↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
88/176

第七十九章 迎えの、明かり

「……この町では、一番、長い夜には、窓の明かりを、消す」


『レディー』が、訳した。


***


一月十一日の、夕方、六時。

坂の途中の、白い教会の、奥の小部屋だった。


ヨハネスさんの机の上に、蝋燭が、三本。

その横に、イングリッドさんの、ノートパソコン。

それから、町の地図が、一枚。

番小屋の写真が、何枚も。


***


ホテルでは、話せなかった。

壁の向こうに、あの人がいた。

だから、ここに来た。

帽子をかぶらない人の、部屋に。


***


メレオスは、空いている椅子に座っていた。

ヨハネスさんには、見えていない。

イングリッドさんにも、見えていない。

見えているのは、俺と、『ジョン』と、『レディー』だけだった。


***


ヨハネスさんは、番小屋の写真を、一枚ずつ見ていった。


焼けた床。

畳まれた、二つの、赤い帽子。

輪の外の、毛糸の房。


柱の根元の、『1970』。


***


その写真で、手が、止まった。


長いこと、止まっていた。

それから、写真を裏返して、机に伏せた。

何も、言わなかった。


***


かわりに、話しはじめたのが、窓の明かりの話だった。


***


「山から、来るものは」

『レディー』が、ヨハネスさんの言葉を追いかけて、訳した。

「明かりを、目指して、歩いてくる。……だから、一番長い夜には、町じゅうの窓の、明かりを、消す。祖母の、そのまた祖母の、ころからの、習わしだ、って」


***


「町の名前も」

『レディー』は、少しだけ、間を置いた。

「そこから、来てる、って。モルクヴィーク。……暗い、入り江」


***


暗い、入り江。


プロペラ機の中で、『レディー』が、教えてくれた意味だった。

暗いのは、夜が長いから、だと思っていた。

違った。

自分たちで、暗くしていたのだった。


***


「今は」


ヨハネスさんは、蝋燭の火を見ていた。


「今は、もう、誰も、覚えていない。……覚えているのは、年寄りだけだ」


少し、間があった。


「あの人も、覚えている」


***


『レディー』が、訳すのを、一瞬、止めた。

それから、訳した。


「冬至の夜。私は、教会の窓から、町を、見ていた。……明かりのついている窓は、一つだけだった」


***


ホテルの、山側の角の窓だった。


***


イングリッドさんが、ノートパソコンを開いた。


指が、少しだけ、震えていた。

でも、声は、震えていなかった。

データの、声だった。


「冬至の夜の、最初の揺れ、です」


***


画面に、細い線が、一本、走っていた。

ずっと、平らで。

一か所だけ、大きく跳ねていた。


「零時、十二分」


イングリッドさんは、跳ねたところを、指で差した。


***


「冬至から、今日まで。毎晩の揺れの中で、一番、大きい揺れです。……たぶん」

イングリッドさんは、番小屋の写真を見た。

「戸が、開いた、時刻、です」


***


「それから、毎晩」

『ジョン』が言った。

「同じ時刻に、一回だけ、動く」


「戸が、開いた時刻に、だけ」

イングリッドさんが言った。

「一分も、ずれずに」


***


几帳面なやつだ、と、『ジョン』は、最初の朝に、言っていた。

几帳面なんじゃなかった。

その時刻にしか、動けなかったのだった。


***


「……なんで、明かりなんだ」


俺は、言った。

誰にともなく。


「なんで、明かりを、目指すんだ」


***


空いている椅子で、メレオスが、口を開いた。


「見えんからじゃ」


***


ヨハネスさんには、聞こえていない。

イングリッドさんにも。

見せていない相手には、声も、届かない。


***


「体のない、あれにはな。こっちの世界は、真っ暗なんじゃ。目も、耳も、ない。……何も、見えん」


メレオスは、蝋燭の火を見ていた。

ヨハネスさんと、同じ火を。


「見えるのは、一つだけじゃ。呼んだ者の、明かり。……自分を、こっちに、呼んだ者が、ともした、明かりだけ」


***


「迎えの、明かり」

『レディー』が言った。

日本語で。

ヨハネスさんに、訳さずに。


「そうじゃ」


***


「……なんで、分かるんだ」


メレオスは、少しだけ、黙った。


「わしも、そうじゃった」


***


蝋燭の火が、揺れた。


***


「隠り山の、窪みから、出たときな。……何も、見えなんだ。五十年ぶんの、暗さじゃった。真っ暗の中に、一つだけ、明かりが、見えた」


「伊左衛門じゃ」


「あやつの、気が。……明かりに、見えた。わしは、それを、目指して、歩いた。這うようにしてな。……あやつの、背中に、たどり着くまで」


***


じいちゃんが、メレオスの灯台だった。


五十年、背中から、見ていた、と、メレオスは、言っていた。

冬至の夜に、北を向いて手を合わせる、じいちゃんの背中を。

毎年。


最初に、見たのも。

背中、だったのだ。


***


「……ケンジ、さん」


イングリッドさんだった。

俺の顔を見ていた。

それから、俺の見ている先の、空いている椅子を見た。


「今、誰と、話して、ますか」


***


「……えっと」

「空いてる、椅子と」

「気功の、先生が、言うには」

「先生は、どこに、いますか」


***


俺は、空いている椅子を指さした。


イングリッドさんは、空いている椅子を、じっと見た。

それから、俺を見た。


「……顔に、書いて、あります」


***


書いてあったらしい。

でも、イングリッドさんは、それ以上、聞かなかった。

ノートパソコンに、何か打ち込んだ。

たぶん、データになった。


***


俺は、地図を広げ直した。

鉛筆を持った。


分かったことを、一本の線にしたかった。


***


山の、番小屋。

鉛筆の先を、そこに置いた。


冬至の夜。

零時十二分。

この小屋の床の輪が、戸になって、開いた。

開けるために、赤い帽子の二人が呼ばれた。

笑って、山へ歩いていった。

帽子だけが、残った。


***


戸から、あれが、出てきた。


体が、ない。

目も、耳も、ない。

真っ暗の中で、見えるのは、一つだけ。


町で、たった一つ、明かりのついていた、窓。


***


鉛筆を、山から町へ動かした。

イングリッドさんの、赤い点をなぞって。


毎晩、零時十二分。

戸が開いた時刻に、一度だけ。

四百メートル。

少しずつ、向きを直しながら。

灯台を、目指す、船みたいに。


***


途中で、帽子をかぶった誰かが、近くにいれば。

名前を、呼んで。

そっちへ、寄り道する。


***


鉛筆は、町の端で、止まった。


十四日の、零時十二分。

ここに、着く。


その先は、もう、一息だった。

ホテルの、裏の、山側の角。


***


鉛筆の先で、小さく丸を描いた。


全員が、その丸を見ていた。


***


「……呼んだ者の、明かり、ね」


『レディー』が言った。


誰の、とは、言わなかった。

言わなくても、全員、同じ窓を思い浮かべていた。

揺り椅子と、双眼鏡と、膝掛けの、窓を。


***


「でも」


『レディー』は、イングリッドさんを見た。


「あれが、ずっと見てるのは、この子よ。……灯台じゃない」


イングリッドさんの肩が、少しだけ、固くなった。


***


「灯台は、道じゃ」


メレオスが言った。


「迷わんための、道じゃ。……着いた先で、何に入るかは、あれが、決める」


***


呼んだ者が、何を望んでいても。

着いた先で、選ぶのは、あれだった。


帽子をかぶった、町の人。

空き地の、子供たち。

イングリッドさん。


***


「……灯台を、消したら」

俺は、言った。

「どうなる」


「道が、なくなる」

メレオスは、言った。

「真っ暗の中で、あれは、手探りになる。……一番、近くの、帽子を、探す」


***


「子供たちの帽子は、糸を、抜いた」

「大人の帽子は、抜いとらん。……町の、ほとんどじゃ」


消すだけじゃ、駄目だった。


***


「だから」


『レディー』が、鉛筆を取った。

俺の手から。


町の丸の上に、小さく×をつけた。

それから、鉛筆を、山のほうへ動かした。

番小屋の上で止めた。

丸を描いた。


***


「消して、つける」


『レディー』は、言った。


「灯台は、一つとは、限らない。……町の灯台を、消して、番小屋に、灯台を、つける」


***


「あれは、向きを、直す」

『ジョン』が言った。

「毎晩、そうしてきたみたいに。……山のほうへ」


***


「でも」

イングリッドさんが言った。

「四百メートル、です。一晩に。……町の端から、番小屋まで、三キロ以上、あります。日が、昇るまでに」


データの、指摘だった。


***


「帰り道は、違う」


メレオスが言った。


「出てきた戸は、中身を、呼び戻す。……戸のそばに、明かりがあればな。帰り道は、一息じゃ」


「一息」

「一晩で、戻れる。……戸が、引いてくれる」


***


俺は、それを、日本語でイングリッドさんに伝えた。

気功の先生が、言うには。

イングリッドさんは、空いている椅子を、ちらりと見て、頷いた。

それから、ノートパソコンに、打ち込んだ。


***


戻して。

閉める。


番小屋の、戸を。

俺が。

八千キロ向こうの、由紀と、息を揃えて。


道筋が、一本になった。


***


「……一つ、足りない」


『ジョン』だった。


「番小屋に、つける、明かり」

『ジョン』は、地図の、番小屋の丸を、指で叩いた。

「ただの明かりじゃ、駄目なんだろう。……呼んだ者の、明かりじゃないと」


***


誰も、答えなかった。


呼んだ者の、明かり。

あれを、こっちに呼んだ者。

あれの名前を、知っている者。


蝋燭の火が、揺れていた。


***


空いている椅子の上で、メレオスが、膝を抱えていた。


あれは、メレオスの名前を呼んでいた。

今の名前じゃない。

前の、名前を。

毎晩。


名前を、知っているなら。

知られているなら。


***


「……健司」


メレオスが言った。


顔を、上げていた。

笑っていなかった。

冬至の山で、影の輪の真ん中に座っていたときの顔だった。


「わしが、灯台に、なる」


***


「駄目だ」


即答だった。

考えるより先に、口が、言っていた。


「駄目だ。お前、今日、あの戸の前で、一歩、出ただろ」


「出た」


「懐かしい、って、言っただろ」


「言うた」


「だったら」


「だから、じゃ」


***


メレオスは、言った。


「あれは、わしの、昔の名を、知っとる。……わしも、あれの、昔の名を、知っとる」


***


ヨハネスさんが、蝋燭の芯を、指でつまんで、整えていた。

俺が、空いている椅子に向かって声を荒げているのを、見ていた。

何も、言わなかった。


***


「呼んだ者の、明かりしか、見えんのなら」


メレオスは、椅子から降りた。

床に立った。

小さかった。

金色のボタンが、蝋燭の火を跳ね返していた。


「わしが、呼べばよい。……番小屋で。あれの、名で」


***


伊左衛門が、そうしてくれたように、とは。

メレオスは、言わなかった。


言わなかったけど。

そう、聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。