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第八十章 八千キロの、息

『今、お湯の中!』


切れた。


***


一月十二日の、昼の、十二時。

日本は、夜の、八時。


俺は、観測所の裏の、雪の上に立っていた。

スマホを耳に当てたまま、ツー、ツー、という音を聞いていた。


***


「……切られた」


「風呂か」

メレオスが、言った。

「風呂だ」

「伊左衛門の家の者は、よう、風呂に入るのぉ」


***


ゆうべの零時十二分も、窪みは、四百メートル、町に近づいた。

向きを、また少しだけ直して。ホテルの、角のほうへ。


町の端まで、あと、二晩。


***


だから、今日のうちに、確かめておきたかった。

八千キロ向こうの由紀と、息が、揃うのか。

揃ったら、どのくらい、持つのか。


***


観測所の裏の、雪の上に、氷の檻が、一つ、立っていた。

人が一人、入れるくらいの。

けさ、作った。白鳥には、ならなかった。


***


檻の中に、メレオスが入る。

内側から、押す。

俺が、閉めて、持たせる。

何分、持つか。


***


冬至の前に、訓練場でやったのと、同じだった。

あのときは、メレオスは、五十年前を思い出したと言って、しばらく膝を抱えていた。


***


「……本当に、いいのか」

「何がじゃ」

「檻に、入るの」

「測らんと、分からん」

メレオスは、檻を見上げた。

「課長なら、そう言うじゃろ」


***


『ジョン』が、腕時計を見ていた。

課長の代わりだった。

メジャーは、持っていなかった。


***


一回目は、一人でやった。


メレオスが、檻に入った。

俺が、閉めた。

メレオスが、押した。


格子が、軋んだ。


***


一分。

二分。

格子に、ひびが入った。


三分、十秒。


「……割れる」


***


気を抜いた。

格子が、ぴしりと鳴った。

メレオスが、転がり出てきた。


「三分、十秒だ」

『ジョン』が、言った。


***


一人だと、三分。

課長の手帳の、十分より、ずっと短かった。

メレオスが、本気で押していたからだ。

あれは、たぶん、もっと押してくる。


***


観測所の、二階の窓に、人影があった。


所長の、ベルグさんだった。

腕を組んでいた。

それから、窓が開いた。英語で、何か言った。


***


「学術視察は、昼の二時間だけだ、と」

『ジョン』が、訳した。

「……今、昼だな」

『ジョン』が、腕時計を見た。

「十二時、七分だ」


***


ベルグさんは、少しだけ黙った。

それから、窓を閉めた。

閉めたあとも、窓の向こうに立っていた。腕を組んだまま。


見ている、らしかった。


***


スマホが、鳴った。


『お兄ちゃん、ごめん』

由紀だった。まだ、声が、少し響いていた。

『びっくりして、切っちゃった』


***


「……出てからで、いいぞ」

『出たら、湯冷めする』

「じゃあ、あとで」

『やだ。今、やる』


即答だった。


***


『お湯の中のほうが、息、深くなるし』


「……風呂で、やるのか」

『やる』

「戸締まりを」

『やる』


***


メレオスが、横で、腹を抱えていた。


「風呂で、戸締まりか」

「笑うな」

「伊左衛門も、やっとったわ」

「え」

「冬至の夜。庭から戻って、ゆず湯に浸かって。……あれは、戸の、閉め直しじゃったのかもしれんのぉ」


***


笑っていた顔が、少しだけ、真面目になった。

それから、また、笑った。


***


スマホを、スピーカーにした。

雪の上に、そっと置いた。

北極圏の雪の上から、日本の、風呂場の、湯気の音がした。


***


『イングリッドさんも、そこにいる?』

「いる」

『こんばんは! じゃなくて、こんにちは!』


***


イングリッドさんが、観測所の裏口に立っていた。

ノートパソコンを抱えて。

雪の上のスマホを見て、それから、空っぽの氷の檻を見た。


***


「……こんにちは!」

イングリッドさんは、スマホに向かって、頭を下げた。

「ケンジさんの、妹さん、ですか!」

『はい! 兄が、いつも、お世話になってます!』

「お世話に、なってます!」


***


どっちが、どっちの世話をしているのかは、分からなかった。


***


「……では、はじめるぞ」


メレオスが、もう一度、檻に入った。


俺は、しゃがんで、雪に手を当てた。

目を閉じた。


***


『……いくよ』


スマホから、由紀の声がした。

湯気の、向こうから。


***


『吸って。ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ』


吸った。


『止めて。ひとつ。ふたつ』


止めた。


***


止めながら、思った。

この数え方を、知っていた。


***


道場の、稽古の、始めと、終わり。

正座して。じいちゃんが、前に座って。

低い声で、ひとつ、ふたつ、と。


***


小学生の俺は、いつも、止めるところで、息が続かなくて。

吐くのが、早すぎて。

じいちゃんに、横目で見られていた。


***


『吐いて。ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ。むっつ』


吐いた。


***


「……由紀。その数え方、どこで」

『共さんに、教わった。おじいちゃんの、道場の、数え方』

『お兄ちゃん、知ってた?』


「……知ってた」


忘れてた、とは、言わなかった。


***


もう一回。

由紀が、数えた。

俺が、吸った。止めた。吐いた。


三回目で。


揃った。


***


分かった。

冬至の夜、隠り山の日没に、俺の中に、由紀の息が重なってきた、あのときと、同じだった。


一つの息を、二人で回している。

八千キロ、離れて。風呂場と、雪の上で。


***


「今じゃ、健司」


気を、流した。

檻の格子に。

押すな。流せ。


格子が、ぴんと張った。


***


メレオスが、押した。


一分。

二分。

三分。


ひびが、入らなかった。


***


「……三分、十秒」

『ジョン』が、言った。

「……越えた」


***


四分。

五分。


檻の中で、メレオスが、両手を格子に当てて、ぐいぐいと押していた。

顔が、真っ赤だった。


「……出られん」


***


六分。

七分。


「出られんぞ、これは!」


八分。


***


メレオスが、押すのをやめた。

檻の中で、どさりと座り込んだ。


「……参った」


***


『ジョン』が、腕時計から顔を上げた。


「八分、二十秒。……神様の、降参だ」


***


気を抜いた。

格子が、ゆっくり透き通ったまま、ただの氷に戻った。

ひびは、一本も入っていなかった。


***


「……届いた」


雪の上の、スマホに言った。


『……届いた?』


由紀の声が、少しだけ上ずっていた。


『お湯の中から? 北極まで?』


「届いた」


***


『……やった』


少し、間があった。


『やったけど。……のぼせそう』


***


「出ろ」

『出る。……あ、お兄ちゃん』

「なんだ」

『店長から、飴、預かってる。お兄ちゃんに、って』

「……なんで」

『疲れてる人だから』

「疲れてない」

『遠くで、頑張ってる、疲れてる人だから。……いちごと、レモンと、はっか』


***


「……帰ったら、もらう」

『帰ったらね』


帰ったら、だった。

由紀は、それを、二回、言った。


電話が、切れた。


***


イングリッドさんが、ノートパソコンを抱えたまま、立っていた。


「……ケンジさん」

「はい」

「今のは」

イングリッドさんは、空っぽの檻と、雪の上のスマホを、交互に見た。

「電話で、アイス・プリズンを、強化、しましたか」


***


「……そう、ですね」


「日本の、妹さんが、お風呂から」

「はい」

「八千キロ、です」

「はい」


***


イングリッドさんは、ノートパソコンを開いた。

何か、打ち込もうとした。

指が、止まった。


「……データに、なりません」


***


泣きそうな顔だった。

でも、少しだけ、笑っていた。


***


観測所の、二階の窓で、ベルグさんが、まだ、腕を組んで立っていた。

眉間の皺が、何本なのかは、ここからは、見えなかった。


***


帰り道。


観測所から、町へ下りる、坂道だった。

『ジョン』と、イングリッドさんは、先に、車で下りていった。

俺は、歩いた。メレオスと、二人で。


***


雪を、踏んだ。

きゅっ。

きゅっ。


***


「……メレオス」

「なんじゃ」

「番小屋の、ことだけど」


メレオスは、黙って歩いていた。


「灯台に、なるって、言ったやつ」


「……うむ」


***


ゆうべ、教会で、駄目だ、と言った。

考えるより先に、口が言っていた。


一晩、考えた。


***


ほかに、ないのは、分かっていた。

呼んだ者の、明かりしか、見えないなら。

あれの名前を、知っているのが、メレオスだけなら。


***


「……条件が、ある」


メレオスが、足を止めた。


「番小屋にいる、あいだ」

俺は、言った。

「お前の、襟首は、一秒も、離さない」


「……」


***


「きのう、戸の前で、一歩、出ただろ。……あれが、呼んでも。お前が、呼んでも。俺は、掴んでる。離さない」


メレオスは、しばらく、俺を見上げていた。


***


「……神の、襟を」

「うん」

「何と、心得る」

「襟だ」


***


メレオスは、ふん、と、鼻を鳴らした。

それから、前を向いた。また、歩き出した。


「……ええじゃろ」


小さな、声だった。


「掴んどけ。……わしも、そのほうが、ええ」


***


二人で、少し、黙って歩いた。


「……なあ」

「なんじゃ」

「あいつの、名前。……何て、いうんだ」


***


メレオスは、答えなかった。

雪を、三歩、踏んだ。


「言わん」


「……」


「言うたら、呼んだことになる」


***


メレオスは、前を向いたまま、言った。


「名前というのは、そういうもんじゃ。……呼ぶのは、一回きりじゃ。番小屋で。戸の前で」


***


じいちゃんが、メレオスに、名前をつけた。

呼びやすいように。

それからずっと、メレオスは、その名前で、呼ばれてきた。


名前を呼ぶのが、どういうことか。

メレオスは、たぶん、誰よりも知っていた。


***


「……もう一つ、聞いていいか」

「今日は、よう、聞くのぉ」

「お前、帰りたいのか。……あっちに」


メレオスは、今度は、すぐに答えた。


「帰らん」


「……」


「わしの家は、伊左衛門の、背中じゃった。……今は」


***


そこで、止まった。


雪を、踏む音だけが、した。


「……今は?」


「肉まんの、あるところじゃ」


***


メレオスは、それだけ言って、少し、早足になった。

俺を、置いていくみたいに。

耳の先が、少しだけ赤かった。寒さのせいかどうかは、分からなかった。


こっちに、肉まんは、なかった。

メレオスは、毎晩、検索していた。


***


午後の、三時。

ホテルの、俺の部屋。


『レディー』が、教会から戻ってきた。

一人で、ヨハネスさんに、会いに行っていた。


***


「引き受けたわ」


『レディー』は、コートを脱ぎながら、言った。


「十三日の夜。零時十二分の、前から。……あの人を、窓から、離す。ホテルに、行って。あの人の部屋じゃなくて、食堂に、呼び出して。朝まで」


***


「……どうやって」


「話すって」

『レディー』は、ソファに座った。

「五十年ぶんの、話を、する。……って、言ってたわ」


***


五十年。


番小屋の、柱の、根元。

『1970』。

あの写真を、裏返して伏せた、ヨハネスさんの、手。


***


「それから、一つ、聞かれた」


『レディー』は、窓の外を見た。

廊下の、突き当たりの、ほうを。


「明かりを消したあと、あの人は、どうなる、って」


***


「……何て、答えたんですか」


『レディー』は、少しだけ黙った。


「答えなかったわ」


「……」


「分からないもの」


***


夕方の、六時。


食堂に、下りた。


***


イングリッドさんも、また、夕食に呼ばれていた。

三年前の、赤い帽子を、膝の上に置いて。

茶色いチーズを、薄く、薄く、削っていた。緊張している手つきだった。


***


メレオスは、テーブルの端で、魚のスープを飲んでいた。

スプーンだけが、宙に浮いていた。

ソルヴェイさんが、厨房にいるあいだだけ。


***


厨房の扉が、開いた。


スプーンが、スープ皿の中に、ぽとんと落ちた。


ソルヴェイさんが、出てきた。


***


両手に、何かを持っていた。

スープの鍋じゃなかった。


赤い、毛糸の、帽子だった。


***


新しかった。

編み目が、ふっくらしていた。

てっぺんに、小さな、ぼんぼんが、ついていた。


***


ソルヴェイさんは、にこにこしながら、イングリッドさんの、後ろに回った。


イングリッドさんの、肩が、固くなった。


***


ソルヴェイさんは、何か言った。

ノルウェー語だった。

やさしい、声だった。


それから。


***


両手で、その帽子を、イングリッドさんの、頭にかぶせた。


耳まで。深く。

三つ編みの、上から。

一番小さい女の子に、したのと、同じ、手つきで。


***


誰も、動けなかった。


***


屋内だった。

昼だった。

零時十二分じゃ、なかった。

今、あれは、雪原で、寝ている。分かっていた。


分かっていても、誰も、動けなかった。


***


「……できたわ、って」


『レディー』が、訳した。

平らな、声だった。


「また、編まなきゃね、って、言ったでしょう、って」


***


ソルヴェイさんは、帽子の上から、イングリッドさんの頭を、ぽん、ぽんと叩いた。

それから、正面に回った。

帽子の、かぶり具合を、確かめた。少しだけ、首を傾げて。普通の、傾げ方で。


満足そうに、頷いた。


***


それから、また、何か言った。

今度は、少し、長かった。

窓の外の、暗い山の、ほうを指さしながら。それから、天井の、ほうを指さしながら。


***


『レディー』の、パンをちぎる手が、止まった。


止まるのを、初めて見た。


***


「……十三日の夜から」


『レディー』は、訳した。

ゆっくり。


「うちに、泊まりなさい、って。観測所から、夜道は、危ないから。……部屋は、空いてるの、って」


***


「二階の。山側の」


『レディー』は、少しだけ黙った。


「……私の、部屋の、隣よ、って」


***


廊下の、突き当たり。

山側の、角の、部屋。

揺り椅子と、双眼鏡と、膝掛けの、部屋。

夜中に、明かりのつく、窓の、部屋。


灯台の。すぐ、隣。


***


イングリッドさんは、帽子をかぶったまま、座っていた。

膝の上の、三年前の帽子を、両手で握りしめていた。


***


ソルヴェイさんは、にこにこしていた。

いつもの、やさしい人の、顔で。

返事を、待っていた。


***


テーブルの端で。

魚のスープの皿の中に、スプーンが、沈んだまま、だった。


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