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第七十七章 ハット・ハリケーン

「……編み方を、習う」


ヨハネスさんは、そう言った。


一月十一日の、朝の七時半。

坂の途中の、白い教会の、奥の小部屋だった。


***


『レディー』が、作戦を話した。

ノルウェー語で、短く。

二十分、あの人を厨房から出さないでほしい、と。


ヨハネスさんは、黙って聞いていた。

帽子をかぶらない頭が、蝋燭の明かりで、白く光っていた。


それから、少しだけ考えて、答えた。


***


「編み方を、教えてくれ、と、頼む」

『レディー』が、訳した。

「……四十年、一度も、頼んだことは、ない」


***


「二十分、持ちますか」

俺が聞いた。

『レディー』が、訳した。


***


ヨハネスさんは、自分の両手を見下ろした。

細くて、骨ばった指だった。


***


「私は」

「……不器用だ」


***


頼もしかった。


***


八時、二十五分。


***


ホテルの裏の空き地に、立っていた。


白鳥が、八羽。

滑り台が、三台。

檻が、一つ。

裏口の明かりが、全部を照らしていた。


***


八羽目の白鳥は、裏口から一番遠いところにいた。

首が、少しだけ長かった。

その陰に、雪を掘った窪みがあった。

けさ五時に、『ジョン』がスコップで掘った。


窪みの中に、三人がしゃがんでいた。

『レディー』。

『ジョン』。

イングリッドさん。


***


三人とも、手袋を外していた。

三人とも、縫い針を持っていた。

イングリッドさんだけ、編み棒も二本持っていた。


***


「それ、いります?」

「念のため、です」

「何の念ですか」

「……分かりません」


緊張していた。


***


メレオスは、一台目の滑り台のてっぺんにいた。

膝を抱えて、子供たちが来るのを待っていた。


***


「……お主の役目は、分かっとるな」

メレオスが、上から言った。

「帽子だけ、じゃぞ」

「分かってる」

「子供は、飛ばすなよ」

「飛ばさない」

「ロープだけを、切ったときの、あれじゃ」


***


ずっと前の、オフィスビルの、人質事件。

人質を縛ったロープだけを、風で切った。

人には、傷一つつけずに。


あのときと、同じだった。

帽子と頭のあいだにだけ、風を入れる。

二十三人ぶん。

一度に。


***


八時、三十分。


***


赤い帽子が、来た。


坂の上から。

路地の奥から。

二人。

五人。

十人。


***


「白鳥のお兄さん!」


たぶん、そう言っていた。

ノルウェー語だった。

でも、もう、その単語だけは聞き取れるようになっていた。


***


子供たちが、俺の周りに集まってきた。

滑り台に並びはじめた。

白鳥にしがみついた。

檻の中で、鬼ごっこをはじめた。


数えた。


二十一。

二十二。

二十三。


全員、来た。

全員、赤い帽子だった。


***


八時、四十分。


***


裏口の、小さな窓の明かりが消えた。

ソルヴェイさんの部屋の窓じゃない。

裏口の脇の、倉庫の明かりだった。

ココアの粉を取りに来て、戻っていった。


厨房は、ホテルの表側にあった。

空き地からは、見えない。

空き地も、厨房からは、見えない。


***


坂の上から、黒い服の人が下りてきた。


ヨハネスさんだった。

帽子をかぶっていなかった。

細い白髪に、雪がのっていた。


***


子供たちが、一瞬、静かになった。

帽子をかぶらない牧師さんを、みんな、見ていた。


***


ヨハネスさんは、空き地には目もくれなかった。

ホテルの表のほうへ、回っていった。


少しして、表の扉の鈴が鳴った。


二十分が、はじまった。


***


「……健司」

「ああ」


***


雪に、手を当てなかった。

今日は、雪じゃない。

空気だった。


両手を、広げた。

二十三個の赤い帽子を見た。

帽子と、頭のあいだ。

その、指一本分のすきま。


気を、流した。


***


風が、起きた。


一つだけ、帽子が飛んだ。


俺の、帽子だった。


***


「……」


***


ソルヴェイさんの赤い帽子が、俺の頭から、ふわりと浮いて。

くるくると回って。

八羽目の白鳥の陰に落ちた。


窪みの中から、『レディー』の手が、それを受け止めた。

それから、無言で投げ返してきた。


顔に、当たった。


***


子供たちが、笑った。

二十三人分、笑った。


「自分のを、飛ばして、どうする」

滑り台の上から、メレオスが言った。

「……練習だ」

「本番じゃ」


***


二回目。


今度は、全部、飛んだ。


***


二十三個の赤い帽子が、いっせいに浮き上がった。

子供たちの頭から、指一本分だけ。

空中で、止まって。


止まって。


それから。


***


ぽす、ぽす、ぽす、と。

全部、落ちた。


違う子の、頭の上に。


***


一番背の高い子の頭に、一番小さい子の帽子がのっていた。

ちょこんと。

一番小さい子の頭には、一番大きい子の帽子が、目の下までかぶさっていた。


***


子供たちは、一瞬、きょとんとした。

それから、互いの頭を指さして、転げ回って笑った。


一人が、何か叫んだ。

全員が、同じことを叫びはじめた。


***


窪みの中から、『レディー』の声がした。


「……もう一回、だって」


遊びだと、思われていた。

それは、それで、よかった。


***


八時、四十四分。


***


三回目。


目を、閉じた。


ロープだけを、切ったとき。

人質の手首と、ロープのあいだ。

あの、細いすきま。


帽子と、頭のあいだ。


気を、流した。

押すな。

流せ。


目を、開けた。


***


二十三個の赤い帽子が、空にいた。


裏口の明かりの中を。

くるくると。

螺旋を描いて。

上っていった。

赤い、渦だった。


***


子供たちが、口を開けて、見上げていた。

二十三人。

帽子のない頭で。


雪煙が、渦に巻き込まれて、きらきら光った。

オーロラの、緑の下で。

赤い渦が、ゆっくり回っていた。


きれいだった。


***


「……ハット」


窪みの中から、震える声がした。


「……ハット・ハリケーン……」


***


イングリッドさんだった。

縫い針を持ったまま、泣きそうな顔で、見上げていた。

アニメを見ている顔だった。


呼んでない。

俺は、呼んでない。


***


渦を、傾けた。

ゆっくり。

八羽目の白鳥のほうへ。


二十三個の帽子が、白鳥の首の上を越えて。

陰の窪みの中に、ばさばさと落ちていった。


全部、落ちた。

一個も、はみ出さなかった。


***


子供たちが、拍手した。


それから、全員で、八羽目の白鳥のほうへ、走り出した。


***


「……あ」


帽子を、取りに。


当たり前だった。


***


「メレオス!」


「分かっとる!」


***


一台目の滑り台のてっぺんで、金色のボタンが光った。


子供たちが、止まった。

全員、滑り台を見上げた。


見えていた。

子供たちには。


***


メレオスは、滑り台の上に、仁王立ちになっていた。

変な服で。

金色のボタンで。

両手を、腰に当てて。


何か、叫んだ。

日本語だった。


「鬼さん、こちら! 手の、鳴るほうへ!」


***


通じるわけが、なかった。


通じた。


***


メレオスが、滑り台を滑り降りた。

それから、白鳥のあいだを走った。

一羽目。

二羽目。

三羽目。


八羽目とは、反対のほうへ。


子供たちが、歓声を上げて、追いかけた。

二十三人。

帽子のない頭で。

金色のボタンを、追いかけて。


***


「……健司!」

メレオスが、走りながら叫んだ。

「壁を、作れ!」


***


雪に、手を当てた。

八羽目の白鳥と、子供たちのあいだに。

壁を。

氷の、低い壁を。


***


白鳥が、できた。


九羽目だった。


***


子供たちが、九羽目の白鳥に気づいた。

また、歓声が上がった。

九羽目に、しがみついた。


壁の役目は、果たしていた。


***


八時、四十六分。


***


八羽目の、白鳥の陰。


俺は、子供たちに背中を向けないように、横歩きで窪みに近づいた。

中を、覗いた。


三人が、帽子の山を囲んでいた。


***


『レディー』の手が、動いていた。

帽子を、裏返す。

針の先で、黒い糸の端をすくう。

引く。

するする。

表に、返す。

次。


一個、四十秒だった。


***


『ジョン』の手も、動いていた。

思ったより、速かった。


***


「……得意なんですか」

「鍵と、同じだ」

『ジョン』は、手を止めずに言った。

「引っかかりを、感じたら、戻す。無理に、引かない。……錠前破りの、基本だ」


CIAの人だった。


***


イングリッドさんの手は、ゆっくりだった。


帽子を、裏返して。

黒い糸を、見つけて。

それから、指で、編み目をなぞっていた。

唇が、動いていた。

ノルウェー語で、数を数えていた。


***


「……数えないで」

『レディー』が言った。

「引くの」

「でも、段を、数えないと、どこが、端か」

「端は、ここ」


『レディー』の針が、横から伸びた。

イングリッドさんの帽子の、黒い糸の端をすくった。


「……データが」

「後で、取りなさい」


***


イングリッドさんは、一度、目を閉じた。

それから、引いた。

するする。


「……抜けました」

「次」

「はい!」


返事だけは、良かった。


***


後ろで、子供たちの笑い声が、回っていた。

白鳥の、一羽目から七羽目までを。

ぐるぐると。

金色のボタンを、追いかけて。


***


「……健司! まだか!」

遠くで、メレオスの声がした。

息が、上がっていた。

「神は、疲れんのでは、なかったのか」

「疲れんのは、神の、心じゃ! 足は、疲れる!」


***


八時、五十三分。


***


「二十」

『レディー』が言った。

「二十一」

『ジョン』が言った。


***


イングリッドさんの手の中に、最後の一つがあった。

一番小さい帽子だった。


イングリッドさんは、もう、数えていなかった。

針の先で、すくって。

引いた。


「……二十三、です」


***


予定より、一分、遅れていた。

でも、まだ、九時じゃなかった。


***


『レディー』が、ハンカチを広げた。

黒い糸が、二十三本、丸まっていた。

きのうの二本と、合わせて、二十五本。

細くて、黒くて、絡まり合って。

小さな、鳥の巣みたいだった。


***


走り回っていたメレオスが、いつの間にか、窪みの縁にしゃがんでいた。

息を、切らしていた。


鼻を、ハンカチに近づけた。


「……匂う」


メレオスは、顔をしかめた。


「燃やせ、健司。ここで。今」


***


手のひらを、上に向けた。

火種を思い浮かべた。

指先に灯るくらいの。

焚き火じゃない。

火種。


じいちゃんが死んだあと、アパートのリビングで。

ハリセンで叩かれながら、覚えた火だった。


***


小さな火が、手のひらに灯った。


『レディー』が、ハンカチごと、黒い糸を火の上に落とした。


***


燃えた。


音が、しなかった。


***


毛糸が燃えるときの、ちりちりという、あの音が。

何も。

黒い糸は、火の中で、黙ったまま丸まって。

灰にも、ならずに。

消えた。


ハンカチだけが、焦げて、残った。


***


「……今の、何ですか」

イングリッドさんが言った。


誰も、答えなかった。


***


八時、五十六分。


***


帽子を、返した。


九羽目の白鳥の前に、子供たちを並ばせた。

並ばせた、というか。

メレオスが、九羽目の白鳥の上に立ったら、勝手に並んだ。


俺は、窪みから出した帽子の山を抱えて、一人ずつ、頭にのせていった。


***


一人目。

のせた。

にっこりした。


二人目。

のせた。

首を傾げた。

それから、隣の子の帽子と取り替えた。


三人目。

のせた。

隣の子と、取り替えた。

その隣の子も、取り替えた。


***


気がつくと、列の全員が、帽子を取り替えあっていた。


同じ、赤い帽子だった。

二十三個とも。

見た目では、どれが誰のか、分からなかった。

子供たちには、分かるらしかった。

匂いで嗅いでいる子も、いた。


***


一番小さい女の子が、最後に、自分の帽子を見つけた。

大事そうに、両手でかぶった。

耳まで、深く。


内側に、黒い糸は、もう、なかった。


***


九時。


***


裏口の扉が開いた。


ソルヴェイさんが、出てきた。

大きな鍋を抱えて。

甘い、ココアの匂いがした。


その後ろから、ヨハネスさんが、出てきた。


両手に、編み棒を二本持っていた。

編み棒のあいだから、赤い毛糸がぶら下がっていた。


***


三段くらい、編んであった。

一段目と二段目の幅が、違った。

三段目は、途中でねじれていた。

帽子には、どう見ても、見えなかった。

何にも、見えなかった。


ヨハネスさんは、それを持ったまま、いつもの厳しい顔をしていた。


***


ソルヴェイさんが、笑っていた。


声を出して。

肩を揺らして。

鍋を落としそうになりながら。

ヨハネスさんの、ねじれた三段目を指さして。


***


子供たちが、ココアの鍋に、わっと集まった。


ソルヴェイさんは、笑ったまま、一人ずつカップを渡した。

一人ずつ、頭を撫でた。

帽子の上から。


***


一番小さい女の子の番が、来た。


ソルヴェイさんは、その子の帽子を、耳まで引き下ろした。

それから。


***


指が、帽子の内側の縁にかかった。


止まった。


一秒。


***


息を、止めていた。

俺も。

白鳥の陰の、三人も。

たぶん、九羽目の上の、神様も。


***


ソルヴェイさんは、にっこり笑った。

女の子の頬を、指でつついた。

次の子に、カップを渡した。


それだけだった。


***


子供たちの一人が、ソルヴェイさんの袖を引っぱった。

何か、早口で言った。

九羽目の白鳥のほうを、指さしながら。

それから、滑り台のほうを。

それから、空を。


ソルヴェイさんが、笑いながら、俺を見た。


***


「……『レディー』さん」

小声で聞いた。

「今の、何て」


『レディー』は、ココアのカップを受け取りながら、言った。


「帽子が、空を、飛んだって。金色の子と、鬼ごっこしたって。……白鳥が、また、増えたって」


***


全部、言われていた。


***


ソルヴェイさんは、俺に、カップを一つ差し出した。

湯気が立っていた。


***


「……サンキュー」


受け取った。

あったかかった。


***


ヨハネスさんが、俺たちの横を通り過ぎた。

坂の上の教会へ、帰っていくところだった。

ねじれた三段の毛糸を、持ったまま。


『レディー』の横で、一度だけ、止まった。

低い声で、一言だけ言った。


***


「……二十分。長かった、って」


『レディー』が、訳した。

少しだけ、口の端が上がっていた。


「それから。……あの人と、一緒に、笑ったのは、ずいぶん、久しぶりだ、って」


***


ヨハネスさんは、振り返らなかった。

帽子のない頭に、雪をのせて。

坂を上っていった。


***


九時、十分。


***


空き地の端に、スノーモービルが止まった。


年を取った、男の人だった。

毛皮の帽子をかぶっていた。

赤くない帽子だった。

犬が一匹、後ろの橇に乗っていた。


***


男の人は、白鳥を、一羽ずつ見ていった。

九羽。

それから、首を振った。

呆れたように。


イングリッドさんが、窪みから顔を出した。


「……トナカイの、おじいさん、です」


***


冬至のあと、山のトナカイの群れが、みんな、反対側の谷に移った。

持ち主のおじいさんが、こんなこと、初めてだと言っていた。

イングリッドさんが、最初の日に、話してくれた人だった。


***


おじいさんは、イングリッドさんに何か言った。

イングリッドさんが、答えた。

しばらく、ノルウェー語が行ったり来たりした。


イングリッドさんの顔が、少しずつ、硬くなっていった。


***


おじいさんは、最後に、山のほうを顎でしゃくった。

それから、スノーモービルを出した。

犬が、橇の上で、一度だけ、山に向かって吠えた。


***


「……イングリッドさん」


イングリッドさんは、山のほうを見ていた。


「山に、おじいさんの、番小屋が、あるんです」


***


イングリッドさんは、言った。

日本語だった。

アニメの日本語でも、データの日本語でも、なかった。


***


「冬至の、次の朝。……小屋の、戸が、開いてた、って。前の晩、自分で、閉めたのに」


「中は」


「見てない、そうです。トナカイが、小屋に、近づかないので。……自分も、近づかない、って」


***


イングリッドさんは、少しだけ、黙った。


「戸の、隙間から。焦げた、匂いが、した、って」


***


『ジョン』が、ココアのカップを下ろした。


「……小屋、か」


***


九羽目の白鳥の上で、メレオスが、山のほうを見ていた。


もう、息は、切らしていなかった。

笑っても、いなかった。


***


「……健司」


子供たちの笑い声の、向こうで。

小さな、声だった。


「行くぞ」


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