第七十九章 迎えの、明かり
「……この町では、一番、長い夜には、窓の明かりを、消す」
『レディー』が、訳した。
***
一月十一日の、夕方、六時。
坂の途中の、白い教会の、奥の小部屋だった。
ヨハネスさんの机の上に、蝋燭が、三本。
その横に、イングリッドさんの、ノートパソコン。
それから、町の地図が、一枚。
番小屋の写真が、何枚も。
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ホテルでは、話せなかった。
壁の向こうに、あの人がいた。
だから、ここに来た。
帽子をかぶらない人の、部屋に。
***
メレオスは、空いている椅子に座っていた。
ヨハネスさんには、見えていない。
イングリッドさんにも、見えていない。
見えているのは、俺と、『ジョン』と、『レディー』だけだった。
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ヨハネスさんは、番小屋の写真を、一枚ずつ見ていった。
焼けた床。
畳まれた、二つの、赤い帽子。
輪の外の、毛糸の房。
柱の根元の、『1970』。
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その写真で、手が、止まった。
長いこと、止まっていた。
それから、写真を裏返して、机に伏せた。
何も、言わなかった。
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かわりに、話しはじめたのが、窓の明かりの話だった。
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「山から、来るものは」
『レディー』が、ヨハネスさんの言葉を追いかけて、訳した。
「明かりを、目指して、歩いてくる。……だから、一番長い夜には、町じゅうの窓の、明かりを、消す。祖母の、そのまた祖母の、ころからの、習わしだ、って」
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「町の名前も」
『レディー』は、少しだけ、間を置いた。
「そこから、来てる、って。モルクヴィーク。……暗い、入り江」
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暗い、入り江。
プロペラ機の中で、『レディー』が、教えてくれた意味だった。
暗いのは、夜が長いから、だと思っていた。
違った。
自分たちで、暗くしていたのだった。
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「今は」
ヨハネスさんは、蝋燭の火を見ていた。
「今は、もう、誰も、覚えていない。……覚えているのは、年寄りだけだ」
少し、間があった。
「あの人も、覚えている」
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『レディー』が、訳すのを、一瞬、止めた。
それから、訳した。
「冬至の夜。私は、教会の窓から、町を、見ていた。……明かりのついている窓は、一つだけだった」
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ホテルの、山側の角の窓だった。
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イングリッドさんが、ノートパソコンを開いた。
指が、少しだけ、震えていた。
でも、声は、震えていなかった。
データの、声だった。
「冬至の夜の、最初の揺れ、です」
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画面に、細い線が、一本、走っていた。
ずっと、平らで。
一か所だけ、大きく跳ねていた。
「零時、十二分」
イングリッドさんは、跳ねたところを、指で差した。
***
「冬至から、今日まで。毎晩の揺れの中で、一番、大きい揺れです。……たぶん」
イングリッドさんは、番小屋の写真を見た。
「戸が、開いた、時刻、です」
***
「それから、毎晩」
『ジョン』が言った。
「同じ時刻に、一回だけ、動く」
「戸が、開いた時刻に、だけ」
イングリッドさんが言った。
「一分も、ずれずに」
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几帳面なやつだ、と、『ジョン』は、最初の朝に、言っていた。
几帳面なんじゃなかった。
その時刻にしか、動けなかったのだった。
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「……なんで、明かりなんだ」
俺は、言った。
誰にともなく。
「なんで、明かりを、目指すんだ」
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空いている椅子で、メレオスが、口を開いた。
「見えんからじゃ」
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ヨハネスさんには、聞こえていない。
イングリッドさんにも。
見せていない相手には、声も、届かない。
***
「体のない、あれにはな。こっちの世界は、真っ暗なんじゃ。目も、耳も、ない。……何も、見えん」
メレオスは、蝋燭の火を見ていた。
ヨハネスさんと、同じ火を。
「見えるのは、一つだけじゃ。呼んだ者の、明かり。……自分を、こっちに、呼んだ者が、ともした、明かりだけ」
***
「迎えの、明かり」
『レディー』が言った。
日本語で。
ヨハネスさんに、訳さずに。
「そうじゃ」
***
「……なんで、分かるんだ」
メレオスは、少しだけ、黙った。
「わしも、そうじゃった」
***
蝋燭の火が、揺れた。
***
「隠り山の、窪みから、出たときな。……何も、見えなんだ。五十年ぶんの、暗さじゃった。真っ暗の中に、一つだけ、明かりが、見えた」
「伊左衛門じゃ」
「あやつの、気が。……明かりに、見えた。わしは、それを、目指して、歩いた。這うようにしてな。……あやつの、背中に、たどり着くまで」
***
じいちゃんが、メレオスの灯台だった。
五十年、背中から、見ていた、と、メレオスは、言っていた。
冬至の夜に、北を向いて手を合わせる、じいちゃんの背中を。
毎年。
最初に、見たのも。
背中、だったのだ。
***
「……ケンジ、さん」
イングリッドさんだった。
俺の顔を見ていた。
それから、俺の見ている先の、空いている椅子を見た。
「今、誰と、話して、ますか」
***
「……えっと」
「空いてる、椅子と」
「気功の、先生が、言うには」
「先生は、どこに、いますか」
***
俺は、空いている椅子を指さした。
イングリッドさんは、空いている椅子を、じっと見た。
それから、俺を見た。
「……顔に、書いて、あります」
***
書いてあったらしい。
でも、イングリッドさんは、それ以上、聞かなかった。
ノートパソコンに、何か打ち込んだ。
たぶん、データになった。
***
俺は、地図を広げ直した。
鉛筆を持った。
分かったことを、一本の線にしたかった。
***
山の、番小屋。
鉛筆の先を、そこに置いた。
冬至の夜。
零時十二分。
この小屋の床の輪が、戸になって、開いた。
開けるために、赤い帽子の二人が呼ばれた。
笑って、山へ歩いていった。
帽子だけが、残った。
***
戸から、あれが、出てきた。
体が、ない。
目も、耳も、ない。
真っ暗の中で、見えるのは、一つだけ。
町で、たった一つ、明かりのついていた、窓。
***
鉛筆を、山から町へ動かした。
イングリッドさんの、赤い点をなぞって。
毎晩、零時十二分。
戸が開いた時刻に、一度だけ。
四百メートル。
少しずつ、向きを直しながら。
灯台を、目指す、船みたいに。
***
途中で、帽子をかぶった誰かが、近くにいれば。
名前を、呼んで。
そっちへ、寄り道する。
***
鉛筆は、町の端で、止まった。
十四日の、零時十二分。
ここに、着く。
その先は、もう、一息だった。
ホテルの、裏の、山側の角。
***
鉛筆の先で、小さく丸を描いた。
全員が、その丸を見ていた。
***
「……呼んだ者の、明かり、ね」
『レディー』が言った。
誰の、とは、言わなかった。
言わなくても、全員、同じ窓を思い浮かべていた。
揺り椅子と、双眼鏡と、膝掛けの、窓を。
***
「でも」
『レディー』は、イングリッドさんを見た。
「あれが、ずっと見てるのは、この子よ。……灯台じゃない」
イングリッドさんの肩が、少しだけ、固くなった。
***
「灯台は、道じゃ」
メレオスが言った。
「迷わんための、道じゃ。……着いた先で、何に入るかは、あれが、決める」
***
呼んだ者が、何を望んでいても。
着いた先で、選ぶのは、あれだった。
帽子をかぶった、町の人。
空き地の、子供たち。
イングリッドさん。
***
「……灯台を、消したら」
俺は、言った。
「どうなる」
「道が、なくなる」
メレオスは、言った。
「真っ暗の中で、あれは、手探りになる。……一番、近くの、帽子を、探す」
***
「子供たちの帽子は、糸を、抜いた」
「大人の帽子は、抜いとらん。……町の、ほとんどじゃ」
消すだけじゃ、駄目だった。
***
「だから」
『レディー』が、鉛筆を取った。
俺の手から。
町の丸の上に、小さく×をつけた。
それから、鉛筆を、山のほうへ動かした。
番小屋の上で止めた。
丸を描いた。
***
「消して、つける」
『レディー』は、言った。
「灯台は、一つとは、限らない。……町の灯台を、消して、番小屋に、灯台を、つける」
***
「あれは、向きを、直す」
『ジョン』が言った。
「毎晩、そうしてきたみたいに。……山のほうへ」
***
「でも」
イングリッドさんが言った。
「四百メートル、です。一晩に。……町の端から、番小屋まで、三キロ以上、あります。日が、昇るまでに」
データの、指摘だった。
***
「帰り道は、違う」
メレオスが言った。
「出てきた戸は、中身を、呼び戻す。……戸のそばに、明かりがあればな。帰り道は、一息じゃ」
「一息」
「一晩で、戻れる。……戸が、引いてくれる」
***
俺は、それを、日本語でイングリッドさんに伝えた。
気功の先生が、言うには。
イングリッドさんは、空いている椅子を、ちらりと見て、頷いた。
それから、ノートパソコンに、打ち込んだ。
***
戻して。
閉める。
番小屋の、戸を。
俺が。
八千キロ向こうの、由紀と、息を揃えて。
道筋が、一本になった。
***
「……一つ、足りない」
『ジョン』だった。
「番小屋に、つける、明かり」
『ジョン』は、地図の、番小屋の丸を、指で叩いた。
「ただの明かりじゃ、駄目なんだろう。……呼んだ者の、明かりじゃないと」
***
誰も、答えなかった。
呼んだ者の、明かり。
あれを、こっちに呼んだ者。
あれの名前を、知っている者。
蝋燭の火が、揺れていた。
***
空いている椅子の上で、メレオスが、膝を抱えていた。
あれは、メレオスの名前を呼んでいた。
今の名前じゃない。
前の、名前を。
毎晩。
名前を、知っているなら。
知られているなら。
***
「……健司」
メレオスが言った。
顔を、上げていた。
笑っていなかった。
冬至の山で、影の輪の真ん中に座っていたときの顔だった。
「わしが、灯台に、なる」
***
「駄目だ」
即答だった。
考えるより先に、口が、言っていた。
「駄目だ。お前、今日、あの戸の前で、一歩、出ただろ」
「出た」
「懐かしい、って、言っただろ」
「言うた」
「だったら」
「だから、じゃ」
***
メレオスは、言った。
「あれは、わしの、昔の名を、知っとる。……わしも、あれの、昔の名を、知っとる」
***
ヨハネスさんが、蝋燭の芯を、指でつまんで、整えていた。
俺が、空いている椅子に向かって声を荒げているのを、見ていた。
何も、言わなかった。
***
「呼んだ者の、明かりしか、見えんのなら」
メレオスは、椅子から降りた。
床に立った。
小さかった。
金色のボタンが、蝋燭の火を跳ね返していた。
「わしが、呼べばよい。……番小屋で。あれの、名で」
***
伊左衛門が、そうしてくれたように、とは。
メレオスは、言わなかった。
言わなかったけど。
そう、聞こえた。




