第七十六章 行き先
赤かった。
裏返した帽子の、内側は、赤一色だった。
***
黒い糸は、どこにも、なかった。
編み目を、指で、一段ずつ、めくった。
てっぺんの、金色のボタンの、裏まで。
赤い毛糸しか、なかった。
***
「……ない」
息を、吐いた。
肩から、力が、抜けた。
「……よかった」
***
「よう、ない」
メレオスが、言った。
ベッドの端に、立っていた。
帽子を、見下ろしていた。
「……何も、ないのが、気に入らん」
***
『レディー』の部屋は、隣だった。
ノックすると、すぐに、開いた。
起きていた。
『ジョン』も、いた。
糸を抜いた自分の帽子を、膝の上に、置いていた。
***
小さな帽子を、見せた。
カードも、見せた。
鍵を、かけて出たことも、話した。
二回、確かめたことも。
***
『レディー』は、帽子を、裏返した。
表に、戻した。
もう一度、裏返した。
それから、鼻に、近づけた。
「……新しい、毛糸ね。今日、編んだもの」
***
それから、自分のスーツケースの前に、しゃがんだ。
ファスナーの、つまみのところを、じっと、見た。
***
髪の毛が、一本、挟まっていた。
「……それ、何ですか」
「私の髪」
「なんで、挟まってるんですか」
「挟んだから」
***
『レディー』は、髪の毛を、指で、つまんで、取った。
「開けられてたら、落ちてる。……こっちは、触ってないわね」
仕事で、とは、言わなかった。
言わなくても、分かった。
***
「あの人は、あんたの部屋にだけ、入った」
『レディー』は、言った。
「合鍵で。帽子を、置くためだけに」
「……やさしい人、だから、ですか」
***
自分でも、なんで、そう言ったのか、分からなかった。
「やさしい人は」
『レディー』は、帽子を、俺の手に、返した。
「合鍵で、人の部屋に、入らないわ」
***
『ジョン』が、小さな帽子を、見ていた。
***
「あるいは、ただの、親切だ」
『ジョン』は、言った。
「金色のボタンの子が、寒そうだから。……本気で、そう思ってるのかもしれない」
***
「かもしれない、わね」
『レディー』は、言った。
「でも、どっちでも、同じことよ」
「……同じ?」
「内側を、見る、って。……知ってるのよ、あの人は」
***
『レディー』は、窓の外を、見た。
廊下の、突き当たりの、ほうを。
***
「だから、何も、入れなかった。見たでしょう、って。……何も、ないでしょう、って」
誰も、何も、言わなかった。
***
メレオスが、俺の手から、小さな帽子を、取った。
帽子だけが、宙に、浮いた。
「……どうするんだ、それ」
「かぶらん」
「うん」
「じゃが、捨てもせん」
***
メレオスは、帽子を、胸の前で、抱えた。
「神への、供え物じゃ。……捨てるのは、罰当たりじゃ」
罰を当てるのは、たぶん、神様のほうだった。
***
夜の、十一時、四十分。
雪原に、立っていた。
四晩目の、雪原。
ゆうべより、四百メートル、町に近い場所。
イングリッドさんの計算した、今夜の、点。
***
イングリッドさんは、百メートル後ろの、車の中にいた。
三年前の、赤い帽子を、かぶって。
黒い糸の、ない帽子。
隣に、『レディー』がいた。
糸を抜いた、今年の帽子を、かぶって。
***
『ジョン』は、俺の、三メートル前に、立っていた。
***
糸を抜いた、今年の帽子を、かぶって。
無線は、持っていなかった。
手ぶらだった。
両手を、コートのポケットに、入れていた。
***
「七歩だ」
『ジョン』は、振り返らずに、言った。
「数えてくれ。一歩でも、動いたら」
***
「……一歩で、止めます」
「七歩でいい」
「一歩で、止めます」
『ジョン』が、少しだけ、笑った。
***
雪に、手を当てた。
氷の格子が、立ち上がった。
今夜も、ちゃんと、檻だった。
白鳥の、稽古は、効いているらしかった。
メレオスは、置いてきた。
***
と、言いたかった。
メレオスは、俺の、コートの裾を、掴んでいた。
小さな帽子は、ホテルの、俺の枕の上に、置いてきた。
それで、いいことにした。
***
零時、五分。
町の犬が、吠えた。
一匹。二匹。町中の。
***
零時、十一分。
裾を掴む手に、力が、入った。
「……来る」
***
零時、十二分。
足の下で、地面が、揺れた。
『ジョン』の、背中を、見ていた。
目を、離さなかった。
『ジョン』の肩が、ぴくりと、動いた。
足は、動かなかった。
***
右手が、ポケットの中で、握られるのが、分かった。
コートの布が、ぎゅっと、寄った。
一秒。二秒。
足は、動かなかった。
***
ぽすん。
雪の上に、窪みが、一つ、できた。
『ジョン』のほうでは、なかった。
車のほうでも、なかった。
いつもの、線の上だった。
山から、町へ。まっすぐ。
***
ぽすん。
ぽすん。
檻の、ほうへ。
イングリッドさんの計算は、今夜も、合っていた。
窪みは、まっすぐ、檻に、向かっていた。
檻の、入り口に。
***
一つ、手前。
ぽすん。
次の窪みは、檻の中に、できなかった。
檻の、右に、できた。
***
ぽすん。
檻の、横。
ぽすん。
檻の、向こう。
それから、また、まっすぐ。
いつもの、線に、戻って。町のほうへ。
***
「……よけた」
迷わなかった。
ぶつかりも、しなかった。
石を、よけるみたいに。
一歩だけ、横に、ずれて。
***
「……覚えよった」
メレオスの、声だった。
「一回、入れられた。一回、壁を、立てられた。……もう、覚えよった」
***
氷の格子は、誰も入れないまま、雪の上に、立っていた。
オーロラの緑を、透かして。
きれいだった。役に、立たなかった。
***
裾を掴む手が、もう一度、強くなった。
メレオスは、山のほうを、見ていなかった。
下を、向いていた。雪の、自分の足元を。
***
「……また、呼びよる」
小さな、声だった。
「前の、名前か」
メレオスは、答えなかった。
少しして、言った。
「……聞こえんふりを、しとる」
***
窪みは、四百メートル先で、止まった。
犬の声が、止んだ。
***
『ジョン』が、ゆっくり、振り返った。
ポケットから、右手を、出した。
指を、開いたり、閉じたり、した。
手のひらに、爪の跡が、四つ、ついていた。
***
「……聞こえた」
『ジョン』は、言った。
「名前を、呼ばれた。……遠くで。隣の部屋の、ラジオみたいに」
「行きたく、なりましたか」
***
『ジョン』は、自分の帽子を、脱いだ。
内側を、見た。
黒い糸の抜けた、赤一色の、内側を。
「いや」
『ジョン』は、言った。
***
「ゆうべは、行きたくて、しょうがなかった。……今夜は、うるさいな、と、思っただけだ」
***
それから、笑った。
いつもの、『ジョン』の、笑い方だった。
「七歩、ゼロだ」
効いた。糸を、抜けば。
***
無線が、鳴った。
百メートル後ろの、車から。
『……揺れ、一回。四百メートル。……いつもどおり、です』
***
イングリッドさんの声だった。
車の中の、二人とも、座ったままだと、声で、分かった。
***
少し、間があった。
『……ケンジさん。ホテルに、戻ったら。見せたいものが、あります』
***
夜中の、一時、半。
俺の部屋の、ベッドの上に、地図が、広げてあった。
***
赤い点が、並んでいた。
冬至の夜から、ゆうべまで。
それから、さっきの、一つ。
山から、町へ。一列に。
***
「毎晩、右に、曲がっている、って。前に、言いました」
イングリッドさんは、赤い点を、鉛筆で、一つずつ、つないだ。
***
「でも、曲がってるんじゃ、ありませんでした」
鉛筆の線は、ゆるい、弓の形になった。
「毎晩、向きを、直してるんです。少しずつ。一つの、点に、向かって」
***
イングリッドさんは、ノートパソコンを、開いた。
地図の上に、細い線が、何本も、引いてあった。
一晩ごとの、進む向き。
その向きを、まっすぐ、先まで、伸ばした線。
***
最初の夜の線は、町の、左のほうを、向いていた。
次の夜の線は、少し、右。
その次は、もう少し、右。
全部の線が、同じ、一か所で、重なっていた。
***
「灯台を、目指す、船、みたいに」
イングリッドさんは、言った。
アニメの言い方じゃなかった。
データの言い方だった。
***
鉛筆の先が、その一か所に、置かれた。
町の、真ん中だった。
赤い屋根の、小さな、建物だった。
「……ここ、です」
このホテルだった。
***
「誤差は、十メートル、くらい、です」
イングリッドさんは、言った。
「ホテルの、裏。……山側の、角」
***
誰も、何も、言わなかった。
俺は、立ち上がった。
窓の、カーテンを、少しだけ、開けた。
裏の、空き地が、見えた。
***
裏口の明かりの中に。
白鳥が、八羽。
滑り台が、三台。
檻が、一つ。
***
昼間、子供たちが、行列を、作っていた場所。
毎朝、ココアの鍋が、運ばれてくる場所。
俺が、作った、場所。
***
それから、目を、上げた。
空き地の、真上。
ホテルの、山側の、角。
突き当たりの、あの部屋の、窓。
明かりが、ついていた。
夜中の、一時半だった。
***
カーテンが、少しだけ、開いていた。
揺り椅子の、背もたれの、影が、見えた。
山のほうを、向いていた。
見ていると。
明かりが、消えた。
***
「……灯台、ね」
『レディー』が、俺の後ろで、言った。
***
「毎晩、あの窓に、明かりが、ついてた。私たちが、最初の夜に、裏口から出たときも」
「冬至の夜も」
『ジョン』が、言った。
「牧師が、見てる。窓辺に、立ってた、って」
***
「……迎えの、明かり、か」
***
イングリッドさんは、鉛筆を、置いた。
地図の上の、小さな、赤い屋根を、見ていた。
「データは」
少しだけ、声が、かすれた。
「……うそを、つきません」
***
俺は、窓の外を、見ていた。
白鳥を、見ていた。
「……子供を、集めたのは、俺だ」
口から、出ていた。
***
「白鳥を、作って。滑り台を、作って。……あの子たちが、毎朝、あそこに、来るように、したのは」
***
「集めたのは、ココアよ」
『レディー』だった。
「あんたの白鳥は、ただの、白鳥。……毎朝、鍋を持って、あそこに、立ってるのは、誰?」
答えなくても、よかった。
***
「……それに」
『レディー』は、窓のほうに、来た。
俺の横に、立った。
暗い空き地を、見下ろした。
***
「集まってくるなら、ちょうどいいわ」
「……ちょうど、いい?」
「二十三人。毎朝、同じ場所に、来るのよ。帽子を、かぶって」
***
『レディー』は、少しだけ、口の端を、上げた。
「糸を抜く方法。……明日まで、って、言ったわよね」
***
ベッドの上に、紙が、一枚、置かれた。
ホテルの、便箋だった。
『レディー』が、ボールペンで、線を、引いていった。
***
空き地の、見取り図だった。
白鳥が、八羽。
滑り台が、三台。
檻。裏口。
***
「あの人が、ココアを作るのは、毎朝、八時四十分から。鍋を持って、出てくるのは、九時」
「……数えてたんですか」
「二日、見てれば、分かるわ」
***
仕事で、とは、やっぱり、言わなかった。
***
「子供たちが、来るのは、八時半から」
「……学校は」
「地震で、冬至から、お休みです」
イングリッドさんが、言った。
***
「だから、あの人が、厨房にいる、二十分」
『レディー』は、続けた。
***
『レディー』は、ボールペンで、空き地の真ん中に、丸を、描いた。
「あんた、風、出せるわよね」
***
「……出せます」
「帽子だけ、飛ばして。二十三個。一度に。……子供は、飛ばさないで」
「子供は、飛ばしません」
「当たり前よ」
***
「帽子が飛んだら、どこに、落とす」
『ジョン』が、聞いた。
『レディー』は、ボールペンで、白鳥の、一羽を、差した。
八羽目。
一番、裏口から、遠い、白鳥。
***
「ここの、陰。子供からも、裏口からも、見えない」
「……拾うのは」
「見えない子が、拾う」
***
メレオスが、ベッドの端で、顔を上げた。
「わしか」
「あんたよ。持ったら浮くけど、白鳥の陰なら、誰も見ない」
「神を、帽子拾いに、使うのか」
「使うわよ」
***
「抜くのは、私と、この人と」
『レディー』は、『ジョン』を見た。
それから、イングリッドさんを、見た。
「……それから、あなた」
***
「私、ですか」
「編み物、できる?」
「……少しだけ」
「なら、できるわ。一人、八個。一個、一分。……八分で、終わらせる」
***
「帽子を、返すのは」
『レディー』は、俺を、見た。
「あんた。探してあげる、お兄さんの、ふりをして。……白鳥のお兄さんでしょう」
***
イングリッドさんが、顔を上げた。
目の下の隈は、そのままだった。
でも、少しだけ、眼鏡の奥が、光っていた。
***
「……技の、名前は」
「いらないです」
「ハット・ハリケーン、です」
「いらないです」
「ハット・ハリケーン!」
***
ベッドの端で、メレオスが、枕に、顔を埋めていた。
肩が、震えていた。
笑いを、こらえていた。
今夜、初めて、笑っていた。
***
「……一つ、足りないわ」
『レディー』が、見取り図を、見下ろしたまま、言った。
「二十分のあいだに、あの人が、厨房から、出てきたら。全部、終わり」
***
「引き止める人が、いる」
『ジョン』が、言った。
「ソルヴェイと、二十分、話していられる人間が」
***
俺たちの、誰でも、なかった。
俺は、顔に出る。
イングリッドさんも、顔に出る。
『ジョン』と『レディー』は、空き地にいなければならない。
***
『レディー』は、ボールペンを、置いた。
「……一人しか、いないわね」
***
帽子を、かぶらない人。
あの人を、四十年、見てきた人。
言葉を、選ぶ人。
「頼めるかしら。……牧師さんに」
***
夜中の、三時。
眠れなかった。
***
イングリッドさんは、『ジョン』が、家まで、送っていった。
三年前の、帽子を、かぶって。
『レディー』は、隣の部屋に、戻った。
ファスナーに、また、髪の毛を、挟んでいるはずだった。
***
窓の外の、角の窓は、暗いままだった。
寝返りを、打った。
隣の枕の上で、メレオスが、丸くなっていた。
***
神は、寝ない。
いつも、そう言っていた。
考え事じゃ、と。
寝息を、立てていた。
***
胸の前に、何かを、抱えていた。
小さな、赤い帽子だった。
てっぺんの、金色のボタンが、窓の外の、裏口の明かりを、少しだけ、跳ね返していた。
***
かぶっては、いなかった。
抱いていた。




