第七十五章 やさしい、人
「あんた、今日は、病人ね」
『レディー』が、言った。
***
朝の、九時十五分。
俺の部屋だった。
窓の下では、まだ、赤い帽子の行列が、滑り台に並んでいた。
***
「……病人」
「さっき、手、振ったでしょ」
「振りました」
「顔、見られた?」
「……たぶん」
『レディー』は、溜め息を、一つ、ついた。
***
「あんたは、顔に出るの」
「出ません」
「出とる」
メレオスが、ベッドの上から、言った。
「今も、出とる。『ばれたかな』と、書いてある」
***
『ジョン』が、窓際で、腕を組んでいた。
「ポーカーの顔を、教えておけば、よかったな」
「今からでも」
「一日じゃ、無理だ。俺は、三年かかった」
***
「だから、病人」
『レディー』は、言った。
「時差ぼけで、熱。今日は、一日、部屋から出ない。あの人の前で、顔を、作らなくていい」
***
仮病だった。
仮病は、小学校以来だった。
あのときも、じいちゃんに、一発で、ばれた。
***
帽子は、四つとも、『レディー』のスーツケースに、しまってあった。
鍵を、かけて。
***
『レディー』は、そのうちの二つを、出していた。
『ジョン』のと、自分のと。
裏返して、膝の上に、置いていた。
手に、縫い針を、持っていた。
***
針の先で、黒い糸の、端を、すくった。
引いた。ゆっくり。
編み目を、一つも、崩さずに。
黒い糸が、するすると、抜けていった。
頭を、一周する、長さの分。
紋章の、形の分。
***
「……器用ですね」
「仕事で」
いつもの、答えだった。
今日は、誰も、聞き返さなかった。
***
抜き終わった帽子を、『レディー』は、メレオスの鼻先に、差し出した。
***
メレオスは、くんくんと、嗅いだ。
「……薄うなった」
「消えた?」
「……たぶんのぉ」
たぶん、だった。
***
「昼間は、これを、かぶる」
『レディー』は、抜いた黒い糸を、丸めて、ハンカチに包んだ。
「あの人の前で。かぶってないと、気づかれるから」
***
外は、マイナス十五度だった。
あの人の帽子なしで、外を歩く人は、この町には、ほとんど、いなかった。
***
九時四十分。
ホテルの、正面の扉が、開く音がした。
イングリッドさんだった。
***
ゆうべは、ホテルの空き部屋で、眠っていた。
朝の六時に、『レディー』が、裏口から、家まで送っていった。
ソルヴェイさんには、会っていないはずだった。
***
それが、今度は、正面から、入ってきた。
「おはよう、ございます、ソルヴェイさん」と、廊下で言う声が、聞こえた。
今、来たばかり、という顔をして。
***
イングリッドさんは、俺の部屋に入ってくるなり、紙袋を、ベッドの上に、ひっくり返した。
***
赤い帽子が、二つ、出てきた。
イングリッドさんの頭にも、一つ、のっていた。
三つとも、同じ、赤だった。
***
「去年のと」
イングリッドさんは、ベッドの上の二つを、指さした。
「おととしの、です」
それから、自分の頭を、指さした。
「これは、三年前の、です」
***
目の下の隈が、きのうより、濃かった。
***
「私は、もらったものは、全部、取っておきます」
イングリッドさんは、言った。
「データなので」
それから、一つずつ、裏返した。
***
三年前の帽子。
赤い、ゴム編み。内側も、赤一色だった。
おととしの帽子。赤一色だった。
去年の帽子。赤一色だった。
黒い糸は、どこにも、なかった。
***
イングリッドさんは、三つを、並べた。
その横に、『レディー』のスーツケースから出した、自分の、今年の帽子を、並べた。
一つだけ、内側に、黒い線が、走っていた。
***
「……違いが、ありませんように、って」
イングリッドさんは、言った。
眼鏡を、押し上げなかった。
***
「そう、思って、持ってきました。四つとも、同じだったら。ソルヴェイさんは、関係ない、って。証明、できるので」
証明は、できなかった。
***
「去年までは」
イングリッドさんは、今年の帽子を、指で、そっと、押した。
「クリスマスに、もらいました。毎年。……今年は、十一月でした。早いな、って、思いました。うれしかったので、何も、考えませんでした」
***
誰も、何も、言わなかった。
***
イングリッドさんは、三年前の帽子を、かぶり直した。
耳まで、深く。
「今日は、日曜日、です」
イングリッドさんは、顔を上げた。
***
「ソルヴェイさんは、毎週、十一時の、礼拝に、行きます。一回も、休みません。……一時間、ホテルに、いません」
***
「……イングリッドさん」
「私は、オカルトは、信じません」
イングリッドさんは、言った。
「でも、データは、信じます。……データが、足りません」
***
『レディー』が、イングリッドさんを、見た。
初めて、爪じゃなくて、ちゃんと、顔を見た。
「……ふーん」
悪くないほうの、ふーんだった。
***
決まったことは、三つだった。
***
『レディー』と『ジョン』とイングリッドさんは、礼拝に行く。
学術視察の、地域文化の、見学。
ヨハネスさんに、話を聞く。
それから、ソルヴェイさんを、見る。
***
俺は、病人。
部屋で、寝ている。廊下の、見張りをしながら。
***
メレオスは。
「わしが、行く」
メレオスは、ベッドの上に、立っていた。
***
「見えんのじゃからな。鍵も、いらん」
「見るだけよ」
『レディー』が、言った。
「何も、動かさないで。何も、持ち出さないで。……あんた、持ったものは、浮くんだから」
「分かっとる」
「本当に?」
「神に、二度言うでない」
***
十時、半。
部屋の扉が、ノックされた。
俺は、布団の中にいた。
メレオスは、ベッドの下にいた。
扉が、開いた。
ソルヴェイさんだった。
***
お盆を、持っていた。
湯気の立つ、マグカップ。
それから、湯たんぽ。
赤い、毛糸のカバーのついた、湯たんぽ。
***
ソルヴェイさんは、何か、言った。
英語だった。
ゆっくり、話してくれた。俺にも、分かるように。
***
「ユー……オーケー?」
「……アイ、アム」
止まった。
病人の英語を、知らなかった。
「……シック」
***
それから、咳を、した。
ごほ、ごほ。
もう一回。
ごほ、ごほ、ごほ。
ベッドの下で、何かが、床を叩いた。
笑っていた。
***
ソルヴェイさんは、お盆を、枕元に置いた。
俺の額に、手を、当てた。
あったかい、手だった。
毛糸みたいに、やわらかい、手だった。
***
顔が、熱くなった。
熱じゃなかった。怖かった。
でも、ソルヴェイさんは、頷いた。
***
「ホット」
ソルヴェイさんは、心配そうに、言った。
「ユー、アー、ホット」
熱が、あることになった。
***
湯たんぽを、布団の中に、入れてくれた。
肩まで、布団を、引き上げてくれた。
それから、マグカップを、指さした。
蜂蜜の匂いがした。
***
それから、少し、困った顔をした。
窓の外を、見た。
坂の上の、白い教会のほうを。
***
「……チャーチ」
ソルヴェイさんは、言った。
「アイ、ステイ?」
残ろうか、と、言っていた。
礼拝を、休んで。
一回も、休んだことのない礼拝を。
俺の、仮病のために。
***
「ノー!」
声が、大きすぎた。
「ノー、ノー。ゴー。チャーチ。……プリーズ」
病人にしては、元気すぎた。
***
ソルヴェイさんは、少しだけ、目を丸くした。
それから、笑った。声を出して、笑った。
俺の頭を、布団の上から、ぽんぽんと、叩いた。
子供に、するみたいに。
***
それから、出ていった。
扉が、閉まった。
***
「……下手じゃのぉ」
ベッドの下から、声がした。
「知ってる」
「伊左衛門の、仮病のほうが、まだ、ましじゃった」
「じいちゃんも、やったのか」
「稽古を、休みたい日にな。一回で、ばあさんに、ばれとった」
***
湯たんぽが、あったかかった。
蜂蜜の、ミルクも、あったかかった。
飲まなかった。
***
十時、四十五分。
窓から、見ていた。
町の人が、坂を、上っていった。
教会へ。家族で。一人で。手をつないで。
***
みんな、赤い帽子だった。
大人も。子供も。
さっき、滑り台に並んでいた子たちも。
***
その中に、ソルヴェイさんがいた。
赤い、カーディガンの上に、赤い、コート。赤い、帽子。
子供が一人、駆け寄ってきて、手をつないだ。
ソルヴェイさんは、その子の帽子を、直してやっていた。
耳が、ちゃんと、隠れるように。
***
少し後ろに、『レディー』と、『ジョン』と、イングリッドさんがいた。
三人とも、赤い帽子だった。
二つは、糸を抜いた、今年の帽子。
一つは、三年前の、帽子。
***
教会の鐘が、鳴った。
***
「……行ってくる」
メレオスが、ベッドの下から、出てきた。
消えた。
***
廊下の、突き当たり。
ソルヴェイさんの部屋。
山のほうを向いた、角の部屋。
夜中に、明かりのついていた、あの窓の部屋。
***
俺は、布団を出た。
扉を、細く、開けた。
廊下を、覗いた。
***
突き当たりの扉が、内側から、かちゃりと、開いた。
誰もいない隙間から、メレオスの声がした。
***
「……健司。見るだけ、じゃがな」
「うん」
「見るだけでは、お主には、分からんじゃろう」
嫌な予感がした。
***
廊下の、突き当たりから、紙が、一枚、こっちへ飛んできた。
飛んできた、というか、浮いて、きた。
床から、子供の胸くらいの高さを。
すーっと。まっすぐ。
***
「持ち出すなって、言われただろ!」
「見せるために、持ってきたんじゃ。持ち出したのでは、ない」
「同じだ!」
「違う。戻すからじゃ」
***
紙は、俺の部屋に、入ってきた。
ベッドの上に、ふわりと、置かれた。
方眼紙だった。
***
その上に、黒いインクで、線が、引いてあった。
一本一本、定規で引いた、まっすぐな線だった。
升目の、一つ一つを、塗りつぶして。
輪になって。ところどころで、折れ曲がって。
***
見覚えのある、形だった。
ゆうべ、帽子の内側に、見た形だった。
編み物の、図案だった。
***
余白に、鉛筆で、小さな数字が、並んでいた。
一。二。三。
段の数を、数えた跡らしかった。
丸い、やわらかい字だった。
***
右上の隅に、同じ、丸い字で、書いてあった。
『21.12.』
「……十二月、二十一日」
冬至、だった。
***
スマホで、撮った。三枚。
手が、震えて、一枚目は、ぶれた。
「戻せ」
「もう、よいのか」
「今すぐ。元の、場所に。元の、角度で」
「神の記憶力を、なめるでない」
***
図案が、浮き上がった。
廊下を、すーっと、戻っていった。
突き当たりの扉の、隙間に、吸い込まれた。
しばらく、何も、起きなかった。
***
それから、メレオスの声が、突き当たりから、した。
小さな声だった。
「……健司。こっちに、来い。覗くだけじゃ」
***
行くべきじゃ、なかった。
行った。
靴下のまま、廊下を歩いた。
床が、ぎしりと、鳴った。
***
扉の隙間から、中を、覗いた。
小さな部屋だった。
窓の前に、揺り椅子が、一つ。
山のほうを、向いていた。
膝掛けが、かけてあった。
窓枠に、双眼鏡が、一つ、置いてあった。
***
椅子の横に、籠が、あった。
赤い毛糸が、山になっていた。
その中に、黒い糸の、糸巻きが、一つ。
机の上に、さっきの図案が、戻してあった。
たぶん、元の、角度で。
***
それから。
壁、一面に、写真が、貼ってあった。
子供の、写真だった。
***
雪の中で、笑っている子供。
橇に乗っている子供。
クリスマスの木の前に、並んでいる子供。
みんな、赤い帽子を、かぶっていた。
***
古い写真も、あった。
色の、褪せた写真。
今の、大人くらいの年の人が、子供だったころの写真。
その子供たちも、赤い帽子を、かぶっていた。
***
何十年分、だった。
この町の子供の、何十年分の冬が、壁に、貼ってあった。
***
「……いい人の、部屋だな」
口から、出ていた。
「……うむ」
メレオスは、籠の、横に、しゃがんでいた。
「いい人の、部屋じゃ」
***
それから、籠の中を、指さした。
「健司。これも、見ておけ」
籠の、一番上に、編みかけの、帽子が、一つ、のっていた。
小さかった。
子供の中でも、小さい子の大きさだった。
***
その横に、ボタンが、一つ、置いてあった。
金色の、丸い、ボタンだった。
「わしのと、同じ色じゃ」
メレオスは、少しだけ、胸を張った。
「趣味が、ええ」
***
十一時、四十分。
階段を、上ってくる、足音がした。
「……早くないか」
礼拝は、十二時までの、はずだった。
***
足音は、ゆっくりだった。
何かを、両手で、持っているような、足音だった。
***
「メレオス!」
「分かっとる!」
俺は、廊下を、走った。靴下で。
自分の部屋の、前まで。
間に合わなかった。
***
階段の上に、ソルヴェイさんが、立っていた。
お盆を、持っていた。
今度は、深い、スープ皿だった。
魚の、匂いがした。
***
ソルヴェイさんは、廊下に立っている俺を、見た。
病人のはずの、俺を。
***
「……ユー」
ソルヴェイさんは、目を、丸くした。
「ユー、シュッド、ビー、イン、ベッド!」
「アイ、アム……」
***
後ろで、突き当たりの扉が、まだ、細く、開いていた。
中で、メレオスが、何かを、している。
たぶん。
***
「……ベター!」
俺は、言った。
「アイ、アム、ベター! ソー、ベター! ベリー、ベター!」
***
両手を、広げた。
廊下を、ふさぐように。
元気な、病人だった。
ソルヴェイさんが、一歩、近づいた。
俺は、一歩も、動かなかった。
***
ソルヴェイさんは、お盆を、片手で、持ち直した。
空いたほうの手を、伸ばした。
俺の、額に。
額は、熱かった。
今度も、熱じゃなかった。
「……ホット!」
***
ソルヴェイさんは、俺の背中を、ぐいぐいと、押した。
部屋の、中へ。ベッドの、ほうへ。
ふっくらした体の、どこに、そんな力があるのか、分からなかった。
***
ベッドに、座らされた。
布団を、かけられた。
スープ皿を、膝の上に、置かれた。
***
そのとき。
廊下の、突き当たりで。
かちゃり。
鍵の、かかる、音がした。
***
ソルヴェイさんの手が、止まった。
顔が、ゆっくりと、廊下のほうを、向いた。
開いたままの、俺の部屋の扉の、向こうを。
突き当たりの、自分の部屋の、ほうを。
***
二秒。三秒。
息を、していなかった。
スープの湯気だけが、上っていた。
***
ソルヴェイさんは、こっちを、向いた。
にっこり、笑った。
「……ウィンド」
それから、天井を、指さして、肩をすくめた。
古い建物だから、と、言っているみたいだった。
***
「イート」
スープを、指さした。
「イート、アンド、スリープ」
***
それから、出ていった。
扉を、そっと、閉めて。
足音が、階段を、下りていった。
俺は、スープ皿を、膝にのせたまま、動けなかった。
***
ベッドの下から、声がした。
「……危なかったのぉ」
「……戻したか」
「戻した。鍵も、かけた」
「元の、角度で?」
「……たぶんのぉ」
たぶん、だった。
***
「なんで、あんなに、早く、帰ってきたんだ」
「お主が、病人じゃからじゃろ」
メレオスは、言った。
「スープを、作りに、帰ってきたんじゃ。……礼拝を、抜けてまで」
***
魚のスープは、あったかかった。
やさしい人、だからだ。
***
十二時、四十分。
三人が、帰ってきた。
***
「あの人、説教の途中で、出ていったわ」
『レディー』は、部屋に入るなり、言った。
「半分くらいで。ヨハネスさんが、ずっと、目で、追ってた」
***
「……説教って、何の話だったんですか」
『レディー』は、帽子を、脱いだ。
糸を抜いた、今年の帽子を。
***
「羊の、話」
「羊」
「偽物は、羊の毛を、着てくる。中身は、狼だから、気をつけなさい。……って」
***
羊の毛。毛糸。
***
「……それで、出ていったんですか。ソルヴェイさん」
「スープを、作るからって、隣の人に、言ってたわ」
『レディー』は、言った。
「本当に、作ったみたいね」
***
俺の、空になった、スープ皿を、見ていた。
***
礼拝のあと、ヨハネスさんは、三人を、教会の奥の、小さな部屋に、呼んだ。
それから、自分から、話した。
『レディー』が、訳してくれた。
***
一つ。
今年の帽子を、最初にもらったのは、冬至に山へ歩いていった、あの二人だった。
去年の夏の、結婚式で。お祝いに。二つ、お揃いで。
式を挙げたのは、ヨハネスさんだった。
***
二つ。
町のみんなに配ったのは、十一月の、終わりだった。
いつもは、クリスマスの、贈り物だった。
四十年、ずっと。
***
三つ。
***
「冬至の夜」
『レディー』は、ヨハネスさんの言葉を、ゆっくり、訳した。
「二人が、山へ歩いていくのを、教会の窓から、見た。追いかけた。間に合わなかった。……引き返してくるとき、町のほうを、振り返った」
***
「ホテルの、角の窓に、明かりが、ついていた」
「あの人が、窓辺に、立っていた」
「山のほうを、見ていた。……止めに、出てこなかった」
***
揺り椅子。膝掛け。双眼鏡。
山のほうを向いた、角の窓。
「その次の朝から、私は、あの人の帽子を、かぶっていない。……って」
***
『レディー』は、少しだけ、黙った。
「それから、最後に、こう言ったわ」
「あの人は、この町で、一番、やさしい人だった」
***
「……だった」
「過去形だったわ」
『レディー』は、言った。
「わざと、よ。あの人、言葉を、選ぶ人だから」
***
俺は、スマホを、出した。
図案の写真を、見せた。
それから、部屋の中のことを、話した。
揺り椅子。双眼鏡。黒い糸の、糸巻き。壁の、何十年分の、写真。
***
イングリッドさんが、写真を、じっと、見ていた。
***
「……ソルヴェイさんは」
イングリッドさんは、言った。
「定規を、使いません」
「え」
***
「図案も、描きません。私、聞いたことが、あります。どうやって、編むんですか、って。……全部、ここに、あるのよ、って」
イングリッドさんは、自分の、こめかみを、指で、とんとんと、叩いた。
「ソルヴェイさんは、そう、言いました」
***
「……じゃあ、この図案は」
「ソルヴェイさんが、描いたものじゃ、ないです」
***
イングリッドさんは、写真を、指で、広げた。
余白の、鉛筆の、数字。
右上の、『21.12.』。
「でも、この字は、ソルヴェイさんの、字です」
***
描いたのは、別の誰か。
定規で、まっすぐな線を引く、几帳面な、誰か。
編んだのは、ソルヴェイさん。
段を数えて。日付を、書き込んで。
***
「……冬至までに、編み上げる、って、締め切りを、書いただけかもしれない」
『レディー』は、言った。
「知ってて、編んだのか。知らないで、編んだのか。……それは、まだ、分からない」
***
「まだ、ですか」
「まだ、よ」
***
『ジョン』が、壁に、背中を、つけていた。
「分かるまで、手を出さないのが、正しい」
『ジョン』は、言った。
「……分かってからじゃ、遅いかもしれないがな」
***
イングリッドさんは、三年前の帽子を、脱いだ。
膝の上で、両手で、持っていた。
「私は、データは、信じます」
***
イングリッドさんは、言った。
少しだけ、声が、震えていた。
「……でも、今日の、データは、嫌いです」
***
ヨハネスさんは、最後に、一つだけ、頼んできたらしかった。
***
「子供たちの、帽子を、どうにか、してくれ」
『レディー』が、訳した。
「私が言っても、親は、聞かない。あの人の帽子を、脱がせる理由が、ないから。……って」
***
「……二十三人」
「子供だけでね。大人も入れたら、町の、ほとんど」
***
『レディー』は、ハンカチを、開いた。
朝、抜いた、黒い糸が、二本、丸まっていた。
***
「取り上げたら、気づかれる。でも、糸を抜くだけなら、見た目は、変わらない」
「二十三人分、どうやって」
「方法は、考える。……明日まで」
***
「糸を抜いた帽子が、効くかどうかは」
メレオスが、言った。
「今夜、零時十二分に、分かる」
「俺が、かぶる」
『ジョン』だった。
***
「糸を抜いた、俺の帽子で、立つ。……歩き出したら、止めてくれ」
「『ジョン』」
「七歩以内でな」
***
『ジョン』は、少しだけ、笑った。
ゆうべの、あの、穏やかな笑い方じゃなかった。
いつもの、『ジョン』の、笑い方だった。
***
夕方の、六時。
熱が下がったことになって、俺は、夕食に、下りた。
条件は、一つだった。
***
「食べてなさい」
『レディー』が、言った。
「口に、何か、入れておけば、喋らなくていいから」
***
食堂に、ソルヴェイさんがいた。
いつもの、赤いカーディガンだった。
イングリッドさんも、夕食に、呼ばれていた。
三年前の、赤い帽子を、膝の上に、置いていた。
***
ソルヴェイさんは、俺を見て、ぱっと、顔を明るくした。
額に、手を、当てた。
それから、頷いた。
今度は、本当に、熱がなかった。
食卓に、また、茶色いチーズが、あった。
***
メレオスが、見えないまま、チーズを、削っていた。
チーズ削りが、宙に浮いて、すっ、すっ、と、動いていた。
ソルヴェイさんは、ストーブの前で、背中を向けていた。
***
背中を、向けている、あいだだけ。
***
ソルヴェイさんが、振り返った。
チーズ削りが、ぴたりと、皿の上に、落ちた。
俺は、それを、拾った。
自分が使っていた、という顔をした。
顔には、たぶん、出ていた。
***
ソルヴェイさんは、イングリッドさんの、膝の上の、帽子を見た。
何か、言った。
ノルウェー語だった。
やさしい、声だった。
***
『レディー』が、パンをちぎりながら、訳した。
平らな声だった。
「それ、三年前のね、って」
***
イングリッドさんの手が、帽子の上で、止まった。
「新しいのは、どうしたの、って」
***
イングリッドさんは、ノルウェー語で、何か、答えた。
つっかえ、つっかえ。
顔が、赤かった。
「……なくした、って」
***
ソルヴェイさんは、にっこり、笑った。
イングリッドさんの、三つ編みを、指で、そっと、撫でた。
「じゃあ、また、編まなきゃね。……って」
***
イングリッドさんは、笑い返した。
アニメの、笑い方でも、なかった。
データの、笑い方でも、なかった。
俺と、同じくらい、下手だった。
***
ソルヴェイさんは、今度は、俺のほうを、見た。
楽しそうに、何か、言った。
笑いながら。
窓の外の、裏の、空き地のほうを、指さしながら。
***
『レディー』が、訳した。
「子供たちが、言ってたって。白鳥のお兄さんの、ところに、金色の、ボタンの子が、いる、って」
***
チーズ削りを、落としそうになった。
テーブルの端で、見えない誰かが、茶色いチーズを、喉に、詰まらせる音がした。
***
ソルヴェイさんは、ころころと、笑っていた。
それから、俺を見て、首を、傾げた。
普通の、首の傾げ方だった。
「あなたの、弟さん? ……って」
***
俺は、口いっぱいに、パンを、詰め込んだ。
首を、横に振った。縦にも、少し、振った。
どっちか、分からなくなった。
***
『レディー』が、ノルウェー語で、何か、言った。短く。
ソルヴェイさんが、また、笑った。
***
「……子供の、想像よ、って、言っといたわ」
『レディー』は、日本語で、言った。
パンを、ちぎる手は、止まっていなかった。
***
ソルヴェイさんは、「そうよね」と、たぶん、言った。
それから、パンの籠を持って、立ち上がった。
パンを、温め直してくる、と、言って、奥に、引っ込んだ。
***
十分くらい、戻ってこなかった。
戻ってきたパンは、ちゃんと、温かかった。
***
夜の、十時。
部屋に、戻った。
***
零時十二分に、外に出る。
その前に、一時間だけ、横になるつもりだった。
『ジョン』は、自分の部屋で、糸を抜いた帽子を、じっと、見ているはずだった。
***
鍵を、開けた。
夕食に下りるとき、鍵は、かけて出た。
かけたのを、覚えていた。
昼間のことが、あったから。二回、確かめた。
扉を、開けた。
明かりを、つけた。
***
枕の、上に。
赤い、帽子が、一つ、のっていた。
***
小さかった。
子供の中でも、小さい子の大きさだった。
てっぺんに、ボタンが、一つ、縫いつけてあった。
金色の、丸い、ボタンだった。
***
帽子の下に、カードが、一枚、挟まっていた。
丸い、やわらかい字だった。
英語だった。
ゆっくり、読んだ。
俺にも、読めるくらいの、英語だった。
***
『For the little one.
The nights are cold.
― S』
リトル、ワン。
小さい、子に。
夜は、寒いから。
***
後ろで、メレオスが、立ち止まっていた。
「……昼間の、編みかけの、帽子じゃ」
***
十分で、編めるものじゃなかった。
昼間から、編んでいたものだった。
俺が、布団の中で、咳の練習をしていたころから。
もしかしたら、その前から。
***
「子供は、大人に言うても、信じてもらえん」
メレオスは、言った。
きのう、滑り台の行列で、得意そうに言った言葉だった。
***
「……信じる大人も、おったか」
笑っていなかった。
***
俺は、帽子を、手に取った。
やわらかかった。あったかかった。
イングリッドさんの帽子と、同じ、手触りだった。
内側は、まだ、見ていなかった。
指が、止まった。
***
「……健司」
メレオスが、言った。
「裏返せ」
俺は、小さな帽子を、裏返した。




