、静かになった。
***
課長の、スマホの中から、声がした。
画面の中の、『ギーク』だった。
肉まんを、口の手前で止めていた。
『……目、あったんですね』
「……ありました」
『ホラー』は、言った。
「ずっと」
***
思っていたより、細い目だった。
思っていたより、静かな目だった。
暗い、というより。遠くの、何かを、ずっと見てきた人の、目だった。
***
「うん、うん」
課長が、言った。
「……いい目だね」
『ホラー』は、少しだけ下を向いた。
前髪が、ないので、隠れられなかった。
***
六時。
宴会場は、三階だった。
天井が、高かった。
シャンデリアが、三つ、下がっていた。
白いテーブルクロスの上に、料理が並んでいた。
その間を、黒い背広の人たちが、何百人も、行き交っていた。
***
警察の、上のほうの人たち。
役所の、上のほうの人たち。
その、偉い人たち同士が、一年の最初に、頭を下げ合う会だった。
***
赤城は、入り口で、立ち止まらなかった。
いつもの背広で。いつもの、きっちり締めたネクタイで。
二人の護衛を、少し後ろに置いて。
***
その半歩後ろに、『ホラー』がいた。
課長の背広で。百円のピンで。
胸の内ポケットに、名刺を、百枚。
右の耳に、小さなイヤホンが、入っていた。
***
『聞こえますか』
『ギーク』の声だった。
『ホテルの、防犯カメラ、全部、もらいました。……聞かないでください、どうやったかは』
「……聞きません」
『それと、官舎と、つないでます』
***
少し、雑音がした。
それから、別の声がした。
低くて、丁寧な声だった。
『……久我です。こちら、戸の内側です』
***
共さんは、官舎の、六畳一間にいた。
戸は、閉まっていた。
由紀の、戸だった。共さんの形だけが、通れる戸だった。
戸の外の廊下に、『レスラー』がいた。
あんパンを持って。
***
共さんの手元には、スマホがあった。
『ギーク』が、宴会場の、防犯カメラの映像を、流していた。
『私は、中は、見えません』
共さんは、言った。
『ですが。……傾げ方は、分かります。五十年、中から、見ていましたので』
***
『ホラー』には、中が見える。
会えば。写真や、映像では、見えない。
共さんには、中は見えない。
でも、首の傾げ方で、分かる。映像でも。
目が、二つあった。
違う種類の、目が。
***
赤城が、歩き出した。
最初に、赤城に頭を下げてきたのは、どこかの局長だった。
赤城が、頭を下げ返した。
それから、半歩下がって、『ホラー』を示した。
「随行の、平沼です」
***
『ホラー』は、名刺を、両手で差し出した。
頭を下げた。
それから、顔を上げた。
後ろを、見た。
局長の、肩の、後ろ。
誰もいない、宴会場の、壁のあたり。
***
『……『ホラー』さん』
イヤホンから、『ギーク』の声がした。
『後ろ、見てます』
「……癖です」
***
局長は、名刺を受け取って、少しだけ首を傾げた。
普通の、傾げ方だった。
それから、自分の後ろを振り返った。
何もなかった。
『……普通の、傾げ方です』
共さんの声がした。
「……中も、一人だけです」
***
一枚目だった。
二枚目。
三枚目。
五枚目くらいで、『ホラー』は、後ろを見なくなった。
十枚目くらいで、目を、見るようになった。
***
相手の目を、まっすぐ。
前髪のない顔で。
名刺を、両手で差し出して。頭を下げて。顔を上げて。
目を、見る。
その目の、奥を、見る。
***
「……一人だけです」
イヤホンに、小さく言った。
相手には、聞こえないくらいの声で。
「……一人だけです」
「……一人だけです」
***
『ギーク』が、数を数えていた。
共さんが、傾げ方を、見ていた。
課長は、地下の駐車場で、湯呑みを持っていた。
魔法瓶の、お茶だった。加藤さんが、淹れた。
封筒の中の、三人。
***
一人目は、七時前に来た。
赤城に、頭を下げた。
『ホラー』が、名刺を差し出した。
目を、見た。
「……一人だけです」
***
二人目は、七時過ぎに来た。
恰幅のいい、白髪の男だった。
赤城と、長い握手をした。
『ホラー』が、名刺を差し出した。目を、見た。
「……一人だけです」
***
イヤホンの向こうで、『ギーク』が、息を吐いた。
『……じゃあ、三人目、ですね』
三人目は、まだ、来ていなかった。
***
七時、半。
赤城が、グラスを持ったまま、動きを止めた。
宴会場の、奥の、人の波が、少しだけ割れていた。
一人の男が、こっちに歩いてきていた。
***
背が、高かった。
肩が、広かった。
よく仕立てた、濃い灰色の背広だった。
白髪まじりの髪を、きちんと、後ろに流していた。
よく磨かれた、黒い、革靴だった。
***
両手に、何かを持っていた。
紫の、風呂敷の、包みだった。
四角い。細長い。
羊羹の、箱の、形だった。
***
『……警察庁の、警備局長です』
イヤホンから、『ギーク』の声がした。
いつもより、早口じゃなかった。
『鷲尾、です。……封筒の、三人目です』
***
鷲尾は、赤城の前で、立ち止まった。
頭を、下げた。
深く。きっちり、四十五度で。
「大臣。明けまして、おめでとうございます」
***
低い、よく通る、大人の声だった。
丁寧だった。非の打ちどころが、なかった。
「……おめでとう」
赤城が、言った。
声は、いつもと同じだった。同じに、聞こえた。
***
「今年も、例のものを」
鷲尾は、風呂敷の包みを、両手で差し出した。
「栗の入っていない、黒い、ほうです。……大臣は、あちらが、お好きなので」
***
赤城は、包みを受け取った。
受け取るしか、なかった。
二十年、毎年、受け取ってきたものだった。
「……ありがとう」
***
それから、赤城は、半歩下がった。
いつものように。『ホラー』を示した。
「随行の、平沼です」
『ホラー』が、名刺を差し出した。
両手で。頭を下げて。顔を上げて。
目を、見た。
***
鷲尾は、名刺を、両手で受け取った。
丁寧に。自分の胸の高さで、字を読んだ。
「……国務大臣、随行。平沼、義男、さん」
それから、顔を上げた。
***
『ホラー』の、額を、見た。
ピンで留めた、前髪を、見た。
それから、『ホラー』の、目を、見た。
少しだけ、首を傾げた。
***
イヤホンの向こうで、共さんが、息を止めた。
『……傾げました』
共さんの声が、少しだけ震えていた。
『その、傾げ方です。……五十年、中から、見ていた』
***
『ホラー』は、目を、そらさなかった。
鷲尾の、目の、奥を、見ていた。
よく仕立てた、大人の、背広の、奥。
よく磨いた、大人の、目の、奥。
***
その奥に、小さなものがいた。
子供みたいな、何か。
大人の体を、服みたいに着て。
こっちを、見上げて。面白そうに。
***
「……いました」
イヤホンに、言った。
声は、震えなかった。
「中に、入ってます」
***
鷲尾は、名刺を、胸の内ポケットにしまった。
それから、少しだけ、『ホラー』に顔を近づけた。
赤城にも、聞こえないくらいの声で。
「……おでこ、出したんだね」
***
大人の、声だった。
喋り方だけが、子供だった。
「後ろじゃなくて、中を、見る人だ。……きみ、便利だね」
『ホラー』は、答えなかった。
目も、そらさなかった。
***
鷲尾は、すっと、体を戻した。
また、大人の声になった。
「大臣。……北は、寒いでしょうね」
赤城の手が、グラスの、脚を握った。
***
「皆さん、お元気ですか。……あちらは、明日の、零時過ぎですか」
鷲尾は、腕時計を、ちらりと見た。
きっちり、時間を確かめる手つきだった。
「こちらは、朝の、八時過ぎ、ですね」
***
十四日の。
零時十二分。
こちらの、朝の、八時十二分。
***
「伊左衛門先生の、ご家族は」
鷲尾は、にこやかに言った。
「……早起きで、いらっしゃいますか」
***
赤城は、答えなかった。
答えるかわりに、鷲尾の、目を、見た。
長いこと。
二十年、毎年、年始に、頭を下げ合ってきた男の、目を。
***
鷲尾は、笑った。
楽しそうに。
「では、また。……今年も、よろしく、お願いいたします」
***
頭を、下げた。
きっちり、四十五度。
それから、背中を向けた。
去り際に。振り返らずに。
小さな声で。子供の喋り方で。
「……遊ぼうね、赤城さん」
***
人の波の中に、濃い灰色の背広が、消えていった。
赤城は、しばらく、動かなかった。
風呂敷の包みを、持ったまま。
グラスを、持ったまま。
***
「……大臣」
護衛の一人が、小声で言った。
「追いますか」
「追うな」
赤城は、言った。
「……ここで、何かをすれば。死人が、出る」
***
偉い人が、何百人もいた。
シャンデリアが、三つ、下がっていた。
冬至の山で、胸に軽く触れただけで、人を斜面へ転がした、あれが、いた。
***
「それに」
赤城は、グラスを、テーブルに置いた。
「あの中にも、人がいる」
***
九時。
地下の、駐車場。
黒いワゴンの、中。
『ホラー』は、ピンを外していた。
前髪が、また、目の上に落ちていた。
手のひらの上に、黒いピンが、二本、のっていた。
***
「……名刺」
加藤さんが、聞いた。
「何枚、残りました?」
「……六十一枚です」
「三十九人と、目を、合わせたんですね」
加藤さんは、にこにこして言った。
「頑張りましたね」
***
『ホラー』は、少しだけ頷いた。
それから、目を閉じた。
疲れていた。
***
赤城は、後部座席で、風呂敷を、膝の上に置いていた。
包みを、解いた。
桐の箱だった。
蓋を、開けた。
羊羹が、入っていた。
もう、切ってあった。
***
一本の羊羹が、全部、同じ厚さに。
定規で、測ったみたいに。
一切れも、ずれずに。
誰も、何も、言わなかった。
***
「……鷲尾は」
赤城が、言った。
「二十年。毎年、年始に、羊羹を、持ってきた男だ」
「……俺が、大臣になる、ずっと前から。一年も、欠かさずに」
赤城は、蓋を閉じた。
「今年も、持ってきた」
***
課長が、湯呑みを置いた。
「冬至の山で、仮面をつけて、立っていた人だね」
「……ああ」
「自分から、迎え入れた人だ」
「……ああ」
***
赤城は、窓の外を見た。
地下駐車場の、コンクリートの、壁だった。
「それでも」
赤城は、言った。
「一人も、死なせるな。……鷲尾も、含めてだ」
共さんのときと、同じ言葉だった。
同じ、声の、低さだった。
***
『……明日の、朝です』
『ギーク』の声がした。
『八時、十二分。……妹さんの、家です』
***
『伊左衛門先生の、ご家族は、早起きで、いらっしゃいますか』
あれは、そう言った。
知っていた。
十四日の朝に、何が起きるのか。
誰が、どこで、何をするのか。全部。
***
「……明日の朝は」
赤城が、言った。
「俺が、行く」
「大臣が、ですか」
課長が、言った。
いつかの、健司と、同じ言い方だった。
「兄弟子が、だ」
***
『ホラー』が、目を開けた。
「……俺も、行きます」
「後ろを、見る人が、要るでしょう」
少し、間があった。
「……中も、見ます」
***
『……私も』
イヤホンから、共さんの声がした。
『私も、参ります』
「駄目だ」
赤城が、言った。
即答だった。
***
「久我さんは、戸の中に、いてください。……あれは、久我さんに、入れる。五十年、住んでいた体だ」
イヤホンの向こうで、長い、沈黙があった。
『……承知、しました』
共さんの声は、承知していない声だった。
***
夜の、十一時。
小沢家の、二階。
由紀の、部屋。
由紀は、ベッドの上に座っていた。
スマホを、耳に当てていた。
課長からの、電話だった。
***
『……うん。だからね、由紀さん』
課長の声は、いつもどおり、柔らかかった。
『明日の朝は、赤城さんと、『ホラー』くんが、そっちに行く。『レスラー』くんもね。お母さんには、加藤さんが、朝から、何とか、するそうだよ』
「……何とか」
『加藤さんの、何とか、だからね。大丈夫だよ』
***
由紀は、少しだけ笑った。
それから、笑うのをやめた。
「……課長さん」
『うん』
「兄には」
***
『うん』
課長は、言った。
『言わないと、いけないね。……あっちも、明日、同じ時刻だから』
「あたしが、言います」
由紀は、言った。
一秒も、迷わなかった。
***
『……うん』
課長の声が、少しだけ、やわらかくなった。
『そう言うと、思ってたよ』
電話を、切った。
***
由紀は、スマホの画面を見た。
兄の、名前。
向こうは、昼の、三時だった。
明日の、零時十二分まで、九時間。
こっちの、朝の、八時十二分まで、九時間。
***
帰ってきたら、全部、言う。
そう、決めていた。
共さんに、似ないように、します、と、言った。
後で、と思っているうちに。
言わないまま、書いて、閉じてしまう人。
おじいちゃんに、似ないように。
***
押した。
一回目の、呼び出しで、出た。
『……由紀?』
「お兄ちゃん」
***
息を、吸った。
四つ。
止めた。
二つ。
「帰ってきたら、って、言ったけど」
吐いた。
「今、言う。……全部」




