第七十八章 番小屋の、戸
「……ここから先は、行かない、って」
『レディー』が、訳した。
***
トナカイのおじいさんは、スノーモービルを止めていた。
山の、中腹だった。
まばらな、白い木が、途切れるところだった。
おじいさんは、ハンドルから手を離さなかった。
顎で、上をしゃくった。
雪の斜面の、ずっと上。
黒い、小さな、四角い影。
番小屋だった。
***
一月十一日の、昼前の十一時。
一日で、一番明るい時間。
空は、群青色だった。
***
イングリッドさんは、来ていなかった。
観測所に、残っていた。
今夜の、零時十二分の点を計算するために。
「所長の、そばにいれば、安全です」と、言っていた。
冗談なのか、本気なのかは、分からなかった。
***
おじいさんが、また、何か言った。
今度は、少し長かった。
「トナカイは、この線から、上に、行かない。犬も、行かない。……だから、自分も、行かない」
『レディー』が、訳した。
「ここで、待ってる、って」
***
後ろの橇の上で、犬が、山を見上げていた。
吠えは、しなかった。
耳を寝かせていた。
***
隠り山の、ゲートのおじいさんを思い出した。
入ったやつぁ、たいてい、二度と、山菜採りに来んくなる。
どこの国にも、そういう山が、あるらしかった。
***
ここから先は、歩きだった。
雪が、膝まであった。
『ジョン』が、先頭を歩いた。
大きなザックを背負って。
照明と、カメラと、手袋の替えと、カイロ。
冬至の山と、同じ中身だった。
『レディー』が、二番目。
俺が、三番目。
メレオスは、俺のコートの裾を掴んでいた。
***
斜面の途中で、メレオスが、止まった。
「……健司。あっちは、よけろ」
***
メレオスは、斜面の下を見ていた。
町のほうへ広がる、雪原を。
雪原に、点々と、窪みが並んでいた。
山から、町へ。
一列に。
ゆうべの、最後の窪みで止まっていた。
最後の窪みの上には、何も、なかった。
何も、見えなかった。
***
「……いるのか」
「おる」
メレオスは、声を落とした。
「……寝とる。昼は、寝とる」
***
俺たちは、窪みの列から、一番遠いところを選んで、登った。
誰も、喋らなかった。
雪を踏む音だけが、きゅっ、きゅっ、と、鳴った。
***
番小屋は、丸太でできていた。
小さかった。
人が、三人、横になれるくらい。
屋根に、雪が、分厚くのっていた。
戸の上に、トナカイの角が、一対、打ちつけてあった。
***
戸が、開いていた。
半分くらい。
内側に向かって。
隙間から、雪が吹き込んで、敷居の内側に、小さな山を作っていた。
***
焦げた、匂いがした。
まだ、した。
冬至から、三週間も、経つのに。
焚き火の匂いとは、違った。
何を燃やしたのか、分からない匂いだった。
隠り山の、祠の跡で、嗅いだ匂いと。
同じだった。
***
『ジョン』が、照明をつけた。
戸の隙間から、中を照らした。
床が、見えた。
黒かった。
***
板の床、一面に。
焦げた線が、走っていた。
輪になって。
折れ曲がって。
何本も、何本も。
小屋の壁から、壁まで、いっぱいに。
魔法陣、だった。
***
アニメなら、そう呼ぶ。
イングリッドさんなら、たぶん、そう呼ぶ。
俺は、そういう名前で、呼びたくなかった。
***
見覚えのある、形だった。
『常世会』の紋章。
湾岸の倉庫の、手の甲。
隠り山の、石。
それから。
***
「……帽子の、内側と、同じ」
『レディー』が言った。
戸口にしゃがんで、床の線を、指で数えていた。
「線の、数まで」
***
帽子の内側の、黒い糸。
あの形を、そのまま大きくして、床に焼きつけたみたいだった。
***
照明が、ゆっくり、床の真ん中に動いた。
輪の中心に、何かが置いてあった。
赤い、帽子だった。
***
二つ。
並べて。
きちんと、畳んで。
四つの角を、ぴったりそろえて。
定規で測ったみたいに。
***
「……冬至の、二人の」
去年の夏に、結婚した、二人。
お揃いの、お祝いの、帽子。
帽子だけが、ここにあった。
二人は、どこにも、いなかった。
***
誰も、中に入らなかった。
『レディー』も。
『ジョン』も。
入るべきじゃない、と、全員が、分かっていた。
***
「……戸じゃ」
メレオスが言った。
俺の横に立っていた。
裾は、もう、掴んでいなかった。
「この輪が、戸じゃ。冬至の夜、ここが、開いた。……あれが、ここから、出てきよった」
***
「閉まってるのか」
メレオスは、首を振った。
「開いとる。……半分、な」
***
小屋の戸と、同じだった。
半分、開いて。
誰も、閉めないまま。
***
『ジョン』の照明が、輪の外側に動いた。
輪の、ぐるりに。
小さな、赤いものが並んでいた。
毛糸の、房だった。
***
赤い毛糸を、指くらいの長さに切って。
束ねて。
根元を、黒い糸で、きゅっと縛ってあった。
それが、焼けた輪の外側に、ぐるりと一周。
間隔を、きっちりそろえて。
何十も、あった。
百は、あったかもしれない。
***
「……町の、人の、数ね」
『レディー』が言った。
帽子をかぶっている人の、数。
あったかい、赤い、帽子を。
***
照明が、房を、一つずつなめていった。
止まった。
***
房の、いくつかがほどけていた。
根元の、黒い糸がなかった。
縛るものがなくなって、赤い毛糸が、床の上に、ばらばらに広がっていた。
花が、開いたみたいに。
***
『レディー』が、数えた。
声に、出さずに。
唇だけ、動かして。
「……二十五」
***
二十三と、二。
子供たちの、帽子と。
『ジョン』と、『レディー』の、帽子。
***
けさ、白鳥の陰で、黒い糸を抜いた。
それから、火で燃やした。
音もなく。
灰も、残さずに。
ここの、黒い糸も。
同じときに。
***
「……つながってた、のか」
『ジョン』が言った。
「帽子と、ここが」
***
『レディー』の目が、ほどけていない房の一つに止まった。
それから、その隣の、もう一つに。
戸口に、一番近いところにある、二つ。
「……あと、二つ」
『レディー』は、言った。
「私の、スーツケースの、中の」
***
俺の帽子と。
イングリッドさんの、帽子。
鍵をかけた、スーツケースの中で。
髪の毛を一本挟んだ、ファスナーの中で。
まだ、こことつながっていた。
***
『ジョン』が、カメラを構えた。
シャッターの音が、小屋の中に、小さく響いた。
一枚。
二枚。
三枚目で、『ジョン』の手が、止まった。
***
「……『オザケン』」
照明が、床の隅を照らしていた。
新しい、焦げた線の、下に。
もう一つ、線があった。
***
薄かった。
古かった。
板の木目に、溶けかけていた。
新しい輪より、少しだけ大きな輪だった。
その輪の、端。
壁ぎわの、柱の根元に。
数字が、刻んであった。
刃物で。
深く。
***
『1970』
***
千九百七十年。
昭和、四十五年。
***
じいちゃんが。
隠り山で。
あれと、渡り合った、冬至。
同じ、年だった。
***
誰も、何も、言わなかった。
『ジョン』が、もう一枚、撮った。
シャッターの音が、さっきより大きく聞こえた。
***
メレオスは、古い輪を見ていなかった。
新しい輪の、真ん中を見ていた。
畳まれた、二つの帽子のあたりを。
その、向こうを。
鼻が、少しだけ、動いていた。
***
「……懐かしい、匂いが、する」
小さな、声だった。
「……嫌な、ことにのぉ」
***
メレオスの足が、一歩、敷居のほうへ動いた。
俺は、メレオスの襟首を掴んだ。
猫の子を、つまむみたいに。
変な服の、後ろの襟を。
***
メレオスは、止まった。
振り返らなかった。
「……分かっとる」
少しして、言った。
「入らん。……入らんよ」
***
冬至の山で、前に一人で来て、叱られたからのぉ、と、言っていた。
今日は、言わなかった。
襟を、離さなかった。
メレオスも、離せとは、言わなかった。
***
「閉めたら、どうなる」
俺は、聞いた。
襟を、掴んだまま。
メレオスは、しばらく、輪の真ん中を見ていた。
「今、閉めても、意味はない。……あれは、もう、外に、おる」
***
「じゃあ」
「戻して、閉める」
メレオスは、言った。
「あれを、ここへ、戻して。それから、閉める。……隠り山で、わしが、五十年、入っとった、あの窪みと、同じじゃ。出たものは、戻るか、よそへ、入る。よそへ、入る前に、戻す」
***
こけしの中の、退屈した子。
訓練場を飛び回って。
メレオスのスマホに入りかけて。
こけしに、戻った。
あのときと、同じだった。
大きさが、違うだけで。
***
「閉めるのは、俺か」
「お主しか、おらん。戸締まりが、できるのは」
それから、メレオスは、少しだけ、黙った。
「……じゃが、一人では、足らん」
***
「……」
「隠り山の戸は、あの夜、二人で、閉めた。お主と。……庭の、あの娘と」
***
八千キロ、向こう。
***
「気は、距離ではない」
メレオスは、言った。
前にも、聞いた言葉だった。
由紀が、初めて、手帳の戸を閉めた日に。
「縁じゃ」
***
『ジョン』が、照明を下ろした。
「……問題は、どうやって、ここまで、連れてくるか、だ」
***
あれは、檻を覚えた。
壁も、よける。
毎晩、少しずつ、向きを直して。
ホテルの裏の角を、目指している。
灯台を、目指す、船みたいに。
***
『レディー』が、立ち上がった。
膝の雪を払った。
戸口の、二つのほどけていない房を、もう一度だけ見た。
「……灯台は」
『レディー』は、言った。
「一つとは、限らないわ」
***
山を、下りた。
木の途切れるところで、おじいさんが、待っていた。
スノーモービルの、エンジンをかけたまま。
魔法瓶のコーヒーを、紙コップに注いでいた。
***
おじいさんは、俺たちの顔を、一人ずつ見た。
それから、何か、短く聞いた。
「何が、あった、って」
『レディー』が、訳した。
***
『レディー』は、ノルウェー語で、何か答えた。
短く。
「……何て、答えたんですか」
「焚き火の、跡」
***
おじいさんは、しばらく、『レディー』を見ていた。
信じていない顔だった。
でも、何も、言わなかった。
紙コップを、四つ並べた。
四つ、だった。
***
俺と。
『ジョン』と。
『レディー』と。
おじいさんの、分。
そうだよな、と、思った。
***
そのとき。
橇の上の犬が、立ち上がった。
***
山を下りてから、ずっと、耳を寝かせていた犬だった。
その犬が、尻尾を振っていた。
ちぎれそうなくらい。
俺の足元に向かって。
俺の足元の、誰もいないところに向かって。
***
犬は、橇から飛び降りた。
雪の上を跳ねて。
何もないところに、鼻を突っ込んだ。
それから、何もないところを、べろべろと舐めはじめた。
***
「……こら」
何もないところから、声がした。
「こら、やめい。……やめんか。顔を、舐めるでない。神の、顔じゃぞ」
犬は、やめなかった。
***
おじいさんが、コーヒーを注ぐ手を、止めていた。
自分の犬が、雪の上で、何もない空気に向かって、腹を見せて、転がっているのを見ていた。
それから、俺を見た。
***
俺は、コーヒーを受け取った。
何も、言わなかった。
顔には、たぶん、出ていた。
***
「……犬には、見えるのか」
帰りの、スノーモービルの後ろで、メレオスが言った。
顔が、まだ、少し濡れていた。
「見せたのか」
「見せとらん。……勝手に、見よった」
***
メレオスは、少しだけ、黙った。
「……悪うない、気分じゃった」
二回目だった。
滑り台のてっぺんで、聞いて以来の。
***
午後の、三時。
***
ホテルの、部屋。
真っ暗だった。
もう、夜の色だった。
一日で一番明るい時間は、とっくに、終わっていた。
***
『ジョン』は、課長に、報告を送っていた。
番小屋の写真と、一行の説明。
返事は、すぐ来た。
『うん。……1970は、赤城さんに、上げるね』
***
俺は、ベッドに座って、スマホを見ていた。
日本は、夜の十一時だった。
由紀の名前を、画面に出した。
指が、止まった。
***
冬至の夜。
由紀は、実家の縁側で、五時間、息をしていた。
一人で。
庭の北を向いて。
俺が、山で、戸を開けている間じゅう。
また、頼むのか。
八千キロ、向こうから。
***
「……健司」
枕元で、メレオスが言った。
小さな赤い帽子を、膝にのせていた。
かぶっては、いなかった。
「あの娘は、頼まれんほうが、怒るぞ」
***
押した。
一回目の呼び出しで、出た。
***
『……お兄ちゃん?』
起きていた声だった。
***
「悪い。遅くに」
『いいよ。起きてたし』
「……あのさ」
***
話した。
番小屋のこと。
開いたままの、戸のこと。
あれを、そこに戻して、閉めること。
閉めるのに、一人じゃ、足りないこと。
赤い帽子のことは、言わなかった。
子供たちのことも。
灯台のことも。
***
由紀は、黙って、聞いていた。
「……十四日の、零時十二分。こっちの」
俺は、言った。
「そっちだと、朝の、八時十二分」
『十四日、って、何曜?』
「木曜」
『……ふうん』
***
少し、間があった。
『有休、取る』
即答だった。
***
『店長、たぶん、お兄ちゃんの、仕事の疲れだと思ってるから。飴、くれると思う』
笑った。
笑ってしまった。
***
「……悪いな」
『悪くないよ』
***
由紀の声は、いつもと、同じだった。
いつもと、同じ、はずだった。
少しだけ、低い気がした。
***
「……由紀」
『なに』
「そっち、何か、あったか」
***
電話の向こうが、静かになった。
一秒。
二秒。
***
『……帰ってきたら、話す』
「何を」
『いろいろ』
「いろいろ、って」
『お土産の、話とか』
***
由紀は、そう言って、笑った。
いつもの、笑い方だった。
『だから、お兄ちゃん』
笑い声が、止まった。
『……ちゃんと、帰ってきてね』
***
電話の向こうは、夜の十一時だった。
こっちは、午後の三時だった。
どっちも、真っ暗だった。




