↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
87/176

第七十八章 番小屋の、戸

「……ここから先は、行かない、って」


『レディー』が、訳した。


***


トナカイのおじいさんは、スノーモービルを止めていた。

山の、中腹だった。

まばらな、白い木が、途切れるところだった。


おじいさんは、ハンドルから手を離さなかった。

顎で、上をしゃくった。

雪の斜面の、ずっと上。

黒い、小さな、四角い影。


番小屋だった。


***


一月十一日の、昼前の十一時。

一日で、一番明るい時間。

空は、群青色だった。


***


イングリッドさんは、来ていなかった。

観測所に、残っていた。

今夜の、零時十二分の点を計算するために。

「所長の、そばにいれば、安全です」と、言っていた。

冗談なのか、本気なのかは、分からなかった。


***


おじいさんが、また、何か言った。

今度は、少し長かった。


「トナカイは、この線から、上に、行かない。犬も、行かない。……だから、自分も、行かない」

『レディー』が、訳した。

「ここで、待ってる、って」


***


後ろの橇の上で、犬が、山を見上げていた。

吠えは、しなかった。

耳を寝かせていた。


***


隠り山の、ゲートのおじいさんを思い出した。

入ったやつぁ、たいてい、二度と、山菜採りに来んくなる。

どこの国にも、そういう山が、あるらしかった。


***


ここから先は、歩きだった。


雪が、膝まであった。

『ジョン』が、先頭を歩いた。

大きなザックを背負って。

照明と、カメラと、手袋の替えと、カイロ。

冬至の山と、同じ中身だった。


『レディー』が、二番目。

俺が、三番目。

メレオスは、俺のコートの裾を掴んでいた。


***


斜面の途中で、メレオスが、止まった。


「……健司。あっちは、よけろ」


***


メレオスは、斜面の下を見ていた。

町のほうへ広がる、雪原を。


雪原に、点々と、窪みが並んでいた。

山から、町へ。

一列に。

ゆうべの、最後の窪みで止まっていた。


最後の窪みの上には、何も、なかった。

何も、見えなかった。


***


「……いるのか」

「おる」

メレオスは、声を落とした。

「……寝とる。昼は、寝とる」


***


俺たちは、窪みの列から、一番遠いところを選んで、登った。

誰も、喋らなかった。

雪を踏む音だけが、きゅっ、きゅっ、と、鳴った。


***


番小屋は、丸太でできていた。


小さかった。

人が、三人、横になれるくらい。

屋根に、雪が、分厚くのっていた。

戸の上に、トナカイの角が、一対、打ちつけてあった。


***


戸が、開いていた。


半分くらい。

内側に向かって。

隙間から、雪が吹き込んで、敷居の内側に、小さな山を作っていた。


***


焦げた、匂いがした。


まだ、した。

冬至から、三週間も、経つのに。

焚き火の匂いとは、違った。

何を燃やしたのか、分からない匂いだった。


隠り山の、祠の跡で、嗅いだ匂いと。

同じだった。


***


『ジョン』が、照明をつけた。

戸の隙間から、中を照らした。


床が、見えた。


黒かった。


***


板の床、一面に。

焦げた線が、走っていた。

輪になって。

折れ曲がって。

何本も、何本も。

小屋の壁から、壁まで、いっぱいに。


魔法陣、だった。


***


アニメなら、そう呼ぶ。

イングリッドさんなら、たぶん、そう呼ぶ。

俺は、そういう名前で、呼びたくなかった。


***


見覚えのある、形だった。

『常世会』の紋章。

湾岸の倉庫の、手の甲。

隠り山の、石。

それから。


***


「……帽子の、内側と、同じ」


『レディー』が言った。

戸口にしゃがんで、床の線を、指で数えていた。


「線の、数まで」


***


帽子の内側の、黒い糸。

あの形を、そのまま大きくして、床に焼きつけたみたいだった。


***


照明が、ゆっくり、床の真ん中に動いた。


輪の中心に、何かが置いてあった。


赤い、帽子だった。


***


二つ。

並べて。

きちんと、畳んで。

四つの角を、ぴったりそろえて。

定規で測ったみたいに。


***


「……冬至の、二人の」


去年の夏に、結婚した、二人。

お揃いの、お祝いの、帽子。


帽子だけが、ここにあった。

二人は、どこにも、いなかった。


***


誰も、中に入らなかった。

『レディー』も。

『ジョン』も。

入るべきじゃない、と、全員が、分かっていた。


***


「……戸じゃ」


メレオスが言った。

俺の横に立っていた。

裾は、もう、掴んでいなかった。


「この輪が、戸じゃ。冬至の夜、ここが、開いた。……あれが、ここから、出てきよった」


***


「閉まってるのか」


メレオスは、首を振った。


「開いとる。……半分、な」


***


小屋の戸と、同じだった。

半分、開いて。

誰も、閉めないまま。


***


『ジョン』の照明が、輪の外側に動いた。


輪の、ぐるりに。

小さな、赤いものが並んでいた。


毛糸の、房だった。


***


赤い毛糸を、指くらいの長さに切って。

束ねて。

根元を、黒い糸で、きゅっと縛ってあった。

それが、焼けた輪の外側に、ぐるりと一周。

間隔を、きっちりそろえて。


何十も、あった。

百は、あったかもしれない。


***


「……町の、人の、数ね」


『レディー』が言った。


帽子をかぶっている人の、数。

あったかい、赤い、帽子を。


***


照明が、房を、一つずつなめていった。


止まった。


***


房の、いくつかがほどけていた。


根元の、黒い糸がなかった。

縛るものがなくなって、赤い毛糸が、床の上に、ばらばらに広がっていた。

花が、開いたみたいに。


***


『レディー』が、数えた。

声に、出さずに。

唇だけ、動かして。


「……二十五」


***


二十三と、二。


子供たちの、帽子と。

『ジョン』と、『レディー』の、帽子。


***


けさ、白鳥の陰で、黒い糸を抜いた。

それから、火で燃やした。

音もなく。

灰も、残さずに。


ここの、黒い糸も。

同じときに。


***


「……つながってた、のか」

『ジョン』が言った。

「帽子と、ここが」


***


『レディー』の目が、ほどけていない房の一つに止まった。

それから、その隣の、もう一つに。

戸口に、一番近いところにある、二つ。


「……あと、二つ」


『レディー』は、言った。


「私の、スーツケースの、中の」


***


俺の帽子と。

イングリッドさんの、帽子。


鍵をかけた、スーツケースの中で。

髪の毛を一本挟んだ、ファスナーの中で。

まだ、こことつながっていた。


***


『ジョン』が、カメラを構えた。

シャッターの音が、小屋の中に、小さく響いた。


一枚。

二枚。


三枚目で、『ジョン』の手が、止まった。


***


「……『オザケン』」


照明が、床の隅を照らしていた。


新しい、焦げた線の、下に。

もう一つ、線があった。


***


薄かった。

古かった。

板の木目に、溶けかけていた。

新しい輪より、少しだけ大きな輪だった。


その輪の、端。

壁ぎわの、柱の根元に。

数字が、刻んであった。

刃物で。

深く。


***


『1970』


***


千九百七十年。


昭和、四十五年。


***


じいちゃんが。

隠り山で。

あれと、渡り合った、冬至。


同じ、年だった。


***


誰も、何も、言わなかった。


『ジョン』が、もう一枚、撮った。

シャッターの音が、さっきより大きく聞こえた。


***


メレオスは、古い輪を見ていなかった。


新しい輪の、真ん中を見ていた。

畳まれた、二つの帽子のあたりを。

その、向こうを。


鼻が、少しだけ、動いていた。


***


「……懐かしい、匂いが、する」


小さな、声だった。


「……嫌な、ことにのぉ」


***


メレオスの足が、一歩、敷居のほうへ動いた。


俺は、メレオスの襟首を掴んだ。

猫の子を、つまむみたいに。

変な服の、後ろの襟を。


***


メレオスは、止まった。

振り返らなかった。


「……分かっとる」


少しして、言った。


「入らん。……入らんよ」


***


冬至の山で、前に一人で来て、叱られたからのぉ、と、言っていた。

今日は、言わなかった。


襟を、離さなかった。

メレオスも、離せとは、言わなかった。


***


「閉めたら、どうなる」


俺は、聞いた。

襟を、掴んだまま。


メレオスは、しばらく、輪の真ん中を見ていた。


「今、閉めても、意味はない。……あれは、もう、外に、おる」


***


「じゃあ」


「戻して、閉める」


メレオスは、言った。


「あれを、ここへ、戻して。それから、閉める。……隠り山で、わしが、五十年、入っとった、あの窪みと、同じじゃ。出たものは、戻るか、よそへ、入る。よそへ、入る前に、戻す」


***


こけしの中の、退屈した子。

訓練場を飛び回って。

メレオスのスマホに入りかけて。

こけしに、戻った。


あのときと、同じだった。

大きさが、違うだけで。


***


「閉めるのは、俺か」


「お主しか、おらん。戸締まりが、できるのは」


それから、メレオスは、少しだけ、黙った。


「……じゃが、一人では、足らん」


***


「……」


「隠り山の戸は、あの夜、二人で、閉めた。お主と。……庭の、あの娘と」


***


八千キロ、向こう。


***


「気は、距離ではない」


メレオスは、言った。

前にも、聞いた言葉だった。

由紀が、初めて、手帳の戸を閉めた日に。


「縁じゃ」


***


『ジョン』が、照明を下ろした。


「……問題は、どうやって、ここまで、連れてくるか、だ」


***


あれは、檻を覚えた。

壁も、よける。

毎晩、少しずつ、向きを直して。

ホテルの裏の角を、目指している。


灯台を、目指す、船みたいに。


***


『レディー』が、立ち上がった。

膝の雪を払った。

戸口の、二つのほどけていない房を、もう一度だけ見た。


「……灯台は」


『レディー』は、言った。


「一つとは、限らないわ」


***


山を、下りた。


木の途切れるところで、おじいさんが、待っていた。

スノーモービルの、エンジンをかけたまま。

魔法瓶のコーヒーを、紙コップに注いでいた。


***


おじいさんは、俺たちの顔を、一人ずつ見た。

それから、何か、短く聞いた。


「何が、あった、って」

『レディー』が、訳した。


***


『レディー』は、ノルウェー語で、何か答えた。

短く。


「……何て、答えたんですか」

「焚き火の、跡」


***


おじいさんは、しばらく、『レディー』を見ていた。

信じていない顔だった。

でも、何も、言わなかった。

紙コップを、四つ並べた。


四つ、だった。


***


俺と。

『ジョン』と。

『レディー』と。

おじいさんの、分。


そうだよな、と、思った。


***


そのとき。


橇の上の犬が、立ち上がった。


***


山を下りてから、ずっと、耳を寝かせていた犬だった。

その犬が、尻尾を振っていた。

ちぎれそうなくらい。

俺の足元に向かって。


俺の足元の、誰もいないところに向かって。


***


犬は、橇から飛び降りた。

雪の上を跳ねて。

何もないところに、鼻を突っ込んだ。

それから、何もないところを、べろべろと舐めはじめた。


***


「……こら」


何もないところから、声がした。


「こら、やめい。……やめんか。顔を、舐めるでない。神の、顔じゃぞ」


犬は、やめなかった。


***


おじいさんが、コーヒーを注ぐ手を、止めていた。

自分の犬が、雪の上で、何もない空気に向かって、腹を見せて、転がっているのを見ていた。


それから、俺を見た。


***


俺は、コーヒーを受け取った。

何も、言わなかった。

顔には、たぶん、出ていた。


***


「……犬には、見えるのか」


帰りの、スノーモービルの後ろで、メレオスが言った。

顔が、まだ、少し濡れていた。


「見せたのか」

「見せとらん。……勝手に、見よった」


***


メレオスは、少しだけ、黙った。


「……悪うない、気分じゃった」


二回目だった。

滑り台のてっぺんで、聞いて以来の。


***


午後の、三時。


***


ホテルの、部屋。

真っ暗だった。

もう、夜の色だった。

一日で一番明るい時間は、とっくに、終わっていた。


***


『ジョン』は、課長に、報告を送っていた。

番小屋の写真と、一行の説明。

返事は、すぐ来た。

『うん。……1970は、赤城さんに、上げるね』


***


俺は、ベッドに座って、スマホを見ていた。


日本は、夜の十一時だった。


由紀の名前を、画面に出した。


指が、止まった。


***


冬至の夜。

由紀は、実家の縁側で、五時間、息をしていた。

一人で。

庭の北を向いて。

俺が、山で、戸を開けている間じゅう。


また、頼むのか。


八千キロ、向こうから。


***


「……健司」


枕元で、メレオスが言った。

小さな赤い帽子を、膝にのせていた。

かぶっては、いなかった。


「あの娘は、頼まれんほうが、怒るぞ」


***


押した。


一回目の呼び出しで、出た。


***


『……お兄ちゃん?』


起きていた声だった。


***


「悪い。遅くに」

『いいよ。起きてたし』

「……あのさ」


***


話した。


番小屋のこと。

開いたままの、戸のこと。

あれを、そこに戻して、閉めること。

閉めるのに、一人じゃ、足りないこと。


赤い帽子のことは、言わなかった。

子供たちのことも。

灯台のことも。


***


由紀は、黙って、聞いていた。


「……十四日の、零時十二分。こっちの」

俺は、言った。

「そっちだと、朝の、八時十二分」


『十四日、って、何曜?』

「木曜」

『……ふうん』


***


少し、間があった。


『有休、取る』


即答だった。


***


『店長、たぶん、お兄ちゃんの、仕事の疲れだと思ってるから。飴、くれると思う』


笑った。

笑ってしまった。


***


「……悪いな」

『悪くないよ』


***


由紀の声は、いつもと、同じだった。

いつもと、同じ、はずだった。


少しだけ、低い気がした。


***


「……由紀」

『なに』

「そっち、何か、あったか」


***


電話の向こうが、静かになった。


一秒。


二秒。


***


『……帰ってきたら、話す』


「何を」


『いろいろ』


「いろいろ、って」


『お土産の、話とか』


***


由紀は、そう言って、笑った。

いつもの、笑い方だった。


『だから、お兄ちゃん』


笑い声が、止まった。


『……ちゃんと、帰ってきてね』


***


電話の向こうは、夜の十一時だった。

こっちは、午後の三時だった。


どっちも、真っ暗だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。