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幕間 有休と、飴

「十四日、木曜日。お休みを、いただけますか」


***


一月十二日の、朝の九時五十分。

駅前の携帯ショップの、開店十分前だった。


小沢由紀は、店長の前に立っていた。

制服の背筋を、まっすぐに伸ばして。接客のときの背筋だった。


***


店長は、シフト表から顔を上げた。


「十四日」

「はい」

「木曜日」

「はい。有休で」


***


店長は、シフト表を見た。

それから、由紀を見た。

それから、もう一度、シフト表を見た。


「……理由、聞いてもいい?」


***


由紀は、少しだけ考えた。


北極圏の、山の上の、小屋の戸を。

八千キロ離れた兄と、息を合わせて。

閉めます。


***


「家の、用事です」


嘘ではなかった。

赤城さんも、家の行事だと言っていた。


***


店長の顔が、少しずつ心配そうになっていった。

見覚えのある、顔の変わり方だった。


「……お兄さん?」


「え」


「お兄さん、まだ、疲れてるの?」


***


店長は、声を落とした。

十一月の、あの日から。空いている椅子と、その上の踏み台に向かって、真剣に料金プランを説明していた、あの日から。

店長の中で、兄は、ずっと、仕事で疲れている人のままだった。


***


「……えっと」


違います、と、言うべきだった。


兄は今、ノルウェーにいます。

オーロラの穴を、見に行っています。

学術視察です。

神様も、一緒です。


どれも、言えなかった。


***


「……ちょっと、遠くで、頑張ってて」


それだけ、言った。


***


店長は、ゆっくり頷いた。

それから、シフト表の、十四日の欄に、丸をつけた。

それから、レジの横の、飴の瓶に手を伸ばした。


***


一つ。

二つ。

三つ。


由紀の手のひらに、のせた。


***


「お兄さんに」

店長は、言った。

「遠くで、頑張ってるなら。……無理、しないでね、って」


いちご味と、レモン味と、はっか。


「……ありがとう、ございます」


***


由紀は、飴を、制服のポケットにしまった。

ノルウェーまで、どうやって届けるのかは、考えないことにした。


***


夕方の、六時。


警察の官舎の、前の道。


黒い車が、一台、停まっていた。

エンジンは、かかっていなかった。

運転席の窓が、少しだけ開いていた。


***


中に、大きな男がいた。

毛布を膝にかけて。あんパンを持って。


『レスラー』だった。


***


由紀が、窓を、こんこんと叩いた。


「……おう」

「お疲れさまです。張り込み、まだ、続いてるんですね」

「続いてる」

『レスラー』は、あんパンを、一口、かじった。

「今日も、猫一匹だ」


***


一月九日の、夜中の二時。

由紀の閉めた戸を、誰かが、外から触った。

それから、毎晩、『レスラー』は、ここにいた。

あんパンは、毎晩、三つだった。加藤さんが、持たせているらしかった。


***


「……それ、何個目ですか」

「二個目」

「まだ、六時ですよ」

「……腹が、減るんだ」


***


官舎の、二階。

共さんの部屋の、戸の前に、由紀は立った。


戸に、手のひらを当てた。


***


少しだけ、温かかった。

閉まっていた。ぴたりと。

あの夜、閉め直したときの、まま。


由紀は、ほっと息を吐いた。

それから、ノブを回した。


***


開かなかった。


「……あれ」


もう一度、回した。

開かなかった。


***


戸の向こうで、足音がした。

ノブが、内側から回った。

戸が、開いた。


***


共さんが、立っていた。

紺色の、セーターだった。

頭を、四十五度、下げていた。


「……いらっしゃいませ、由紀さん」

「……こんばんは」


***


由紀は、戸を見た。

自分で閉めた、戸を。


「……作った人も、入れないんですね」

「共さんの形だけ、と、おっしゃいましたので」

「……そういう戸に、しちゃった」


***


共さんは、戸の横に立って、手のひらで中を示した。

道場の上座に、客を通すときの手つきだった。


「どうぞ。……恐れ入ります」


戸にだったのか、由紀にだったのかは、分からなかった。


***


六畳一間に、ちゃぶ台が、一つ。

その上に、急須と、湯呑みが、二つ。

湯呑みには、もう、お茶が入っていた。由紀が来る時刻に合わせて、淹れてあった。


***


「十四日の、朝」

由紀は、お茶を、一口、飲んでから、言った。

「兄と、息を、合わせるんです。八千キロ、離れて」


「承知しております」

共さんは、頷いた。

グループで、全部、読んでいた。


***


「冬至のときは、兄と、縁側で、何回も、練習したんです。でも、今は、兄がいないから」

由紀は、湯呑みを、両手で包んだ。

「……一人で、練習しても、合ってるのか、分からなくて」


共さんは、少しだけ考えた。


***


「私は、気功は、存じません」

共さんは、言った。

「伊左衛門さんは、私には、教えませんでしたので」


「……ですよね」


「ですが」


***


共さんは、ちゃぶ台の上に、両手を置いた。


「道場の、呼吸なら、存じております。稽古の、始めと、終わりに、伊左衛門さんが、数えていた、呼吸です」


「……おじいちゃんが、数えてた」


「吸って、四つ。止めて、二つ。吐いて、六つ」


***


共さんは、目を閉じた。

それから、ゆっくり、数えはじめた。低い声で。


「ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ」


由紀は、息を吸った。


「……とめて。ひとつ。ふたつ」


止めた。


「はいて。ひとつ。ふたつ。……」


***


縁側の、朝の匂いがした気がした。

おじいちゃんの声じゃなかった。

でも、数え方が、同じだった。間の取り方が、同じだった。


五十年前の、道場の、間だった。


***


「……では、今度は、一緒に」

共さんが、目を開けた。

「由紀さんが、数えてください。私が、合わせますので」


「はい」


***


由紀は、息を吸った。

共さんも、息を吸った。


由紀は、止めた。

共さんは、止めなかった。


***


「……共さん」

「はい」

「止めて、って」

「由紀さんが、先に、止めてから、と、思いまして」


***


もう一回。


由紀が、吸った。

共さんが、吸わなかった。


「……共さん」

「お先に、どうぞ、と、思いまして」


***


もう一回。


二人とも、吸った。

二人とも、止めた。

二人とも、吐こうとして。


「どうぞ」

「いえ、共さんが」

「いえ、由紀さんが、先に」

「一緒に、吐くんです」

「一緒に。……恐れ入ります」


***


その間、二人とも、息を止めたままだった。


由紀の顔が、赤くなった。

共さんの顔も、赤くなった。

先に、限界が来たのは、共さんだった。九十三歳だった。


***


「……っは」


「……共さん。譲りすぎです」


***


「……五十年、自分の息を、していなかったもので」

共さんは、胸を押さえていた。

「人と、合わせるのが。……少し、不慣れで」


笑えない理由だった。

由紀は、笑ってしまった。

共さんも、少しだけ、笑った。


***


窓の外で、車のドアが開く音がした。

少しして、戸の前の廊下から、声がした。


「……おい」


***


『レスラー』だった。

戸の向こうに、立っていた。

入れなかった。共さんの形だけ、通れる戸だった。


「……さっきから、何してる」

「息の、練習です」

「息」

「兄と、合わせる、練習です」


***


廊下が、しばらく、静かになった。


「……車で、やれ」

『レスラー』は、言った。

「ヒーター、ついてる。……廊下は、寒い」


***


黒い車の、後部座席に、三人が座った。


正確には、後部座席に、由紀と、共さん。

運転席に、『レスラー』。

助手席に、あんパンの、袋。


***


「吸って、四つ」

由紀が、数えた。


三人が、吸った。


『レスラー』の、吸う音が、大きかった。

車が、少しだけ揺れた。


***


「止めて、二つ」


止めた。

今度は、共さんも、止めた。

『レスラー』の、あんパンを持つ手も、止まった。


***


「吐いて、六つ」


三人が、吐いた。


車の窓が、曇った。


もう一回。

もう一回。


***


十回目で、三人の息が、揃った。

由紀にも、分かった。兄と、縁側で揃ったときと、同じ感じだった。

一つの息を、何人かで、回している感じ。


***


十五回目で、窓が、真っ白になった。


外が、何も見えなかった。

中も、外から、何も見えなかったはずだった。


***


こんこん、と、窓が鳴った。


『レスラー』が、窓を、少しだけ下ろした。


***


制服の警察官が、立っていた。

若い警察官だった。懐中電灯を持っていた。

真っ白な窓の中を、照らそうとして、照らせなくて、困っていた。


「……あの。こちらで、何を」


***


後部座席に、若い女性と、四十歳くらいの、紺のセーターの男性。

運転席に、ものすごく大きな男。

三人とも、顔が、赤かった。窓は、真っ白だった。


***


『レスラー』は、黙って、上着の内ポケットから、手帳を出した。

開いて、見せた。


若い警察官の、背筋が、伸びた。


「……し、失礼しました!」


***


それから、真っ白な窓と、赤い顔の三人を、もう一度、見た。


「……ご、ご苦労さまです」


若い警察官は、何度も振り返りながら、去っていった。

何の張り込みだと思われたのかは、誰にも、分からなかった。


***


『レスラー』は、窓を閉めた。

それから、あんパンの、三個目を取り出した。


「……今の、報告書に、書くんですか」

「書かん」

「書かないんだ」

「書いたら、課長が、笑う」


***


共さんが、手帳を出していた。

紺色の、表紙の固い手帳だった。

万年筆で、何か、書いていた。


『一月十二日 息の稽古 十回目で揃う 窓、白くなる 巡査に、ご苦労さまと言われる』


「……書くんですね」

「忘れないように」


***


七時、半。


車を降りるとき、由紀は、共さんのほうを振り返った。


「……共さん」

「はい」

「九日の、夜のこと。兄には、まだ、言ってないんです」


***


共さんは、黙って、頷いた。

知っていた。


「向こうで、大変そうだから。……帰ってきたら、全部、言おうと思って」


共さんは、少しだけ、黙った。


「伊左衛門さんも、そうでした」


「……おじいちゃんも?」


***


「大事なことほど、後で、言う人でした」

共さんは、言った。

「後で、と、思っているうちに。……言わないまま、書いて、閉じてしまう人でした」


***


手帳の、開かなかった、ページ。

五十五年分の、異状なし。


「……似ないように、します」

由紀は、言った。


共さんは、道場のお辞儀をした。

四十五度だった。


***


七時、五十八分。


小沢家の、風呂場。


由紀は、湯船に、肩まで沈んでいた。


「……はあ」


***


長い息が、出た。

吸って、四つ。止めて、二つ。吐いて、六つ。

湯気の中で、一人で、数えていた。


***


十四日の、朝。

八時、十二分。

あと、一日と、半分。


***


スマホは、風呂の蓋の上に、置いてあった。

防水だった。

兄から、何か来るかもしれなかった。来ないかもしれなかった。


***


制服のポケットの、飴のことを、思い出した。

いちごと、レモンと、はっか。

店長の、心配そうな顔。


「……お兄ちゃん、疲れてる人に、なってるよ」


湯気に向かって、言った。

誰も、聞いていなかった。


***


八時、ちょうど。


風呂の蓋の上で、スマホが、鳴った。


画面に、名前が、出ていた。


『お兄ちゃん』


***


由紀は、湯船の中で、飛び上がった。


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